熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

現在不定期かつ突発的更新中。基本はSFの読書感想など。

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ジーン・ウルフ、逝去。

2019年04月16日 | Wolfe
2019年4月14日、ジーン・ウルフが亡くなった。
享年87歳、長く心臓を患っていたという。
噂に上がっていた『書架の探偵』の続編はとうとう上梓されなかったが、
自らの分身である流行作家を図書館に住まわせ探偵役を務めさせる物語が
遺作となったのは、著者にとって幸せな事だったと思う。

なお『書架の探偵』の主人公E.A.スミスは「Smithの後にeがつく」と名乗るが
姓の最後にeがつく点はあのフィリップ・マーロウと同じ。
そして著者自身の姓も「Wolfの後にeがつく」ことを考えあわせると、この名が
ウルフ自身を指し示す署名であることに疑いはない。

さて私自身はというと、ウルフの死をことさらに嘆くつもりはない。
私たちの書架には、既にウルフの複生体である数々の著作があるからだ。
『書架の探偵』はそれを密かに伝える、著者最後のあいさつだったのかもしれない。

その作品を愛して繰り返し読み続ける限り、ジーン・ウルフはいつも我々と共にある。
そしてウルフの作品について語るとき、我々もまたひとりのウルフとなるのだ。
コメント

ジーン・ウルフ「取り替え子」

2016年03月13日 | Wolfe
『ジーン・ウルフの記念日の本』に収録されたうちで一番、そしてこれまでに紹介されたウルフの短編でも
指折りの傑作と断言できる作品、それが「取り替え子」である。
いまや幻の一冊となったNW-SF社のアンソロジー『ザ・ベスト・フロム・オービット』の収録作として
初訳されたのが1984年なので、実に31年ぶりの復活となる。

物語はある男が書き残した手記という体裁をとっている(ウルフおなじみの手法だ)。
手記の書き手は朝鮮戦争に従軍した後に中国へと渡り、帰国後は投獄の身だったという。
そしていま彼はカッソンズヴィルという故郷の町へ向かうところだ。
偶然旧友の車に同乗した書き手は昔話に花を咲かせるが、ピーター・パルミエリという少年についての記憶が
どうしても噛み合わない。
ピーター・パルミエリは書き手と同学年のはずだが、旧友によればピーターは現在8つくらいの小さな子供で、
その当時はまだ生まれていなかったというのだ。

やがて書き手はカッソンズヴィルの宿屋に到着し、そこでかつてと同じ子供のままのピーターと出会う。
ピーターは書き手のことをまったく覚えていないようだ。
そしてピーターの弟だったはずのポールはいまや立派な青年に成長していたが、家族の誰一人として
成長しない子供の存在を疑問に感じていない……ただひとり、ピーターの父親を除いて。

ピーターの父親は言う。ポールの姉のマリアがまだ赤ん坊だったころ、カッソンズヴィルに越してきて
2ヶ月後の夜に帰宅すると、見知らぬ少年がいた。
妻はこの子がマリアの兄のピーターだという。そしてピーターは成長しないまま、いつしかマリアの、
そして次に産まれたポールの弟へと立場を変えていった。
不審に思った父親は神父から聖水をもらってきて、眠っているピーターに振りかけてみたこともあるが、
その身には何一つ起こらなかった。

話を聞いた翌日、書き手は自分がかつて学んだ修道院の付属学校「無限罪の御宿り校」へ向かい、
クラス全員で撮った昔の記念写真を閲覧する。
自分が写っている場所はすぐにわかった。しかしそこに写っていたのは、彼の顔ではなかった。

かねてから名前だけは聞いていたが、実際に読んだのは今回が初めて。
最初に読んだ感じでは、ウルフが得意とする「記憶と存在についての物語」だと思った。
当たり前の日常がささいな記憶の混乱をきっかけに揺らぎだし、やがては自己を裏付ける過去の記録さえも
覆されて、ふと気づけば「何者でもない」存在になっている。
淡々とした描写を積み重ねによって読者はゆっくりと深みへ引き込まれ、最後には自分が消え去ることの
恐怖と開放感がないまぜになった、独特の余韻を味わうことになるのだ。
不条理系の幻想文学としては珍しくない話だが、作者の絶妙な語りによって印象深い作品になっている。

