175Rと130R

175Rと130Rの関係性を多角的に考察し、新しい日本のあり方を模索する。

左手は、添えるだけ。

2004年11月20日 | Weblog
★はじめに★
このブログは、食事前のあなたにとって大変危険です。精神衛生に対する悪影響や、ただでさえ良くなかった気分を損なうおそれがありますので、読むタイミングには十分ご注意ください。


★前編★
以前からかなぁり気になっていたことがある。
トイレで用を足した後に手を洗うことの意義。

大きい方の時はなんとなく分かる気がする。
手とブツが、紙を中継して接触する可能性がなきにしもあらずだから。
問題は、小さい方のとき。

考えてみてほしい。男が放尿する際、果たして本当に手は汚れるだろうか?

まず、誤って手にかかってしまった場合。これは確かに汚い。
いくら「オシッコは汚くない!自分のオシッコを飲んで助かった遭難者もいるんだ!」みたいな美談を持ち出されても、(小便で)濡れた手で握手を求められたら、間違いなく拒否る。そいつがどんなにフレンドリーな笑顔でも。

しかし実際、誤って手にかかってしまうことなど、そうそうあるものではない。
ヘビとカエルの区別もつかない三歳児ならともかく、何千回、いや何万回もの放尿行為を経験している成人男性ともなれば、その技術は神の領域。とまではいかずとも、小便エキスパート、免許皆伝、最悪でもベテランの域には達しているはずである。
なにしろ、軸がブレないように手を添えるだけでいいのだから。
その昔、赤木キャプテンも言っていた。「左手は、添えるだけ」(漫画「スラムダンク」参照)

つまり、誤爆や誤射の可能性は極めて低いのである。
少なくとも、米軍のミサイルが一般市民の居住区を直撃する可能性や、北朝鮮のミサイルが東京にブッ込まれる可能性よりは低い。

ところが現実には、ほとんどの男が、誤爆や誤射とは無関係に、毎回手を洗っている(と思う)。
実はこの行為が命とり。自爆もいいところなのである。


★後編★
いいだろうか?
自分のモノがある程度清潔に保たれていさえすれば、小便後に手を洗う必要性は皆無だ。

仮に、汚さレベルの上限を10として、無事小便を終えたときの手の汚さを1としよう。
で、用を足し終えたあなた(汚さレベル1)は、水道の蛇口をひねり、手を洗う。
この時点では確かに、手はキレイになった。汚さレベル0。つまりはクリーンな状態。

しかし!次の瞬間、つまり水を止めるために蛇口をしめるその刹那、一連の手洗い行為は無に帰す。
なにしろ蛇口には、用を足し終えたあらゆるトイレ利用者、先達の手から放たれたばい菌が付着しているはず。
つまり、蛇口の汚さは常にMAX。レベル10なのである。

そんなこんなで、レベル1の小市民だったあなたは、手を洗ってしまったがために、一気にグレードアップ。
手を洗ってキレイになった気になってはいるが、実際には、クソ野郎もいいところなのである。

一方で、大きな用を足した後の、汚さMAXのクソ野郎が手を洗うのは、それなりに意義がある。
彼は、手洗いによって一時的に汚さを0まで低下させた後、蛇口をしめて再びレベル10に逆戻りする。
が、決してマイナってはいない。これ、重要。

こうやって考えてみると、手を洗うことによって心理的な浄化作用を得られるにしても、
たった1の汚さしか持ち合わせていないチンケな男が手を洗うには、あまりにもリスクが大きすぎる。
レベル1の小市民が、クソ野郎の汚さまで背負い込む必要が、どこにあるというのか!

