175Rと130R

175Rと130Rの関係性を多角的に考察し、新しい日本のあり方を模索する。

豊島園のシネコンは大丈夫なのか?!

2005年02月22日 | Weblog
こないだ、マイケル・ムーアの『華氏911』をようやく観た。
例によって、池袋の新文芸坐である。
で、今回はそれについて書こうと思ってたんですが、
今日、豊島園のシネマコンプレックスで、観たい観たいと思っていた『ボーン・スプレマシー』と、観ようかなーどうしようかなーと思っていた『きみに読む物語』を観て、そっちについて書くことが決まった。
「決まった。」といっても、僕の心の中でひそかに決まっただけなので、わざわざここでこうやって、大々的に発表するほどのことでもなかったなあと、いま恥ずかしい気持ちでいっぱいです。

さて、マット・デイモン主演の話題作『ボーン・スプレマシー』が、『ボーン・アイデンティティー』の続編であることは広く知られていますが、
実は、その『ボーン・アイデンティティ』のひとつ前に、『ボーン・イエスタディ』というのがあって、『アイデンティティー』が『イエスタディ』の続編である、という事実は、ほとんど知られていません。
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD10318/

知られていませんていうか、たまたまこないだ『イエスタディ』を発見して、「このネタをいつ使おういつ使おう」と悩んでいたのですが、
「悩んでいても始まらない。そうだ、『スプレマシー』を観よう。そうすれば、ここぞとばかりに使えるじゃないか」
と思って、『ボーン・スプレマシー』を観ました。(半分ウソ、半分ホント)

『スプレマシー』、評論家やメディアにはかなり好意的に取り上げられていますし、
小難しいことはよくわかりませんが、カーチェイスのシーンだけでも、十分に観る価値はあるのではないでしょうか。

ちなみに、冒頭でも書きましたが、僕は豊島園のシネコンでこの映画を観ました。
公開されてまだそんなに日が経っていない『ボーン・スプレマシー』、465人収容のスクリーンに、客は4人しかいませんでした。
僕を含めて4人です。ありえないっ!
ちなみに全員男で、全員ひとり客でした。
ラブストーリーじゃなかったのがせめてもの救いですね。

そういえば、だいぶ前に『2046』(に出ているチャン・ツィイー)を観に行ったときも、確か客が5~6人で、やはりガラガラでした。
そのときは「作品のせいだろうか」とも思いましたが、『ボーン・スプレマシー』は世間的にもしっかりとヒットしているので、きっと豊島園のシネコン、平日はいつもガラガラなのでしょう。
とはいえ、客が一番入りそうな『ボーン・スプレマシー』で4人なのですから、おそらく他のスクリーン(豊島園のシネコンには9つのスクリーンがあります。)もガラガラだったはず。
大丈夫なのか豊島園(のシネコン)!やっていけるのか豊島園(のシネコン)!
http://www.unitedcinemas.jp/toshimaen/

調子に乗って映画をハシゴしました。(『きみに読む物語』)
今度は100人くらいが入るスクリーンで、上映1分前まで、客は僕ひとりだけでした。
「だだっ広い映画館にひとりぼっち」「自分だけのために回ってくれる映写機」「しかも純愛映画かよ!キモーい!」といった、マニアックなシチュエーションにゾクゾクと興奮しながら、「誰も来るな、誰も来るな」と神にも祈る気持ちだったかどうかは定かではありません。
が、「誰も来るな誰も来るな来るな来るな来るな・・・」と祈り続けているうちに、それが病的なつぶやきに変わって行き、とうとうほかの客が入ってきてしまった瞬間、その客に向かって「来るなってあれほど言っただろぉがぁっ!」と、ドスの利いた声でブチキレる青年を妄想して、ひとりでニヤけてしまいました。

僕の精神の健康も心配ですが、それにしても、本当にこの映画館の先行きは心配です。
かなり新しい、しかも六本木ヒルズのシネコンに匹敵すると思われる規模・設備のシネコンですから、「儲かんねぇからつぶしちゃおうぜ」ってなわけにもなかなかいかないだろうし、
当面は、土日の集客でカバーしていくしかないんだろうけど、土日だけでそんなに儲かるんだろうか、維持費だってバカにならないだろうし、まあ空いてるのは大歓迎ですけど、近所だし、末永く利用できる映画館であってほしいものであるなあ、と詠嘆しているうちに、とうとうほかの客がひとり、入ってきてしまいました。
そこで僕は、「来るなってあれほど言っただろぉがぁっ!」とは叫びませんでしたよ。念のため。