しかしこうした読み方とは別に、ふとした疑問から作品の背景を調べ始めたところ、これが想像以上に
生々しい背景を持った、作者の自伝的作品という一面を隠し持っているという結論に至った。
ここからはそう考えるに至った過程を書いていくが、先入観や特定の解釈に縛られたくないという人は
読まないほうがいいかもしれない。

さて、疑問のきっかけは「カッソンズヴィル(Cassonsville)」という町の名である。
ウルフが具体的な名称を出す場合、そこには何らかの意味を持たせていることが多い。
そこでカッソンズヴィルという名称をネットで検索すると、類似の名称として出てきたのが
「ケイトンズヴィル事件の九人」であった。
これはメリーランド州のケイトンズヴィルという町で、ベトナム戦争に抗議する9人のカトリック信徒が
ナパームで徴兵書類を焼き捨てたというものである。
敬虔なカトリック信者であるウルフなら、この事件を見逃すはずがない。
そして事件が起きたのは1968年、「取り替え子」が掲載されたOrbit3が発行された年なのである。
なおケイトンズヴィル事件は5月17日に起き、Orbit3はその後の9月1日に刊行されているので、
編集的にはギリギリのタイミングだとしても、時系列上の矛盾はない。
(注:これについては翻訳家の山岸真さんから「この短編は事件の前に既に完成していたはず」との
 コメントをいただきました。その他についてもいろいろとご教示いただき、ありがとうございます。)

それではなぜ、成長しない少年の名はピーターなのか。
この名前と「取り替え子(The Changeling)というタイトルからの連想として既に指摘されているのが、
ピーター・パンの物語である。
作中に子供時代の遊び場だった島が出てくることからも、これは確定事項だろう。
ではピーター・パンとベトナム戦争にどんな関連が見出せるというのかと言えば、
それはピーターが「自ら大人になるのを拒否した存在」であるという点だ。
これを徴兵拒否に読み替えると、兵役に就くのを拒む若者は「大人になることを拒んでいる」
永遠の子供であると指摘しているようにも読める。
これは大学生の時に朝鮮戦争に従軍し、戦場で大人になったウルフにとっての実感ではないだろうか。
しかしその一方、大人になった書き手は朝鮮戦争に従軍した後に敵の手に落ち、そこで生き延びるために
思想転向を余儀なくされたようである。
これは聖ペテロが告発を避けるためにイエスを否認した「ペテロの否認」に通じるものだろう。
そして手記の書き手はペテロと同じく、無限罪の宿りを具現化した少年に「躓く」のである。

さらに「聖ブランドン」での発想にならって、Cassonsvilleを「キャスの息子の町」と読み替えた場合、
再び聖キャサリン(カタリナ)の名前が浮かび上がってくる。
聖カタリナはキリスト神秘の結婚をしたとされる純潔の乙女であるが、同じ名前を持つ聖女については
エジプトの「アレクサンドリアのカタリナ」と、イタリアの「シエナのカタリナ」の二人が知られている。
ピーターの家族がイタリア系ということから、ここではシエナのカタリナが有力だが、それだけでなく
アレクサンドリアのカタリナとの二重イメージも含まれるとすれば、そこには書き手が捕虜として、
あるいは帰国後の収監中に受けた「拷問」の隠喩があるのかもしれない。

またシエナのカタリナは死後にその頭部が故郷へと持ち帰られ、アレキサンドリアのカタリナは
遺体が天使によって故郷へと戻されている。
ここから本作の書き手は(中国か、あるいは帰国後に収監された刑務所で)既に死んでおり、
それを知らないままに故郷へと戻ってきたとも考えられる。
そうだとすれば、終の棲家として定めた小島の横穴は彼の墓所であり、胎内回帰の場所でもあるだろう。

