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熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

現在不定期かつ突発的更新中。基本はSFの読書感想など。

ハーラン・エリスン「鞭打たれた犬たちのうめき」と『短編ミステリの二百年』の批評について

2022年04月29日 | SF
非ミステリ作品ながら、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)が選ぶ最優秀作品(エドガー賞)の短編部門を受賞した「リガの森では、けものはひときわ荒々しい」が雑誌に掲載されたのが1970年のこと。
その3年後に非ミステリとして書き下ろしアンソロジーに掲載され、同賞を受賞したのがハーラン・エリスン「鞭打たれた犬たちのうめき」である。

初出はトマス・M・ディッシュ編のBad Moon Rising、副題はAn Anthology of Political Forebodings(政治的予兆についてのアンソロジー)。
収録作にスラデック「メキシコの万里の長城」ウィルヘルム「掃討の村」そしてディッシュの「後期ローマ帝国の日々」が入っていることでもわかるとおり、れっきとしたSFアンソロジーである。
これに収録された作品がMWA短編賞を受賞するというのが驚きだが、『短編ミステリの二百年』の編者である小森収氏はエリスンがお気に召さないらしく、第5巻の評論部分でわざわざエリスンに1章を割きつつもそのほとんどをエリスン作品の批判にあてるという、まるでいやがらせのような仕儀に及んでいる。
これまた小森氏が低く見ている「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」の描写に倣うなら、その言葉のひとつひとつから憎悪が滴ってくるようだ。

ここで小森氏による「鞭打たれた犬たちのうめき」評について、その一部を引用してみよう。

「十代の私が、なぜ、こういう結末になるのだろうと、訝しく思ったことは確かで、今回読み返しても、結末は釈然としません。」
「共同幻想としても、それなら、なぜ、それがメンバーの安心と安全を保障するのかが分からない。本当に超越的な何かがあるのなら、ずいぶん安易で都合のいい超越者ではないでしょうか?」
「それに、冒頭の殺人を見守る人々の心の中が一様だと言われて、はいそうですかと納得するほど、もう子どもでは、私もありませんからね。」

最後の一文などはそれこそ子どもじみた言いがかりでしかないし、それなら小森氏は子どもよりもエリスンが読めていない。
今回この感想を書くにあたって読み直してみたが、特に引っかかるところもなくするする読めた。エリスンの作品ではむしろわかりやすいほうだろう。
もし釈然としないのであれば、それは小森氏が自分の視点に固執するあまり作品を理解する気がないからだ。

さて、まず基本に立ち返って考えてもらいたい。「鞭打たれた犬たちのうめき」の初出はミステリの媒体ではなく、SFアンソロジーである。だからミステリの約束事において非現実的な結末や超越的な存在が否定されたとしても、もともとSFあるいはファンタジーとして書かれた本作においては何の瑕疵にもならない。
少なくとも本作がミステリの賞を獲得したのはエリスンのせいではないし、受賞について難癖をつけるなら選考したMWAに言うべきだ。エドガー賞はファン投票ではなく、ミステリに通じた選考委員によって選ばれるのだから。

むしろ本作をミステリの俎上に載せて論じるなら、なぜこの一編がミステリとして評価され、エドガー賞を受賞したのかという視点で分析するべきだろう。それができないならミステリとしての優劣を語る見識がないわけで、薄っぺらくて偏った文章を連ねるよりはむしろ黙して語るべきではない。

筋の悪い評論がどうであれ、「鞭打たれた犬たちのうめき」はエリスンの数ある傑作を読んできた読者にとって十分に納得のいくものである。
むしろ邦訳がミステリマガジンに載ったこと、最初の書籍化がMWA賞アンソロジーへの収録だったためSFファンの多くが見逃したまま幻の作品になったことのほうがよほど問題視すべきだろう。
それだけにハヤカワSF文庫『死の鳥』への収録によって容易に読めるようになったことは喜ぶべきことだ。

本編冒頭でヒロインが目にする婦女暴行殺人は実際に衆人環視の中で女性デザイナーが暴行・殺害されたキティ・ジェノヴィーズ事件を思わせるが、この事件が起きたのは1964年3月のことなので、時事的な話題として取り上げたとは思えない。むしろ事件に関して1968年に心理学的実験が行われ、その結果から「傍観者効果」という言葉が広まったことを踏まえれば、エリスンの念頭にあったのはこの「傍観者効果」であったとも考えられる。

だが怒れる男エリスンはこの「目撃者に罪はない」という生ぬるい結論に納得できなかったのだろう。ゆえに都会を舞台にしたダーク・ファンタジーとして事件を再構成し、その中で目撃者の罪を暴いてみせたとも読める。

作中に肛門性交が出てくるが、これはアメリカにおけるソドミー法とその語源である『創世記』の堕落した都市の名を連想させるものだ。舞台となるニューヨークは現代のソドムであり、そこに暮らす住民もまた堕落していることを示す象徴である。
しかし現代のソドムは神によって滅びるどころかますます繫栄していることを考えれば、その民が崇める神もまたかつてとは真逆の存在であるはずだ。

つまり「鞭打たれた犬たちのうめき」は堕落した街とそれを支配する神、そして信徒としての都市住民についての物語であり、都市神の姿を見た(と信じる)ヒロインは街の規範に触れ、それを受け入れることでようやく「安心して眠れるようになる」のである。これは一種の都市小説であり、荒んだ都市社会における現代的な信仰の物語でもあるのだ。
エリスンは都市全体を巨大なカルトに見立て、そこに新たな神を据えることによって都市生活者の心理をあぶりだすと共に、その魂に根ざす悪のかたちを具現化させてみせた。

MWAの選考委員が本作に賞を与えたのも、それこそアメリカの直面している現実的な問題であると認識していたからではないのか。また都市あるいはその住民たちこそ殺人の真犯人であると見なせば、本作は確かにミステリとしても読むことができる。そこまで作品を読み込んで賞を与えたのなら、MWAの慧眼恐るべしである。

ではヒロインが見た神は本物か、それとも幻想なのだろうか?それは作中の力学においてはどちらであれ問題とはならない。
ヒロインは確かに神の奇跡を目の当たりにし、その姿を見たことにより安心して眠れるようになったのだ。そこに真偽を語る余地はない。繰り返すが、これは信仰の問題なのである。
またエリスンには偽りの神、狂った神についての物語も多い。彼は神を正しいとも慈悲深いとも思っていないこと、そして信仰とは一種の狂気でもあることを忘れてはならない。

ここで本作の核心を成す重要な一文を示しておく。
「崇拝者を欲し、生贄としての死か、さもなくば選ばれた他の生贄の死に立ちあう永遠の証人としての生か、その二者択一をせまる神。この時代にふさわしい神、都会とそこに生きる人びとの神。」
そこに在るのは「安易で都合のいい超越者」ではなく、都市に生きる者すべてを信者であり生贄として求める残酷な神である。そして新たな神を信じれば自らが生贄に選ばれるときまで心安らかであり、生贄に選ばれることもまた喜びとなるだろう。それが狂信における救済のかたちである。

エリスンが繰り返し神と信仰について書いてきたことを思えば、実際の事件と社会の動向を元にこの問題を取り上げることもまた極めて自然なことだ。彼の作品からそうした要素を読み取れないのであれば、それは彼の書いた作品と真っ向から向き合っているとは言えない。少なくともエリスンを語るには見えていないもの、足りないものが多すぎるということだろう。

最後に小森氏の偏った見方を示すものとして、エリスンについて書かれた章の末尾に置かれた文章から引用する。
エリスンの「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」や「プリティー・マギー・マネーアイズ」、そしてベスターに見られるタイポグラフィック的な表現について小森氏は「いかに腐りやすいことか」と一蹴した挙句、「アルジャーノンに花束を」の日本語訳との比較についてこう述べる。

「漢字かな交じりという特徴の持つタイポグラフィックな効果―字面そのものからチャーリイの変化が見て取れる―の前には、ベスターやエリスンの工夫は、単に本質をはずれた技巧の末路を示しているだけにしか見えません。」

言語表現の形式自体が異なる英語作品に対し、「漢字かな交じり」が使える日本語への優越感さえ臭わせるこの文章のいやらしさ。
そもそも日本語はひらがなだけで48文字、漢字に至っては小学校で学ぶだけでも1000字を超えるうえに促音 · ‎撥音 · ‎拗音 · ‎長音なども存在するので、文字による表現については基本的にアルファベット24文字しかない英文よりも格段に表現の幅が広くて当然だ。
そうした事情も一顧だにせず、アルファベットの持つ制限から抜け出すために様々な工夫を試みた作家の試みを嘲笑するような態度はさすがに見過ごせない。

言語の性質の違いを優位性とはき違えた上、それに寄りかかって他言語の書き手を貶めるような物言いは批評家を名乗る立場として恥ずべき行為だろう。

樋口恭介編『異常論文』(ハヤカワ文庫JA1500)感想

2021年11月07日 | SF
樋口恭介編『異常論文』(ハヤカワ文庫JA1500)を読んだ。

22人の作家による22の異常論文はガチガチに硬いものから、くたりと柔らかいものまで各人各様。
それぞれに個性が感じられるが、SFマガジン特集時は若い書き手の意気込みと緊張感を感じる作品が並んだ印象があるのに比べると、書籍版で参加したベテランたちの書きぶりには手練の技巧とゆとりが感じられ、編者の狙いどおりか期せずしてかはともかく緩急のある配列になったと思う。

巻末で神林長平も触れている通り、これらは「論文の形をとった小説」である。ただし編者の樋口恭介が巻頭言で示したように、これらはなんらかの「事実」を記述するうえで「論文」になった、あるいはならざるを得なかった言語の群れであるともいえよう。
その「事実」は必ずしも我々の認識する「現実」でなくていいし、それらは「論文」という形で「現実」に対する読者の認識を書き換え、あるいは認識される「現実」そのものを書き換えようとする。
その意図や使命を明示的な前提としたことにより、異常論文という形式はSFの持つ現実変容の側面を非常に強く浮き上がらせ、我々の精神に強烈な揺さぶりをかける。
思弁小説とは言語による思考実験であると考えれば、異常論文はスペキュレイティヴ・フィクションの核心をまるごと取り出して凝縮したものであろう。
その凝縮性ゆえに読むのが億劫だったり、時に疲れを覚える面もあるが、いまここにはないが確かに存在している複数の「事実」を、22編という量的にも手ごたえのある分量で読めるのは実に喜ばしい。

収録作すべてが力作でハズレなしと言ってよいが、ここでは書籍初収録作品についていくつか挙げておく。

円城塔「決定論的自由意志利用改変攻撃について」
タイトルからして矛盾しているような、人を食ったスタイルはこの人ならでは。
固有名詞と数式が飛び交う内容は概ね理解できる範疇ではないが、その異常さを前置きとして最後にポンと提示される普遍的な解にはあんぐりと口を開けてしまう。
そのギャップこそが円城マジックではないだろうか。

松崎有理「掃除と掃除用具の人類史」
異常論文の名手による新たなる異常論文の傑作が誕生した。
ホラ話か冗談のような内容を宇宙規模にまで広げて一筋の光として語り継ぐ手腕はSFならではの笑いと感動を読者に届けてくれる。
先達としてラファティの業績を作中に盛り込む手際も見事、これぞ異常論文の面目躍如。同時期刊行のラファティ・ベスト・コレクション(特に12月刊行の『ファニー・フィンガーズ』)も併せて読まれたい。

