この国で生まれ育った人間の多くが経験しているであろう、「給食」の時間。
幼少の頃たしかにそこに渦巻いたドラマの数々を、我々は忘れてしまってはいないだろうか。
焼きソバの日。かなりの確率でフルーツポンチが付いてきた。
食後、カワイイあの子が、歯に青のりを付けている様を見て、胸のざわめきを禁じえなかった男性諸君も多いのではないだろうか。
今になって気が付く、「牛乳キャップ収集」という行為の異常さ。
そういえば、牛乳を飲んだ後、上唇のあたりに白い跡が付いたままになっている子供の数は、学年が上がるにつれて、減っていった。
コーヒー牛乳やヨーグルトのごときがあそこまで重宝がられる場面を、僕たちはもう二度と拝めないだろう。
どう考えても食欲をそそらない、分厚い生の食パン。
給食のおばちゃんは、一体どういうつもりで、あの食パンを献立から外すことを頑なに拒否し続けたのだろうか。
普段から鼻水をたらしていて、道具箱はティッシュでいっぱい!みたいな子が給食当番の日は、微妙にブルーだった。
「頼むからキミは、牛乳とかを配る係になってくれ!」と、僕は心の底から願ったものである。
もちろん口や態度には出さなかった。
それでも、クラス1美人のあの子がご飯をよそってくれるのと比べた時に、「鼻垂れ」という選択肢を選ぶ子供は、たぶんいない。
いたとしたら、将来はよほど大物のスカトロ・プレイヤーである。
食器の後片付けのじゃんけんとか、何の疑問も持たずにワイワイやってたけど、実際、そんなことをやってる間にひとりひとり勝手に片づけた方が断然早いわけで、学校教育は、そういった日々の営みを通して「協力すること」を教え込んでいたのである。これには僕も参ったね!
どうだろう。
これを読んで、楽しかった給食の日々を思い起こし、給食ノスタルジーに浸ることができただろうか。
僕は今でも覚えている。
毎日牛乳を飲む時に笑わせ合いをしていた友達が、ある日、とうとう耐え切れずに牛乳を吐いてしまったことを。
いや、吐いたのが牛乳だけならよかったのだが、なんと彼は、普通に吐いていた。
当時は「引く」という言葉をまだ知らなかったが、あの時、僕も、そいつも、まわりで一緒に笑っていた友達も、間違いなく引いていた。
その日以来、僕たちは、牽制し合いながらも、おとなしく牛乳を飲むようになった。
この美談、小学校ではなく、中学に上がってからのお話というのだから、我ながらビックリである。
幼少の頃たしかにそこに渦巻いたドラマの数々を、我々は忘れてしまってはいないだろうか。
焼きソバの日。かなりの確率でフルーツポンチが付いてきた。
食後、カワイイあの子が、歯に青のりを付けている様を見て、胸のざわめきを禁じえなかった男性諸君も多いのではないだろうか。
今になって気が付く、「牛乳キャップ収集」という行為の異常さ。
そういえば、牛乳を飲んだ後、上唇のあたりに白い跡が付いたままになっている子供の数は、学年が上がるにつれて、減っていった。
コーヒー牛乳やヨーグルトのごときがあそこまで重宝がられる場面を、僕たちはもう二度と拝めないだろう。
どう考えても食欲をそそらない、分厚い生の食パン。
給食のおばちゃんは、一体どういうつもりで、あの食パンを献立から外すことを頑なに拒否し続けたのだろうか。
普段から鼻水をたらしていて、道具箱はティッシュでいっぱい!みたいな子が給食当番の日は、微妙にブルーだった。
「頼むからキミは、牛乳とかを配る係になってくれ!」と、僕は心の底から願ったものである。
もちろん口や態度には出さなかった。
それでも、クラス1美人のあの子がご飯をよそってくれるのと比べた時に、「鼻垂れ」という選択肢を選ぶ子供は、たぶんいない。
いたとしたら、将来はよほど大物のスカトロ・プレイヤーである。
食器の後片付けのじゃんけんとか、何の疑問も持たずにワイワイやってたけど、実際、そんなことをやってる間にひとりひとり勝手に片づけた方が断然早いわけで、学校教育は、そういった日々の営みを通して「協力すること」を教え込んでいたのである。これには僕も参ったね!
どうだろう。
これを読んで、楽しかった給食の日々を思い起こし、給食ノスタルジーに浸ることができただろうか。
僕は今でも覚えている。
毎日牛乳を飲む時に笑わせ合いをしていた友達が、ある日、とうとう耐え切れずに牛乳を吐いてしまったことを。
いや、吐いたのが牛乳だけならよかったのだが、なんと彼は、普通に吐いていた。
当時は「引く」という言葉をまだ知らなかったが、あの時、僕も、そいつも、まわりで一緒に笑っていた友達も、間違いなく引いていた。
その日以来、僕たちは、牽制し合いながらも、おとなしく牛乳を飲むようになった。
この美談、小学校ではなく、中学に上がってからのお話というのだから、我ながらビックリである。