さらに付け加えるなら、この物語に登場するピーター・パルミエリ(ピート・パーマー)には
「風来」でも取り上げられた「ピーターと狼」のイメージも重ねられている。
ピーターは町の人々に大声で「狼(ウルフ)が来た」と叫んでいるが、町の人々はそれに気づかないのだ。
ここに朝鮮戦争から還ってきた当時のウルフの姿を重ね合わせることは、決して不自然ではないだろう。

ここまで推論を巡らしてきた結果、ウルフがこの物語を書いた背景には、自らの従軍体験があるという
結論に至ったわけである。

しかし同時に、この物語はウルフと共に戦場へと赴き、ウルフのように還ってこられなかった
数多くの仲間たちを書いたものでもあると思う。
たぶんウルフは書き手のような境遇に至った兵士を個人的に、あるいは各種のメディアを通じて
知っていたのだろう。
そして自分がそうなったかもしれないという意味も込めて、「The Changeling」というタイトルの物語を
書いたのだと思う。
だからこの作品には、作品発表当時にベトナム戦争を巡って国を二分する議論が起きていた合衆国の世情と、
それとは対照的なまでに忘れ去られてしまった朝鮮戦争の記憶との間で引き裂かれた作者自身の自画像が、
生々しいまでに描き込まれていると感じるのだ。

先に短編集全体について書いた時、本作を「アメリカ文学における優れた現代小説」と紹介したのは
こうした理由による。
ひとつの国を巡る二つの戦争の物語として読むことにより、この作品はまた別の姿を見せるのだ。
コメント (2)

ジーン・ウルフ「聖ブランドン」

2016年03月07日 | Wolfe
今回は『ジーン・ウルフの記念日の本』収録作のうち、個別の感想を書くとしたうちのひとつ
「聖ブランドン」を取り上げる。

収録作をアメリカにまつわる記念日に見立てて配置した『ジーン・ウルフの記念日の本』の中で、
アイルランドの聖人を称える「聖パトリックの日」にあてられたのが「聖ブランドン」である。
お話自体は本当に短い。アイルランド王の命を受けた聖ブランドンが猫とネズミと共に巨大な船に乗って、
地上の楽園にたどり着く。
そこで猫とネズミは互いに殺し合いを始め、聖人と天使がそれを見守るという話だ。
もちろん、このあらすじでは何一つ説明になっていない。
ウルフの書く物語は細部にこそ全体を解き明かす秘密が隠されているからだ。

もともとはウルフのファンタジー長編『ピース』の中で登場人物の一人がさりげなく話す劇中話で、
物語全体の中では小さな挿話として忘れられがちである。
しかし今回のように独立した短編として切り出されてみると、この短い話の中に多くの隠喩と
大きな世界についての物語が埋め込まれているのがはっきりわかる。
この作品だけを単独で訳したことにより、長編の流れとは無関係に短編としての内容をさらに
くっきりと表現できたのも、大きなプラス要因だろう。

以下に自分なりの解釈を書いておく。
毎度のごとくやや強引だが、こうした読み方もできるという一例としてお考えいただきたい。

まずブランドンたちが到着した場所について。
アイルランド出身の聖ブレンダンは祝福の地を探して世界を航海したという伝説があり、
中にはアメリカ大陸を発見したというものまである。
これが「聖ブランドン」の原型であるのは間違いないが、重要なのはそこではなく、
この短編が伝説の体裁を取ってアメリカ建国の歴史を語っているということだ。

