MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯77 再び、言語化するということ。

2013年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム

 繰り返しになりますが、言語化して心に留めておくことについての視点をもう一つ。

 昨今の小中学生の自殺に関連して、学校における「いじめ」の実態がしばしば報道されています。無自覚なまま日常的に相手にサディスティックな感情をぶつけ、精神的なストレスをかけ、それを楽しむ幼い(未成熟な)人間性。

 そして、反論できない(仕方がわからない)ままにそれを受け入れ、「学校に行きたくない」「死んでしまいたい」という所まで追い込まれてしまう不自由な心と孤独な人間関係。

 なぜこのような常識では理解できないような理不尽な事態が起こるのでしょうか?どうやら人間は、普通の精神状態が保てないような強いストレスにさらされたりすると、しばしば人間関係や社会性、時には社会そのものを歪めてしまう、狂気の時間や空間を生みだすことがあるようです。

 世界には、言われのない差別や迫害を受け、命まで脅かされるような悲惨な状況に留め置かれている人々がたくさんいます。

 歴史を紐解けば、この数十年の間にも、ホロコースト、核兵器の投下、一般人への多発テロなどで理由もなく死に追いやられた何十万人、何百万人という人々の魂が、物言わぬまま年表の中に眠っています。人間の良心への理解をはるかに超えたこうした非人道的なできごとに対して、「普段の時間」に生きる私たちはとっさに語る言葉を持ちません。

 一般に私たちは、理解を超えた理不尽さや、平時から見たある種の時空の「歪み」が大きければ大きいほど、その状況にまっすぐ対峙することができず、ただただ困惑を深めとまどうばかりとなるケースが多いようです。

 しかし、よく考えてみると、普段の私たちの生活の中でも、心の中にこうした「歪み」の種となるようなちょっとした「狂気」というか、小爆発するような感情の高まりというものが生まれては消えていることに気づきます。

 イライラする。カッとする。意地悪な気分になる。声を荒げる。そして思わず手を挙げる…。いろいろな状況が重なる中で、何かが引き金となりマイナスがマイナスをどんどん加速させていく。自分の発した言葉が呼び水になり、思ってもみなかったような罵倒の言葉、呪いの言葉が次々と同じ自分の口から発せられることに呆然とした経験を持つ人も多いのではないでしょうか。

 きっかけはいろいろです。最初の違和感(というか「ざわざわした感情」)はそれぞれ個人としての経験から来るものらしく、それが何なのか、きちんと胸のどこかに収められないと頭の中にかさぶたのようにこびりついて長い間引きずったりするので、ひやひやしてどうにも身体によくありません。

 よくわからない「違和感」だけで済めばまだ良いのですが、なぜだか気に入らない場所や環境。その場の雰囲気。話をしているだけで我慢できない人間関係なども中にはあるかもしれません。

 「何故かわからないけど許せない」ならまだしも、「考えているだけで気分が沈む」、「見ているだけでイライラする」などということもあるでしょう。ストレスがたまるばかりでなく、特にこの違和感が不幸にも経験上の琴線に触れるような内容であったりすると本人にも理由が良く理解できないままスイッチが入って激情したり、突然ブチ切れて怒りだしたりするので、周囲にも迷惑ですし社会生活を営む上でも大きな支障となったりします。

 このような事態を避け冷静に事態に対処するためには、胸の内に現れた違和感についてはできるだけ早い段階でその理由を見つけ、理屈のついた形で所定の場所に収めることが大切です。なぜそうなってくるのか結論付けられないと、腑に落ちないまま、よくわからない「負の感情」だけが雪だるまのように膨らんでいくことにもなります。

(注) こうしたストレスから解放されたいと願った時、一番手っ取り早い理屈の付け方は「誰かのせいにする」というものです。しかし、「自分は関係ない」「悪の権化がどこかにいて、そいつさえいなくなれば全てが解決する」というのも、少し考えれば何とも都合のいい考え方ということがわかります。

 実際、すべてを引き受けてくれるような「悪者」は、残念ながらそんなに簡単に見つかるものではありません。運良くその悪者が見つかったとしても、憎悪と罵りの言葉がでてくるだけであまり幸せな気持ちにはなれません。自らが仕掛けたこうした罠に陥らないような注意も、時には必要となるということです。

 いずれにしても、そのままの形でいろいろな「訳の分からない」ものを蓄積し続けていては身体がもちません。そして、「イライラ」の状態を次の段階に解放し最終的に解決に導いていくためには、ここを乗り越えていくことがどうしても必要です。

① 感情を感情のままで置いておかない。

② できる限り「言語化」して整理する。

③ 課題があるのであればこれを挙げておく。

④ 解決までのプロセスを(可能であれば)言葉で示す。

 予想外の感情は誰にもわき上がるものだと観念することが必要です。世の中からそうした感情を全て抹殺するのは不可能と心得るべきではないでしょうか。

 しかし一方で、想像もしていなかったようなおかしな事態を招いてしまうリスクをヘッジするための手段はあると思います。感情を言語化する、言葉で表現するよう習慣づけることの最大のメリットは、実はこんなところにあるような気がしています。