で、この映画、これが良かったんですよ!
キリン顔の少年と、「最初はそんなにかわいく見えなかったけど、ストーリーが進むにつれて魅力的になっていったよね~」っていう感じの少女の、ひと夏の恋の物語をきっかけに展開される長い長い愛の物語が、カポー(※)たちの距離を縮めてくれること間違いなしなので、
カポーの皆さん、特に、長く付き合っていこうとお互いに思っている熟年志向カポーの皆さん、あるいは二人の仲が醒めていない熟年カポーの皆さんは、ぜひとも連れ立ってして観に行くことをオススメします。

わりと展開がある映画なので、一人で観ててもぜんぜん飽きませんし、仮に二人とも醒めてたら醒めてたで、ツッコミどころはけっこうあるので、楽しめることと思います。
が、温度差のあるカポーが観ると、やや痛いかもしれない。
厄介なことに、温度差なんてものは、誰にも分からないですし、そういう場合、痛い目に遭うのは大抵男です。
なぜなら、男という生き物はえてして、夢見がちなロマンチストであるからです。
女もまたロマンチストには違いありませんが、相対的に考えて、現実的なロマンチストであると言えるのではないでしょうか。

夢見がちなロマンチストは、間抜けなので、救いようがありません。
この映画の主人公がまさにそれです。
でも、映画の世界なので、夢見がちな間抜けが少しは報われます。
というか、この監督は、「こうだといいなあ~」という願望を映画の世界で実現した間抜けであり、それを観て、「この映画、これが良かったんですよ!」なんて言ってしまっている僕は、前歯が抜けた小学生の笑顔と同じくらい、間抜けであるに違いない。


※「カポー」:「カップル」の意。英語で「カップル」を正しく発音した際の音。

新大陸発見!~○○ニストと○○ターの違い~

2005年02月21日 | Weblog
ピアニスト、バイオリニスト、コラムニスト、アルペニストなどなど、世の中には、○○ニストという、なんともマニアックな肩書きをお持ちの方々がいらっしゃいます。
エコノミスト、アーティスト、ファシスト、パンストなどを考慮に入れると、ニストではなく○○ストで区切るのが適切ではないかとも思われますが、書き直すのが面倒くさいので、今回は目をつぶっておきます。

彼ら彼女らは、ピアノなりバイオリンなりコラムなりアルペンなりによって金を稼ぎメシを食う人々であり、その道のプロフェッショナルであると言えます。
従って、世に生きる大半の男性はオナニストであるにも関わらず、自分の名刺にオナニストとは書けませんし、また、書く必要もありません。さすがにオナニーでメシは食えません。
ちなみに僕は近頃、多くても週1という禁欲ライフを継続していますが、あるいは「メンソールのタバコを吸ってるとインポテンツになる」という神話は、都市伝説の類ではなく、科学的に裏付けられた理論なのでしょうか。
もしそうなら、男の魂:メンソウル=インポだなんて、なんとも皮肉な話ですね。

最低なことを書きすぎましたが、
○○ニストのほかに、○○ターというのもあります。
ちなみに卓球の愛ちゃんの雄叫びは「ター!」ではなく「サー!」であるというのが一般的な見解のようです。

イラストレーター、ネゴシエーター、ライター、クリエイター、コーディネーター、ストリートファイター、ターミネーター、コンピューター、オーブントースター、タケコプター。
あれ?ターミネーターはともかく、コンピューターやオーブントースター、タケコプターは人間じゃないざます!と思った人はなかなか頭が良いと思います。自分で自分のことを褒めてあげて下さい。
また、ダンサー、デザイナー、テニスプレーヤー、仮面ライダー、キッチンドランカーなどを考慮すると、あえてターで区切る必要はあるの?という疑問にぶち当たりますが、そんな些細なことで挫折感を感じるのはイヤなので、今回も目をつぶります。

ひとつ言えることは、○○ニストに比べると、○○ターからは、そこまでストイックさを感じないのではないか、ということ。
その道一筋のプロフェッショナル、それがなきゃ拙者のたれ死にでござる、っていうよりは、
「ああ私?OLだけどイラストも書けるよ?」とか、
「やっべ!取れちゃった!コーディネーターの資格取れちゃった!」とか、
「おれ、生まれつきターミネーターなんだよね~。別にトレーニングとかしてないし~。まあ、これも運命?みたいな?アハハハ~」みたいな、できちゃった婚的なニュアンス。
自分から名乗ってしまえば誰にも否定はできないような、極めてフランクな肩書き、それが○○ターなのです。