飛浩隆「第一四五九五期〈異常SF創作講座〉最終課題講評」
実際にゲンロンのSF創作講座で作家の卵たちに指導を行ってきた作者による、存在しない作家による存在しない作品の講評たち。
しかしその講評の基盤には存在しない事象があり、これを引くことによって現実と虚構が相互に創造と批評を織りなしていく。
揺らぐ現実を書くには創作の形式もまた揺らいでいかざるを得ない、そんな状況が飛浩隆ならではの華麗で異様なヴィジョンによって魅惑的に披露されていく。
語りと騙りの芸術的な融合がここにある。

酉島伝法「四海文書注解抄」
文字と言葉を絵画のように、あるいは音楽のように語らせたら右に出る者のない名手による、言葉によるスクラップブック。
しかもそれを編纂しているのは明らかに我々の想像する人類ではない。
既知の概念に外からの補則が付されるという入れ子構造が読者をさらに幻惑する。
しかし酉島作品から『ガンヘッド』の名前が飛び出すとは思わなかった。

伴名練「解説-最後のレナディアン語通訳」
ホラー作家でありSF批評家、名アンソロジーの編者としても名高い作者が、自らの仕事を振り返りつつ書いたであろう作品。
形式こそ架空の言語にまつわる作品群とその言葉についての辞書をめぐる解説文だが、創作言語について直接語られる部分はほとんどない。
むしろ物語が人の思考と人生にどんな影響を与えるか、そして物語について論じ批評することがさらに別の物語を、そして別の現実を生み出すかという問題について極めて自覚的に書かれた本作は、伴名練という作家についてのサブテキストとして読むことも可能だろう。
作中で続々と繰り出される実在のSF作品にもニヤリとさせられる。

ケイト・ウィルヘルム『鳥の歌いまは絶え』

2020年06月04日 | SF
ケイト・ウィルヘルムは1960年代から70年代のアメリカSFにおいて頭角をあらわした作家たちの中でも、
特に重要な位置を占めるひとりである。
近年では心理サスペンスの名手として本邦でも再び注目を集めつつあり、『街角の書店』と『夜の夢見の川』
(いずれも創元SF文庫)に収録された「遭遇」と「銀の猟犬」はその巧みな語りを存分に発揮した傑作だ。
そんなウィルヘルムが今から44年前に上梓した『鳥の歌いまは絶え』は、SF作家としての著者を代表する作品である。
かつてサンリオSF文庫の1冊として邦訳され、酒匂真理子氏の優れた訳文とあわせて高く評価された本書が創元SF文庫で
38年ぶりに復刊されたことを喜びたい。

アメリカの肥沃な谷に根付いた富裕な一族。その中でも特に有力なサムナー家の青年デイヴィットは、
ある日の親族会議で重大な秘密を明かされる。
近年の環境破壊と大気中の放射能増加、コレラやインフルエンザの蔓延、そして動物の不妊が進行したことにより、
数年のうちにすべての生物は絶滅するというのだ。
一族は資産を投じて物資、そして技術をかき集めて谷に病院と研究施設を築き、これに対抗しようとする。
研究のひとつはクローンによる動物の複製であったが、その裏には不妊となった人類をクローン技術で生き延びさせる狙いがあった。
研究に参加したデイヴィットはついに人間のクローンを完成。成長したクローンたちは一卵性双生児に特有の弱いテレパシーを発現させ、
同種の個体間で精神によるネットワークを形成する一方で、テレパシーのない旧人類を疎外するようになる。
無個性なクローンたちを恐れたデイヴィッドは動力源である発電所の破壊を試みるが失敗し、谷から追放されて森へと去る。

時が経ち、谷にはほぼクローンだけで運営される安定した社会が確立するが、クローン族は兄弟姉妹によるテレパシーの圏外に出ると
精神の均衡を失う弱点があった。
谷の外へ探索と物資調達に出たグループはテレパシーのきずなを失って精神を病むが、優れた画家であり写真的記憶力を持つモリーは
そこから回復し、自我を育てていく。
しかし谷に帰還した彼女はコミュニティにとって異質な存在、精神的なつながりを失って理解できない存在となった異常者であった。
孤立したモリーは探検行を共にしたベンと密かに関係を持ち、自然分娩でマークと名付けた少年を生み育てる。
それは森を恐れるクローンには不可能な、自然の中で生きていく術と個性を養うものだった。
これがクローン族に発覚し、モリーは捕らえられて受胎能力を持つ女性を集めた繁殖所に送られ、薬漬けで人工授精の実験対象とされる。
繁殖所で誕生した子供たちはコミュニティの外で、テレパシーを持たない単純労働者として使役されるのだ。
やがて脱走したモリーは息子と再会し、最後の教えを授けた後に川のささやきに導かれて姿を消した。

成長したマークはテレパシーの欠如に加えてその個性と想像力がクローン社会の安定を乱す
異端者として恐れられる一方、谷の外を探索する力を備えた逞しい青年となっていく。
しかしクローン族の指導者たちはマークの追放をもくろみ、谷には氷河が迫りつつあった。
マークとクローン族、それぞれにとって選択のときが来ようとしている。

破滅テーマ、ミュータント、ディストピアとSFの伝統的なテーマを意図的に結合させつつ、
普遍性のある物語を構築したウィルヘルムの筆力は抜群である。
クローン族はヴォクトの『スラン』に代表されるテレパシーを有する優秀な新人類を思わせるが、
それで全てがうまくいくわけではないというアンチテーゼも込められた存在だろう。
さらにかつてアメリカのSFファンダムでFans are Slans(ファンはスランだ)というスローガンが流行したと聞けば、
ウィルヘルムの視線はSFファンの閉鎖性と歪んだ優越感にまで向けられていたと思いたくなる。

本書が出版されたのは1976年。その前年にはベトナム戦争が終結し、ヒッピー文化やフラワーパワーは終焉を迎えつつあった。
そんな時代を当事者の一人が記録したとも読める作品が、1975年に刊行されたディレイニーの『ダールグレン』である。
当時まだ33歳のディレイニーと違い、ウィルヘルムは既に40代半ば。自ずと世の中の見方も違っただろう。
これを意識しながら両方を読み比べてみても楽しそうである。
またこの時期に前後してヴァーリイやマーティンもコミューンとテレパシーを扱った代表作を発表しているのは、
当時のSFを取り巻く状況を象徴するものだと思う。

しかし時代性とは関係なく、『鳥の歌いまは絶え』はいま読んでも大変に面白い。
クローン技術がまだ現実に追いつかれていないというアドバンテージもあるだろうが、環境破壊、パンデミック、
そして人口減少という事態に直面した21世紀に本作を読むと、むしろ物語の背景がより身近に感じられる。

またフィーリングの合う相手を仲間を認定する一方、そこからはみ出したり対立する存在は組織の敵という理屈で
徹底的に排除しようとする閉塞感は、現代においても全く同じである。
さらにネット空間では随所にコミューンが形成され、時に現実にまで侵入して対立を繰り返している始末。
テレパシーという設定を用いて同質性の高い社会を描き、意識せずに高まっていく差別や排斥という感情を
鋭くえぐってみせたウィルヘルムの筆さばきは、今もなお力を失っていない。
そして無駄のない引き締まった文章はドライでありながら、男女の禁じられた愛や引き裂かれた親子の愛を
抒情たっぷりに描き出す。本作の根底にあるのは常に愛なのだ。

なお、ウィルヘルムは本作から3年後にもうひとつの代表作『杜松の時』を発表した。
こちらもサンリオSF文庫で刊行された後は長らく絶版のまま。復刊を強く望む。

ケイト・ウィルヘルム「遭遇」(『街角の書店 18の奇妙な物語』収録)

2015年09月14日 | SF
創元SF文庫で数々の傑作SFアンソロジーを編んできた中村融氏が、幻想文学寄りの名品選
『街角の書店 18の奇妙な物語』を刊行した。
雑誌の対談で「SFは広義の幻想文学に含まれる」という趣旨の発言もある中村氏だけに、
今回のアンソロジーは満を持しての刊行であり、読みごたえのある作品が揃っている。

なお、今回の選定基準は「奇妙な味」と「ブラックユーモア」ということで、濃淡はあれど
全体的にひと癖もふた癖もある異色作が揃った。
ただしこの手の作品で重視されがちな軽妙な語り口やインパクトの強さを売りにするのではなく、
むしろ情景や心情のこってりした描写やねじれた発想の広げ方などを楽しむ作品が集められた、
いわば技巧派ぞろいのアンソロジーといえるだろう。

そんな収録作のうちでもひときわずば抜けたテクニックを見せつけた作品が、いまや女性SF作家における
グランドマスターであり、心理サスペンスの名手とうたわれるケイト・ウィルヘルムの「遭遇」である。

猛吹雪の夜、アメリカの田舎町にある停車場に長距離バスが到着する。
ここを経由しての乗り継ぎバスは翌朝まで到着せず、乗員とほとんどの乗客は近くの食堂へと
避難していったが、セールスマンの男とイラストレーターの女だけが停車場の待合室に残った。
男は女をどこかで見たことがあると思うが、特徴のない顔だちは記憶にないものだ。
閉ざされた室内で自分が扱う保険証券を眺めながら、男はスキー場に置き去りにしてきた妻を思い出す。
妻は夫の内にある二面性をなじり、夫は妻の不貞を疑っていた。
やがて雪はさらに激しく降り、暖房は不調のきざしを見せる。二人は協力して暖房機の調子を保とうとするが、
まるで心のうちを見透かすような女の言動は男の心を徐々に蝕み、閉ざされた室内の緊張は高まっていく。
その緊張が頂点に達したとき、男の、あるいは女の身に何が起こったのか。

多くの人は一読しただけでは何が起きているのかほとんどわからず、ひたすら高まっていく緊張感と
居心地の悪さに圧倒されてしまうだろう。
その筆さばきだけでも名手の名に値するものだが、ウィルヘルムの真骨頂は編者の紹介文にあるとおり
「理知的」という点にあると思う。
これを手がかりに最初からじっくり読んでいくと、情景描写や登場人物の服装、そしてそれぞれの
行動ひとつひとつに対して、隠された意味が与えられていることに気づかされる。

たとえば男の仕事や服装が女とどう対応し、何を連想させるか、男と女、そして男の妻との関係は
どのようなものか、そしてなぜ乗り継ぎ駅で二人は出会ったのか。
また、窓の外に見える灯りやドアから吹き込む雪にさえ、何らかの意図が隠されているのではないか。
さらに言うなら、この停車場はどのような構造であり、見取り図はどうなっているのかという点だ。

巧みな筆致を堪能しながら細部にまで目を凝らしたとき、なかったはずの物語がいくつも浮かんでくる。
もちろんその物語が真実であるという保証はないが、読者が探せば探すほどに新たな手がかりが見つかり、
答えは少しずつ絞り込まれていく。
見事なサイコホラーにして絶妙な心理サスペンス、そして巧妙な推理小説とも読める解釈の多様性は、
ウィルヘルムの伴侶であるデーモン・ナイトが見出したジーン・ウルフの作品にも通じるものだろう。
なお参考までに触れておくと、「遭遇」が初掲載されたOrbit8には、ジーン・ウルフの短編「ソーニャと
クレーン・ヴェッスルマンとキティー」も収録されていた。