その証拠となるのが、ブランドンの船のへさきがボストン湾に着いていると明かされている点である。
ボストン湾はメイフラワー号が到着したケープ・コッド湾を含めてマサチューセッツ湾を形成しており、
メイフラワー号の乗員が入植したプリマス植民地もこのエリアに含まれている。
そこで「遍歴の聖者」ブランドンを「ピルグリム・ファーザー」の暗喩ととらえると、
「猫とネズミを乗せてきた船」はメイフラワー号を意味するとわかる。
そしてこの船は「石」でできているとされているが、石(stone)を岩(rock)に読み替えると、
ジョン・ロックの社会契約論に基づきメイフラワー号の乗員が船上で結んだ誓約を指すとも読める。
またプリマスには、メイフラワー号の乗員が最初に踏んだとされる「プリマス・ロック」も存在する。

さて、石と契約とくれば、石板に刻まれた神との契約が連想される。いわゆる「モーセの十戒」だ。
ここでモーセのつづりを見ると、ラテン語ではMoysesあるいはMosesとなっている。
このつづりとよく似た単語としてmouseを挙げることで「揃って白鳥の翼のような白いあごひげを蓄え、
自分の背丈より長い杖に寄りかかっている」二人の老人のうち、聖ブランドンでないほうが何者なのか、
想像がつくというものだ。
そしてモーセはキリスト教徒ではなく、ユダヤ教における指導者であることを考えれば、
浜辺に十字架を立てた聖ブランドンがネズミの王を「異教徒」と呼んだのも納得できる。

ではこのネズミと戦う猫の精霊とは何者なのか。
一般的に海外のウルフ読者からは「キルケニーの猫」とされているが、犬の精霊(クー・シー)と
対比を成す点から、むしろケット・シーと見なすべきだろう。
さらに踏み込んでケット・シーを「ケイトの霊」と読み替えれば、ウルフが『新しい太陽の書』で
何度も取り上げた聖キャサリン(カタリナ)が思い浮かぶ。

車裂きの刑と斬首の故事で知られるアレクサンドリアの聖カタリナは、死後にその遺体が
天使によってシナイ山へと運ばれ、その地に聖カタリナ修道院が建てられた。
この修道院の図書館はバチカンに次ぐ数の写本類を収集しているとされ、これもまた
ウルフの興味を引きそうな点である。

なお、モーセが十戒を授かった場所がこのシナイ山であることは有名である。
そしてモーセが燃える柴の姿で現れた神によって示された「約束の地」こそ、
かつてカナンの地と呼ばれたイスラエル周辺の地域なのだ。

これらを総括して考えると「聖ブランドン」という作品は「分断された世界とそれをめぐる争いの歴史」を
一篇の寓話に凝縮した作品とも考えられる。
それはアメリカ合衆国が建国以来繰り返してきた戦いの歴史であり、数々の帝国が興亡を繰り返した後に
今もなお紛争の絶えない中東情勢とも重なるものである。
さらに言えば、人類の歴史とは入植と対立、そして戦争と分断の絶え間ない繰り返しでもあった。
つまり「聖ブランドン」とは、歴史の中で繰り返し引き裂かれ続けてきた様々な土地と人々についての
「小品(piece)」であり、今も模索され続ける「平和(peace)」に関する物語でもあるのだ。

この小品、しかも作中の短い挿話の中にこれだけの知識と含意を秘め、それをさりげなく
読者の前に差し出してみせるところに、ウルフの底知れない深みがある。
そして作品を通じて深みを覗き込み、そこに映る何かを見出すのが読者にとって喜びなのだ。

もし映ったのが自分自身の顔だとしても、その顔はきっと見慣れない容貌をしているはずである。
コメント

バラエティ豊かな名短編集『ジーン・ウルフの記念日の本』

2015年12月25日 | Wolfe
待望のジーン・ウルフ第2短編集が邦訳された。
連作長編のケルベロスや日本独自の編集でえり抜きの傑作を抱き合わせたデス博士に比べると
バラエティに富んだ内容で、難解な技巧派というウルフのイメージを覆すような作品も多い。
基本的には本人が楽しんで書くタイプだと思うので、読者もまずは想像力の広がりや屈折したユーモア、
言葉遊びのセンスなどを楽しむつもりで構えずに読めばいいだろう。