以上のようなことから、自動の蛇口であるか、「手を洗った後蛇口をしめない」という反社会的行為を選択しない限り、まっとうな小便小僧が手を洗う理由はどこにもないと思われる。
が、習慣とはコワイもので、頭では「汚い!」と分かっていても、ついつい洗ってしまうし、たまに洗ってないオジサンを見ると、やっぱり「汚い!」と思ってしまう。
いやはや困ったものである。

御前崎龍子

2004年11月16日 | Weblog
朝日新聞の紙面に、「職場BBS」という小コーナーがある。(金曜限定)

このコーナー、
職場での悩みを抱える読者の相談と、それに対する他の読者のアドバイスを、募集・紹介する、という形式で成り立っている。
のだが、
「職場Bけいじばん
という微妙なタイトル表記(←「けいじばん」というフリガナのポジショニングが。)に始まり、毎週掲載されるアドバイスの内容が凄まじい。

例えば先週の金曜日は、
バイト先の飲食店は、従業員同士が「さん」付けで呼び合います。なのに30代の独身男性社員は、忙しいランチタイムなどに、私を「お前」と呼びます。父親でも恋人でもない男性に「お前」なんて腹が立つし、嫌な気持ち。学生バイトは私1人なので、なめられているのでしょうか?
という、なんともけなげな石川県の19歳短大生の相談が取り上げられていたのだが、そんなけなげな相談に対して、

まず一発目。こんなアドバイスが掲載されていた。
「お前」と呼ばれたら必ず、「無礼者!」とすごい形相で振り返る。次にハッとした表情で「すみません。以前は、何人ものお手伝いさんに囲まれた生活だったので・・・」と謝ります。さらに「かつてのバイト先では相手を蹴り飛ばしてしまったので、今後は気をつけますね、オホホホホ」と付け加えます。

「無礼者!」
そんな言葉を口にしてしまった時点で、19歳の女の子としてはアウトである。
いや、例え45歳のマダムだったとしても、「無礼者!」はアウトである。何時代の貴族だ、という話である。
しかもその後の、「すみません。以前は・・・」のくだり、全くもってフォローになっていない。
仮にその言葉が信じられたとしても、「以前は何人ものお手伝いさんに囲まれて暮らしていた娘が、今では飲食店でアルバイトをしている」というワケありエピソードに、男性社員やほかの従業員の好奇心は釘付けだろう。
「かつてのバイト先で相手を蹴り飛ばしてしまった」話は、一歩間違えたら即クビであるし、
仮にクビは免れたとしても、「オホホホホ」は痛い。痛すぎる。

二発目のアドバイスは、
従業員が互いに「お前」と呼び合うことで統一してみる。お前さん、お前クン、お前ちゃん、お前っち、お前先輩・・・。そんな雰囲気なら、社員に「お前」と呼ばれても気にならなくなるかも。
というもの。
そんな雰囲気なら、「お前」と呼ばれても気にはならないかもしれないが、それ以前に、確実に職場を変えようという気になるだろう。

悪ふざけアドバイスは終わらない。
極めつけの三発目。これは特にひどい。
「お前」と呼ばれたら、「♪お待たせしました。ワタクシ、静岡県は御前崎出身、御前崎龍子でございます。今宵も唄うは十八番の・・・」と、意味不明のアカペラを熱唱する。そのうち、「お前」と呼ばれないとあなた自身、不満に感じるようになるでしょう。

なぜ19歳の女子短大生が、飲食店のバイトでそこまで体を張らなくてはならないのか。
こうなってくると、投稿者がどんなテンションでアドバイスを書いているのか、はなはだ疑わしい。
とりあえず、相談者の悩みを解決してあげる気がないであろうことは明白である。
そんな無責任なアドバイスを採用するこのコーナー担当者もさることながら、おもしろアドバイスしか返ってこないのが分かっていながら相談を投稿する相談者も相談者である。

ここまで書いて、ようやく気付いた。
このコーナーは、大喜利なのである。
ボケやすいお題と、それに対する気の利いた答えを掲載しているに違いない。いや、そうであってほしいと切に願う。
じゃなきゃ、相談者がかわいそすぎるではないか。

耳の形が変である~第一部「ロバの耳」~

2004年11月13日 | Weblog
「耳」という物体は、よくよく見ると、実に奇妙な形をしている。
と、みんな心のどこかで思っている。
まあでも、日常生活で、自分の、そして他人の耳を凝視する機会なんてあまりないし、だから、誰かの耳がどんなに奇妙な形をしていても、あまり気にはならない。
ましてや、「キミ、耳の形おかしいね!」なんていうファンキーな感想は、なかなか出てこない。
はずだった。