さて、この作品を極めてSF的に解釈する場合、タイトルで真っ先に連想するのは異星人との遭遇だろう。
しかし『未知との遭遇』の公開年は1977年で「遭遇」の発表年は1970年であり、この読みはやや厳しい。
むしろ密室に閉じ込められたという設定を重視して、かつ今の流行に沿ったものをひとつ挙げるとすれば、
やはり○○○○○が一番ありそうに思える。(いちおう伏せ字)
これはさすがに先進的すぎるという声もありそうだが、そもそもこの作品が発表された2年後の
Orbit10には、あの多様な解釈で知られる傑作「ケルベロス第5の首」が掲載されているのである。

その「ケルベロス第5の首」でも著者名がほのめかされた人物であり、ウルフにとって「もう一人の親」
ともいえるウィルヘルムの「遭遇」こそ、未来の傑作への先触れにして産婆役だったのかもしれない。
信用できない語り手を扱った短編としても一級品なので、一読をおすすめする。

奇才の知られざる顔 R・A・ラファティ『翼の贈りもの』

2013年05月15日 | SF
このところ続けて新刊が出ているラファティだが、これは青心社が出版した2冊目のラファティ短編集。
さらにつけくわえるなら、新たなスタートを切った青心社SFシリーズが復刻以外に初めて出した本が、
この『翼の贈りもの』である。
さらにこの次に出たのが、ラファティの長編『蛇の卵』なので、極論するとこのシリーズの宿命は
「新たにラファティを出版し続ける」ことではないかとも思えるほど。
いっそこのままラファティだけ出版し続けるという快挙を期待したいが、さすがにそれは高望みか。

作品セレクトは青心社のラファティ翻訳を一手に手がける、井上央氏によるもの。
浅倉久志氏や伊藤典夫氏の紹介作は独特の軽みと屈託のなさが身上で、そこには陰惨な事件すらも
「陽光の下であっけなくおこなわれるような」ある種の不条理さと明朗快活さが感じられるのだが、
それらに比べると井上氏の選んだ作品にはどことなく翳りや繊細さ、そして宗教的色彩が感じられて、
読後感にもずしりとくるものがある。

読後にあとを引く重さは『子供たちの午後』とも共通するが、読み応えは『翼の贈りもの』のほうが上。
ほろ苦さの中に心地よい重量感やしっとりした余韻があり、作品の深みもぐっと増したように思える。
それでいて、従来からのラファティの持ち味である「飄々とした語り口」や「アクロバチックな論理」は
決して損なわれていない。

笑顔こそ控えめになったかもしれないが、ラファティの小説が見せる表情は以前にも増して豊かになった。
いわば同じ顔を違う角度から見ることによって、その風貌に新たな魅力が加わったというべきか。


以下に各編の感想を記す。


「だれかがくれた翼の贈りもの」
タイトルからもそれとなくわかるとおり、進化論と天使の存在を結びつけた物語。
ただし宗教くささは薄く、人間の進化した先に至るであろう天使的な姿が示されると共に、
そこに辿り着く前の過渡的な存在の姿が描かれる。

ラファティが繰り返し取り上げてきたテーマとして「現人類vs超人類」という構図が挙げられるが、
ここでは翼のある若者たちが「未完の超人類=輝くかたわもの」として、生存と社会への適応と引き換えに
巨大な翼を切断され、空を飛ぶ力と豊かな才能を奪われて現人類の一員(しかも傷を負った短命な存在)へと
貶められてしまう。
このモチーフにキリストや預言者たちの受難劇を見立てることもできそうだが、あえてそれにはこだわらず、
若者ならではの「喪失の物語」と読むほうが素直に読めるだろう。

アイデアそのものは「天使>ヘルズ・エンジェルス>奇矯な若者文化」という連想から来ていると思うが、
それをこんなに叙情的かつスケールの大きな話に仕立てたところに、身近な話を一気に飛躍させてしまう
ラファティならではの妙味がある。

「最後の天文学者」
やはり喪失の物語だが、こちらは自分の信じていた宇宙観が崩れ去り、もはや探求するものさえ失って
死を待つばかりの天文学者が主役の話。
科学そのものが誤っているという設定はラファティの得意な領分だが、今回は滅びる側に寄り添う形で、
ひとつの学問とその学徒が失われるさまを、皮肉交じりの哀調で描く。
天文学者がその身を埋める火星の風俗と、そこに住む火星人たちの奇妙な死生観がいい。
特に主人公が生きながら葬られ、眼に埋め込まれた星の花が根付いていく様子は幻想的で美しく、
一種の変身譚とも読める。

「なつかしきゴールデンゲイト」
酒場という世界の縮図をめぐって、善と悪が対決する物語。
しかし善玉は一方的な思い込み、悪玉は優れた役者であり、何が本物なのかがわからない。
そして両者の立ち位置とは無関係に時代は移り、双方とも居場所を失って店を代える仕儀となる。
すなわち善と悪とは切り離せない関係であり、一種の共依存なのかもしれない。
酒場独特のアットホームさの中で渦巻く人間関係と、最後に迎える滑稽だがほろ苦い結末に、
時間の平等さと呵責のなさを感じる。

「雨降る日のハリカルナッソス」
ソクラテスが現代に生きているという奇譚が、なぜか雨降る港町のだらだらした日常描写として語られる。
そのミスマッチと定型化したギャグの繰り返しが、なんともコミカルな一篇。
深遠な哲学者が人を食った言動で周囲を翻弄するところは、まるでラファティの話芸そのものだ。
オチはとってつけたように簡素なものだが、そこに大した意味はないだろう。
これこそ「呼吸するような自然さで」ラファティを読むための一篇だと思う。

「片目のマネシツグミ」
ラファティ進化論のひとつの到達点を示す作品。
ひとつの極小世界を弾丸として発射し、極小存在の極小時間において急激な進化を促そうとする実験が、
結果的に弾丸を発射した科学者とその世界さえも書き換えてしまう。
いわばラファティ版「フェッセンデンの宇宙」であり、理論面さえ気にしなければイーガンの作品にも
どこか通じる部分があると思う。
発端と結末が因果関係で結ばれてしまう話は他にも収録されており、ラファティの作風を特徴付ける
ひとつの傾向と見ることもできそうだ。

「ケイシィ・マシン」
死者すら含む他人の意識を共有することで、この世に存在したあらゆる快楽と背徳を体験できる
奇跡のマシンを作った人々がいた。
さて、そのマシンは製作者と世界に何をもたらし、そしてどこへ消えてしまったのだろうか?

明らかに宗教的な意味を隠し持っており、有史以降の人間の中に巣くう背徳的な享楽性を取り上げながら、
一方でそれに染まらない存在もいると示すことで、人間の堕落と気高さを対比させているようにも読める。
この話を読んでいてワルプルギスの饗宴を思い浮かべると同時に、荒野で悪夢のような幻想に耐え続けた
聖アントニウスの試練を思い出した。
ラファティの創作姿勢、そしてこの短編集を編んだ井上氏の意図がよく表れた重要作のようにも思えるが、
それだけに一筋縄ではいかない手ごわさを感じさせる難物でもある。

「マルタ」
原題は「Holy Woman」、いわば現代の聖女伝だろうか。
名物キャラクターの苦虫ジョンが出会った、マルタという女性のお話。
明らかにウソが混じった「信頼できない語り手」の冒険譚だが、金と人生にまつわる諷刺譚と読めば、
また味わいも変わってくる。
マルタとジョンの会話がバカバカしくて実にいい。このなんともいえない肩透かし感!

「優雅な日々と宮殿」
最下級の存在が最上級としてぬけぬけとまかり通ってしまうのも、ラファティではお約束。
今回は天才的なうそつきこそ最高の発明家で、もっとも原始的な種こそ最大の可能性を秘めているという
とんでもない逆説が披露される。
この話に限らず、ラファティは猿が大好きだ。そして人間は彼らの退化種であり、醜悪な戯画なのだ。

「ジョン・ソルト」
これも宗教的なお話。
にせ説教師をまんまといっぱい食わせたのはだれか?
嘘と真実が交錯し、聖痕と引き換えに最後は善き人が得をするという寓話的な物語。
健康で歪みのない身体が幸福であるとは限らない。むしろ肉体よりも魂の束縛こそが問題だということか。

「深色ガラスの物語」
原始人の忘れられた傑作に始まり、大気汚染に汚れた雨が描き出す黙示録の予兆で終わる、
歴史上に現れては消えていったガラス絵画たちの流行史が綴られる。
まさに極彩色のガラスで彩られたミニチュアの人類史であり、芸術論として読んでも楽しめる。
長編の梗概だけを一気呵成に書ききったような話なので、長編なみのアイデア量とスケール感を
短編サイズにダイジェスト化したようにも見える、ある意味ではとても贅沢な作品だと思う。
この巨視的なものの見方こそラファティの魅力だが、いわゆる「ストーリー性」を重視し、
キャラの身近さと人間くささに共感したい読者にはいまひとつウケが悪いのも納得できる。
逆に見れば、そういう瑣末な面白さを軽くやりすごすところに、「SF作家」ラファティの
傑出した資質を感じる。

「ユニークで斬新な発明の数々」
「片目のマネシツグミ」の感想で触れた「発端と結末が因果関係で結ばれる」もうひとつの話とは
この作品のこと。
世界は短いスパンの繰り返しであり、その中で発明と喪失が繰り返されるという理屈の中で、
真にユニークで斬新な発明を求める問答が繰り広げられる。
自分で自分を生み、結局滅ぼしてしまうという筋書きは「ウロボロスの蛇」の変奏を思わせる。
そんな視点から読むと、これが鉄道旅行に見立てたラファティ的宇宙論にも思えてくるだろう。
登場人物たちが乗車する鉄道の名称が「ライトトレイン(軽鉄道あるいは光速鉄道)」であることも、
この物語が日常風景と超越的世界の二重写しであることを示唆している。


わかりやすく笑える傾向の作品集ではないので、とっつきにくさはあるかもしれないが、
じっくり読ませるラファティというのも、またいいものである。
個人的には先行する作品集に負けない、もしくはそれ以上の充実度を誇る傑作集と思っているが、
そうした優劣を論じることがさほど重要でないことも十分わかっているつもりだ。
結局のところ、どれもラファティが書いた物語なのだから。

『ダールグレン』に関する覚え書き

2011年07月30日 | SF
SFファンには名高い“奇書”のひとつ、ディレイニーの『ダールグレン』が邦訳された。

記憶に欠落を抱えた青年が破壊された工業都市に到着し、そこに暮らす奇妙な人々と交流を結びながら詩作(思索)と
自分探しの日々を送るというストーリーには、明らかに当時の時代背景とディレイニー自身の経験が反映されている。
しかし、『ダールグレン』の刊行がヒッピー文化の末期にあたる1975年であり、また作中で主人公のキッドも
「フラワー・パワーは時代遅れ」と認めていることから、作者本人もひとつの“時代”の終わりを強く意識する中で、
この長大な物語を書いていたはずである。

