いまさらですが、タイトルなおしました。
漢数字だったのをすっかり忘れてましたよ。
さきほどやっと「『ある物語』ジョン・V・マーシュ作」を読了。
これはもうヤバイ、相当ヤバイです。なんだかよくわかりません。
あんまりアレなので、ちょっとだけネットをカンニングしたら
「マーシュ」は「沼」のもじりとか書いてありました。
うーむなるほどと思う反面で、みんなしてそう思いこまされてるだけかも、
という疑いも出てきてしまったり。これじゃまるっきり作中人物と同じですな。
とはいえ、これをヒントにさせてもらえば「ジョン・V・マーシュ」は
「沼のジョン」なのだと思われますが、気になる点がいくつか。
まず、沼人の間では彼は「空の学び手」と呼ばれていたこと。
また「砂歩き」に「おまえは男じゃない」といわれたこと。
これを考えると、沼人は男に「ジョン」という名をつけないように思います。
だとすれば、「ジョン・V・マーシュ」は「2人のジョン」の合一した姿。
では、「V」とは一体なんでしょう?
私見では「V」は「ヴェール」ではないかと読みました。
(「ヴァーナー」か「ヴィンジ」だったらイヤだけど、可能性ゼロとは言えないなあ)
2話自体が「ヴェールの仮説」を証明するかのような内容であることが理由だけど、
「十字架の聖ヨハネ」が修道名であるように、この『ある物語』の作者名が
ペンネームあるいは偽名である可能性も高いわけです。
しかも、この「マーシュ」が1話の人物かどうかもわからないし。
「Vの女」ってなんかピンチョンっぽくていいなーと思ったのもありますが。
とにかく、ここにもまた「ケルベロス」の3つ首が見えてるように感じられます。
あと、「A Story」って「アボの物語」を暗示してるっぽいけど、
「by」だと採集者じゃなくて語り手がマーシュだという考え方もできる。
そうなってくると、アボ本人が語った話ともとれるし、あるいは人間によるまるっきりの
創作だということにもなりかねない。ますますこんぐらかってきました。
「作」ってそのへんを狙って訳したのかな?ひっかけとか福音書めいた書き方で
「による」としても良さそうだけど、このあたりは柳下氏の「親切さ」かもしれません。
2話全体の印象としては、1話(以下「FHC」)のアボ側からの語りなおしかなと
いう感じです。全体の構成はかなり似てるし。
口承文学風のスタイルを駆使してるあたり、ウルフの文体マニアぶりが伺えるように
思えます。「FHC」では西洋的個人主義を逆手に取ったような書き方でしたが、
ここでは文体の特徴を利用してさらにこんぐらかった世界観を披露して見せています。
ただし、アボの行動や特徴に「西欧から見た未開」のイメージが「あからさまに」
示されていたり、命名法の中に「七人の乙女」のような別の神話からの引用らしき
ものがあったりすること、さらにはアボの意識から容姿に至るまでが「影の子」からの
模倣らしいということを考えると、この「物語」そのもののオリジナリティ自体が
極めてあいまいであるという疑いも出てきます。
彼らの「伝承」も、実は別のものの無自覚なコピーなのではないのか。
そして、「丘人」と「沼人」の対立も、かつて「影の子」同士で「鎖国」と「開国」を
めぐって対立した歴史を模倣しているようにも受け取れます。
そして「影の子」もまた、次の「来訪者」たちにとっては「現地人」となり、
狩られる対象となるのでしょう。
来訪者に同化できなかった「アボ」は絶滅し、生き残った「アボ」はもはや
自分の元の姿すら覚えていない。
そう読むと、これが「FHC」の再話かサブテキストか偽装なんだろうと
感じる一方で、これがアメリカやアフリカや日本だと言われてもおかしくないよなと
思ったりもしたわけです。
まあ社会批判というよりは、これ自体が「FHC」で言う「近似の連続」を
文章化しようという試みなんでしょうね。
でも「キリンヤガ」よりは本質ついてるんじゃないのと言いたくなってしまうのは
私が単にコリバ嫌いだからです。裏でテクノロジー使いまくりの呪術師なんかいらねーて。
ここまでの思いこみが3話でひっくり返るか?