しかし!
そんなレアな感想を周囲の人間に抱かせている耳が、なんとも身近な場所に存在したのである。
本人は全く気付いていなかったが、よくよく聞いてみると、まわりの友人たちは、かなり早い段階で気付いていたらしい。
気付いてたけど、なんとなく放置していたらしい。
この写真は、21年間、そんな、「王様の耳はロバの耳」的な境遇に甘んじていたロバ男の耳。
そう。僕の耳である。

耳の形が変である~第二部「耳なし芳一シップ」~

2004年11月13日 | Weblog
写真だと分かりづらいかもしれないが、
しかし、改めて鏡で自分の耳を観察し、また、街行く人々の耳を観察し、そして再度、写メールで自分の耳を撮影、まじまじと眺めてみると、確かに変なのである。
写真でいうと、「クリック」のアイコンのあたりが最も特徴的。
なんていうか、「立体感にあふれている」とか「起伏に富んでいる」とかいう次元を超えて、「はちきれそう!」「破裂寸前デス!」「テメェ、腫れちゃってるじゃねぇか!」くらいの勢いが感じられるのである。我ながら。

いや、そんなの全然うれしくないが、「時間が経てば元に戻る」なんてことはありえないわけで、じゃあもうしょうがない。
耳そのものを写真で切り取って、真正面から取り上げてみようではないか、というチャレンジ精神、(スポーツマンシップならぬ)「耳なし芳一」シップにのっとって、こんなアホな文章を書いている次第である。
いや、そもそもが、自分の耳を写メールで撮っちゃったりしてる時点で、人間としては失格ぎみである。

耳の形が変である~第三部「ムンクの叫び」~

2004年11月13日 | Weblog
さて、これを機に、皆さんもぜひ、自分の耳を見つめ直してみてはいかがだろうか。
慌ただしく過ぎる日常の中で、ふと、耳に目をとめてみる。
もしかしたらそこに、新しい発見があるかもしれない。

とりあえず僕はそこに、「ムンクの叫び」を発見した。
ちょっとした心霊写真。
ムンクの叫び、あるいは、映画『スクリーム』のお面、である。

最後に、
「世界にひとつだけの耳」
この言葉を、だまされたと思って、10回、声に出して唱えてほしい。
早い人は3回目くらいで気付くはずである。
・・・耳はふたつだ!と。

「不良論」

2004年11月05日 | Weblog
なかったことにされようとしているが、かつてこの国には、「不良」という言葉が間違いなく存在したし、従って当然のことながら、不良チルドレンたちが存在した。
死語化の一途をたどる「不良」を、なぜ今さら持ち出したかというと、不良の在り方には、まだまだ発展・開拓の余地があるように筆者は思うからである。

不良や「不良」という言葉が絶滅の危機に瀕するに至った背景としては、
「あえて悪くなろうとする・悪いことをしようとする、ってことは、本当はいい奴なんじゃん!」っていうことにみんなが気付いちゃった、ことが挙げられる。
そもそもが、不良という在り方には、最初から限界があったのである。
そして人々はいつしか、甘酸っぱくて恥ずかしい感情と共に、ときめき不良メモリアルを、心の奥底に封印し始めた。

しかし!
行き詰まったかのように思える不良の在り方を打破し、新しい、進化した不良像、言ってみれば、ニュータイプ、ネクストジェネレーションの不良像を、私は発見してしまったのである。

従来の、ともすれば戯画化されもする不良像は、ひとりの人間を全体として考えたとき、「マクロなレベルでの不良」と言える。
つまり、A君という全体が、不良なのである。
ただ、この場合だと、先ほども触れたように、どうしても行き詰まらざるをえない。
A君が「不良」という立場を維持するためには、常に「悪いことをしようとし続けねばならない」からである。

