熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

現在不定期かつ突発的更新中。基本はSFの読書感想など。

『海を失った男』、あるいはスタージョンの墓標

2007年12月26日 | Sturgeon
シオドア・スタージョン再評価の発端となった作品集『海を失った男』を、
今回改めて取り上げてみた。

「SF作家としてのスタージョンの栄光と悲惨を、そこに見る。」
これは本書『海を失った男』に収録された「三の法則」について、編者でもある
若島正氏があとがきで書いた文章の一節である。
ここから「SF」という一語を除けば、それがそのまま本書全体を評する言葉に
当てはまるのではないだろうか。

内容の出来不出来やジャンル性よりも「スタージョンらしさ」を前面に出したことが
この作品集における最大の特徴であり、収録作のムラや甘さといった要素も含めて
「シオドア・スタージョン」という作家の輪郭をくっきりと描き出している点については
全く異論の無いところである。
一方、それらが「ジャンル小説」あるいは単に「小説」としてのバランスやまとまりを
欠いていても、そこに「スタージョンらしさ」さえ見出せれば、それだけで一定の評価を
与えてしまう傾向を生んだ一因も、この作品集にあると思う。
孤独、飢え、愛、そして憎悪といった要素を「スタージョンの味」として評価し賞味する
読み手の姿(そこには私自身も含まれる)を思うとき、このような「作家スタージョン」の
受け止め方について、ふと逡巡してしまうこともあるのだ。

いまや我々はスタージョンの作品を「小説」としてではなく、スタージョン自身として
読んでしまっているのではないだろうか?
優れた小説には避けがたいこととはいえ、スタージョンに関しては特にその傾向が
顕著に感じられる。
そしてふと考えるのは、この行為はスタージョンに対する「墓読み」ではないだろうか、
ということだ。
この作品集の収録作を読み、その中の一語一文からスタージョンの人生を読み取って
思いをめぐらせる時、スタージョン自身はこんな読まれ方を望んでいたのだろうかと
考えてしまうことがある。
そして私は、そこに作家としてのスタージョンの「栄光と悲惨」を感じてしまうのだ。

前置きはこのくらいにして、以下に各作品の感想を述べる。

「ミュージック」
本書の巻頭を飾る傑作。わずかなページの中にスタージョンの得意とするモチーフが
詰め込まれ、濃密で異様な世界を醸し出している。恐るべき小品。

「ビアンカの手」
『一角獣・多角獣』にも、同題で収録あり。
この一作の中にスタージョンの書いた全ての小説が含まれているとも言える、彼の代表作。
本作で早すぎる頂点を極めたスタージョンは、以後の作で繰り返し同様のテーマを掘り下げ、
分類し、拡張し続けた。その意味では彼もまた「ビアンカの手」に捉われていたのだ。
これもまた作家スタージョンの栄光であり、そして悲惨である。

「成熟」
創造の天才であるロビンは、一方で自分と異なる人間とその社会を理解できず、
将来という概念も認識できない「未熟」な精神の持ち主、つまり「子供」である。
この作品におけるスタージョンの興味は、SF小説であれば真っ先に取り上げるべき
彼の「能力」ではなく、医学的治療によって「大人」になり始めたロビンの変化と、
その「成熟」への過程に向けられている。
故にSF作品としては詰めが甘い上に、ラストも凡庸だ。しかしその凡庸さがかえって
胸に沁みてくるのも、スタージョンという作家の特異性ゆえかもしれない。
そして作中でロビンが女医に投げかける問いは、性愛に寄らない「シジジイ」を標榜する
作者の肉声であり、また我々の社会に対しての辛辣な皮肉ともなっている。

「シジジイじゃない」
『一角獣・多角獣』にも、「めぐりあい」のタイトルで収録あり。
ただし編者の若島氏は前訳に異議を唱えており、今回は編者自身による新訳である。
『一角獣・多角獣』で読んだ時は「仮想現実」のイメージが強かったが、今回は
「1対1の関係に対する不安と怖れ」や「愛という名の共生関係」というテーマを
よりはっきりと認識できた。
それは同時に、またもSFという枠からはみ出していく「スタージョンらしさ」を
否応なく認識させられることでもあるのだが。

「三の法則」
編者も指摘しているとおり、エイリアンとウイルスについての要素が無ければ
普通に見られるTVドラマのような話。
ただし構成要素はスタージョンの得意なものばかりが使われており、これらを
駆使することによって作者の語る「性別や恋愛感情に捉われない人間関係」が
ゆっくりと形成されていくプロセスは、いささか強引だがなかなか面白い。
といっても、「三」で構成される人間関係の典型例を「父」「母」「子」によって
構成される家族と見なす時、スタージョンが求めていたのは結局「家族愛」であり、
彼にとっての至高の関係はそこに尽きるのだという気もしてくる。
あるいはこの「三の法則」とは、裏を返せば「シジジイじゃない」でも垣間見えた
「ペアでいることの苦痛」の表明であるとも受け取れる。