そしてこの時代遅れのムーブメントの熱が冷め、自分を含めたすべての人に忘れ去られてしまう前に、薄れていく日々の記憶を
必死でかき集めて書き残そうとした結果が、『ダールグレン』だとすれば、ディレイニーがこれを書かずにはいられなかった
切実な思いと共に、断片的な記述や飛躍する議論、混乱する時間といった内容にも納得できるものがある。

また、これまでは他者の陰に隠れて自分をちらつかせるだけだったディレイニーが、『ダールグレン』という作品では、
自分の記憶を恥ずかしいほどにさらけだしている。
その努力の成果がこの長さであるとすれば、むやみに長いと言い切ってしまうのもあまりに酷と言うものだろう。

そんな背景を持つだけに、『ダールグレン』ではディレイニー自身の体験に基づくヒッピー生活の描写がかなりの分量を占めるが、
その中に混ぜ込んである様々な手がかりの断片(プリズム・鏡・レンズにあたるもの)を探り出していくうちに、本書は見た目以上に
複雑な構造を持つメタ小説なのではないか、と思うようになった。
邦訳の出版後1ヶ月を経過したので、ここで自分なりに気づいた点をまとめて、『ダールグレン』を読む上での覚え書きとしたい。

なお、これから書く内容はあくまで“解答”ではなく私見でしかない。
また今後読み返したときに感想が変わってしまうかもしれないので、あまり信用しないこと。

◆鎖でつなげられたプリズム・鏡・レンズ
いかにもディレイニー好みのアクセサリーであり、巽孝之氏も指摘しているように、これは装着者を一種のサイボーグへと
置き換えるための装置である。
accessoryという言葉の意味に、バイクのパーツ(作中でも壊れたハーレーが登場している)、また刊行当時には普及していなかった
パソコンの付属機器の意味もあるということは、この解釈を十分補強するものだろう。
またaccessoryのaccessに注目するなら、これはベローナという異界へアクセスするための呪具であると考えてもよいと思う。

◆“蘭”
キッドが鎖と共に装着する武器であり、アクセサリーのひとつでもある“蘭”も、装着者をサイボーグ化するパーツであるが、
同時に“Orchid”の語源がギリシア語の“睾丸”であることを考えると、これを装着することはディレイニーも関与した
文学理論である「サイボーグ・フェミニズム」を先駆的に実践した行為に他ならない。
さらに“真鍮の蘭”に至っては、その語感が人工的な身体をいっそう強く意識させるものになる。

◆ラリー・H・ジョナス
これは作中で登場する白人男性の本名だが、読み方によっては実在のSF作家「ジョアナ・ラス」と非常に近い綴りである。
ここから、作中の登場人物にはディレイニー以外にも実在の人物、しかもかなり身近な存在があてられているのではないか?
という推測が成り立つ。
なお、ラス本人の出身地も、ディレイニーが育ったニューヨークのブロンクス地区である。

◆ジョージ・ハリスン
黒人男性のジョージのヌードポスターは、ユダヤ人のイエスの肖像を裏返したイメージであると共に、ブロンド女性である
マリリン・モンローの裏バージョンでもあると言える。
これらのシンボル操作によって、ディレイニーは宗教・性・人種といった境界線の撹乱を狙っているのだろう。
さらに付け加えるなら、マリリンという名はディレイニーの元配偶者である、マリリン・ハッカーを連想させる。
すなわちベローナに君臨するジョージの配偶者である真の神は、サミュエルという真名を持つはずなのだ。

◆レイニャとキッド
主人公であるキッド(KidあるいはKiddと綴られる)の恋人であるレイニャ・コルスンによく似た名前として、
キッドが持つノートに書かれた人名リストの中に「ヴァージニア・コルスン」という名が書かれているが、
これを読んで思い出したのが、「ヴァージニア・キッド」という名前である。
この人物は熱烈なSFファンが長じてSF作家のエージェントになったという人物であり、日本においては
彼女の編んだフェミニズムSFアンソロジー『女の千年王国』が、サンリオSF文庫から出版されていた。
そしてこの『女の千年王国』に「序詩」を寄せていたのが、マリリン・ハッカーである。

さらに彼女が誕生した時のフルネームが「Mildred Virginia Kidd」であることを考えると、この人物が
『ダールグレン』とは全く無関係であると考えるほうが不自然というものだ。
ディレイニー及びハッカーとプライベートでどこまでの関係があったかは不明だが、いずれにしろ彼女が
『ダールグレン』を読んだとき、非常に複雑な気持ちになっただろうということだけは察することができる。

なお、彼女はかつてジェイムズ・ブリッシュと結婚していたが、1963年には離婚している。

◆キッドの血筋
キッド自身の素性については「母方がチェロキー・インディアン」であるということまでしか語られない。
これはキッドの血筋が、ネイティブ・アメリカンの土地に様々な人種が移民して出来上がった「アメリカ」
という国家そのものを表していると見なすこともできる。
彼がベローナという街を放浪して多様な性、多様な人種と交わるのは、アメリカという国が辿ってきた歴史を
そのまま演じているのである。
これと対照する存在としては物語の冒頭(終盤)で登場する黒人の妊婦で、彼女がベローナから去って行く姿は、
アメリカに黒人文化が根付いていく未来を予感させるものとなっている。

◆ベローナという名称
ベローナはローマ神話における戦争の女神であるが、その姿は片手に松明、もう一方の手には武器を持った
女性であるという。
ここから連想されるのが、片手に松明を持ち、片手に独立記念日の刻まれた銘板を持つ「自由の女神」である。
すなわちベローナもまた、アメリカという国家の裏面を具象化した世界であるということだ。

◆ロジャー・コーキンズ
この人物のモデルは、作中で言及された『市民ケーン』のモデルにもなったウィリアム・ランドルフ・ハーストだろう。
ウィリアムの名が「ダールグレン」の名字を持つ人物と共通することや、彼がキッドと会った修道院の修道士が
「ブラザー・ランドルフ」であることに注目されたい。
ちなみにハーストの新聞で寄稿者として腕をふるっていた一人に、かのアンブローズ・ビアスがいる。
また、ハーストの新聞に掲載されて人気を博し、やがて「イエロー・ジャーナリズム」の語源になったマンガのタイトルは
「イエロー・キッド」である。

◆ウィリアム・ダールグレン
キッドにインタビューを行い、コーキンズの手紙を代筆し、彼のために取材を行っている「ベローナ・タイムズ」の新聞記者。
彼の正体はキッドも見抜いたとおりだが、なぜ新聞記者が黒幕となったのかと言えば、たぶんアメリカ文学の父ともいえる
マーク・トウェインがモデルになっているからだろう。
彼が若いころ新聞記者であったということは周知の事実であり、その本名は「サミュエル・クレメンス」―つまり
ディレイニーと同じファーストネームを持つからだ。

ここから「黒人初のSF作家」としてのディレイニーが、アメリカ初の作家であるトゥエインと自分を重ね合わせようとしたのではないか、
という意図を読み取ることができる。
そしてトウェインの代表作である『ハックルベリー・フィンの冒険』が、アメリカを代表する教養小説である一方で、作中ひんぱんに
「ニグロ」という言葉を多用したことで差別問題にまで発展した作品であることを考えれば、『ダールグレン』との類似は明らかだろう。
またトウェインのもうひとつの代表作『トム・ソーヤーの冒険』では、ネイティブ・アメリカンが悪役として登場しているが、
これに対するディレイニー流の皮肉が、『ダールグレン』でネイティブ・アメリカンのハーフを主役に据えた理由かもしれない。

また、例の人名リストがペンネームの候補だとすると、「ウィリアム・ダールグレン」は作者自身の変名であると考えることもできる。
そしてディレイニーとダールグレンは、共にDではじまる名前でもある。


このように読み取っていくと、『ダールグレン』という作品が「ディレイニーのプライベートな人生」と
「アメリカという国家の実像」という二つの次元が入り乱れた世界として構成されているのが見えてくる。
もしや本書はフラワー・ムーブメントの体験的記録であると同時に、アメリカという国の文化と歴史を
そこに丸ごと重ね書きしようとした物語なのではないか?というのが、いま読み解ける範囲での感想である。

そう考えると、自分を含めたほとんどの読者は、まだベローナの入り口を入ったばかりのところに佇んでいるだけなのかもしれない。
その先へと進むには、何度稲妻によって追い出されても再びベローナに戻り、霧の中を少しずつ歩いていくしかないのだろう。
そこまで考えぬいた上で、ディレイニーが『ダールグレン』全体を構成したと思うとき、いまだ見えない世界の全貌に身震いするばかりである。

キジ・ジョンスンの「Spar」

2010年07月03日 | SF
Kij Johnsonのネビュラ賞受賞短編「Spar」を読んだ。

宇宙船の衝突事故で放り出された人間の女と、それを取り込んだ異星の救命艇。
女はその中で未知の存在とえんえんfuckし続けるという話だけれど、この作品の凄さは
その行為を介して「人であることの定義づけ」を、執拗なまでに揺さぶり続ける点にある。

まず序盤に置かれたこの文章からして、実に意味ありげでいい。

They each have Ins and Outs.
Her Ins are the usual, eyes ears nostrils mouth cunt ass.
Her Outs are also the common ones: fingers and hands and feet and tongue.
Arms. Legs.
Things that can be thrust into other things.

感覚器でありコミュニケーションツールでもある身体部位が、生殖器官と並置されている。
この作品において、これらの器官は全て“fuckするための道具”なのである。
そして手と腕と舌と足。これらの器官は作中の環境下で本来の機能を失うことにより、
まさに「突っ込むための道具」と化す。

つまり環境によって純然たる“性的人間”と化してしまうわけだが、特に興味深い点は、
本来の機能を失った部位の役割が、単にfuckのための器官へと変わってしまうことにある。
これを女性におけるclitorisと関連付けたり、擬似的なpenisへの機能分化としても面白いが、
さらに生殖という行為を伴わない以上、卵巣や精嚢の存在は無視してよいと考える場合、
作中での女は異星人とのfuckを経て、もはや性を持たない生物へと変貌したと捉えても
よいのではないか。

そして異星人のほうも本物のcuntやpenisを有しているわけではないのだから、実は女の腕と
異星人の触腕の間には、さほどの違いはない。
だからThey each have Ins and Outs. という表現は、いくら異質な相手に見えたとしても
実は似たり寄ったりな存在だということを、最初から宣言しているようにも感じられる。

なお念のため書いておくと、異星人の身体描写である「毛むくじゃらで骨がない筋肉質の穴」を、
そのままcuntの比喩と考えれば、女と異星人はまさしく互いを写す鏡像であると言える。
この視点に立つと、旧来のフェミニズム/ジェンダーSFの枠内のみで「Spar」を語ることには
かなりの無理がありそうだ。
むしろその枠の外へと踏み出そうという積極的な試みこそ「Spar」という作品であり、
逆に読み手にもそれなりの心構えが求められるように思う。

原文には独特のリズムがあるのだが、これと全編に現れるInとOutの繰り返しを
Fuckの律動と捉えるとき、Sparというタイトルも四文字言葉であると気づくだろう。
だからあけすけに言ってしまえば、この作品のタイトルは「Fuck」でいいとも思うが、
そこを「Spar」に置き換えることによって、Fuckに代表される様々なタブーに対して、
Fuckそのものを武器に斬りこんでいこうという意図もあるのかもしれない。
まあさすがにそのままでは芸もないし、そもそも出版社からOKが出ないだろうけど。

さて、機械的に栄養を補給し、機械的に排泄を行う環境の中で、人はなぜfuckするのか?
そこに人間の尊厳と知的生命である事に対する、本作からのギリギリの問いがあるように思える。
妊娠・出産による種の保存という衝動や使命感も、相手が異質すぎる存在では意味をなさない。
この不毛な状況の中で、なぜ彼女はfuckするのか?あるいは、しなければいられないのか?