誤解している人も多いと思うが、不良とは、読んで字のごとく、「良くない」のであって、決して「悪」ではない。
究極的に悪いことをしてしまった時点で、不良はもはや不良失格であり、彼らは極悪人・犯罪者というネクストステージに行ってしまう。

私が、「悪いことをしなくてはならない」ではなく、「悪いことをしようとし続けねばならない」と書いたのは、そういう意味である。
しかし、悪いことをしようとし続ける限り、「本当はいい奴なんじゃん!」というジレンマから逃れることはできない。
そう。この微妙な立ち位置、悩ましくもナイーブなポジショニングが求められるが故に、不良という在り方は破綻をきたし、フィクション化の憂き目に遭っているのだ。

そこで!
今回私が提案するのは、『「ミクロレベルでの不良」の集合体』としての不良、という在り方。
これによって、従来型の不良の問題点は、ほぼ解決されると思われる。

『「ミクロレベルでの不良」の集合体』としての不良、とは、一体どういうものか?
例えばその条件としては、
・視力が0.1未満であること。ビン底メガネを着用すること。
・衣類は、最悪の品質、最悪のセンスのものを着用すること。
・全ての歯が虫歯であること。治療厳禁。
・腐ったものしか食べてはならない。合言葉は、「消費期限が切れてから!」
といったようなことが挙げられる。
そして、そういった条件を一つでも多く身につけ満たしたヤツこそが、究極の不良、ナンバーワンの不良たりうるのである。

上に挙げた条件を満たすことは、一見「悪いこと」のようではあるが、その実、それらの条件を満たした人間が「悪人」であるかと問われれば、あきらかに答えはNOである。
あくまで、「良くない:不良」の範疇に、マキシマムでとどまることができる。

答えは出た。かに思われる。
がしかし!話はまだ終わらない。

考えてみてほしい。『「ミクロなレベルでの不良」の集合体』としての不良が、「マクロなレベルでの不良」を両立するケースを。
その場合には、本当に良くない人間が、社会的にも良くないことをする。
ビン底眼鏡で末期的な衣服を着た、納豆くさぁい虫歯少年が、社会や大人たちに反抗し、ケンカに明け暮れ、ちょっとした出来心から、17歳の地図を片手に盗んだバイクで走り出す15の夜。

無敵。
これこそが究極の、完全無欠の不良の在り方であると、私は今、猛烈に確信している。

人文畑でつかまえて

2004年11月03日 | Weblog
卒論もどきを書かなきゃならないんだ。
僕は大学で文化人類学を勉強している気になっててね。
ところが文化人類学が何なのか分かっていないことが分かっちまったんだ。

なにしろマイペースで勉強しているもんだから、度重なるブランクを経て、すっかり忘れちまってたんだ。
これには僕も参ったね!
このままじゃハト胸を張って卒業できないじゃないか。

文化人類学っていうのは、「異文化を知る」ことによって、結果的に、自文化(との相違・共通点)を理解した気になれる学問なんだ。
で、そういうのを理解した気になれると、心なしかファンタスティックな世界観でもって生活していけるような気がしてやまないんだ。

例えば、
「日本では虹は7色だけどアメリカでは6色(?)、アフリカのアダババ族(仮)では130色!」みたいなことを知ったり、
「雨乞いの儀式をやってるムポフィフィ=ヒロポン族(仮)、そんなことやっても雨は降りませんよ?頭おかしいんじゃないの?ってツッコミたいのもやまやまだけど、もしかして、みんなで雨乞いすることによって、仲間同士の連帯感を高めてるんじゃないの?だったら意味あるじゃないの?」みたいな見方をしてみたりしてみたり。

で、その過程で、
ソモソモ「文化」ッテ何デスカ?
誰ニトッテノ異文化デスカ?
異文化ト自文化ノ境界線ハ何処デスカ?
っていうようなことも考えざるをえないし、
アナタハ、ドウヤッテ異文化ヲ知ルデスカ?
上カラ見ルデスカ?下カラ見ルデスカ?外カラ見ルデスカ?中カラ見ルデスカ?
24時間タタカエマスカ?
っていうようなことも自問自答せざるをえないんだな。