そういえば、以前にSFマガジンで柳下毅一郎氏がディッシュの書いたエッセイを
取り上げていたとき、スタージョン宅に泊まったときの話が紹介されていた。
それによると、スタージョンはディッシュを夫婦の寝室に招き入れるだけでなく
さらに同じベッドに入るよう勧めたという。
これを読んだ時は「変な性癖の人だったんだ」と感じたものだが、今から思えば
彼は本気で「三の法則」を信じていたのかもしれない。

「そして私のおそれはつのる」
孤独な老女と粗暴な少年の交流は、少年がある少女に恋したことによって大きな
転機を迎える…という、スタージョンの代表作「人間以上」のバリエーションとも
とれる作品。教育という側面も含め、少しゼナ・ヘンダースンの雰囲気もある。
作中で陰陽思想やヨガの瞑想がでてくるあたり、スタージョンはこの頃東洋思想に
興味を持っていたようだ。もっとも、これより後に書かれた「ルウェリンの犯罪」
(『輝く断片』所収)では、ヨガに対して否定的ともとれる描写が見られるのだが。
なお、作品の配置的に「落ち」が見えてしまう点だけは、少々いただけなかった。

「墓読み」
一見して奇譚めいた出だしだが、実は素直に情に訴えかける「しみじみ泣ける話」。
その一方で、「墓を読む」というテーマを通じて、書くことと読むことの意味を
強く問いかけてくる物語でもある。
淡々としているところはスタージョンらしくない気もするが、実は本作品集中で
この作家の特質が一番よく出ている作品かもしれない。
この話は読むたびに複雑な気分になってしまい、一本の作品として解説するのが
とても難しい。今回の記事の冒頭で書いた文章にも、そんな心理が反映している。
墓読みのプロセスをじっくり語るくだりは、実はスタージョンが言葉というものを
あまり信用しておらず、非言語的なコミュニケーションを理想としていたことを
示唆しているようでもある。

「海を失った男」
冒頭とラストのシーンが重なることで浮かび上がる、「ここではない世界」の風景。
その光景が象徴する「絶望的なまでの孤独」と、主人公が放つラストの叫びこそ、
超絶技巧の文体や「意識の流れ」以上に美しく、また胸を打つものだと思う。
あるいはそれを「美しい」と感じるのは、SFを愛する者に限られるかもしれないが。
解説ではNWを引き合いに出しているが、むしろバラードの作品と絵的に似ている程度で
難解な話ではない。ちなみにバラードによるNW宣言は、この作品より後に書かれている。
二人称の文体についてはウルフ先生で慣れているので、特に問題なし。
こういう話を読むと、また「デス博士」が読みたくなってくる。

「ジャンルという枠を超えたスタージョン」の数々を読んだ後に思うのは、これとは逆に
「ジャンル作家としてのスタージョン」を見てみたいということである。
例えばSF作品では「皮膚騒動」「ポーカー・フェイス」それに「極小宇宙の神」など、
名の知られた作品が収録されずに残っている。未訳の作品もまだまだありそうだ。
作品の良し悪しよりも、今はただ「SF作家としてのスタージョン」を読んでみたい。
いつか誰かがそんな作品集を編んでくれることを、期待している。

恐るべき『一角獣・多角獣』

2005年11月14日 | Sturgeon
復刊された『一角獣・多角獣』を購入、全篇読了。
『海を失った男』を未読なのは、この復刊を待っていたから。
・・・と言いたいところなのだが、実は単に買いそびれていただけだったりする。
とにかくやっと墓場から還ってきたこの本、待ち望んでいた機会なので
全作の感想を書いてみようと思う。

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「一角獣の泉」
「奪う愛」と「受け取る愛」をめぐる物語。
その美しさに感激。こんなに美しい物語が今まで読めなかったのは、
ファンタジー界の大きな損失ではないだろうか。
さしずめ『人間以上』の第1章からSF的な部分を引いて、寓話風に
仕上げた感じなのだが、あの第1章が持つ魔法のごとき「美しさ」に
魂を奪われた読者なら、こちらも気に入ってもらえるはず。
発表年が同じなためか、両者の間に共通するモチーフをいろいろと
見出せるのにも注目したい。

短い作品の中に、見る・味わう・嗅ぐ・触れる・聴くという要素が
巧みに散りばめられ、それが物語の官能性をいっそう高めている。
スタージョンの感性、美的センスがうまく生かされた作品なのだが、
他の収録作に衝撃度で譲るためか、あまり話題に上らないのは残念。
今回の復刊を機に、もっと評価されて欲しいものだと思う。

