175Rと130R

175Rと130Rの関係性を多角的に考察し、新しい日本のあり方を模索する。

勘違いした大人にならないために

2004年07月01日 | Weblog
今の日本は一応、平等主義ということになっています。
うだつの上がらない中年男性も、口うるさいパートのおばちゃんも、家のないヒッピー族も。
ドメスティック・バイオレンスの夫も、自称・負け犬の30代独身女性も、肩身のせまいフリーターも、自堕落な大学生も、キレやすいことで評判の子供たちも、ジジイもババアもクソ野郎も。
みんな素晴らしくてみんな価値がある、ということらしいのです。

ただそのわりには、偉い人はやけに偉そうにしているし、お金持ちの子供たちは、そうでない子供たちに比べて、ものすごく優遇されたりします。
もはや、いちいち「ありえない!」と思うのが面倒くさくなるくらいに、二世議員や二世タレントたちが、堂々と社会のメインストリームへ踊り出てくる現状。

考えてみれば宇多田ヒカルも二世だし、森山直太郎も二世。
小泉孝太郎が芸能界で生き残れている理由は、誰の目にも明らかです。
そういえば、高橋英樹の娘がフジテレビのアナウンサーに内定したとかしないとか。

まあ、そんなことはどうでもいいんです。
僕だって、親がそこそこの収入を得ていなければ、大学に通っていなかったかもしれないわけで。
ただ、ひとつだけ心配なのは、このまま、金持ちの子は金持ちに、権力者の子は権力者に、カエルの子はカエルに、みたいな安易な流れが社会にはびこると、確実に、「勘違い野郎」が増えます!

親のおかげで権力者になれた権力者の子供はまず、「自分が素晴らしい人間だから権力者になれた」と勘違いをします。
そして、自分は素晴らしい人間なんだから、自分の言うこと・やることは、間違いなく素晴らしい、と、マジメな顔で、イッちゃった発想をするようになります。

この種の勘違い野郎は、根本的に、自分と意見を異にする他人に対して、全く聞く耳を持とうとせず、また、自分を省みることを極端に嫌います。
なぜなら、「自分は素晴らしい人間だ」と本気で考えているからです。
そんなやつらが集合して権力を形成するようになった日には、この国はますますエキセントリックなことになってしまうのではないでしょうか。

一方で、弱小市民の子に生まれた弱小市民は、「自分が劣った人間だから弱小市民になってしまった」と勘違いをします。
そして、自分は劣った人間なんだから、自分の言うこと・やることは、間違いなく劣っている、と、鬱屈した顔で、自虐的な発想をするようになります。

この種の勘違い野郎は、根本的に、自分の頭で考えるということをしません。
なぜなら、「自分は劣った人間だ」と本気で考えているからです。
全て「偉い人」任せ。そして、何か問題が起きれば、他人に全ての責任を転嫁します。

「偉い人」が本当に偉い人なら問題はないのですが、残念なことに、「偉い人」の多くは、権力にぶら下がった勘違い野郎なので、救いようがありません。
この悪循環を断ち切るために、我々は一体どうすればいいのでしょうか?

人間はそもそもが、勘違いを「してしまう」生き物です。
僕もよく、「自分は本当はパンダなのではないか?」といった類の勘違いをしてしまいます。
皆さんも試しに、自分の胸に手を当てて、揉んでみてください。
もしあなたが男性であるならば、その光景は、考えただけでも気持ちが悪いです。

話が逸れましたが、ともかく、誰もが勘違い野郎に成り下がる素養を持っている、ということを僕は言いたいのです。
ブッシュや小泉を、哀れな標本として笑っている場合ではありません。

「みんな素晴らしくてみんな価値がある」なんていうのは、平等主義のフィクションであって、実際、人間はみんなウンコみたいなものなのです。
「みんなウンコ」という意味において、人間は平等です。
僕もウンコ。あなたもウンコ。あの子もウンコ。
官僚もウンコ。アイドルもウンコ。野球選手もウンコ。社長もウンコ。病人もウンコ。ヨン様もウンコ。善人もウンコ。クソ野郎もウンコ。
みんな等しく、ウンコからのスタート。それでいいじゃないですか。

ただ、僕は何も、人間にはてんで価値がない、と言っているわけではありません。
ウンコな自分が努力をして何かを成し遂げたならば、そのことに対しては誇りを持つべきであるし、それは間違いなく価値のあることです。
ただ、その時、「自分が成し遂げた価値のあること」と「ウンコとしての自分」との間に線を引ける冷静さがあるかどうか。
勘違い野郎に成り下がってしまうか踏みとどまることができるかは、その一点にかかっているわけです。

ウンコからのスタートだからこそ、向上しようという気持ちが生まれ、必死に努力し続ける。それこそが、人間として生きる醍醐味であり、感動にもつながるのではないでしょうか。
少なくとも、「みんな素晴らしくてみんな価値がある」→「おれは素晴らしくておれには価値がある」という、傲慢な論理がまかり通る世の中よりは、「僕もあなたもウンコ」な世の中の方が、よっぽど平和で健全といえるのではないだろうか、と、最近思ったり思わなかったりします。