考えてみて下さい。
あなたは、仲の良い友達に、「ミー、今日からハリーポッターだから!よろしくねンっ♪」と言われて、真っ向から否定できるでしょうか。できません。
「ミー」とか言われた時点で平静を保つのは難しいでしょうし、「う、うーんっ!」と苦笑するのがいいところです。(殺意を覚えてしまった場合は、目ん玉をひんむいてやるという選択もありますが。)

このように、○○ニストと○○ターは、似ているようでいて、その実、対極にさえ位置しうるものなのです。
片やストイック、片やフランク。
片やマニュアル走行、片やオートマチック走行。

テキトーに、出たとこ勝負で書き進めたわりには、なかなかうまくまとまってくれましたが、
とは言え、一流の、プロの○○ターが、○○ニストと同じくらいストイックに努力しているであろうことはあきらかです。

遅ればせながらの自己紹介

2005年02月20日 | Weblog
ご存知のとおり、このブログは、実用性・生産性・知性といったマックスファクターからだいぶかけ離れた場所に漂っている。
誤解のないように言っておくと、ここに書いてあることを本気で僕がそう思って書いている、わけではない。さすがにそこまで重症ではないし、脳みそもとろけてはいない。

中には「四六時中こんなことを考えて生きているなんて、この人の脳内はさぞかし悪性のウイルスに蝕まれているに違いない。かわいそうに」と、末期のガン患者や飢えに苦しむアフリカの難民に対するような、同情の念を禁じえない読者もいらっしゃるようなのだが、
そして実際、「辛いでしょうけど、頑張って生きてください!」「応援してます!」「ファック・ユー!」「貸した金返せ!」「死んじゃえばいいのに・・・」「手相の勉強してるんですけど、、、」などなど、(伝書鳩を介して)激励の手紙をいただくわけなのですが、
次々と伝書鳩を送りつけられる身としては、ただただ戸惑うばかりであるし、また、ハトの糞が近隣の住民にも多大な迷惑をかけているため、こうして改めて、誤解を防ごう、地球の平和を守ろう、ジョン・マッケンローと写真を撮ろう、といった衝動に駆られ、パソコンの画面に向き合って、キーボードを叩いている次第である。

なにゆえ、役に立たない、ためにならない文章とわかりつつ、虚構に満ちた駄文を書き続けねばならないのか?

たとえば、公民権運動に命を懸けたキング牧師が、ありがたいお話をしたり、ためになるお言葉を発信するのは、あり。全然あり。
それは彼の言葉に行動が、そしてその行動に結果が伴っているからだ。
仮に、テレビばっか見て家でダラダラ過ごしてるキング牧師が、「私には夢がある。いつの日か、黒い子も白い子も一緒に、丘の上でチークダンスを踊るんですよ。」みたいな素晴らしい演説をしても、そんなもんウザイだけであるし、誰の心も動かさない。

「マジな言葉」には、マジな行動と、周りが納得するだけの結果が伴っていなくてはならないし、そうでなければ、「何のアクションも起こさないくせに声高に理想を口にする若者に限って、気が付けばダメなオッサンになってしまっている」というような、実に不毛なパターンに陥らざるをえないのである。
というのも、人間が「マジな言葉」から受け取るものというのは、言葉の意味というよりはむしろ、当人の生き様であったり、覚悟であったり、誠意であったりする。つまり、言葉が発される以前に、行動とその結果が存在しない限り、「マジな言葉」は、説得力も迫力もない、実に空虚なものとならざるをえないのである。

従って、たまにマジなことを書きたくなっちゃう衝動を抑えながら、トイレも我慢しながら、少なくとも当面は、人様に対して何ひとつ積極的な価値を生み出せていない間は、「マジな言葉」を恥ずかしげもなく人前に晒すのはいかがなものだろう、自己満足のマスターベーション的文章を書きたいだけが目的なら、それは果たして人に読ませるべきものなのだろうか、と葛藤せずにはいられないし、
結果、虚構の文章世界に逃げこまざるをえない。
くだらない虚構の世界だから、くだらない人間でも出入り自由なわけで、実に気楽というか、制限がないのである。それが「くだらない文章」でありさえすればいいわけで。

ところがその、「くだらない文章」を真にくだらなく書く、というのがこれ、意外と難しくて、必死さや努力のようなものが伝わったりなんかしたら即アウト、ミスター・ピエロもいいところであるし、かと言って、「マジな言葉」路線に転向するだけの覚悟も実績もない。
そんな中途半端さ、線の細さ、経験不足が否めない僕の好きな食べ物は、コッペパン(つぶあん&マーガリン)に他ならない。

