熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

現在不定期かつ突発的更新中。基本はSFの読書感想など。

ケルベロス第五の首(5首目)

2004年08月30日 | Wolfe
いまさらですが、タイトルなおしました。
漢数字だったのをすっかり忘れてましたよ。

さきほどやっと「『ある物語』ジョン・V・マーシュ作」を読了。
これはもうヤバイ、相当ヤバイです。なんだかよくわかりません。
あんまりアレなので、ちょっとだけネットをカンニングしたら
「マーシュ」は「沼」のもじりとか書いてありました。
うーむなるほどと思う反面で、みんなしてそう思いこまされてるだけかも、
という疑いも出てきてしまったり。これじゃまるっきり作中人物と同じですな。

とはいえ、これをヒントにさせてもらえば「ジョン・V・マーシュ」は
「沼のジョン」なのだと思われますが、気になる点がいくつか。
まず、沼人の間では彼は「空の学び手」と呼ばれていたこと。
また「砂歩き」に「おまえは男じゃない」といわれたこと。
これを考えると、沼人は男に「ジョン」という名をつけないように思います。
だとすれば、「ジョン・V・マーシュ」は「2人のジョン」の合一した姿。
では、「V」とは一体なんでしょう?
私見では「V」は「ヴェール」ではないかと読みました。
(「ヴァーナー」か「ヴィンジ」だったらイヤだけど、可能性ゼロとは言えないなあ)

2話自体が「ヴェールの仮説」を証明するかのような内容であることが理由だけど、
「十字架の聖ヨハネ」が修道名であるように、この『ある物語』の作者名が
ペンネームあるいは偽名である可能性も高いわけです。
しかも、この「マーシュ」が1話の人物かどうかもわからないし。
「Vの女」ってなんかピンチョンっぽくていいなーと思ったのもありますが。
とにかく、ここにもまた「ケルベロス」の3つ首が見えてるように感じられます。

あと、「A Story」って「アボの物語」を暗示してるっぽいけど、
「by」だと採集者じゃなくて語り手がマーシュだという考え方もできる。
そうなってくると、アボ本人が語った話ともとれるし、あるいは人間によるまるっきりの
創作だということにもなりかねない。ますますこんぐらかってきました。
「作」ってそのへんを狙って訳したのかな?ひっかけとか福音書めいた書き方で
「による」としても良さそうだけど、このあたりは柳下氏の「親切さ」かもしれません。

2話全体の印象としては、1話(以下「FHC」)のアボ側からの語りなおしかなと
いう感じです。全体の構成はかなり似てるし。
口承文学風のスタイルを駆使してるあたり、ウルフの文体マニアぶりが伺えるように
思えます。「FHC」では西洋的個人主義を逆手に取ったような書き方でしたが、
ここでは文体の特徴を利用してさらにこんぐらかった世界観を披露して見せています。

ただし、アボの行動や特徴に「西欧から見た未開」のイメージが「あからさまに」
示されていたり、命名法の中に「七人の乙女」のような別の神話からの引用らしき
ものがあったりすること、さらにはアボの意識から容姿に至るまでが「影の子」からの
模倣らしいということを考えると、この「物語」そのもののオリジナリティ自体が
極めてあいまいであるという疑いも出てきます。
彼らの「伝承」も、実は別のものの無自覚なコピーなのではないのか。
そして、「丘人」と「沼人」の対立も、かつて「影の子」同士で「鎖国」と「開国」を
めぐって対立した歴史を模倣しているようにも受け取れます。

そして「影の子」もまた、次の「来訪者」たちにとっては「現地人」となり、
狩られる対象となるのでしょう。
来訪者に同化できなかった「アボ」は絶滅し、生き残った「アボ」はもはや
自分の元の姿すら覚えていない。
そう読むと、これが「FHC」の再話かサブテキストか偽装なんだろうと
感じる一方で、これがアメリカやアフリカや日本だと言われてもおかしくないよなと
思ったりもしたわけです。
まあ社会批判というよりは、これ自体が「FHC」で言う「近似の連続」を
文章化しようという試みなんでしょうね。
でも「キリンヤガ」よりは本質ついてるんじゃないのと言いたくなってしまうのは
私が単にコリバ嫌いだからです。裏でテクノロジー使いまくりの呪術師なんかいらねーて。

ここまでの思いこみが3話でひっくり返るか?
なんだか泥沼にはまってるんじゃないかといういやな予感が。

ケルベロス第5の首(4首目)

2004年08月29日 | Wolfe
この文章も3首を超えました。
首が三つ以上あれば、もうケルベロスじゃあないよな。
あずまんが大王なら「それケルベロスとちゃうで!」とか
大阪に言われそうだ。

よく考えると、やはりケルベロスは3つ首があたりまえ。
この本も3話で構成されてるし、基本の数字は3なんではないかと思う。
これを三位一体、父と子と精霊になぞらえても良いんだろうけど、
そこらへんはあまりよくわからないので流します。
とにかく、この「3の呪縛」から開放され「ケルベロス」ではない者に
なることこそ、「わたし」の究極の目的かもしれません。