「熊人形」
エスパーものの変種と言えるが、それをこんな作品にしてしまうあたりは
さすが奇想の鉄人である。
熊人形の不気味さが絶品。それって実は熊じゃないだろうと言いたくなる。
一応はホラーだが、寄生テーマのSFとして読んでも面白い。
また、子供=怪物の図式は、スタージョン作品ではおなじみのもの。
「タンディの物語」と同系列の話だが、怖さに主眼を置いた分だけ
こちらのほうがキレがあると思う。

「ビアンカの手」
出だしから一点突破の凄みが感じられる。
とにかく手のみ。それ以外はすべて付け足しでしかない。
この狂った価値観がそれこそ一心不乱に、しかも美しい言葉で綴られていくのだ。
手と自分の間にある関係性だけを見つめ続け、それに殉じたいと思った主人公の
一途すぎる愛が、とにかく強烈である。
「愛でる」を超えて「魅了されて」しまうことの怖ろしさ、そして甘美さ。
フェティシズムであるからこそ成り立つ究極の純愛が、ここにある。
また「手」をめぐる一種の吸血鬼小説と読むこともでき、その点では
「熊人形」とも共通する視点を持つとも言える。
部分が全体を凌駕するという発想に『人間以上』へと至る萌芽が垣間見えるのも
興味深いところだ。

「孤独の円盤」
いわずと知れた名作。スケールの違うものを等価で並べて見せたところに
スタージョン魔術の冴えがある、とだけ書いておく。
文章については「不思議のひと触れ」所収の白石朗訳と比べると、印象がかなり異なる。
白石氏の訳は部分を取り出すと格好良いのだが、全体の流れはどことなくぎこちない。
個人的には、文章がよどみなく流れる小笠原訳のほうが好みだと思った。
要所で重々しく強調されるよりも、やわらかい言葉遣いの中からふっと浮かび上がる
「孤独感」のほうが、読んでいて胸に迫るものがある。
一方では訳語に疑問を感じるところもあるので、細部が気になる人は白石訳と
比較してもらうのも良いだろう。
いずれにしろ、この名作を2つの訳で読み比べられるのは幸せなこと。
『不思議のひと触れ』で既読の人にも、小笠原訳をぜひ体験して欲しい。

「めぐりあい」
女の不実が男を翻弄し、やがて恐るべき真実へと導く話。
2回読むと、作中に周到に張り巡らされた伏線が見えてきて
「やられた」という気分になる。
スタージョン作品にはおなじみのモチーフが主体なので、
その発想自体にさほどの驚きは無い。
しかし見方を変えると、そのアイデアや書き方はどことなく
ティプトリーの「接続された女」と似ているように感じられる。

「イメージによって生成された、欲望の対象としての仮想存在」
というアイデアは、発達するテクノロジーとネットワーク社会に
結びつくことで、後にサイバーパンクと呼ばれる作品群へと発展する。
スタージョンの書きとめた密かな妄想は、いまやマスメディアと
マーケティングによって、世界を覆う巨大な妄想へと変化したのだ。

「ふわふわちゃん」
ネコのネコによるネコのための犯罪小説。
これぞ奇想!と言いたくなるような逸品である。
ふわふわちゃんのライバルは三毛猫ホームズか、黒猫アプロか、
はたまた子猫のガミッチだろうか。
あの有名な苦沙弥先生宅の「吾輩」も含め、こいつらが束になって
挑んできたら、人類なんぞ到底太刀打ちできないだろう。
随所で語られるネコについての寸評も秀逸である。
一流の人間観察者は、一流のネコ観察者でもあったのだ。
ネコ好きはもちろん、ネコが苦手な人も必読。
ネコ嫌いはますますネコを嫌いになること請け合い。

「反対側のセックス」
なんとも奇妙なタイトルだが、これこそSF作家・スタージョンの
真価が発揮された、本作品集中でも特に注目したい作品である。
彼の持つ奇妙な学説、モラル、文明論、そして宗教観といったものが、
ミステリ仕立てのこの一作に凝縮されているのだ。
SFらしさで評価するなら『人間以上』を上回るかもしれない。
これほど奇妙かつ壮大な話でありながら、読後感が実に爽やかなのも
スタージョン魔術の驚異である。

なお、「めぐりあい」ではわかりにくかったシジジイ理論も、こちらでは
明解に説明されている。
彼の作品の多くは性意識、特に女性化願望や無性への憧れが重要な位置を
占めており、このシジジイ理論はそれらを結びつける一つの鍵になりそうだ。
生殖を伴わない愛と、生殖という名の戦い。形態を異にする「反対側のセックス」。
スタージョンは、そのどちらにも等しくエクスタシーを見出しているのである。