相手を求めているのか、相手に求められているのかもわからない状況で、快楽のためか
苦痛のためかもわからないままに続けるfuckこそ、生という理不尽さの具現化だろう。
キジ・ジョンスンはSFだから許される極限状況を設定することで、人間の意識における
自己と他者に対する認識の曖昧さ、生きることの根源に横たわる矛盾といったものを、
「生」と「性」の両面からあぶりだしてみせたのだと思う。
生きてるからfuckする。生きるためには、fuckし続けなければならない。
人生とは、しょせんfuckingなものなのだから。

この作品を読んだとき、ジェリコーによる「メデュース号の筏」という絵画を思い出した。
あれは実話に想を得た作品で、難破船の筏の上では飢えによる食人も行われたという。
そして「Spar」における女の行為も、一種の飢えによる食人行為ではないかと思うとき、
本作は見事なサバイバルSFであり、ある種の戦争文学の様相すら帯びるように思われる。
すなわちfuckのfはfoodであり、fightのfでもあるということだろう。
だから「Spar」というタイトルには、遭難者たちの拠りどころとしての「帆柱」だけでなく、
やはり格闘技における「組み手」の意味が含まれているとも考えられる。

まあこんな状況下では、少なくとも女にとってはfuckそのものが「帆柱」であるのは確かだ。
それにしがみつくことで、女は自分が生きていることを実感し、自分が孤独ではないという
はかない希望を与えられ、未来に対する不安を忘れることができる。
これらは日常的に行われているものではあるが、極限の状況下ではその意味合いや重みも
また大きく異なってくるものだ。
そしてこの世界に、拠りどころとなる帆柱はひとつしかない。
この狭い世界では快楽も癒しも闘いさえも、fuckという行為の中にしか存在しないからだ。

そして異星人との行為は、女が失った過去を「思い出すこと」と「忘れること」の反復行為でもある。
現実と回想の交錯する物語には、やはりInとOutの繰り返しの型が反映している。
そしていつしか、現実と回想、そして目的と手段はその境界を失って渾然一体となっていく。
それはまるで、女と異星人が交わり続けることで、分かちがたい存在へと変貌していくことを
密かに暗示するかのようだ。

それにしても、ラストの一文はどう読めばいいのだろう。
単純に読めば救出劇なんだけど、もはやそう読めなくなっている自分がいるとすれば、
それは異星人に何がしかの感情移入をしているということになる。
このとき理解しがたいのは異星人のほうか、あるいは女のほうか?
その読者における心理的な受け入れ方の変化もまた、この小説の狙いと考えることもできる。

あるいは、InとOutの意味するものについて。
この作品の中で、Inはもっぱら生に、Outは死に結び付けられる例が多いように感じられる。
では最後のOutの先にあるのは、本当に生なのだろうか?

そして、三人称による記述について。
これは作品に観察者としての冷静な語りを与える一方で、閉鎖環境における語り手の不明瞭さを生む。

これは本当に客観視点なのか、それとも実は、異星人が女の心を読んでいるのだろうか?
さらにもし後者だとすれば、Outしていくのは女なのか異星人なのか、あるいは両者の合体した
まったく別種の生き物なのか?
救命艇のイメージが母胎を思わせるものだけに、最後の結論もありえないものではないだろう。

このように様々な角度から読むことにより、「Spar」はファーストコンタクトSFであり、変身SF、
そして身体改変SFであり、さらには変種の侵略SFとすら読み得る広がりがある。
正当的なSFのテーマから、ここまでの異様さと多様さを持つ作品を導き出したということによって、
キジ・ジョンスンは正しくティプトリーの、そしてスタージョンの域に迫る資質を有すると示してくれた。

彼女が今後のSF界を担う存在であることは確実だし、本邦での本格的な紹介が待たれる作家である。

なお今回の感想を書くにあたり、らっぱ亭さんによるTwitterまとめ“キジ・ジョンスン「スパー」談義”と、
そこからのリンク先に置かれた感想をずいぶん参考にさせていただきました。
末文になりましたが、深くお礼申し上げます。

(補足)
上記の文章を書いた後、「Spar」がネビュラ賞ショート・ストーリー部門を受賞したとのこと。
さらにSFマガジン2011年3月号に柿沼瑛子氏の訳で「弧船」として掲載された。
・・・作中で“Spar”を“帆柱”と訳したのに、なぜこのタイトルになったのかは不思議なのだが。

グローブとボールをめぐる旅

2008年12月18日 | SF
かつて福武書店から刊行されていた『エンジン・サマー』が、扶桑社より
文庫となって復刊された。
いまやファンタジーの巨匠となったジョン・クロウリーの名を知らしめた
異世界ファンタジー風SFであり、青春ロードノベルの傑作だ。
訳者あとがきによると、作者にとってはこれが最後のSF作品となった
そうだが、それがもったいないくらいの完成度を誇るメタSFでもある。

時は遥か未来、人類世界を壊滅させた「嵐」の後に生き残った人々が暮らす
「リトルベレア」という村で生まれた少年が、自らの生い立ちを語り始める。

かつては人は「天使」だったという。彼らは世界の全てを欲しがり、そして
全てを手に入れ、やがて全てを滅ぼした。
生き残った者は天使の遺物を隠し、あるいはそれらを破壊して故郷から去り、
やがて今のような人間となって「リトルベレア」を築いたと、少年は語る。

アメリカインディアンを思わせる村での暮らしぶり、ミステリアスな少女との
出会いと別れ、自分の未来に対して成された予言と、故郷からの旅立ち。
様々な人との出会いと別れを繰り返して遂に目指す土地へと至った少年は、
その長い道程を自らの言葉によって、再び辿ってゆく。
記憶と言葉の旅路の果てに待っているのは、どのような結末なのか。

さて、人はなぜ物語を必要とするのだろう。教養のためか、慰めのためか、
それとも全く違う理由からだろうか?
それはたぶん、人が人になって以来の疑問である、「我々はどこから来たか」に
発しているものだと思う。

人はいつでも、その時と場所にあわせた「はじまりの物語」を語ろうとする。
その物語が人を突き動かして探求の旅に向かわせ、それによって世界と物語は
新たに書き換えられる。旅人の名前は、好きに選んでもらっていいだろう。
たとえばアンディやラッシュやモンゴルフィエ、またはイエスやムハマドや
ゴータマや、あるいはこれを読んでいるあなた自身でもいい。

作中人物の一人、複収者のティープリーは天使が遺した錆びない鉄や腐らない
食物について「こういうものは最初から死んでいるものなんだ」と言う。
変化をしないものは不死ではない。それらは最初から死んだものなのだと。
しかし物語は、語られ、聞かれ、思い出され、そして忘れられることによって
何度も生まれ変わることができる。
我々が宗教や神話を必要とする限り、物語が死ぬことはない。
そして物語として生きるものだけが、不滅の生を生きることができるのだ。
結局のところ、それが「相対性」(relativity)ということになるのだろう。

大破壊後の世界を書いた作品だが、描かれる光景は決してディストピア的ではなく
むしろ廃墟の美とゆったりした時間の流れを感じられる穏やかさに満ちている。
しかし見方を変えれば、その穏やかさは人類という種が活力を失い、ゆるやかな
衰退の道を辿っていく兆しかもしれない。
「地球の長い午後」の最後の残照は、この世界を幻想的な色に染め上げている。

一方で主人公の語る物語の原型を辿ってみると、それらは極めてアメリカ的であったり、
神秘性や教訓とはかけ離れたものだということがわかってくる。
その事物の意味をずらすことで物語に奥行きや広がりや色を与えるのが、クロウリーの
マジックの秘密だろう。そして乖離ぶりが際立つほどに、物語は輝きを増していく。
表面的には隠されていた物の姿が見えてくるにつれて作品の見え方も変わってきて、
どこか南部のほら話などにも通じる口承文芸的な味わいが増してくるのも楽しいものだ。

ショーの舞台裏を見ると興が削がれるというなら、こんな話は忘れた方がいい。
それでも裏側を覗いてみたければ、まずグローブとボールと天使を探してみよう。
これらを検索エンジンに打ち込んでみれば、たぶん手がかりが見つかるはずだ。

ここからネットめぐりを始めてみると、この『エンジン・サマー』に込められたクロウリーの
遊び心と優れた文学的センス、そして自国の歴史と文化に対する深い愛着に改めて
舌を巻くことになると思う。
北欧神話や中世ヨーロッパの物語に寄りかからず、まさにアメリカを象徴する文化から
来るべき世界の神話を作り出したという事自体、実に画期的なことではないか。
それに加えて申し分のない美しさと重層性、そして普遍性まで備えているのだから
もはや文句のつけようがない。
訳者の大森氏もあとがきで触れているが、ウルフ好きなら必読必携の傑作である。

『虐殺器官』の存在意義

2007年09月21日 | SF
『虐殺器官』。このタイトルのインパクトと、帯に書かれた大森望氏による派手な紹介文
「イーガンの近未来で『地獄の黙示録』と『モンティ・パイソン』が出会う」という部分が
やたらと気になったので、読んでみた。

読後の感想を言えば、大森氏のあの惹き文句は嘘ではないが、適切とも言いかねる。
イーガンを引き合いに出すほどのぶっ飛んだ科学や難解な話はなく、エスピオナージュ的作風は
むしろアレステア・レナルズやチャールズ・ストロスのものに近いだろう。
『地獄の黙示録』も『モンティ・パイソン』も引用されてはいるが、前者は類型としての引用であり
後者は作中の遊びとしての要素が目立ちすぎ、皮肉として成立していないうらみがある。
といっても、別にこの小説がつまらなかったというわけではない。
事前に予想していたほど抽象的な話ではなく、より生々しいテーマを直截的に描いた作品だった、
というだけのことである。

本作を例えるなら、むしろパイソンズ出身のテリー・ギリアムが撮った『未来世紀ブラジル』のほうが
より相応しい例のように思える。
この『ブラジル』、テロの日常化する社会を先見的に描いたともされる映画だが、あれは20世紀の
英国もしくは北アイルランドにおける日常を未来世界に置き換えたものでしかなく、むしろ自分には
それらの事件を「演出している」存在の影がより興味深く、また不気味に感じられたものだ。
この『虐殺器官』は、その存在…いや、その理念そのものを、具体的に描き出そうとする作品である。
その意味で本作はパイソンズよりも、ギリアム個人に対するオマージュとして捧げられるべきであろう。

