MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯74 言語化するということ

2013年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム

 以前、女性は嫌な記憶を忘れないよう、不快でネガティブな感情をとらえると大脳皮質でこれを「言語化」し、長期記憶として蓄える。一方男性は感情を短期的記憶を処理する扁桃体で取り扱うのですぐに忘れてしまう。だから女性はいつも男性が忘れてしまっているような過去のことを持ち出しては、いろいろと男性を苦しめるのだ…という話を書きました。

 このような不快な記憶に限らず、ぼんやりした理解や感情、気持ちといった日常的な記憶(意識)というものは、確かに気が付くと新しい記憶によってどこかに追いやられてしまっていて、「はて、何事があったのか(何を考えていたのか)」すっかり忘れてしまっていたりします。(特に、年齢を重ねるごとにそうした傾向は強くなっているような気がするのですが…。ま、逆に言うと、そのように「上手く忘れることができるようになった」と言えるのかもしれません。)

 例えば、講演会に出かけて講師の話を聞くとします。その時はよく理解できたような気がしているのですが、帰ってきていざ人に説明しようとするとなかなか要領を得ないことはよくあることです。逆に、研修会の講師などに出かけて話をする場合、大きくうなずきながら話を聞いてくれている人が必ず何人かいます。しかし、ややもすれば質疑応答の時間に頓珍漢な質問が飛んで来たりするケースなども多く、うなずいてくれている人だからといって話の内容を理解しているかと言えば、どうやらそうでもないと言えそうです。

 話を聞いているときは「なるほどな」と思っても、その時の「わかった感」というものは実は非常に浅いレベルのものであったりします。この「感じ」は、文字どおり感情、感覚の領域にあるものではないかと思います。そうしたことから、私は、理解の深さを測る尺度というものは「結論に至るまでの道筋を論理立てて説明できること」、つまりいかに言語という形で表現できるかというところにあるのではないかと考えています。

 軍隊では、重要な命令を下した後は必ず「復唱」を命じるようです。こうしたことからもわかるように、記憶や理解を自分のものにするためには、「自分で言葉にすること」がどうしても必要なのではないでしょうか。そして同様に、私たちに深い思考をもたらすのは、「言語の力」があってこそではないかと思っています。

 問題点を言葉として整理し解決までのプロセスを言葉で表現できるようになること、これが「理解する」という作業であり、さらに自分なりの考えを論理的に発展させることができる能力が、いわゆる「考察力」というものではないかというわけです。

 それでは、「言語化する」とはいったいどういうことなのでしょうか。

 言葉は、物事の有り様や関係性や感情を「象徴」させるための抽象的な存在です。人は物事に接すると、①目で見たり耳で聞いたりしたパーツ(この時点では感覚器官からの刺激にすぎません)を、②頭の中で識別し、③「言葉」と言う実態のない記号に置き換え位置付ける。そして④論理によって整理(理解)し、⑤言語化して記憶するという作業を行います。

 つまり、言語化とは、物事を経験則に基づいて抽象化することであり、理解力や思考力というのは実は物事を抽象化して物語を組み立てる能力だと言い換えることもできるのではないかと思います。従って、理解力や思考力を磨くためにはただ話を聞いたり本を読んだり映像を見たりしているだけではダメで、言語化を徹底し、自分の言葉で説明したり文章にできるよう構成していく能力が何よりも必要になるということです。

 言葉というものは、他者とのコミュニケーションの手段であると同時に、自らのぼんやりした感覚を意識化し思考を論理化するという非常に大切な役割を果たしています。思っていることを伝える手段である以前に、思っていることを形にするための手段であるということになります。

 このため、自分が目で見て、耳で聞いて感じたこと、それについて思ったことをどれだけ正確に、そしてわかりやすい形で言語で表現できるか(自分のものとすることができるか)が、まずは自分自身が物事を理解するための出発点(最初の勝負)となるのでしょう。そして、単語を選び文脈を探りながら、見たことや聞いたこと、感じたことや内容をできるだけ損なうことなく言語化していく技術というものが、人間が生きるうえで大変重要な要素となっていくと思います。

 実は、この「言葉で明快に表現すること」は、日本人にとってはなかなか難しいことの一つとされています。

 「言わぬが花」とか「沈黙は金」などという言葉ありますが、古来、日本人は言葉では言い表す必要のない関係というものを重視し、美しいものとして歴史的にリスペクトしてきた経緯があります。このような「文脈から類推する」あるいは「行間を読む」といった文化は日本のみならず、韓国などの儒教の精神を踏まえた東アジアの「ハイ・コンテクスト文化」と言われ、共同体の成員に「言葉にしなくても何となく伝わる」という農村共同体的な人間関係を求めてきました。

 現在でも、若者の間では「空気を読めない奴」というのが最も敬遠されるという話を聞きますが、21世紀の今もこうしたところに伝統的な「ハイ・コンテクスト文化」における人間関係が脈々と受け継がれているということができるのでしょう。

 一方、欧米などの「ロー・コンテクスト文化」な国々では、話し手よりも「話す内容」が重要視されています。人と理解しあうためには、まず議論をしなければなりません。話し手の責任が重いことから、より直接的で分かりやすい表現やシンプルな論理、明快な表現が好まれる一方で、寡黙であることは全く評価されず、自らの考え方を示さない迂遠な言い回しをする人間は理解されず、尊敬されないことになります。

 一方、ハイ・コンテクスト文化では聞き手の責任が重く、聞き手となった者はその文脈や言い回しから話し手の思いをおもんばかり、斟酌することが求められるばかりか、そうした能力に欠ける者は軽蔑の対象となることが普通です。俳句の「五・七・五」、和歌の「五・七・五・七・七」ではありませんが、表現はなるべくシンプルに言葉少なにしながら、鑑賞する側に素養や教養を求めるまさに「受け手の文化」だということができます。

 いずれにしても、「理解し」「理解される」ためには、思いを言語化し自らのものとすると同時に、相手との知識や経験の違いを乗り越えながら、時には「文化の違い」をも乗り越えながら相手に伝えていくという、かなり困難な作業を行っていかなくてはなりません。そして人はそうした作業を、自らの経験や教養のみに基づいて孤独に続けていかなければならないということです。

 ものごとの認識は「母語」の論理構成やそれを生みだした歴史や風土、そして「文化」に依存している。否応のないそうした現実をきちんと認識したうえで、「見えてくるもの」をひとつひとつ丁寧に言語化し、理解し、語っていく…そうした手順が必要だということになるでしょう。