「死ね、名演奏家、死ね」
ビッグバンド版『人間以上』。ただしこっちは頭が無くなっても
平気で機能し続けてるというタチの悪さ、しぶとさを誇る。
ジャズの音色と共に描かれるジリジリとした心理描写は、
まさしくアメリカン・ノワール。
異常心理による犯罪小説というだけでなく、芸術の持つ支配力を
生々しく描いた作品としても、後々まで残るだろう。
ただしスタージョンの作品中では比較的まともな話なので、
手放しで絶賛するまでには至らなかった。
自分がジャズに今ひとつ詳しくないのも、ネックになっているのだろうか。

あの落ちについては、多分そうされちゃったんだろうな、ということで。
だとすれば、仲間だったメンバーの残酷さのほうが怖ろしいと思う。
最後の一語に込められた想いが愚かしく、また悲しい。

「監房ともだち」
異常な奴に異常な行動をさせられてしまう男の、異常な心理。
この話で一番怖いのは、その心理がどこまで操られているものなのか
いまひとつはっきりしない事だ。
この気持ちのどこまでが自意識で、どこまでが操作なのか。
自分の感じている好意はどこまで本物なのだろうか。
異形の存在に心惹かれてしまった男の、狂おしくも絶望的な想いが痛い。
なおこの作品にも「たとえ世界を失っても」と同じく、密かな同性愛の気配が
漂っているように感じられた。

「考え方」
本作品集のうちでも、暗黒度ナンバーワンの衝撃作。
これが今までの傑作集に再録できなかった理由は、
きっと読んでもらえばわかると思う。

ユーモラスだがどこか不気味なエピソードで始まる物語は、
探偵小説からいつのまにかオカルト調に変貌していき、
やがて茫然自失のエンディングへとなだれ込んでいく。
先の全く読めない、実に恐るべき物語である。
「現実にも幻想にもそれやしない。おれはただまっすぐ考える。」
こんなことをうそぶく男のとった行動が、あんなラストに至るとは。
愛が明るいほど、憎悪の闇は底知れず深いのか。
非現実的な現象に立ち向かうには、非人間的に考えるしかないのか。

つぎはぎとしか思えないアイデアの組み合わせから産みだされた、
グロテスクな怪物のごとき物語。
それはまるで、ミシンとコウモリ傘が線路上で激突したかのような衝撃を
読む者に叩きつける。
その異常さ、その歪み方、その近寄りがたさゆえに、この作品は
スタージョンを知る上で欠くことのできない代表作だと思う。

これだけ怖い話なのに、語り手が実在の人物らしいのがさらに恐ろしい。
もしこれが実話だとしたら・・・いや、そんなことは考えまい。

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総括すると、全篇ハズレなし。
伝説の傑作集という触れ込みに偽りは無い。
これだけの本がなぜ復刊されなかったかと思う一方、掲載作品を
全部読んで見れば、今になって復刊された理由がわかる気もする。

SFブーム真っ只中の時期にあっては、SF色が薄すぎて
きっと売れなかっただろうし、バブル景気の時代だったら
その暗さと異常さが疎まれたことだろう。
結局のところ、SFというジャンルがなんだかわからなくなり、
国も活気を失い、世界中が不安と猜疑ばかりの時代だからこそ、
スタージョンを含めた異色作家たちの出番が回ってきたのだと思う。
なにが本当かわからない時代には、「なんだかわからない物語」が
一番ふさわしいのだ、きっと。

だからといって、スタージョンを読めば不安が無くなるわけでも、
世界が本物に見えるようになるわけでもない。
せいぜい、この世界はもとから変で嘘ばかりなのだということを
思い知らせてくれる程度だろう。
でもそれを知ることで、少しだけ孤独が減ったり、生きることが
ちょっぴり楽になったりするかもしれない。
そしてさしあたりは、それだけで十分なのである。

『人間以上』に見る人間性

2005年11月01日 | Sturgeon
『人間以上』をやっと完読。
第1章「とほうもない白痴」は第2章「赤ん坊は三つ」の前日譚。
第3章「道徳」は、前の2章を受けた完結篇になっている。
自分は2章から1章、3章と読んだのだが、この読み方でも全然普通に読めた。
むしろ1章が2章の謎解きになって楽しめたようなところもある。