なんだか泥沼にはまってるんじゃないかといういやな予感が。
漢数字だったのをすっかり忘れてましたよ。
さきほどやっと「『ある物語』ジョン・V・マーシュ作」を読了。
これはもうヤバイ、相当ヤバイです。なんだかよくわかりません。
あんまりアレなので、ちょっとだけネットをカンニングしたら
「マーシュ」は「沼」のもじりとか書いてありました。
うーむなるほどと思う反面で、みんなしてそう思いこまされてるだけかも、
という疑いも出てきてしまったり。これじゃまるっきり作中人物と同じですな。
とはいえ、これをヒントにさせてもらえば「ジョン・V・マーシュ」は
「沼のジョン」なのだと思われますが、気になる点がいくつか。
まず、沼人の間では彼は「空の学び手」と呼ばれていたこと。
また「砂歩き」に「おまえは男じゃない」といわれたこと。
これを考えると、沼人は男に「ジョン」という名をつけないように思います。
だとすれば、「ジョン・V・マーシュ」は「2人のジョン」の合一した姿。
では、「V」とは一体なんでしょう?
私見では「V」は「ヴェール」ではないかと読みました。
(「ヴァーナー」か「ヴィンジ」だったらイヤだけど、可能性ゼロとは言えないなあ)
2話自体が「ヴェールの仮説」を証明するかのような内容であることが理由だけど、
「十字架の聖ヨハネ」が修道名であるように、この『ある物語』の作者名が
ペンネームあるいは偽名である可能性も高いわけです。
しかも、この「マーシュ」が1話の人物かどうかもわからないし。
「Vの女」ってなんかピンチョンっぽくていいなーと思ったのもありますが。
とにかく、ここにもまた「ケルベロス」の3つ首が見えてるように感じられます。
あと、「A Story」って「アボの物語」を暗示してるっぽいけど、
「by」だと採集者じゃなくて語り手がマーシュだという考え方もできる。
そうなってくると、アボ本人が語った話ともとれるし、あるいは人間によるまるっきりの
創作だということにもなりかねない。ますますこんぐらかってきました。
「作」ってそのへんを狙って訳したのかな?ひっかけとか福音書めいた書き方で
「による」としても良さそうだけど、このあたりは柳下氏の「親切さ」かもしれません。
2話全体の印象としては、1話(以下「FHC」)のアボ側からの語りなおしかなと
いう感じです。全体の構成はかなり似てるし。
口承文学風のスタイルを駆使してるあたり、ウルフの文体マニアぶりが伺えるように
思えます。「FHC」では西洋的個人主義を逆手に取ったような書き方でしたが、
ここでは文体の特徴を利用してさらにこんぐらかった世界観を披露して見せています。
ただし、アボの行動や特徴に「西欧から見た未開」のイメージが「あからさまに」
示されていたり、命名法の中に「七人の乙女」のような別の神話からの引用らしき
ものがあったりすること、さらにはアボの意識から容姿に至るまでが「影の子」からの
模倣らしいということを考えると、この「物語」そのもののオリジナリティ自体が
極めてあいまいであるという疑いも出てきます。
彼らの「伝承」も、実は別のものの無自覚なコピーなのではないのか。
そして、「丘人」と「沼人」の対立も、かつて「影の子」同士で「鎖国」と「開国」を
めぐって対立した歴史を模倣しているようにも受け取れます。
そして「影の子」もまた、次の「来訪者」たちにとっては「現地人」となり、
狩られる対象となるのでしょう。
来訪者に同化できなかった「アボ」は絶滅し、生き残った「アボ」はもはや
自分の元の姿すら覚えていない。
そう読むと、これが「FHC」の再話かサブテキストか偽装なんだろうと
感じる一方で、これがアメリカやアフリカや日本だと言われてもおかしくないよなと
思ったりもしたわけです。
まあ社会批判というよりは、これ自体が「FHC」で言う「近似の連続」を
文章化しようという試みなんでしょうね。
でも「キリンヤガ」よりは本質ついてるんじゃないのと言いたくなってしまうのは
私が単にコリバ嫌いだからです。裏でテクノロジー使いまくりの呪術師なんかいらねーて。
ここまでの思いこみが3話でひっくり返るか?
なんだか泥沼にはまってるんじゃないかといういやな予感が。