MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯76 何かがおかしい…

2013年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム

 人から話を聞いたり、文章を読んだり、あるいは街角でふと目にしたり、そんなふうにして新しい情報(できごと・主張)に接した時に、「あれ、これって何か変じゃないの…?」と唐突に感じる瞬間というものがないでしょうか?(私には結構あります。)

 思い出したところでは、例えば、小学校の運動会。徒競争で順番が付くのを嫌って全員が一緒にゴールをすることにした…というような話。あるいは、学芸会で主役のシンデレラが何人も出てくるという現実を目の当たりにした時。随分昔の話ではありますが、「これって何か変じゃない?」と、まずは漠然と「いやだな感」を感じたことをよく覚えています。

 さらに、とりとめもなく思い出すと、25年ほど前、「ちびくろサンボ」の絶版問題に呼応してそれまで普通に使われていた「ぎっちょ」や「肌色」などという日本語が、特定の人間への差別を助長するとして教科書から除かれたり、放送ができない言葉に指定されたりしたと聞いた時など。「本当にそういうものなのかな?」と個人的には随分違和感を覚えました。

 最近の話では、踏切でお年寄りを助けようとした女性が亡くなったという報道があった際のこと。その女性を称えるような報道は(「死」を美化することになるので)慎むべきだ…という意見をあちこちで聞いた時などにも、理屈はともかく随分驚かされた記憶があります。

 「いじめ」を増長する可能性があるので、いじめられても決して「反撃してはいけない」という主張があります。いじめられている子供に対して「やられたらやり返してもいい」「やり返すくらいの強さを持て」と教えるのは親として間違ったメッセージだ…というつい先日の朝日新聞の報道にも、胸の内に「スッと落ちない」なにか不思議な後味を覚えました。

 「ひっかかる感」とでも言うのでしょうか。なぜか琴線に触れてしまったこうした直観的な違和感は、一体どこからやってくるのでしょうか。

 おそらくこうしたものは、日常の生活習慣や文化的な環境、それまで受けてきた教育や個別の経験、そして個人的な性向などに裏付けられた潜在意識(や潜入観念)などが総合的に作用してもたらされるものと考えられます。それでは、このような「気になる」感覚に出会ったときに、人はどう対処すればよいのでしょうか。

 感覚を大切にして、「好き」「嫌い」や「賛成」「反対」という形でそのまま判断や選択を行うことも、ある意味大切だと思います。そこには、経験や努力によって培われてきた生活者の感覚が強く息づいていると思うからです。

 理由はないけど気に入らない。いえ、そこにはきっと理由があるはずです。ただ、「言葉として」きちんとした形になっていないだけだ。訳が分からないときは、こうした直観に従うことが良い結果を生む…そういう説にも経験上頷けるものがあります。

 しかし、例えば「税金が上がる」とか、「社会保障のレベルが下がる」とか、自らの利害に直接関係する情報を判断するに際は、この直観もいささか当てにならない(むしろ分が悪い)ような気もします。

 テレビニュースの街頭インタビューでは、「消費税を上げるなんてとんでもない」「我々庶民を何だと思っているんだ」「これまで日本を発展させてきた高齢者を切り捨てるのか」というような、いわゆる「怒れる庶民の声」が声高に取り上げられます。

 こうした主張は基本的に直観に支えられているもので、理論的に突き詰められたものでないことはマスコミもよく承知しているはずですが、そこには多少目をつぶって利害関係者のいわゆる「本音」としてエキセントリックに紹介されるケースが多いようです。

 人は物事を理解し解釈する際、理屈が先にあって「これこれこういう理由」で「だから私はこう考える」という結論に達したと考えがちです。しかし、改めて思い返してみると、大抵の場合はいわゆる「直感」に基づく結論が先にあって、「自分の感覚は正しいに違いない。」だけど「どうしてそのように感じたんだろう?」という内観のもとに理由が無意識に後付けされている場合が多いような気がします。

 いずれにしても、突然現れた「気になる」出来事に対して、なんとなく「もわもわ」湧き出てくる違和感は、どうしてもその都度、何らかの形で整理しておく必要があるのではないかと私は思っています。

 その感覚が「正しい」にしても「正しくない」にしても、直観を直観としてそのままにしておくのではなく、論理にして意識の上に位置づけておくこと。周辺の情報を改めて整理しておく。そんなことをしながら、自らの直観とそれに基づく判断に疑いの目を向ける努力を、私たちはできるだけしておく必要があるのではないかということです。

 一度「引っ掛かって」しまったことに対しては、人は得てしてこだわりを持ち、そして感情的になりがちです。しかし、実際は間違った情報のもとに、間違ったことを思い込んでいるという危険性が無い訳ではありません。そもそもスタート地点の認識が誤っている場合もあるでしょう。幸いインターネットの発達により、私たちは様々な意見や情報にこれまでとは比べ物にならないほど簡単に接することができるようになりました。

 自分が引っ掛かった、気になる感情。その理由や原因をひとつひとつ丁寧に探り、結論はすぐに出せなかったとしても、まずは考え自分の意識の中に位置づけること。そうした習慣が、一気に走り出しやすい思い込みや一方的な意見、盲目的な迎合や他者に対する糾弾などに陥るという最悪の事態を避ける賢明な手段となるのではないかという、自戒を込めた確認をしておきたいと思います。