巧みな犯罪小説であった「赤ん坊は三つ」に対して、「とほうもない白痴」は
みずみずしい青春小説といった感じ。
じわりじわりと「理解」が進んでいくプロセスや、子供の眼から見た大人の生態などは
年をくってからの読者にとっても、忘れていた「成長」の感覚、かつて味わったはずの
驚きやとまどいを鮮やかに思い出させてくれる。
そして、その文章のなんと官能的なこと!
ことばひとつ、場面ひとつを取ってみても、切れば血が出るような生気に満ち溢れている。
そこで描かれる苦痛・死・喜び・愛といった感情は、およそ書かれたものの中では
もっとも本物に近いものではないだろうか。

この1章のみで消えてしまう人物は意外に多いが、そのほとんどは
その後の2篇で登場する人物たちよりも鮮烈な印象を残す。
彼らはみな大きな「欠落」を抱えており、それを埋め合わせるために
それぞれの規範に基づいた行動をしていたのだと思う。
それらの多くは狂った、あるいは身勝手なものであったが、その渇望と
偏執ぶりは、たしかに読者を圧するだけの迫力を持っていた。

その中でも最も巨大で、最も耐え難い渇望。
それこそが、無垢ゆえに愚かな少女が抱えるものであった。
さらに彼女はその渇望で、自分の姉とその人生を縛ってしまう。
そして父と妹の呪縛に捉えられながら、姉娘アリシアは一人で踊る。
自分にとっては、ここが一番好きなシーンである。
一番痛ましいシーンが、一番美しい。これはそういう物語なのだ。

ゲシュタルトとして「いかに機能するか」が主題となっていく第3章では
もはやテクニックを出しつくした感もあり、前の2篇ほどの凄みはない。
単品で見ればサイコ・スリラーとして十分な出来なのだが、結末に向かって
物語が収束していくにつれ、話そのものも小さく地味になっていく気がする。
結末の唐突なSF的広がりは、その飛躍ぶりに賛否両論ありそうだ。
それまでの丹念なリアリティの積み重ねから、一気に抽象概念へと
飛躍してしまう終わり方は、自分にとってはしっくりこなかった。
(まあ超人の思考など、凡人にはわからなくて当然なのだが。)

そしてラストを読むと、この小説がスタージョンにとっての親探し、
特に父親探しではなかったのかという気持ちが湧いてくる。
彼はきっと、人以外のもの、人より優れた何者かになりたかったのだ。
そしてそれを父に認めて欲しかったのだろう。
『人間以上』の結末において、人類はホモ・ゲシュタルトの親に位置づけられた。
これをスタージョンの父とスタージョン自身に置き換えれば、『人間以上』は
スタージョンが自らの父を赦すために記した物語のようにも思えてくる。

それにしても、なぜテレパシーを主題に選んだのか。
言葉の魔術師とされるスタージョンであるが、彼にとってはその言葉さえも
不十分な表現方法だったのではないだろうか。
その中で彼が悪戦苦闘しながら、言葉の力をぎりぎりまで引き出そうとして
物語を書き続けた結果が『人間以上』に結実しているように感じられるのだ。
感じていることを可能な限りそのままに、言葉で表現したい。
その苦しみと葛藤と渇望は、ローンの心理描写からうかがう事ができる。
ローンの苦痛はまた、小説家としての苦痛だと言ってもよいだろう。
スタージョンもまた、「書くこと」に自覚的な作家の一人だったのだと思う。

章ごとにそれぞれのクセがあって、読む人にとっての好みも分かれそうな作品だが、
一読して「なんだかすごい」と思わせる物語であることは間違いない。
自分はホモ・ゲシュタルトという発想よりも、全篇を通して流れる感情の生々しさや
渇望の激しさのほうに胸を打たれたものだ。
子供がいかにして大人になり、そして人間らしくなっていくのかを、
技巧と描写の限りを尽くして描いた傑作である。
スタージョン好きに限らず、小説好きなら1度は読んでおくべき作品だと思う。

長編も新訳で読みたい気分

2005年10月22日 | Sturgeon
上遠野浩平とスタージョンの類似性について書いているうちに、
「赤ん坊は三つ」の文章の古さや読みにくさが気になってきた。
英語の原文も相当な難物なんだろうけれど、やはり今読むと
訳文の言葉遣いの古めかしさ、言い回しの堅さなどが気になってしまう。

今読んでいる第1章「とほうもない白痴」に関して言えば、ぎこちない文章は
発達障害を抱えた主人公の感覚を丸ごと書き写したような奇妙さと同時に
どこか絵画的な美しさをも感じさせて、かなり良い効果をあげていると思う。
一方、第2章「赤ん坊は三つ」の場合は、ただでさえわかりにくい内容に加えて
昔風の文体や言葉遣いの古さが、その読みにくさに輪をかけてしまった。
話し方が今とは違うせいで、登場人物の会話に不自然さを感じるのだ。
ほとんどが会話調で進む「赤ん坊は三つ」において、この不自然さは
読み進む上で常にひっかかりを感じる問題点である。

