MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯75 ポストモダン国家とは

2013年10月24日 | 国際・政治

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 たびたび紹介している日本経済新聞のコラム「経済教室」。10月24日は「憲法解釈の変更は無理筋」と題して、東京大学教授の長谷部恭男さんが憲法9条と集団的自衛権の整合(不整合)性に関する論評を寄稿されています。

 ごく簡単にまとめると、現在の有権解釈を変更して自衛隊に集団的自衛権の行使を認めるのであれば、以下の理由から憲法の条文改正を行うべきだというのが長谷部さんの主張です。

(1)憲法上の制約を踏まえいわゆる集団的自衛権は日本の賢明な外交上の保険として機能している。

(2)政府の行動を長期的に縛ってきたこの種の規範は、解釈の変更などでコソコソ済ませるべきではない。(これを許せば、時々の政権による恣意的な憲法解釈の変更が可能となってしまう。)

(3)実力行使の範囲を今以上拡大することは条文との整合上無理がある。

 さて、このような主張と合わせて、長谷部さんは現憲法において9条が占める特異な位置に関して興味深い論評を行っていますので、その概要(視点)をここに整理しておきたいと思います。

 長谷部さんの指摘は、そもそも明治維新後の日本は、明確な国境を保持し、国民を大量に動員して戦争することを念頭に造られたいわゆる「近代国民国家(モダン国家)」である(←当時は列強の軍事力の均衡が国家の安全を保障すると考えられていた)というものです。そして、そうした安全保障への思いは、2度の世界大戦をはさんで現在まで引き継がれている基本的な国家観であるとしています。

 しかし、現在、世界の主要な国々は既に「ポストモダン国家」へと急速に変貌を遂げつつあると長谷部さんは言います。

 特にヨーロッパを中心とした主要先進国において国境の意義は格段に低下しており、人と物とサービスは自由に行き交い、国民の安全は国家の力の均衡ではなく透明性や相互監視によって保障されるようになっている。そしてこうしたポストモダン国家では、国内問題と国際問題の区別が消失するとともに、「各国固有の価値や文化」ではなく「人類普遍の価値」が正しさの基準になっているということです。

 一方、日本国憲法は依然として日本を「近代国民国家」として規定する内容となっているが、その中で「9条」があることが唯一ある種の違和感を醸し出している。これは9条による「戦争の放棄の宣言」が、従来の近代国家観を超えたポストモダン国家の枠組みの中にあるから。すなわち、9条を備えることこそがポストモダン国家の憲法の標準形である…というのが長谷部さんの主張です。

 長谷部さんによれば、例え自国民を同意によってではなく強権的に支配するプレモダン(近代国家以前)の帝国(←たぶん中国のこと)が隣国であるからと言って、日本が時計の針を逆回転させて古典的国民国家に戻ることは、時代に逆行することになり国家としての利益につながらないとしています。

 日本は東アジアの国々のポストモダン化のリーダーとして今後とも振舞っていくべきであり、そうした行為がアジア全体を見据えた日本の今後の国益やアジアの発展に繋がっていくのだという長谷部さんの主張には、確かに少し心躍るものを感じます。