MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯73 ハンナ・アーレント

2013年10月21日 | 映画

 10月21日の読売新聞(朝刊)に、作家で明治学院大学準教授の小野正嗣さんが「映画『ハンナ・アーレント』に寄せて」と題し、10月26日から公開されるマルガレーテ・フォン・トロッタ監督作品の映画「ハンナ・アーレント」の紹介文を寄稿しています。

 ハンナ・アーレント(1906-1975)はドイツ出身のユダヤ人女性哲学者で、第二次大戦中、ホロコーストから逃れアメリカに亡命し、以降は主にアメリカにおいて活動していました。主著「全体主義の起源」などにおいて、ドイツ、イタリアなどを席巻したヨーロッパの全体主義やそれを生み出すにいたった政治思想などを初めて分析、考察したことで知られています。

 このハンナ・アーレントの名前を世界的に一躍有名にしたのは、60年代の初頭、イスラエルにおいて行われた元ナチス高官のアドルフ・アイヒマンに対しホロコーストの責任を問ういわゆる「アイヒマン裁判」でした。アーレントは裁判をジャーナリストとして傍聴、取材し、裁判の詳細な経緯と政治哲学者としての考察をアメリカの雑誌「ニューヨーカー」に発表して大きな反響を呼びました。

 後に「イェルサレムのアイヒマン」というタイトルで刊行されるこのレポートは、当時の特にユダヤ人社会に激しい論争を巻き起こし、アーレントは「アイヒマンに同情的な反ユダヤ主義者」として多くのユダヤ人から厳しいバッシングを受けることになります。

 ホロコーストの実行に当たってナチスの親衛隊中佐としてユダヤ人の移送に指揮的な役割を示したアドルフ・アイヒマンは、戦後の混乱に乗じて中立国であったアルゼンチンに逃がれ、名前を変え別人として逃亡生活を送っていました。

 しかし、1960年、当時、全世界で「ナチス狩り」を進めていたイスラエルの諜報組織「モサド」により拉致され、イスラエルに連行されたうえで1961年から「人道に対する罪」「ユダヤ人に対する犯罪」などを問われイェルサレムにおいて裁判にかけられました。

 この一連の裁判は、アイヒマン逮捕に至る「逃亡者を追い詰め」「発見し」「拉致する」といったイスラエルの強硬な姿勢とも相まって世界中の注目を集め、ナチス・ドイツによるホロコーストの残虐行為やナチス支配の非人道性を直視することをイスラエル国内のみならず全世界に強いる結果となりました。そして、後にいわゆる「選ばれた民」としてのユダヤ人の受難者としての立ち位置をユダヤの歴史に強く位置づけ、アラブと対立するシオニズムのうねりを加速するための大きな役割を担うことにもなりました。

 一方、裁判の場に現れた現実のアイヒマンは、神経質で、部屋やトイレをまめに掃除する「普通の、どこにでもいるような人物」であったとされており、その小役人的な凡人たる人物像は、「ふてぶてしい大悪党」を予想していた(求めていた)大方の予想を裏切り、戸惑わせたと言われています。実際、裁判を通じてアイヒマンはユダヤ人迫害を「大変遺憾に思う」と繰り返し、自身の行為については「自分は命令に従っただけ」だと主張し続けていました。

 裁判を経て、結局、アイヒマンは1961年12月に死刑判決を受け、翌年6月に絞首刑となるのですが、こうしたアイヒマン裁判とその意味についてアーレントはそのレポートにおいていくつもの疑問を投げかけます。

 そもそもイスラエルはアイヒマンに対する裁判権を持っているのか。アルゼンチンの主権を無視してアイヒマンを連行したのは正当な行為だったのか。裁判そのものにも正当性はあったのか。アイヒマンは命令に忠実な小役人(実行者)にすぎなかったのではないか。

 そして、「平和に対する罪」には明確な定義がなく、例えばアメリカによる広島・長崎への原爆投下が裁かれないのはなぜか…など、その矛先がユダヤ人の心の有り方そのものに向っている(その口調がユダヤ人の気持ちを逆なでする)ものが多かったのです。

 小野さんは、こうしたアーレントの考察を時代の「空気を読む」ことを拒絶し「地雷を踏む」行為であったとしています。

 当時の世論にとってユダヤ人はひたすら同情すべき犠牲者であり、一方のアイヒマンは「根源悪」の権化でなければならなかった。それでもアーレントがこのレポートを書かずにはいられなかったのは、アーレントにとって歴史の現実はそのような単純なものではなかったから。極言すれば、「思考の努力を放棄し周囲の支配的な空気に無批判に同調するとき、誰もがアイヒマンになり得る」という認識に突き動かされたからだ…と小野さんは言います。

 さまざまな予断から自らを解き放ち、小野さんも言うように「自分の頭で思考する」ことを貫くのはなかなか難しいことです。孤立を恐れず、時に世界全体を敵に回すこともいとわないハンナ・アーレントの孤高の生き方に敬意を表し、私も是非映画館に足を運んでみたいと思います。