グローバル化とジェノサイドを直接に結びつける装置としての「虐殺器官」という発想は、その中身が
はっきりとは語られないにしろ、ディテールとしては有効だったと思う。
またシステムの中身がブラックボックスであるからこそ、SFでしか書きえない作品であり、SFとして
消費することが許される作品であるとも言える。これが実際に発見されたら、ノーベル賞か世界の敵の
どちらかに成らざるを得ないだろうから。
作風についてはゲーム『メタルギア』シリーズの影響を強く示唆する声が強いようだが、そちらに疎い
自分としては、むしろ最近の海外SF作品から強い影響を受けているように感じられた。
そのあたりは読む人の体験が如実に反映されるのだろう。人は見たいものしか見ないのだ。

あえて記すなら、それらの作品を書いたのはティプトリーであり、ヴァーリィであり、そしてエリスンや
ルーシャス・シェパードである。(主人公の名前はたぶんこの人から貰ったものだろう。)
参考となったであろう具体的な作品名は書かない。それを読むだけでネタが割れるかもしれないからだ。
特に某作家の某作品はアイデアの根本部分に関わるので、その作家の名前も書かないことにする。
まあ実際に読んだ人が海外SFのちょっとしたファンならば、一発でわかってしまうだろうけれど。
あとはやはり浦沢直樹の『MONSTER』だろうか。敵役であるジョン・ポールの名はある著名な要人
(というかその地位にある者)と同じだが、また『MONSTER』の敵役であるヨハンとも同じである。
さらにはビートルズの主要メンバーとの類似も思い浮かぶ。この史上最高の影響力を持つバンドを
虐殺器官の鏡像として連想するのは、別に不思議でもないだろう。

ラストの種明かし…というか虐殺器官の存在意義についての説明は、それだけ読むと物足りないようにも
感じられるのだが、そこに至るまでに延々と書かれてきた場面描写、例えば虐殺現場の焼死体の様子と
主人公たちがピザにビールで寛ぐ様子を並列で思い浮かべたとき、この両者に救いようのない相似性を
見出してしまって、なんともやりきれない思いになる。
それは別に道徳心や愛他精神ではなく、これが人間の生存についての根源的な風景かもしれないという
苦々しい認識によるものだ。
それを知ることで得られる感覚を偽善として否定されても、こちらとしては答えようがない。
それが偽善なのかマゾヒズムなのかも判らない自分としては、肯定も否定もできないからである。
ただ、このどうしようもない奈落を見下ろす感覚が、自分がSFを読む理由の一つであるということを
改めて思い知らされた作品だということは、間違いない。

メディアの一般的な情報や二次資料の引用が多く、他の作品から受けた影響もはっきり見えすぎるなど、
深みや独自性が足りないと感じられる部分も多いが、9.11以降に全ての世界が戦争とその意味について
自問せざるを得なくなった今、本作を日本SFにおける一つの結実と見てもよいだろう。
そしてその意義は、やはり読者にこそ委ねられる。各々の身内に抱えた「虐殺の器官」と共に。

奇絶、猥褻、『ゴーレム100』!

2007年07月22日 | SF
ベスターの『ゴーレム100』を読了。うん、これは最高にイカした本だ。
このいい感じのぐちゃぐちゃさ加減をどう説明したものか悩ましいが
もしキャッチコピーをつけるなら、懐かしの横田順彌調を少しもじって
「奇絶、怪絶、また猥褻!」とでもしたいところ。
狂った描写と異様な言語感覚の中にも乾いたユーモアと冷徹な論理が
感じられる、破格の傑作と言ってよいだろう。

変幻自在の怪物ゴーレムに託したエロ・グロ・スカトロ趣味が作中を
縦横無人に跋扈しまくるものの、作者の視線にはどこか醒めたものが
感じられ、それが陰惨な描写をユーモラスな物に変換している。
メチャクチャ、ナンセンス、やりたい放題と思わせる内容をこれでもかと
詰め込みながら、一方でそれらにごくまともな科学的説明をつけてみたり
狂った乱交シーンの後に感動的な女性論をぶちあげてみたりと、はたして
どこまで計算ずくなのか読めない胡散臭さが、また面白い。

そしてそこまでの引きをまるごとひっくり返すような、あのラスト!
まさかあの人物の名前までが、トリックのための仕込みだったとは。
まったく、ちまたの新本格も新伝綺も裸足で逃げ出すような強烈さだ。
『虎よ、虎よ!』を核時代の『モンテ・クリスト伯』とするならば、この
『ゴーレム100』こそ、ネットワークとバーチャル・リアリティ時代に
現出した『モルグ街の殺人』と呼べるかもしれない。

ベスターの作品集『願い星、叶い星』巻末の中村融氏による解説によれば、
本作の原型は短編「The Four Hour Fugue」ということだが、未来世界で
8人の淑女が戯れに「ゴーレム」を召還してしまうという発端は、同書の
最後に収録されている中篇『地獄は永遠に』を思わせる。
それだけでなく、猟奇殺人、共感覚、男女の恋愛から世界の破壊と再生まで
ベスターの扱ってきたテーマの数々が、この一作に総動員されているのだ。
イラストや楽譜、タイポグラフィやロールシャッハ図形などを持ちこんだ試みも
強引なやり口と見える一方、この作品を小説という形式から開放するための
果敢な挑戦と見なすこともできるだろう。
執拗なまでの言葉遊びも、言葉に縛られた物語=言語化された世界を破壊する
ある種の呪文のようにも思えてくる。

実のところ、ベスターはこの小説をまさに「マルチメディア・アート」にしようと
企んでいたのかもしれない。
コンピュータとインターネットが普及した時代ならもっと楽にできたはずの事を
ベスターは自分に許される範囲のテクニックと媒体を用いて、不自由ながらも
形にしてみせたように思うのだ。
さらに突き詰めれば、この小説が目指した究極の形こそ、視聴覚に加えて嗅覚と
触覚、そして超感覚までも加えた「全感覚小説」だったとも考えられる。
…という大ボラが吹きたくなるところも、この作品の魅力のひとつだろう。
とにかくネタが多いので、いじり方によってはまだいくらでも楽しめそうだ。

山形浩生氏は本書の解説で「SFの全てを書き切った傑作」としているが、
本作の場合はジャンル小説の色を最大限に生かしつつ、最後はその枠すらも
はみ出してしまった、まさに異端にして異形の傑作だと思う。
その異形の傑作を見事日本語化した立役者にして翻訳者である渡辺佐智江氏の
偉業こそ、今年度の翻訳業界における最大の事件だろう。
ユーモアとトリップ感がたっぷりのリズミカルな文章は、SFが好きかどうかを
問わず、とにかく筆毒…もとい、必読の名文である。
渡辺訳があればこそ、『ゴーレム100』は21世紀にその真価を知らしめることが
可能となったのだ。ゴーレムはまさにこの人が来るのを待っていたに違いない。
とにかく、小説のみならず創作を志す全ての人にお勧めしたい名著。ぜひ読むべし。

ところで最終章に出てきた人物、複数いたらしきうちの一人は、もしかして…?

『グラックの卵』に見るユーモアとは

2007年02月18日 | SF
ラファティを読んだ勢いで手をつけたのが、買って積みっ放しだった『グラックの卵』。
矢野徹先生亡き今、翻訳SF界最大の巨星と呼んでも過言ではない浅倉久志氏が
自ら偏愛するユーモアSFを選りすぐったアンソロジーである。
刊行後1年経過した本の後に、6ヶ月前に出た本の話をするのもどうかとは思うが
タイムリーさと無縁なのは毎度のことなので、特に気にせず紹介してみたい。

・ボンド「見よ、かの巨鳥を!」
―宇宙の果てから太陽系へ飛来する謎の物体。それはまぎれもなく巨大な鳥だった!

惹句とあらすじを聞くと完全なナンセンス小説だけれど、実際に読んでみると
バカバカしい中にも緊迫感があり、普通にハラハラした話。
結局のところ、この作品の発想自体が「特撮怪獣映画」と同じなのだと思う。
ナンセンスな部分に目をつぶれば、破滅SFの佳作として十分楽しめる。
物理法則はさておき、でかい鳥が宇宙から飛んでくるという異常さに関しては
民間伝承などを引用したラファティ的な説明に、つい納得させられてしまった。

そしてこの作品の白眉は、なんといっても鳥の卵が孵るシーンにつきる。
宇宙的スケールで描写される孵化シーンのヴィジョンは、おぞましくも美しい。
ラストシーンは昔の短編SFの典型なのだが、前述の孵化シーンのイメージが
オーバーラップすることで、なんともいえない後味を醸し出している。

・カットナー「ギャラハー・プラス」
―酔っ払い科学者が酩酊中に作った謎の機械。一体誰が、何のために作らせたのか?

かつて青心社の叢書でも短編集が出ていたカットナーの、「ホグベン一家」と並ぶ
代表的なシリーズが、この「ギャロウェイ・ギャラハー」もの。
といってもカットナーの作品集は名のみ高くて入手困難なものばかりなので、
このシリーズも実際に読むのはこれがはじめてだ。

「オレは誰だ?」という自分探しは、SFのテーマとしてポピュラーなものだが、
それをもうひとつの定番テーマ「マッドサイエンティスト」と合体させたあたりが
このシリーズの持ち味だと思う。
カットナー作品は筋運びにアクロバティックな論理が絡むことで、独特の奇想性を
感じさせるところがあるが、本作もまさにそんな感じ。
謎の発明品をめぐる物語の中で、一番重要なのは「どうやって動くのか」よりも、
「いったい何のために作ったか」を探ることである。これぞまさにSF的発想だ。

助演のうぬぼれロボット、ナルキッソスことジョーの活躍も大きな魅力。
「わたしは血を見るのが好きです。あの原色を見るのが」というセリフは抜群だ。
ベスターの「ごきげん目盛り」をはじめ、アシモフ3原則に縛られないロボットが
出てくる話は、どれもイかして(もしくはイかれて)いると思う。
ジョーの誕生秘話を書いたシリーズ第1作「うぬぼれロボット」も、ぜひ読んでみたい。

・コグスウェル「スーパーマンはつらい」
―超能力を隠して暮らす人々が、新天地を求めて宇宙へ旅立った。そこで見たものは・・・。

ショートリリーフという表現がぴったりの、つなぎ的な作品。
ヘンダースンの「ピープル」シリーズを逆手に取ったような、超能力テーマ全般に対する
皮肉とも楽天的回答ともいえる話で、典型的な逆さ落ちがつく。
作者コグスウェルの代表作「壁の中」と似た点もあるが、あれほどの叙情性はない上に
テクノロジーへの楽観的視点が甘すぎて、いまひとつという感はぬぐえない。
いまさらだが、邦訳タイトルは原題の「制限因子」に改めたほうがなじみやすいかも。

・テン「モーニエル・マサウェイの発見」
―絵画よりもこそ泥仕事が得意なうぬぼれ芸術家が、未来の大作家とうたわれた理由は?

