熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

現在不定期かつ突発的更新中。基本はSFの読書感想など。

樋口恭介編『異常論文』(ハヤカワ文庫JA1500)感想

2021年11月07日 | SF
樋口恭介編『異常論文』(ハヤカワ文庫JA1500)を読んだ。

22人の作家による22の異常論文はガチガチに硬いものから、くたりと柔らかいものまで各人各様。
それぞれに個性が感じられるが、SFマガジン特集時は若い書き手の意気込みと緊張感を感じる作品が並んだ印象があるのに比べると、書籍版で参加したベテランたちの書きぶりには手練の技巧とゆとりが感じられ、編者の狙いどおりか期せずしてかはともかく緩急のある配列になったと思う。

巻末で神林長平も触れている通り、これらは「論文の形をとった小説」である。ただし編者の樋口恭介が巻頭言で示したように、これらはなんらかの「事実」を記述するうえで「論文」になった、あるいはならざるを得なかった言語の群れであるともいえよう。
その「事実」は必ずしも我々の認識する「現実」でなくていいし、それらは「論文」という形で「現実」に対する読者の認識を書き換え、あるいは認識される「現実」そのものを書き換えようとする。
その意図や使命を明示的な前提としたことにより、異常論文という形式はSFの持つ現実変容の側面を非常に強く浮き上がらせ、我々の精神に強烈な揺さぶりをかける。
思弁小説とは言語による思考実験であると考えれば、異常論文はスペキュレイティヴ・フィクションの核心をまるごと取り出して凝縮したものであろう。
その凝縮性ゆえに読むのが億劫だったり、時に疲れを覚える面もあるが、いまここにはないが確かに存在している複数の「事実」を、22編という量的にも手ごたえのある分量で読めるのは実に喜ばしい。

収録作すべてが力作でハズレなしと言ってよいが、ここでは書籍初収録作品についていくつか挙げておく。

円城塔「決定論的自由意志利用改変攻撃について」
タイトルからして矛盾しているような、人を食ったスタイルはこの人ならでは。
固有名詞と数式が飛び交う内容は概ね理解できる範疇ではないが、その異常さを前置きとして最後にポンと提示される普遍的な解にはあんぐりと口を開けてしまう。
そのギャップこそが円城マジックではないだろうか。

松崎有理「掃除と掃除用具の人類史」
異常論文の名手による新たなる異常論文の傑作が誕生した。
ホラ話か冗談のような内容を宇宙規模にまで広げて一筋の光として語り継ぐ手腕はSFならではの笑いと感動を読者に届けてくれる。
先達としてラファティの業績を作中に盛り込む手際も見事、これぞ異常論文の面目躍如。同時期刊行のラファティ・ベスト・コレクション(特に12月刊行の『ファニー・フィンガーズ』)も併せて読まれたい。

飛浩隆「第一四五九五期〈異常SF創作講座〉最終課題講評」
実際にゲンロンのSF創作講座で作家の卵たちに指導を行ってきた作者による、存在しない作家による存在しない作品の講評たち。
しかしその講評の基盤には存在しない事象があり、これを引くことによって現実と虚構が相互に創造と批評を織りなしていく。
揺らぐ現実を書くには創作の形式もまた揺らいでいかざるを得ない、そんな状況が飛浩隆ならではの華麗で異様なヴィジョンによって魅惑的に披露されていく。
語りと騙りの芸術的な融合がここにある。

酉島伝法「四海文書注解抄」
文字と言葉を絵画のように、あるいは音楽のように語らせたら右に出る者のない名手による、言葉によるスクラップブック。
しかもそれを編纂しているのは明らかに我々の想像する人類ではない。
既知の概念に外からの補則が付されるという入れ子構造が読者をさらに幻惑する。
しかし酉島作品から『ガンヘッド』の名前が飛び出すとは思わなかった。

伴名練「解説-最後のレナディアン語通訳」
ホラー作家でありSF批評家、名アンソロジーの編者としても名高い作者が、自らの仕事を振り返りつつ書いたであろう作品。
形式こそ架空の言語にまつわる作品群とその言葉についての辞書をめぐる解説文だが、創作言語について直接語られる部分はほとんどない。
むしろ物語が人の思考と人生にどんな影響を与えるか、そして物語について論じ批評することがさらに別の物語を、そして別の現実を生み出すかという問題について極めて自覚的に書かれた本作は、伴名練という作家についてのサブテキストとして読むことも可能だろう。
作中で続々と繰り出される実在のSF作品にもニヤリとさせられる。

コメントを投稿