春の新作「蹴りたい背中Yシャツ」

2005年02月14日 | Weblog
就活シーズンということで、リクルートスーツを着た学生を街でよく見かけるようになった。
近年、「スーツは学生を没個性化するから、カジュアルな服装、あなたの好きな服装で面接にいらっしゃってください」というような、甘い言葉をささやいて学生を誘惑、翻弄する企業も増えていると聞きます。
別にスーツだろうとカジュアルな私服だろうと、どっちだって構わないじゃん、と思うわけですが、中には、「スーツ=没個性」「私服=個性」「三角形の面積=底辺×高さ」という、誤った公式を禿げ頭の中にインプットしてしまった、ちょっと痛い大人たちが少なからずいるようです。

仮にスーツが、着る人間の個性を打ち消してしまいやすい服装であったとして、
それでもなお強烈に光り輝く人材を見つけるのが、採用する側の人間の楽しみであり、力の見せどころでもあるのではないか。
もちろん、学生にとって服装選択の幅が広がったのであれば、それは喜ばしいことだが、昨今の風潮は、「私服万歳わっしょいわっしょい」的な、「私服を着ればなんでもわかる、着るぞぉーっ!1、2、3・・・」みたいな、あまりにも短絡的な思考回路に支配されている感が否めません。

「就活=リクルートスーツ」が当たり前だった時代において、「私服」という考え方が先進的、斬新なアイディアだったことは間違いない。
だがしかし、月日は流れ、今やTシャツ姿に執拗にこだわるホリエモンが、ある種の滑稽さを伴って見られてしまう時代である。
「私服=個性」というのは、すでに一昔前の価値観なのであって、いつまでもそんなもんにぶら下がっていては、この国に未来はない。
そこで今回提案したい春の新作がこちら。「蹴りたい背中Yシャツ」だ。

これからの時代は、「没個性的と思われているスーツで、いかに魅せるか」が、非常に重要なポイントとなってくる。
個性的な私服で個性を伝えることよりも、没個性的なスーツで個性を伝えることの方が、より難易度が高いし、企業が求める柔軟な発想力、問題解決能力も、大いに問われる。
そのことは、例えば、美形の異性の容姿を褒めることよりも、不細工な異性の容姿を褒めることの方が、より高度のテクニック、高次の人間性を要することを思い浮かべれば、誰もが容易に理解できるだろう。

面接の場においては、まず「背広の上着を脱いでもよろしいですか?」と、あらかじめお断りする。
当然面接官は、意味がわからない。意味がわからないまま、面接が進む。そして最後の最後、退室するアナタの後ろ姿を見た時ようやく、全てを理解する。
「なるほど、だから彼は背広の上着を脱いだんだね。こりゃ、あの若僧に1本とられたわい。ガハハハハッ」と言わせればあなたの勝ちである。
(もちろん、アニメの主人公じゃあるまいし、実際に面接官がそんなことを口にすることはないだろうが。)

面接空間における自分の見せ方、演出能力の高さ。自虐に徹することのできる器のデカさ。そういったものが、この一枚のYシャツを身につけるだけで、保証されるのだ。
また、『蹴りたい背中』といえばご存知、綿矢りさ氏の芥川賞受賞作品。時事ネタに強いところも、さりげなくアピールできる。(1年前の芥川賞作品であるところが、イヤミっぽくない。)

しかしながら、私が本当にこのYシャツを着てほしいのは、うだつのあがらない全国の中年サラリーメンたちである。
哀愁漂う後ろ姿が、このYシャツによって、喜劇の意味合いを帯び、日本を、日本の未来を、少しずつ明るくしていくのではないか。
何よりも、「ああ、本人たちも自覚してるんだ・・・」ということで、オヤジ狩りなどといった残酷かつ野蛮な行為が、この国から消滅することを願ってやまない。
そして中年リーメンの方々は、オヤジギャグなんて言わなくていいから、黙って、このYシャツを着てほしい。
もう、没個性的なニッポンのサラリーマン、エコノミックアニマルだなんて言わせない。
「蹴りたい背中Yシャツ」が、きっとあなたを、あなたのお父さんを、1ランク上のナイスミドルに変身させるはずだ。

