日本の芸能界において、「ジャニーズ帝国」と呼ばれるまでに大きな影響力を持っていたジャニーズ事務所。メディアを舞台に様々な利害が錯綜する中、英BBCの報道に端を発し一大スキャンダルにまで発展したジャニー喜多川氏による性加害の問題も、事務所の解体、社名の変更と共に(いつのまにか)収束に向かう気配が漂っています。
「人の噂も七十五日…」とはよく言ったものですが、その一方で、この問題を長年追ってきた「週刊文春」などは次のターゲットを伝統ある宝塚歌劇団に定め、「タカラジェンヌ飛び降り事件」と称し、返す刀で女の園のいじめ問題に切り込んでいるようです。
思えばこれだけメディアが発達した日本にもかかわらず、ジャニーズ(やもしかしたらタカラヅカ)の「異様さ」や「普通ではない」感じが、多くの常識ある大人たちによって放置されてきたのは何故なのか。
それは、歌や演劇の世界の話ばかりではなくて、例えば(市川猿之助の逮捕によって注目されている)「梨園」の名で特別視されてきた歌舞界におけるスキャンダルや、「角界」と呼ばれる特別の文化を持った相撲界における数々のトラブル、「お笑い」の世界と反社会勢力とのつながりなどにも共通するものなのかもしれません。
これまで多くの大人たちによって「アンタッチャブルな世界」として認識され、(ある意味無意識に)隠されてきたてきたそうした社会の旧弊が、ここにきて俄かに注目を集めるようになっているのは一体なぜなのか。
11月1日の総合情報サイト「Newsweek日本版」にノンフィクションライターの西谷 格(にしたに・ただす)氏が『ジャニーズ問題と天皇制』と題する一文を寄せていたので、この機会にその一部を紹介しておきたいと思います。
中世の日本において、「芸能」というものは身分制度のなかで「賎民」と位置付けられた集団の中から生まれたことは広く知られている。河原者と呼ばれた彼らは土地や生産手段を持たず、(流浪生活の中で)博打や売春といった裏稼業のほか、歌や踊りなどの芸能に従事する者もいたと西谷氏はこの論考に綴っています。
被差別民であった彼らは、マジョリティーの暮らす(農村を中心とした)一般社会から切り離された「異形」の人々と見做された。そして、近代以降身分制度は解体されたが、良くも悪くも「芸能界は特別な世界」「自分たちとは違う人たち」という認識は、昭和〜平成頃まで根強く残り続けたというのが氏の指摘するところです。
例えば、枕営業についても「芸能界はそういうもの」の一言で長年見過ごされ、社会的に黙認するコンセンサスが成立していたと言ってもウソではない。枕営業だけでなく、暴力団とのつながりや薬物使用についても、同様だったというのが氏の認識です。
一方、昭和期までのそうしたコンセンサスが、平成〜令和にかけて崩れていったのはなぜなのか。「芸能人だからといって特別扱いすべきではない」「芸能界の悪弊を改めねばならない」という意識はどこから芽生えてきたのかと、氏はこの論考で問いかけています。
今からおよそ20年前の2005年(平成17年)、小泉純一郎首相率いる自民党が総選挙で圧勝し郵政民営化法が成立したこの年に、芸能会にはそれまでの常識を一変させるアイドル集団「AKB48」が誕生する。
「会いに行けるアイドル」がコンセプトの彼女たちは、芸能人と一般人の間にあった垣根を取り払った象徴的な事例とされ、これを起点として、芸能人はもはや"雲の上の存在"として崇める対象ではなくなっていったと氏はこの論考に記しています。
暴対法を背景に、暴力団の人数がピークから減少に転じたのも同じく2005年のこと。以後、暴力団の存在が社会から消えていく流れに沿うように、芸能界に対する特別視も薄れていったと氏は言います。
当時現役のAV女優だった蒼井そらが地上波のテレビドラマに出演するなど、性産業やいわゆる夜職の成功者たちがメディアに多く登場するようになったのもこの頃のこと。賭博関連では、カジノ誘致の動きが出てきたのも同時期だったということです。
一方、(ジャニー喜多川氏の所属タレントへの性加害を認める)文春裁判が確定した2004年という年は、まだギリギリ「芸能界は特殊な世界」という治外法権が機能していた時代だった。加えて、同性愛や性被害への偏見も今以上に根強かったと氏は説明しています。
LGBTの文脈で言えば、性同一性障害特例法が施行されたのも2004年のこと。それまで「性的少数者」は(社会から)ある意味「見えない存在」として扱われており、だからこそ、ジャニー喜多川の行為も「見えないもの」としての取り扱いを受けたというのが氏の認識です。
さて、それから約20年の月日が経過し、貴賤の薄れた平準化された社会の中で日本人はジャニー喜多川の所業を「再発見」し、実態をまざまざと見るようになった。また、旧ジャニーズ事務所を取り巻く日本社会の「空気」に水を差すことをできたのが外国メディアだったも、ある意味必然だったのだろうと氏は話しています。
集団の「空気」を内部から変えることは難しく、仮に変えようとしても聞く耳を持たれないのは世の常というもの。しかしその一方で、テレビ画面の中のアイドル達も、時代と共に「リアルな人間」としてとらえられるようになってきたということでしょうか。世の中の貴賤の感覚が変化する中、西欧に端を発する「人権」という感覚も、歴史や文化を超えて理解・定着し始めていると考えても間違いはないのかもしれません。
時代が移れば空気も変わる。今から20年後、私たちがどんな問題を「再発見」することになるのかを今知ることはできないが、その時々の「空気」に支配されていることは間違いなさそうだと話す西谷氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。