作品の書かれた時期そのものがかなり昔とはいえ、『人間以上』のような
時代を超えた名作に関しては、その時々にあった訳文を取り入れることも
悪くない選択肢だと思う。
特に「赤ん坊は三つ」のような会話主体の作品の場合は、格調の高さよりも
鮮度の高さを重視した言葉遣いのほうが、作風になじむのではないだろうか。
(といっても、コギャル言葉まで使ったらさすがにやりすぎだが。)

もともと翻訳という行為そのものがある種のアレンジなのだし、
スタージョンの短編も新訳が次々と出されている最中である。
『人間以上』についても、せっかく表紙が新しくなったことだし、
訳文のほうもそろそろアップデートしてよい時期かもしれない。
(まあ新しい表紙には賛否両論あるらしいし、私もあのイラストが
緒方作品のベストとは言わないけれど、別に悪い出来とも思わない。)

「ぼくたちのリアル・フィクション」などの企画で若い読者の取り込みを図る
SFマガジンにとっても、これでSFの読者が増えれば好都合だし、おかげで
さらに作品の紹介や復刻が進めば、スタージョンのファンも大喜び。
まさに一石二鳥の話ではないか。
幸いにもスタージョン、特に『人間以上』を訳したいという翻訳者は
かなりいそうなので、そのうちのだれかが似たようなプランを
ハヤカワに持ち込んでくれないかと密かに期待しているところである。
矢野氏の訳の良いところを残しつつ、新鮮な訳文に生まれ変わった
『人間以上』なら、さらに多くの愛読者を掴むはずだ。

「赤ん坊は三つ」読了。

2005年10月22日 | Sturgeon
『人間以上』第2章の「赤ん坊は三つ」を読み終えたので、
いったん感想をまとめてみようと思う。
『夢みる宝石』がスタージョンの生け作りとするならば、こちらは技巧を
目いっぱいに凝らした、スタージョンの五目あんかけといった感じである。
とにかく、まずはあらすじの紹介から。

精神科医を訪ねてきた素性の知れない少年が、いきなり1000ドル札を差し出して
「ぼくを分析してくれ」と依頼するところから、物語は始まる。
少年は「ある犯罪」の真相を知るために、自分の精神分析を必要としていたのだ。
精神科医は彼との対話を通じ、その精神の奥に隠された事件の真実と
それが起きた本当の理由について、徐々に迫っていく。
やがて彼らのたどり着いた、驚くべき真実とは…。

アイデアがとにかく広く知れ渡っているこの作品だが、「赤ん坊は三つ」に限定すれば
むしろSFアイデアをホワイダニットに使った、極めて特異な推理小説という趣きがある。
もちろん落ちとなるのはそのアイデアなわけだが、そこに至るまでの過程が抜群に面白いのだ。
自分は推理小説をほとんど読まないのだが、ミステリーとして読んでも超一流の作品だと思う。
(まあエラリー・クイーンの代作を務めたこともある作家だけに、これは当然か。)

会話と回想の中でめまぐるしく交錯する過去と現在、観察するものとされるものの視線、
そして物語全体の基調を成す、支配と被支配の図式。
これらの要素は話の進行につれてだんだんと形を変え、やがて安定感を失い、
結末に至って根こそぎにひっくり返されてしまう。
それはまるで大木が音もなく倒れていくような、奇妙な痛快さを伴った感覚だ。
真実が見えたと同時に、グズグズに崩れてしまう既成概念。
こういうのを書かせると、やっぱりスタージョンは抜群にうまい。

謎解きが人の概念を変え、世界をも揺るがしてしまうという物語。
今ちまたで流行っている「新本格」というのは、案外こんな感じなのかもしれない。
特異な発想や言葉への執着、人称の変化や意識のすり替えなどのテクニックを
惜しげもなく投入しているあたりにも、それらとの近似性が感じられそうだ。
というより、これらの作家の隠れた手本こそ、スタージョン作品だったのかも知れない。

上遠野浩平の『ブギーポップ・シリーズ』を読んでいたとき、この人の作品には
どこかクラシックなSFの匂いがすると感じていたのだが、現在出版されている
『人間以上』の表紙が緒方剛志のイラストに代わっているのを見て、ようやく
「ああ、これだったのか」と気がついた。
人間と超人間、そして世界と反世界を具現する存在によって繰り広げられる闘いが
奇矯とも呼べるような独特の発想と共に紡がれていくこのシリーズこそ、
まさにスタージョンの系譜に連なる作品だという気がする。
(ほめすぎ?しかし少なくとも初期の数作、特にVSイマジネーターはそんな感じだった。)