とは言え、机上の空論であまり無責任なことは言えないので、とりあえず、私がパパンのYシャツを全部「蹴りたい背中Yシャツ」にリメイクして、1ヶ月くらい様子を見てみようと思う。

増村保造『卍』を観て大いに笑う

2005年02月09日 | Weblog
以前にも触れた池袋の新文芸座(「映画館における尿意とのせめぎ合い」参照)で、いま、「鬼才 増村保造」と題して、増村保造なる映画監督の作品が上映されている。
没後に特集が組まれるくらいだから、きっと日本映画界に名だたる有名な巨匠なんでしょうけど、サバンナに棲むマサイ族が聖徳太子を知らないように、僕もまた増村保造という映画監督を知る由はなく、まあでも、そんなこと知らなくても楽しく鑑賞できてしまえるのが映画や小説、あるいは音楽やAVの良さなのではないでしょうか。

今回、『卍』という、谷崎潤一郎の小説が原作の映画を観たのですが、原作は読んだことがないっていうか、谷崎潤一郎の小説が原作なんだということ自体、手元にあるパンフレットみたいなのを見て辛うじて、知ったかぶりをしながら皆さんにお伝えしているわけです。

岸田今日子が出てました。
この映画は1964年に公開されたものであるため、当然、スクリーンに映っている岸田今日子は、今日我々が知っている岸田今日子の面影を残しつつも、老いとは何か?若さとは何か?を否応なく訴えかけてきました。
そして何よりも、彼女の演技は、怪演と言うにふさわしいものでした。
この映画のあらすじを大まかに説明しながら、そのことについて言及していきたい。
ちなみに僕は、何かを秩序立てて記憶し、筋書き通りに説明することが非常に苦手、というかその方面においては殆ど不能に近いので、テキトーに記憶しているものに色をつけながら書いていこうと思う旨、あらかじめご了承ください。
また、会話は全て京都弁風に読んでいただければ幸いです。


弁護士の妻である岸田今日子は、有閑マダムのカルチャースクール感覚で通っていたに違いない美術学校において、同じく美術学校の生徒であるひとりの令嬢(若尾文子)と、同性愛の噂を立てられてしまう。
これは周囲の人間による陰謀なのだが、「こうなったら、あえてレズビアンっぷりを見せびらかして、逆に引かせてやりましょうよ」ってなことになって頻繁に遊んでいるうちに、岸田が、若尾文子の絵を描くことになる。
「どうせならリアルに描いてほしいわぁ~」と、部屋の一室で裸になって、岸田を挑発する若尾。
それを見てあっけに取られる岸田。「あんた・・・、あんたのカラダ・・・、綺麗やわぁ~!」「なんで今までこんなにキレイなもん隠してたん!」などと、耳を疑うようなセリフを連発。恍惚とした表情で、取り乱し始める。

シーツできわどい部分を隠す若尾に、迫る岸田。「なんで隠すの!もっと見たいわ!」と、逆ギレし始め、若尾の抵抗空しく、ビリビリビリッと音を立てて破かれるシーツ。
あらわになった若尾のカラダ。神様でも拝むかのような、感激の表情で見惚れる岸田に、今度は若尾が要求し始める。
「私ばっかり裸にさせられて。姉さんの裸も見たいわぁ~」
「いややぁ!恥ずかしい!あたしの裸なんて、みっちゃん(若尾の役名)のと比べたら・・・」
みたいなことを言いながらも、結局脱ぐ岸田。それを見て若尾が発した一言。
「姉さんのカラダも、私のと同じくらい綺麗やない!」
・・・うそーん!あんた、自分のカラダにめちゃくちゃ自信持ってるやない!と心の中でつっこむ僕。(作中に僕は登場しません。)

そんなこんなで恋に落ちた二人。
若尾に夢中の岸田を、岸田の夫はたしなめようとするも、岸田は全く悪びれることなく、2人の関係はエスカレートしていく。完全にシカトされ、バカにされる岸田の夫。
しかし!若尾に男がいることが発覚。遊ばれていたことが分かった岸田は号泣、失望しながら夫にすがりつく。
「一生あたしのこと構ってちょーだいなぁ!」
・・・うそーん!ここで、あまりの変わり身の早さに、客席が沸きました。