ラファティを田舎のホラ吹きおじさんとすれば、テンは都会の紳士的な押し売りだろうか。
半ば強引な話を、諧謔味溢れる軽妙な話術で読ませてしまう辣腕ぶりが憎らしい。
傲岸不遜なマサウェイの人物描写もうまく、テンの人間観察の鋭さをうかがわせる。
傑作と称えるような作品ではないが、作風がツボにはまれば楽しめるはず。
落ちのつけ方は、テンの代表作のひとつである「ブルックリン計画」を思いださせる。

・スタントン「ガムドロップ・キング」
―空想癖の強い少年と星から来た「王様」の、奇妙な出会いの物語。

少年の空想癖と王様のうさんくさい言動のおかげで、どこまでが本当の話なのかが
いまひとつ掴めないという、なかなか手ごわい作品。
途中の読み方次第で、ラストのひとことの意味も大きく変わってしまう。
話の構成や設定面では、ウルフの『デス博士の島その他の物語』によく似ているが、
こちらはより素朴かつ大らかなムードを感じさせる。
(言い換えれば、ウルフほどの密度や凄みまでは持っていない。)

アイダホ州モスコーに行こうとしてソ連のモスクワに着いてしまう、というくだりは
いかにも冷戦時代のユーモアであり、時代遅れな感じは否めない。
一方、その後の「赤狩り」の不安を示唆する描写は、現在でも通用するものがある。
ソ連こそ崩壊したものの、今のアメリカは新たな敵に日々戦々恐々なのだ。
小品だが、なかなか多面的な読み方を楽しめる作品だと思う。

・グーラート「ただいま追跡中」
―駆け落ち娘の奪還を命じられた探偵と、調子はずれのロボットクルーザーの珍道中。

軽さが身上のグーラート作品。小気味良い会話とテンポの速い場面転換で引っ張るが
結局は典型的なドタバタ・コメディであり、まさに毒にも薬にもならない話。
SFとしてのアイデアも弱いので、読後感はめっぽう薄い。
せめてテンくらいの諧謔味があれば、もう少し印象に残るのだろうけど・・・。
扶桑社の文庫ならともかく、国書のハードカバーで読むほどの話ではないと思う。
このノリが好きな人にとっては、たまらなく魅力的な作品なのかもしれないが。

・スラデック「マスタースンと社員たち」
―マスタースン社長とその社員によって繰り広げられる、摩訶不思議な企業活動の日々。

ニューウェーブの立役者の一人、スラデックを代表する中篇。
本来なら『ベータ2のバラッド』に収録されて然るべきなのに、なぜこちらに入ったのかが
一番不可解なのだが、これは単に訳者の浅倉さんの意向を尊重した結果だろう。
テーマも文体も実にNW的で、他の収録作とは明らかに毛色が違うが、それも対比の妙か。

語呂合わせに詩や手記といった様式を小説内にぶちこみ、下品さと皮肉を織り交ぜて描いた
魔術的リアリズムによる企業小説にして、事務社員の恍惚と不安と死を描いた現代のサーガ。
・・・というのは冗談だが、その大げさな書きっぷりには、どこか叙事詩めいた印象も受ける。
スタイルはともかく、書いている中身は案外ラファティと近いのかも。
間違いなく読み手を選ぶが、SFファンなら一度は目を通しておきたい奇作である。

名ゼリフや名コピーが飛び交う中、特に秀逸なのは184ページから始まる「事務社員の歌」。
オペラ調の曲が付いたら、さぞかし勇壮なことだろう。
部下の事務社員に対して、マスタースン自身が文字通りのジム社長になってしまったのは
まさに邦訳の奇跡と呼びたい快挙。たぶん泉下のスラデックも喜んでいると思う。

・ノヴォトニィ「バーボン湖」
―女房に酒場のない土地へと旅行に連れ出された呑み助二人が、森の中で見つけたのは・・・。

SFというよりも、ホラ話系のファンタジー。
もしも湖の水が全部酒だったら・・・という一発ネタのみを頼りに、のどかで楽しい小話へと
仕立て上げている。このまま落語の演目にしてもよさそうだ。
バーボン湖のできる原理を説明しつつ、「今年はバーボン湖だけど、来年は別の湖かも」と
地元の老人が語るくだりは、バカバカしくもちょっと感動してしまった。
バカさ加減では「見よ、かの巨鳥を!」をもしのぐ、正真正銘のバカ小説。
ある意味、収録作中で最高の傑作かもしれない。
飲める人は読む前にバーボンを用意しておくこと。読後は絶対に飲みたくなる。

・ジェイコブズ「グラックの卵」
―変人教授が残した遺品は、絶滅した珍鳥の卵。それを孵化させるべく奮闘する男の冒険譚。

雄弁調の饒舌さと比喩の多さが鼻につき、大した話でもないのにやたらと読みにくい。
アクの強さではスラデック級で、中身のなさはグーラート級・・・と書いたら、人によっては
大絶賛だと思われそうだが、別に誉めているわけではない。
残念だが自分の好みからは外れているので、あまり楽しめなかった。
故人の意思を継ごうとする主人公の感傷や奇妙な登場人物たちに魅力を感じられるかが
好き嫌いの分かれ目か。この手のロード・ムービーが好きな人は、普通に感動できるかも。
男性の想像妊娠らしき描写が出てくるあたりは、ちょっとフェミニズム風味。

収録作全体を通して見ると、ユーモアとしてもSFとしても多種多彩なものが揃っており
編者の見識の広さが伺える好編集となっている。
テーマ別編集でちょっと捻った作品が多いところは、かつて新潮文庫から出版されていた
SFアンソロジーのシリーズを思い出させる。
今回の『グラックの卵』は、このシリーズの遅れてきた一冊と言っても良いだろう。
読者の好みが割れそうな癖の強さも含めて、予想以上に刺激的なアンソロジーだった。

ラファティ『子供たちの午後』

2007年01月23日 | SF
青心社からかつて出ていたSF叢書のうち、ラファティとヤングの作品が
同社からようやく復刊された。
『子供たちの午後』はその中の1つ、R・A・ラファティの短編集である。
国内で出たラファティ短編集の中でも早い時期に属し、しかも編集が
日本オリジナルという、なかなか特殊な性格を持つ本だ。

この本もかつて図書館で読んだことがあるのだけれど、ラファティにしては
比較的笑えない話が多い気がしたものである。
今読み返してみてもその感想は変わらないが、だからといってつまらないと
いうことではなく、むしろ他の本とは異なる読みどころが多い。
巻末の編者解説が長編への手引きとしてよくまとまっていることも含め、
ラファティのファンには必携の一冊である。
さらに今回は復刊にあたって編者の井上央氏が新たな解説を追加しており、
未訳長編の「Half a Sky」を題材に、キリスト教的な視点と語り部という役割に
注目した新たなラファティ分析を行っているので、旧版を持っている人も必読。

この短編集が他に比べて「笑えない」という理由のひとつに、ラファティお得意の
思考のダイナミズムが歴史や地理のダイナミズムへと直結していく、あの豪快さが
少ないことがあげられる。
「せまい谷」「つぎの岩につづく」「完全無欠な貴橄欖石」「レインバード」そして
「われらかくシャルルマーニュを悩ませり」などがこのパターンを代表する作品だが
『子供たちの午後』に収録されている作品でこれに合致するのは表題作くらい。
一方、収録作に目立つのは「ぺてん」をテーマとした作品が多いことである。
もともとラファティにはぺてんじみた話が多いが、この短編集の場合だと巻頭の
「アダムには三人の兄弟がいた」にはじまり、「パニの星」「子供たちの午後」
「プディブンディアの礼儀正しい人々」「マクグルダーの奇跡」と、全11話中
実に5話までが、人を騙すことそのものを扱った物語であり、その他の収録作も
どこかしらぺてんの要素が感じられるものばかりである。

また、物語の終わり方が哄笑よりも苦いつぶやきや涙で終わるものも目立つ。
この例の筆頭は「この世で一番忌まわしい世界」で、「氷河来たる」「究極の被造物」も
このグループに入るだろう。「子供たちの午後」や「彼岸の影」にしても、そのラストは
どこかゾッとさせる余韻を残して終わる。
平たく言えば、この短編集はラファティ作品の中でもペシミスティックな色が強く、しかも
「秘密の鰐について」(『どろぼう熊の惑星』所収)のラストのような救済の要素も薄い、
かなり重めの内容を持っている。
まあそのペシミスティックな諦観こそラファティの持ち味のひとつであり、この本に収録された
淡々として醒めた視線を感じさせる物語の数々は、作者の持つそんな一面を強く際立たせる
陰画のような味わいを持っていると思う。
ただしこの傾向の作品が続くと、バカ話を読んでいるのになんとなく気持ちが沈んでくるのが
どうにもすっきりしないところなのだが。

この短編集でもうひとつ顕著に感じるのは、ラファティの「子供」と「女性」に対する見方である。
これまた他の作品でくり返し取り上げられていることだが、彼にとって「子供」と「女性」こそは
もっとも身近なエイリアンであり、モンスターであったように感じられる。
「究極の被造物」「子供たちの午後」「この世で一番忌まわしい世界」が、この種の代表作だろう。
そして「子供」と「女性」はまた天性のぺてん師でもある、というのがラファティの持論のようだ。
「七日間の恐怖」や「日の当たるジニー」(『九百人のお祖母さん』所収)はその好例だし、
「トライ・トゥ・リメンバー」や「究極の被造物」でも、男は女にいいようにコントロールされている。
彼の作品に出てくる男性にはぺてんを生業としている者も多いが、そんな彼らでさえ子供と女性には
いいようにあしらわれてしまっている感がある。(「科学者」と称する連中は、その代表だ。)
特に「この世で一番忌まわしい世界」は「蛇が女に騙されて堕落させられる」物語であり、これは
明らかに創世記のイブと蛇の挿話の逆転を意味している。真のぺてん師はイブのほうなのだ。
男性キャラクターが子供と女性に対抗しえた数少ない例外は、ラファティ世界最強のトリックスターである
ウィリー・マッギリーの活躍する数作程度に限られるのである。

ラファティの作品には「男性・白人・アメリカ国民・カトリック」というアイデンティティが色濃く感じられ、
一方でそれと異なる存在はわけのわからない、得体の知れないものと捉えている節もある。
他方、それらは(欧米的な視点から見れば)「野蛮」であるゆえに、よりプリミティブな存在であり、
「文明人」と称する連中などと比べればよほど神に近い生物である、という見方もできるだろう。
だからこそラファティは執拗にそれらを書き続けたのかもしれないし、それらを書くための手段が
SFにしかなかった、ということなのかもしれない。
そしてその背後には、生涯を未婚で通し最後は老人ホームでその人生を終えたラファティが
内心に抱いていた孤独や寂しさというものが、透けて見えるような気もするのだ。
本短編集中だと「この世で一番忌まわしい世界」が、そんな傾向を代表する作品であろう。
本書でもっとも暗く救いの無い物語であるが、ラファティの内面がもっともストレートに吐露されている
作品のようにも思えるのである。
決して大好きな話ではないが、私にとってこの作品はラファティの短編中でもとりわけ強い印象を残す
忘れがたい作品のひとつである。

本書が刊行された当時と異なり、今は長編も含めてラファティ作品を読める状況が整ってきた。
それでも、ラファティをより深く知りたいという人にとって、本書の価値は少しも薄れていない。
むしろラファティを数多く読める今だからこそ、本書の意義がより高まったともいえるだろう。
サイズもコンパクトなので、ラファティ好きなら資料としても常に座右においておきたいところだ。
再び絶版とならないうちに入手しておくことをお勧めする。