奇才が奇才を産むという点では、スタージョンは自分のコピーとなる存在を
後世にたくさん遺していったのだろう。
そう、まるで宝石の見た夢のように。

「赤ん坊は三つ」読んでます

2005年10月19日 | Sturgeon
「赤ん坊は三つ」読書中。いまのところ半分ほど進行。
この話から読み出したのは、当たりだったかもしれない。
先の全く読めない導入部から、スタージョンの術中にはまった感じがする。
文中で語りの主導権がコロコロ変わったり、作中で時間が前後したりと
作者の筆に振り回されっぱなし。
物語の核になるアイデアは知っているはずなのに、このワクワク感は
いったいなんなのだろう。
奇想作家としてのスタージョンの凄さを、改めて思い知らされている
ところである。

内容をよく味わいたいので、読むスピードはかなり遅い。
そして、そのくらいに取り組みがいのある作品である。
ひょっとすると、もう一度くらいはここを読み直さないと、
別の章には行けないかも。

いまさらながら『人間以上』

2005年10月17日 | Sturgeon
さて、ようやく『夢みる宝石』を読めたので、今度は全くの未読だった
『人間以上』にとりかかることにした。
なんでいまさら、という感じもする話だが、実はこの作品のアイデアが
あまりに有名なので、自分としてはとっくに読んだつもりでいたのである。
ところが、いざあらすじを思い出そうとすると全然わからないし、
よく考えると登場人物の名前すら一人も出てこない。
かろうじて思い出せたのは第2章の「赤ん坊は三つ」という章題だけ。
実際に本を引っ張り出してみたら、全く読んだ覚えのない文章だった。

このBlogのサブタイトルは、もともと『不思議のひと触れ』が
近所の本屋で見つからなかったときに思いついたもので、自分の場合は
スタージョンファンなどと名乗れるほどのものではない。
今の時代にこの作家のネームバリューがこんなにアップするとは
想像もできなかったので、軽い気持ちでつけたのがこのタイトルである。
スタージョンのメジャー化を本気で狙っていたのは、たぶん大森望氏と
若島正氏くらいのものだろう。

とはいえ、たとえ一時のブームでもこれだけスタージョンが流行ってしまうと、
SF読みのBlogで、しかもタイトルに名前を使っている作家の代表作を
読んでいないというのは、やっぱりまずいような気がしてきた。
近々『一角獣・多角獣』も復刊されることだし、本自体は手元にあるのだから
この機会に『人間以上』も片付けてしまおうというわけである。

せっかく今になって読むのだからと、ちょっと趣向を変えるつもりで
「赤ん坊は三つ」から読むことにした。
これは雑誌初出の時の読者の気分を再現しようという試みだが、
なまじ有名な作品だけに、ちょっと変わったことをしたほうが
ひょっとすると新しい発見があるかもしれない。
この古典的名作から今何が見えてくるか、その点はかなり楽しみだ。

キャビアとチョウザメ(あるいは、ふたりスタージョン)

2005年10月16日 | Sturgeon
『夢みる宝石』について、その後に思いついたことを追記してみたい。

子供時代に「変な事をする子供だ」と言われたことはなかっただろうか。
多かれ少なかれ、そう言われた体験は誰しもあるはずだ。
たわいもない事柄から、「子供の分際でよくもそんなことを」という内容まで
人それぞれになんらかの奇想や奇癖はあるだろうし、たとえ実行しないまでも
頭の中でその実現性を考えたことは必ずあるはずだ。

スタージョンもそういう子供だったのだろうし、大人になってからは
実際にそんなことをやっていたわけでもないと思う。
ただし彼の場合は、たぶん大人になってもその奇癖が抜けなかったのだ。
そして頭の中でそれを組み立て、紙の上でそれを実行することを覚えた。
彼が書く内容の奇抜さ、不道徳さ、そして極めてプライベートな感触は
そんな事情から来ているように思う。

大人になったスタージョンは、自分で子供じみたことはやらなくなった。
その代わり、子供の行動に非常な興味を持ったようだ。
彼の作品には、子供を極めてよく観察していたと思われるところがある。
『タンディの物語』などはそのいい例なのだが、この作品を読んでみても
彼が子供を観察するときの視線に、保護者としての愛や子供への共感などは
全くと言ってよいほど感じられない。
むしろそれは、なんだか得体の知れないもの、人間っぽいけれど全く違ったものを
見ているような、ドライで距離を置いた視線である。