その後、若尾の必死の(過剰な)ウソ、演技、言い訳の甲斐あって、岸田は全てを水に流し、再び2人の関係は修復される。
が、そこに、「若尾の男」「岸田の夫」などが、ホリエモンばりに新規参入してきて、もはやちゃんぽん状態。疑惑と嫉妬の嵐が吹き荒れる。
劇中の世界は、なんでもありのカオスと化し、岸田と「若尾の男」が、若尾を争うことなく所有するために姉弟の契りを交わすことになったり、そのためにお互いの血を吸い合ったり。
若尾が「岸田の夫」を誘惑した結果、岸田の夫も若尾の虜になったり。
若尾の虜になった岸田の夫が、岸田に対して、「お前はボクにパッションがないって言うとったけど、ボクにも、パッションがあったんやぁー!」と歓喜の雄叫びをあげたり。

時折セリフの中に不自然に挿入される横文字「パッション」だとか「インポテンツ」だとかが笑いを誘いましたが、中でも「若尾の男」の演技、うさんくさいセールスマンのような過剰さが、個人的にはドツボにはまりました。
そいつが登場する度に、「顔近っ!」などと、つっこみどころ満載で、例えるなら、火曜サスペンス劇場や昼ドラにおける役者の演技を、はるかに超えた次元に存在する過剰さでした。


ストーリーは全編通して、岸田今日子の回想として進んでいきます。
映画としての好き嫌いは別にして、正直、この種の面白さを感じた映画は、近年僕が観た映画の中で、ほかにありません。
でも、果たしてTSUTAYAとかに置いてあるんだろうか。
地元のローカルなレンタルビデオ屋しか利用しない僕には、分かりません。

池袋リブロの光と影・前編

2005年02月08日 | Weblog
僕がよく行く本屋は、池袋のリブロで、時間さえ許せば毎日でも足を運ぶわけなのですが(というのも、自分の家を出てから12分あればたどり着けるため。そして池袋までの定期があるため、コンビニ感覚で通ってるわけなのですが)、
品揃え、本の配置なんかは申し分なく、また万が一、「探してる本がないんですけど!」なんてことになっても、対面にあるジュンク堂に行けばなんとかなる、という立地条件の良さもあって、確実に、4年間で大学に通った日数の10倍は、池袋のリブロに足を運んでいるはずだ。

最近は長居しても2時間ほどだが、かつては、「リブロで半日、HMVで半日」という、なんとも贅沢な(?)一日の過ごし方をして、ひたすらに活字と音楽のシャワーを浴びていた日々もあった。
金はない、でも池袋までの定期と時間はある、そんな宙ぶらりんの状況が、「リブロで半日、HMVで半日」という、修行僧のような生活を支えていたに違いない。
(ちなみに、HMVの視聴機は、あまりにも長い間聴きすぎていると、たぶん途中で止まるようになってます。これは、CDアルバムを丸々1枚聴いてしまおうという輩への警告であると思われるが、なにしろ輩は金を持っていないので、止まった曲番から頭出しして結局最後まで聴いてしまうのである。そう、何度でも、何枚でも。)

今にして思うと、嗚呼、そんな風だからこんな風になってしまったんだなあ、と嘆くしかないわけだが、今日嘆きたいのはそんなことではなく、
リブロに行くと、英検だかTOEICだか知らないが、そういうような能力向上プログラムの案内パンフレットを配ってくる女性(仮称・工作員)たちがいて、それが僕の心をひどく悩ませる、というお話。

池袋リブロにおいて、彼女たち工作員は、3箇所に分かれて布教活動を繰り広げている。
地下1階の旅行書コーナー付近、1階ビジネス書フロアの下りエスカレーター脇、そして最上階、医療・理工・建築関係の本が集うフロアの、下りエスカレーター前である。

書店公認の布教活動であるらしく、3箇所とも、教壇机のようなものが設置されている。
工作員たちは、教壇の中に適宜1人~2人が立ち、通り過ぎる人々に片っ端からパンフを差し出し、「話を聴いてください」という旨を、笑顔で訴えかけてくる。
要は営業ということなのだが、なぜ彼女たちは教壇から出ようとしないのか、あるいは出ちゃいけないのか、っていうかホントにそんなんで客をゲットできるんだろうか、もっと双方にとってより良いやり方があるんではなかろうか、というようなことを、彼女たちの布教活動を目にする度に、思うのである。

なにしろ、毎度毎度、かなり強引にパンフレットが差し出されるため、客たちが迷惑している様がありありと見て取れる。
そんな仕事を一日中、教壇の中に閉じ込められながら、延々と笑顔でこなさねばならない彼女たち工作員の心境を思うと、非常にブルーな気持ちになってしまうのである。