ケルベロスから複製されるものもまたケルベロスであるならば、それもまた3つ首のはず。
「わたし」自身と同様に、「3人のわたしの物語」もまた複製されつづけるのであれば、
最初の3人以降の存在は常に「4、5、6番目の首」であり、語り手は常に「第5の首」として
父を殺し、息子に殺されることを繰り返していると読む事もできそうなんですが。
それならば、語り手の名は永遠に「第5号」でありつづけることになるのでしょう。
まあこじつけといわれればそこまでだけど、どうせ本当のことなんかどこにもなさそうだから
いっそこのくらい遊んじゃうのもアリだということで。

ところで、まだ2話から先は読んでません。
したがって「SFマガジン」のウルフ特集も読めません。
なんか危なそうな記事が載ってるらしいから、うかつに手がだせないです。
それよりも、早く2話以降を読まねば。

ケルベロス第5の首(3首目)

2004年08月26日 | Wolfe
1話を読んだ後に少し思いついたことを追加しておきます。

この話、SF的設定やガジェットがなければ、まるっきり
ゴシックホラーですな、っていまさら言うまでもないか。
本作で執拗に取り上げられる「わたし」や、その拠り所である
「システム」への執着、あるいはそれらへの疑念というのは
ゴシックホラーが繰り返し扱ってきたテーマだし。

ウルフはそのあたりを承知の上で書いてるんだろうけど、
このテーマにふさわしいから選んだスタイルなのか、それとも
オマージュというか、ある種の偽作っぽさを狙って書いたのかと
いうのも、妙に気になるところです。
「デス博士」でも、原テキストから新しい物語を作り出すという
ことをやってましたし、この人文章で遊ぶのがかなり好きそうだから。
ただし「ケルベロス」の場合、SFとしての仕掛けが施される事で
なまじホラーよりも複雑怪奇な作品になってるわけですが。

さて、この物語がウルフ自身の物語でもあるということは
明らかですが、だからといってこれが「自伝的小説」として
片付けるわけにはいかないところ。
むしろ本作は「自己」をテキストとしてこれを読み解き、
記録し、あわよくば改変してしまおうとする、作者自身への
「人体実験」の記録と読めないでしょうか。
これこそまさに、作中の「父」と「子」の姿そのもの。
そしてここでは、「言葉・文章」=「メス・鏡」として機能し、
作者はこれによって自分を写し出し、それを切り刻むわけです。

そして書かれる側によって語られた「物語」は、ラストで書く側の
「日記」として再生され、「書き手=登場人物」の合一化を
完成させます。
そしてここの時点で巻き戻された「物語」は、次の「わたし」
によって、再び語られる準備を整えることになるわけです。
そしてこの時、語り手の「わたし」である第5号の眼から物語を
追ってきた読者もまた「書き手」としての「わたし」、すなわち
作者へと合一化され、物語は全てを内に取りこむ形で閉じられます。
こうして読者である「わたし」たちも、ケルベロスのもうひとつの
首となるわけです。

まさに全員犯人で全員が被害者。とんでもない完全犯罪ですな。

「ケルベロス」ならぬウロボロス的な循環構造は、しかし
ディレイニーの『エンパイア・スター』とは違って、始めも
終わりもない物語であり、またその中に無限の広がりを秘めた
宝石でもありません。
むしろそれは終わりのない不完全さの連鎖、永遠の停滞、
「そしてここで終わってしまう」という焦燥と絶望の煉獄です。
「わたし」はその中で永遠に死と再生を繰り返しながら、
今までとは違う「わたし」としての再生を求めて
もがきつづけるのでしょう。
自己を切り刻み、また切り刻まれながら。

これを作家自身の姿に重ねると、ディッシュの『リスの檻』が
思い浮かんできますが、これはちょっと即物的ですか。

それにしてもこの話、やたらと「獣」にまつわるイメージが
出てくるのが気になります。
銅像、666番地、闘犬、4つ腕の奴隷の顔。
「わたし」が獣であるなら、アボは人間か?
あるいはアボが獣であるなら、「わたし」もアボなのか?
このあたり、まだ読みきれてないところがありそうで気になるところ。

ケルベロス第5の首(2首目)

2004年08月22日 | Wolfe
さて、いよいよ本編第1話についてですが。

まず一読してすっかりわかるもんではないけれど、
なんとなく見えてくるものはありますな。
物語の中に別の物語を埋めこむやり方とか、
その物語が全体を反映させるものであったりとか。
出だしの笛の話にしても、
「無くなったと思っていたものはちょっと見えないように
されていただけで、実はずっとそこにありました」という
ヒントめいた例えのようだし。