カウパーとウェルズで締められても…

2006年07月09日 | SF
『ベータ2のバラッド』も、ラストの2作品を残すのみ。

『ハートフォード手稿』
NWとの比較にはもってこいの非NW作品。とにかく文章が重い。
これに比べれば、ロバーツの作品すら軽やかに思えてくるほど。
しかもこの前がエリスンだから、もっさり感が5割増しくらいに
感じられて、特に出だしはかったるくて仕方がなかった。
こういう作品を読むと、NWという動きが「何を書くか」以上に
「いかに書くか」を強く意識し、実践していたのだということを
再認識させられるものがある。

内容については、実話仕立てとテキスト内テキストがメタっぽいものの、
基本的にはウェルズの本歌取りであり、かつ17世紀英国の歴史に関する
引き写しである。
一番スリリングなのはカウパーの創作部分ではなく、当時の英国社会の
危機的状況のほうだというのが、どうにも困ったところ。
読み物としては悪くないけど普通の話で、刺激的なところは全然ない。

アンソロジーというのは読後の余韻が全体の印象に大きく影響するので
トリを飾る作品にこれを持ってきたのは、いまひとつ納得がいかない。
なんといっても、作品の格が軽すぎるのだ。
他のアンソロジーに収録済みなのがネックだが、ウェルズからの流れで
最後を締めるなら、ここにはオールディスの『唾の樹』を置きたいところ。
あの作品こそ、ゴシックとペシミズムの系譜、科学による進歩への傾倒と
懐疑を見事に融合させた「小説によるSF史」であり、解説で編者が述べた
「英国SFの源流」を示す上でも格好の作品だと思うのだ。
以上は主観的な意見だが、このアンソロジーを読み終えたら『影が行く』に
収録されている『唾の樹』にも目を通して欲しいと思う。
(余談になるが、あの原題は『よだれの樹』と訳したほうが語感もいいし、
その貪欲な感じがより内容にふさわしいという気がする。)

どうせオールディスを載せるなら、かの『リトル・ボーイ再び』を
持ってくるというのも、なかなか捨てがたいものがあるのだが。
こういう危ないセレクトに走りたがるのが、編者と私の好みの違いと
いうことなのかもしれない。

『時の探検家たち』
カウパー作品の補足的に収録された作品。もちろん非NWである。
英国SFの始祖という点では収録の意図もわかるけれど、正直なところ
これとカウパーを抜けば別の作品が十分入ったろうに、とも感じてしまう。
読者としては、こういうひねった編集はあまりうれしくないところだ。

といっても、ウェルズの作品自体はやはり面白い。
怪奇趣味と科学的描写が表裏一体となって描かれる物語は、因襲と科学が
ぶつかり合う時代ならではの「世界のねじれ感」が魅力的であり、一方では
この「ねじれ感」こそ、今もSFの根っこにあるものだと痛感させられる。
それと作中でネボジプフェル博士がタイムマシン製作の動機に「孤独感」を
挙げていたのは、興味深いところだった。
スタージョンに代表されるように、SFと「孤独」というのは非常に親和性の
高いものなのだが、ウェルズの頃からそれが書かれていたとは思わなかった。
実はよく考えてみれば、モロー博士も透明人間も「孤独者」の物語なのだけど。

ウェルズとそのオマージュというセットであれば、まず筆頭に挙げられるのは
ウルフの『デス博士の島その他の物語』と『モロー博士の島』の組み合わせ。
本来はこのセットを掉尾に置くのが最強の布陣だが、さすがにそれは無理なので
カウパーを持ってきたというのが実情か。
まあ各読者は自分なりにこの部分を他の作品に置き換えて遊ぶというのも、
このアンソロジーの楽しみ方のひとつということになるのかも。

収録作に異論はあるものの、こういう本が出ること自体がうれしい企画であり
ここで読めなかった作品に対する欲求もさらに高まるというものである。
テーマアンソロジーに限らず、今後も埋もれたSFの名作や佳作を書籍化する
企画が続いて欲しいものだ。
とりあえずは浅倉セレクションの『グラックの卵』に期待したい。
それと『異色作家短編集』別巻の早期刊行を、切に望むものである。
ロバーツやエリスンを待たされると、そのうち禁断症状が出てきそうだ。

四色問題その他の物語

2006年07月04日 | SF
前回に引き続き『ベータ2のバラッド』収録作から、
表題作以外で読み終わったものについての感想。

『四色問題』
バロウズ読んでないもので、文体模写といわれても何がなにやら。
まあいろいろと小難しい話が書かれているものの、実のところは
NWのセルフ・パロディじゃないの、というのが私の見方。
四色問題にかこつけて、バラードの「内宇宙への道はどちらか?」を
大っぴらにパロディ化してしまったのが、本作ではないかと思うのだ。
五色目の場所はどこかを延々論じまくったあげく「そんな場所はない」と
バッサリ斬り捨てたり、国を挙げての数学的証明事業がいつの間にやら
カバラ装置の開発事業になってしまったり、セックス・テンソルに乗って
内宇宙から大艦隊が飛来したりと、もうやりたい放題である。
話が進むにつれて、作中に出てくる「パルプSF誌」が「パルプカバラ誌」
に化けてしまうあたりなど、「SFとは何か」というNW的論争に対する
ベイリー流の皮肉ではないかと勘ぐりたくなるところだ。

確かに奇作・怪作の名にふさわしい珍品ではあるのだが、実は内輪受けの
軽いスラップスティック・コメディと見るならば、あまり持ち上げるのも
どうだろうという感じ。
どうせなら巻頭に「内宇宙への道はどちらか?」を掲載して、その直後に
『四色問題』を載せてくれれば、まさしく「NW史改変アンソロジー」として
不動の評価を得られたかも知れないと思ってみたりして。
まあそれは編者の意図とは全然関係ない話なのだけれど。

『降誕祭前夜』
華やかさはかけらもないながら、実在しない光景をまるでそこにあるが如く
鮮明に描き出して見せるのが、ロバーツの真骨頂。
その文章は、さながら渋いモノクロ映画を見ているかのような味がある。
淡々とした筋運びの中にじわじわと不穏な空気が高まってくる展開は、
まさに英国ゴシック小説の正当な系譜を感じさせるものだ。
歴史改変や異様な社会制度というテーマは別段目新しくもなく、話自体は
極めて真面目な文学派SFなのだが、この異端の作品集の中にあっては
その真面目さがかえって独自の存在感を放っているという良さもある。
SFマガジンあたりに載っていたら、まず2度と日の目は見なかっただろう。
この手の小説はやはり「ゴシック叢書」の版元から出されるのがふさわしい。

もう一つ面白かったのは、英国人にとっては「ナチズム」による支配体制が
未だ根深い恐怖として残っているのだと再認識させられたこと。
最近『V・フォー・ヴェンデッタ』を読んだせいもあるが、全体主義の台頭で
恐怖政治がもたらされる事への恐れと反発は、他のどの国にも増して強いと
感じさせるものがある。
その恐怖心と反発心が、「もしドイツが戦争に勝っていたら」という物語を
繰り返し生み出す土壌となっているのだろう。
ちなみにこれをアメリカ人の場合に置き換えるなら、真珠湾と核の呪縛に
今も捉われている、ということになるのだろうか。まあ単なるイメージだが。

『プリティ・マギー・マネーアイズ』
歓楽の街ラスベガスを舞台に繰り広げられる、聖なる娼婦と心優しき負け犬の
奇跡と愛と絶望の物語。
男と女の悲哀としたたかな駆け引きの顛末を、ギャンブルというテーマを通じて
一気呵成に書き上げた佳作である。
女の情念と街の熱気が絡み合うことで生みだされた幻が、一人の男を捕らえて
蟻地獄のように引きずり込んでいくという、一種の都市小説とも読めるだろう。
まあ一番カッコいいのは、まるでペンならぬペニスを握っていきり立つかの如く、
ハイテンションでドライブしまくるエリスンの文体に尽きるのだが。
原文はもっとぶっ飛んでいそうな気もするが、この幻の作品を日本語で読めるのは
とにかくありがたいことである。
翻訳者の伊藤氏のご苦労には、最大限の敬意と感謝を表したい。

この話を読んでいて、リーミイの『サンディエゴ・ライトフット・スー』を思い出した。
別に似ているというわけではないが、これも女の妄執とせつない悲しみを描いて
忘れがたい作品である。
できればリーミイもどこかで復刊して、ぜひ読み比べるチャンスを与えて欲しい。

若きディレイニーの肖像

2006年07月02日 | SF
「未来の文学」初のアンソロジーが、いよいよ刊行された。
一応はNWという看板をぶらさげてはいるものの、運動や思想よりは
むしろ時代を象徴するためのキーワードとして選ばれたフシがある。
むしろ「20世紀SF」の若島版、もしくは裏バージョンと呼んだほうが
このアンソロジーの性格をよく表しているような感じがする。

さて、表題作『ベータ2のバラッド』。
ディレイニーの最初期作品であり、確か彼の初SF作品だったように思う。
あまりに古典的な展開なのでちょっと意外な気もしたが、当時新進作家の
ディレイニーが、SFを書き始めるにあたって「いかにSFらしく書くか」を
意識して書いたと考えると、実は型にこだわる彼らしいと言えるかも。
ヴォートっぽいテーマを扱ったあたりには、当時のディレイニーが持っていた
SF観や、彼の好みを伺わせるようでもある。

SFらしさにこだわるあまり、彼の魅力である奔放なイメージは若干抑え気味に
なってしまったが、五感に直接訴えかけるような情景描写の鮮やかさは、やはり
ディレイニーならではの持ち味である。
物語の核である「バラッド」の謎解きが記録と伝聞だけで成し遂げられてしまうのは
ダイナミックさと緊張感に欠けるところで、ここが本作最大の弱点。
だがこれも、「語りの多様性」と「物語の多面性」に主眼を置いたものと考えれば、
これまたディレイニーらしいと言うべきか。

いろいろな面で、後年の作品に比べれば食い足りないし、荒っぽくて詰めも甘い。
それでもこの作品には、まぎれもなくディレイニーの印が刻印されている。
そしてこの物語自体が、若きSF作家の意気込みと挑戦の貴重な記録なのである。
主人公のバラッドを巡る探求の姿は、ディレイニーのSFに対する探求の姿と
ぴったりと重なるのだ。

そしてこの『ベータ2のバラッド』、作中に後のディレイニー作品の原型が
いくつも表れているという点でも、非常に興味深い作品だと言える。
例えば、口承文芸と宇宙冒険SFの部分は『ノヴァ』。
言語への興味と自己認識の問題は『バベル=17』。
そしてキリストにまつわる物語については『アインシュタイン交点』。
『ベータ2のバラッド』を、上記の作品が生まれるための習作として位置付けるのも
あながち無理ではないと思うのだが、どうだろう。

単体の作品としては不十分な面もあるが、ディレイニーという作家について
マルチプレックスに読み解きたいと思う読者なら、『ベータ2のバラッド』は
ぜひ読んでおくべきだと思う。
まだカットも磨きも粗いけれど、ここには確かに宝石の「輝き」が潜んでいる。