いや仕事なんだからしょうがないっしょ、お金もらってんだから、それが仕事なんだから、という意見はもっともである。その通りである。
苦しいからこそその対価として賃金が支払われるわけで、それに耐えられないならば、辞めてしまえばよい。
しかし、僕たち私たちはターミネーターではなく、人間。
「仕事ですから」と頭で分かってはいても、割り切れない部分というのが確実に存在する。

シカトされ続ければ誰だって凹むだろうし、「嗚呼、あたしたち、なんで一日中、こんな箱の中に閉じ込められながら、笑顔でパンフレット差し出してんだろ。誰にも求められず、誰にも感謝されず。嗚呼、なんかマジむかついてきたなあ。コラそこのハゲ、テメェなにシカトしてんだよぉ。目ぇくらい合わさんかいボケェ。・・・どついたる。絶対いつか、どついたる。殺す殺す殺す殺す殺す殺す・・・ブツブツブツ」みたいな、邪悪な負の感情が、彼女たちの頭の中で蓄積されていないと、誰が言い切れよう。

それでも彼女たちは、笑顔を絶やさない。だって、仕事だから。
そんな彼女たちの笑顔が、チキンハーツな僕は、怖くて怖くてたまらんのです。

池袋リブロの光と影・後編

2005年02月08日 | Weblog
怖くて怖くてたまらないチキンハーツな僕は、工作員たちの縄張りに近付かない、という方法によって、この困難を乗り越えました。
行く度ごとに、どんなリアクションで彼女たちの「恐怖!スマイリー包囲網」を突破すべきか、傷つき、傷つけ合わないために、何をすべきだろうか、そんなことを考えて(勝手に)神経をすり減らすのは、M山と呼ばれるくらいMな僕、生え際が後退してM字型な僕にとっても、ちょっとキツイ。

幸い、布教活動エリア①「地下1階の旅行書コーナー付近」は、もともとあまり寄り付かないスペースだった。
布教活動エリア②「1階ビジネス書フロアの下りエスカレーター脇」は、遠回りさえすれば、工作員たちの教壇の前を通らないで済む。
プレッシャーや心労を回避できるのであれば、わたし、いくらでも遠回りします。
とにかく、書店で過ごす至福の時間を邪魔されたくないのであります。

しかし!布教活動エリア③「最上階、医療・理工・建築関係の本が集うフロアの、下りエスカレーター前」が、鬼門だった。
普段はあまり寄り付かない最上階のこのエリアに、建築関係の書物を物色し行ったときの話である。
さあ帰ろう、と思って下りエスカレーターに向かおうとした僕の目に、信じたくない光景が飛び込んできた。
なんと!教壇の前を通らない限り、エスカレーターに乗れないような、そんな暴力的なポジショニングにおいて、布教活動が繰り広げられていたのである!

客にも、工作員の女性にも、もはや逃げ道は存在しない。
砂漠の心と般若の笑顔でもって仕事に徹する工作員に、客は真正面から対峙せねばならないのである。
そこには、曖昧でいい加減な状態を良しとする、日本古来の「ええじゃないか」精神は、微塵も存在しなかった。
いったい誰が!誰が得をするというのか!誰がこのような、非人道的なやり方を提案したというのか!ヤンキーゴーホーム!

こうなっては仕方がない。
善人ぶってても埒があかないので、視線を合わせず、ポーカーフェイスでお断り、笑顔の工作員をシカトするしかない。
何一つ、悪いことはやっていない。なのに、なんでこんなに、後味が悪いんだろう。

もうちょっと、やってる方もやられる方も、楽しい気持ち、フランクな気持ちで、さばさばと接することのできるやり方はないのだろうか。
野球拳で、負けたら話を聴く、みたいな。(書店で野球拳て!)
きっと、工作員たちの背後にいる偉い人は、人間の良心や同情を見越して、あえて工作員たちを「かわいそうな」状況に落とし込んでいるんだろうなあ。それとも、そんなことすら考えていないんじゃなかろうか。とりあえず配置しとけばいいや、ですか。利潤追求だけが目標ですか。資本主義社会ですか。人間の心はどこですか?嗚呼、発想が貧しい、嘆かわしい、小便漏れそう。
なんてことを思えば思うほどに、現場にいる工作員たちへの、理想的なリアクションの取り方が、わからなくなってくるのである。