この乾いた観察眼を思うとき、頭に浮かぶのは『夢みる宝石』の「人食い」こと、
サーカス団長のモネートルである。
彼の宝石に対する執着と飽くなき実験精神、そして冷酷なまでの観察眼。
スタージョンの子供への視線は、モネートルの宝石への態度とすんなり
重ね合わせることができる。
奇癖を持つ「恐るべき子供」としてのスタージョンと、その子供を
覚めた目で観察している、大人のスタージョン。
彼の作品は、この二人のスタージョンのせめぎあいから生まれてくるのだろう。

『夢みる宝石』のラストで、ホーティはカーニバルを引き継ぐ決意を固める。
それはスタージョンの夢みた理想の自己、二人のスタージョンの統合された姿なのだ。

宝石の夢、畸人の夢

2005年10月11日 | Sturgeon
久しぶりにスタージョンの『夢みる宝石』を読む。
ずいぶん昔に読んだときは、虐待のシーンが辛くて
途中で投げてしまったようだ。
あのころより随分たった今は、さすがにそこまでナイーブでも
気弱でもなくなったらしく、最後まで読了できた。

虐待により指を失ったホーティ少年と、彼を拾った巡回カーニバル。
専制君主然とした団長の影に脅かされながらも、彼はそこで異形の人々に
守られつつ、一人の人間としての自我と教養を身につけていく。
そして、彼の生い立ちと団長の秘密、そして異形の人々たちの誕生には
「水晶」の姿を持つ不思議な生物が係わっていた…。
やがてカーニバルを出て成長することを選んだ少年は、自己の持つ
不思議な力に目覚めることとなる。
そしてホーティは自分自身を守り、彼を育てた人々を救うため、
ついにカーニバルへと戻ってくる。
その神秘的な力によって、彼を傷つけ利用しようとする者たちと戦うために…。

大まかにまとめれば、こんな感じの物語である。

やっと全編を読んでみた感想としては、あまりに陳腐なのだが
実にスタージョンらしい話だなと思った。
技巧とか筋立てに凝っていないぶん、ナマのスタージョンが
むき出しで転がっている。そんな感じを受けた。

冒頭から噴出する暴力、少年の過ごす昏さと歪みに満ちた世界、慈愛と残酷。
そしてそれらとは一線を画すように提示される、突飛とも言える概念。
さらには「完全性」への憧れと、誰かに理解され受け入れられたいという
狂おしいばかりの渇望。そして音楽や芸術への言及。
この作品のどこを見ても、スタージョンの刻印が溢れ返っている。

その中で私の目を引いたのは、「水晶」の存在様式に対する言及だ。

作中で語られる、完全に自己完結した存在としての水晶。
彼らは孤独を感じず、他者に煩わされず、独自の思考により充足している。
それは一見すると、ある種の理想的な存在である。
しかし彼らの夢みるもの、創造するものは、いびつで未完成な模倣に過ぎない。
完全な存在となり、完全な存在を新たに生み出せるもの。
それは成長して対になった水晶だけなのだ。

この「結びつくことで完全になれる」という部分こそ、
スタージョンの書きたかったことではないか。
彼にとって、孤独であることは常にいびつで、不完全なのである。
言い換えるならば、個としての存在は誰しも畸形であり、歪んだ
非人間的な存在なのだ。
成長して完全な存在となったはずのホーティも、その本質は人の姿をした
不定形の生命体だということが示唆されている。
彼が完全な「人間」になるためには、対になる存在が不可欠なのだ。
人は一人では生きていけない、それどころか人間にさえなれない。
モネートルとアーマンド、ホーティの二人の敵こそは、まさしく
「人間になれなかった」存在なのである。

人と人間もどきの混ざり合った、どこか不安に満ちた世界を描きながらも
ディック的な疑念と悟りのプロセスに落ち込まず、人と人、存在と存在同士の
繋がりに真の輝きを求めた点に、スタージョンの「人間性」への関心と願望が
見て取れるように思う。
彼がいかに異様で異質なものを描いても、やっぱりそれは人間なのだ。
裏を返せば、人間なんてもともと奇妙でいびつで異様な存在なのである。
それを認めて、さらに書くことができた人は少ない。
そして、スタージョンはそれができたのだ。たぶん、誰よりもうまく。

スタージョン作品における「人間性」もしくは「愛」。
それは実に不安定で、危うい概念である。
そんなものは無いのかもしれない。でも求めずにはいられない。
その狂気じみた渇きの感覚が、スタージョン作品に生々しさをもたらし、
読者の渇望をも掻き立てるのかもしれない。
きっと誰しも同じ苦しさを抱えて、誰かにそれをわかって欲しかったのだ。
彼はわかっていた。そしてそれを書くことができた。
だからこそ、今スタージョンが読まれるのだろう。

彼の原点ともいえるこの作品を読んで、改めてそんなことを思った。