断片的なエピソードを並べていく手順は時系列に沿っているように見えるけど
実は前後関係も怪しいし、なにしろ「わたし」が最初と最後で同じ人なのかも
わからないといううさんくささ。だって出てくる人間は全部「わたし」だし。
肩にとまった猿の感じで「同じ猿だ」とかわかるのって、長いこと猿飼ってた人しか
わからないんじゃないのか。この「わたし」って、いつのどの「わたし」なんですか?
父殺しをしたのは「わたし」だけど、それは父である「わたし」の記憶かもしれないし
その記憶を持ってるのがだれなのかも定かではない。
なにしろ手記を読んだら書いた本人がびっくりするだろうとか言ってるんだから。
これが循環構造なのか入れ子構造なのか、もっと変な形式なのかはわかりませんが
一番似てるのは冒頭に出てくる図書館の中の様子かもしれません。
無数の物語の迷宮の中をぐるぐる昇っていく螺旋回廊。

そういえばヴィンジの綴りを勘違いして「ドイツ作家」にしちゃったというのも意味深な感じ。
あれは「グリムの世界」にひっかけてるのだろうけど、他にも綴り変えとか別の言語での
読み変えとかやってますよ、と言いたげにも思えてくる。
主人公の苗字はウルフさんらしい、というのはなんとなくわかるけど、本当にそれだけなのか、と
また疑問が湧いてくるわけですよ。

で、ここからは勘違いもいいところの読み変えなんですが、「メゾン・デュ・シャン」について
綴りとは別に「フランス移民」という部分とかけて「デュシャン」という苗字を連想したわけです。
だとすれば、この館もまた「独身者の機械」の系譜に連なる装置かもしれないなと。

この館の存在意義が「性」と「知識」という欲望を満たすメカニズムであり(この両者は
幼いころの「わたし」の覗きシーンで同一化して表わされているような)、それがひとりの
「独身者」の夢想から成り立っていることや、「わたし」という存在自身が
「習作」「失敗作」「複製」「バリエーション」という形で何度も生み出されては
廃棄されたり売られたり合成されたり、またコピーとオリジナルが混在し
入れかわるという状況やら、果ては女性版「わたし」まで登場するに至っては、
どうにもデュシャン的だなぁという感想も出ようというもの。
この作品において「わたし」の基本形はウルフ本人であろうし、「ジーニー伯母さん」の名が
ジーンの女性形をもじってるらしいのもわかりますが、それでも「もうひとりのわたし」が
混在しててもおかしくないんじゃないの、という気持ちは捨てきれないです。
小説版「大ガラス」だと考えれば、やたらと割れモノが出てくるのも納得できるし(?)。

詳細を煮詰めればいろいろ出るんだろうけど、一気読みの感想としてはこんな感じです。
二話以降を読むとどういうことになるか、楽しみなような心配なような。
いや作品に対してじゃなく、「わたし」に不安があるってことですよ、あくまで。

ケルベロス第5の首(1首目)

2004年08月22日 | Wolfe
このところ本を読まない日が続いたが、ここにきて
そうも言っていられない本が出た。
「ケルベロス第5の首」である。

表題作は本来は中篇として発表されたということだし、普通なら
一冊読んでから感想を書くのだろうけど、今回は一話読んだら
その都度感想を書こうかなと思い立つ。
理由としては、オービット初出時の読後感をシミュレーションして
見ようかなと思ったことと、主人公の立場を真似て、話を追うにつれ
わかってきたりわからなかったりの過程を記録して見ようかなという
ちょっとした思いつき。
で、まずは1回読んだだけで再読もせず感想を書きます。

まず最初に感じたのは、「ウルフって元からこうだったのか」というもの。
この人の作品、「デス博士の島その他の物語」と「新しい太陽の書」
くらいしか読んでませんが、成長物語にして教養小説風、どことなく
エキゾチックでなんだか退廃的なムードというところは共通してるんではないかと。
あとフリークもよく出ますな。
「ケルベロス」を読めば、ウールス4部作が「SF作家の書いたファンタジイ」とかじゃなく、
ウルフの向き合ってきたテーマと作風が必然的に書かせたものだということが確認できる。
この人もやはり「ジーン・ウルフ」というジャンルでしか括れないタイプかも。

ウルフの諸作を読むたびに思うのは、実に主観的な文体をしていると
いうこと。こういう「パズル的作風」を駆使する超絶技巧系作家は
他にもいますが、ウルフの場合は人称に関わらず、徹底して
作中人物の視点=意識のレベルから物語を語っているのが、他の
作家と異なる点ではないかと思います。
ライバーにしろディレイニーにしろ、いくらかは客観的な視線が
入ってくるものですが、この人の文からはそういう感じがしない。
人物も世界も、全てが主人公の感覚を通じてのみ成立しているというのは
ある種とんでもないテクニックかも。
ただ、この書き方ゆえに作品が曖昧模糊とした印象を強めるのは事実。
物語に没入するタイプにはうってつけな半面、世界観がはっきりしないと
ダメな人にはどうにもついていけないかもしれない。
極端な例えですが、ゲームで言うと3D酔いする人としない人の違いというか。
世界がグルグル回ると気持ち悪くなっちゃう人には向いてない感じ。

なんか前振りがのびて作品の内容にたどりつかないので、
一度仕切りなおし。次は1話目の感想から書く予定です。