要は、僕自身が邪魔されたくない、心を乱されたくないだけなのだが、
とりあえず今のところは、切腹間際のサムライのような悲壮感を漂わせながら、口を真一文字に結んで、拒絶の意味でちょこんと頭を下げ、通り過ぎる、という「サムライ・スタイル」を採用しています。
工作員は、なんでこの人はこんなに悲しい顔をしているんだろう、何か悲しいことでもあったんだろうか、ということに気を取られているうちに、拒否られたことを忘れ、この不幸そうな人に比べたら・・・、とポジティブな気持ちにさえなるはずだ、というのが、サムライ・スタイルの目論見であります。
が、実際には、「うわっ、なんだコイツ。キモッ!」くらいにしか思われていないはずです。

それでいいんです。いや、それがいいんです。
つまり、ただでさえストレスと隣り合わせの職務に負われている工作員に、必要以上のダメージや刺激、心労を与えない(で済んだと僕が勘違いする)ことこそが、僕の心の平穏、書店での楽しい時間を保ってくれるわけですから。

今後とも、「サムライ・スタイル」に安住することなく、常に新しいスタイル、最善のかわし方を追求し続けていかねばなりません。
例えば、先手を打ってこちらから催眠術をかけ、工作員が眠っている間に教壇の前を通り過ぎる、「ユリゲラー・スタイル」
生気を感じさせない屍のような表情で、「ああ、コイツに必要なのは英語力なんかじゃない。明日への希望と、パンと水だ」という風に、声をかけるのをあきらめさせる、「屍スタイル」
教壇の前を通り過ぎる直前に下半身を丸出しにして、相手の動きを封じる「ノーパン・スタイル」
肉を投げて、工作員が肉に気を取られている間にダッシュで駆け抜ける、「泥棒対番犬・スタイル」
死んだフリをしてやりすごす、「熊殺しスタイル」
そういった様々の方法を実験的に取り入れることによって、我々人類は、地球と人に優しい暮らしを手に入れることができる。そう確信して止まないのです。

バイブル発見!『正しい保健体育』みうらじゅん

2005年02月07日 | Weblog
男性諸君は、この本を書店で見かけたら即購入することを、強く強くオススメします。
本屋で一人で立ち読みするにはあまりにも危険な一冊。
電車の中、授業中、彼女とのデートの最中や、お葬式の直前などに読むのも控えた方がよいでしょう。
この本を読んで笑えない男は、人間的にインポテンツである。
かと言って、抱腹絶倒しちゃうような男は、変態である。
あなたはインポか変態か、その答えがここに!

「ラーメンの達人」への道・試作編

2005年02月03日 | Weblog
ようやく「麺の達人」を発見しました。
残念ながらカップ麺ではなく、鍋で調理する袋入りのタイプしか見つかりませんでしたが、
我慢できずに食べてしまった「スープの達人」も再度買いなおし、ようやく「ラーメンの達人」試作・試食実験の準備が整いました。

今回用いたのは、「麺の達人 しょうゆ味」と、「スープの達人 にごり豚骨醤油」の2製品。
麺とスープ、達人同士の夢のコラボレーションが、遂に実現しました。

スーパーで買い物をしながら、そして台所で調理をしながら、「本当にこんなことやってていいんだろうか?僕の将来、一体どうなってしまうんだろうか?」と、就活中の学生並みに漠然とした不安を抱いてしまったことは、ここだけの秘密です。

「ラーメンの達人」への道・試食編

2005年02月03日 | Weblog
はい、そんなわけで出来上がった「ラーメンの達人」がコチラです。
達人の麺と、にごり豚骨醤油のまろやかなスープが、絶妙のバランスで奏でるハーモニーは、皆無でした。
えぇ、見た目どおり、全く美味しくありませんでした。
ある程度の予測はしていたにも関わらず、それでもなおかつ引いてしまうくらい、微妙なお味でした。

そもそも、「スープの達人」のスープは、そんなに美味しくない。
これは、早まって「スープの達人」を食べちゃったときに、すでに気付いていましたが、「試作・試食実験をやります」なんて宣言しちゃった手前、なかなか言い出せずに今日に至りました。

で、「麺の達人」の麺も、なんか妙な食感で、
どうにもこうにもコメントしづらい、そんなラーメンが出来上がってしまいました。
とても「ラーメンの達人」なんていう代物ではない。
「ラーメン愛好家」レベルの代物でした。

「麺の達人」に関しては、麺とスープ合わせて食べたことがないので、なんとも言えませんが、
「スープの達人」に関しては、「達人の称号を剥奪されて、グーで殴られても文句言えないよ、キミ?大人をからかうと痛い目に遭うよ?」っていう、残念なお味でした。

こうして、「ラーメンの達人」試作・試食実験は、失敗したかに思われました。