要するに、自分の立場というものが問われてくるわけで、結果、ひとつのことを調べているうちに自分のアイデンティティー自体が変化していっちゃったりもするのが、べりぃふぁにぃ。
厳密に科学的であるとは言いがたい学問でもあるわけだけど、まあ、おもろいからいいじゃん、と、いたってフランクな気持ちで勉強して今に至る。

というのが前回までのあらすじです。

ところが、個人的に本を読んだり調べたりしている「差別」とか「ウソ」みたいな現象と、文化人類学が、直接的に関わっているのかと問われれば、答えはYESでもNOでもなく、NOESくらい。
フィールドワークをせずして、世界の中心で「文化人類学!」とは叫べないので、ぜひともしてみたいんだけれども、そのためには、もう少しテーマを絞っていかねばならぬ、何事も。


松尾スズキの恋の門

2004年11月02日 | Weblog
先日なんとなく、松尾スズキの初監督映画『恋の門』を観た。
バイトを始めたおかげで金欠から解放され、近頃は、1週間100円のレンタルビデオに甘んじることなく、わりかし頻繁に映画館に足を運べるようになった。

個人的には、どんなにつまらない映画でも最後まで楽しめるタチなのだが、
そして、どんなにひどい映画でも、むやみに批判めいたことは言わないタチなのだが、
『恋の門』、マジでひどかった。

雑誌とかでは、「笑えるシーン満載!」「観終わった時には腹筋が痛くなってる!」「あれ?マックのメニューからスマイルがなくなってる!」みたいなことが書かれているが、僕は1.5回くらいしか笑えなかったし、それがどんなシーンだったかも覚えていない。
なんだかキモい映画だった。
オタクの世界を描いた映画だからキモかった、というのではなく、映画(としての演出?)がキモかった。
観るに耐えないというか、中盤以降は、仏の心を持つと言われてやまない僕が、本気で席を立って帰りたい衝動に駆られたのだから、よっぽどである。

松尾スズキの笑い自体は、好きな方である。
彼の書いたエッセーは何冊か読んだことがあり、そのどれもが面白かった。
彼の本職である演劇とその演出は、観たことないけど、たぶん面白いと思う。
しかし、映画だけは、どうしてもいただけなかった。

好き嫌いの問題だとは思うのだが、あまりにも無駄な演出が多すぎる。
しかもそれが、くどい。くどい、というのが致命的。
無駄な演出は、それが無駄であるという意味において無駄ではない、という意図は、演劇の世界では成立しえても、おそらく映画向きではない、というのが個人的な見解である。

スクリーンというのは、なんだかんだで全てを映してしまうような気がする。
だからこそ俳優は、無駄を省いて省いて何かを伝えようとするわけだし、それでも省ききれなかった「何か」に、観客は心を揺り動かされたりもする。
この映画からは、そういう、「結果としての演技」の裏側にあるストイックさが、ほとんど伝わってこなかった。

特に、主演の松田龍平の演技に、幾度となく違和感を感じた。
これは、松田龍平の演技力うんぬんではなく、松尾スズキの演出の意図が俳優に伝わりきっていなかったり、あるいはキャスティングの時点で問題があったのではないか、という種類の違和感である。

そうなってくると、果たして同名の原作漫画を映画化することに意味はあったのか?という疑問に行き当たる。
松尾スズキが未知の領域で新しいことをやろうとした、ことは評価されえたとしても、この映画の完成度の低さをもって、「新境地を開いた映画」みたいな扱い方をされると、「チョット待ッテ、クダサーイ」と、片言の日本語で異議を唱えたくなる。

ベネチア国際映画祭に出品されたとか、今をときめく(?)松尾スズキの初監督作品だとか、そんなことは関係ないのであって、笑えないものは笑えないし、つまらないものはつまらない。
そしてそんな気持ちになってしまったとき、その対象を「笑えない」「つまらない」としか思えなかった自分の間口の狭さ、器の小ささにげんなりしながらも、人は、マックグランとビックマック、どちらの方が食べ応えがあるのかで、頭を悩ますのである。