しかしウルフの作品に多少なりとも親しんでいるなら、この作家が繰り返し取り上げるモチーフや
テーマにこだわって読むこともできる。
何か引っかかりを感じたら、ネット検索などで情報を調べてみるのもいいと思う。
そこから得た知識によって読者自身が変貌を遂げ、結果として新たな物語を見出す可能性が生まれるからだ。
こうした読み方は小説の面白さとは別物との声もあるようだが、そもそも物語を読んで楽しむことに
ルールなどなく、各自が好きなように読めばいいと思う。
そしてウルフの作品には、多少の手間をかけてでも作品の奥底まで覗き込みたくなるような魅力、
あるいは魔力があるのだ。

「まえがき」
これ自体が著者による優れたガイドであり、また番外短編「返却期限日」を含んでいる。
まさか読み逃す人はいないと思うが、必ず目を通すこと。

「返却期限日」
ユーモア短編だが、図書館から本を借りっ放しの人にとっては一種のホラーでもある。
魔女的な存在感を発揮する図書館司書の女性が、文字通りチャーミングだ。

「鞭はいかにして復活したか」
本編の巻頭を飾る傑作。一読するといわゆる奇想系、奇妙な味の短編という趣きがあるが、
実はウルフが繰り返し書いてきた経済と道徳についての寓話でもある。
人道的、経済的な理屈で論じられる奴隷制の復活については、見かけとは別の理由があり、
ヒロインの妄想で出てくるブランド名がそれを示唆している。
またタイトルのwhipは票のまとめ役の意味も持つ、という解説の一文は本作を楽しむ上で
大変重要だが、ここで一考すべきはwhipが誰を指すかという点だろう。
そこに気づいたとき、物語の結末はがらりと様相を変える。実にウルフらしい仕掛けだ。
なお、赤と緑は投票の賛否を表す色であり、国連でもこの色によって採決を行う。
これはまた、カトリックの聖職者が身に着ける祭服の色でもある。

「継電器と薔薇」
タイトルはLily and Rose(百合と薔薇)のもじりだろう。
コンピュータを使用した世界的ネットワークとマッチングサービスは今や現実の話だが、
それらが転職や離婚といったアメリカ的文化を脅かすという展開が面白い。
主人公が呼び出された聴聞会は非米活動委員会と思われるが、アメリカ的な価値観を否定することが
そのまま反米活動とみなされるのが滑稽であり、また恐ろしくもある。

「ポールの樹上の家」
ウルフは子供だけに見える世界を何度も書いてきたが、ここでは大人の視点で世界を描いている。
米国で勃興するナチズムに無頓着な親たちは、テレビの画面を超えて徐々に迫りつつある暴力にも気づかない。
息子のポールだけが高い樹上に木造の砦を構えているが、これはアララト山頂に乗ったノアの方舟を思わせる。
「ポールは石を投げるが遠すぎて届かない」というくだりは「取り替え子」にもあるので、何らかの含みを
持たされているのかもしれない。

「聖ブランドン」
長編『ピース』の一部を成す、いわば物語内物語。
世界を巡った聖人の逸話に見せつつ、実はアメリカ移民にまつわる創作寓話という趣向なので、
「記念日の本」に収録されたのも納得できる。
登場人物がブレンダンではなくブランドンなのも、そうした意図を込めているのだろう。
単体で読んでも短編として十分な完成度を持ち、随所に仕掛けられた様々な象徴をつなぎ合わせると、
全く別の「ピース」に関する物語が見えてくる。

「ビューティランド」
これもまた、経済と道徳についての物語。土地や自然の私有とそれを金に替えることへの皮肉であり、
人間の底知れない残虐と横暴さが何をもたらすかについての警告でもある。
真実に「気づかない」「見ようとしない」というのも、ウルフが何度も書いてきたテーマである。

「カー・シニスター」
タイトルの意味は解説に書いてあるとおり。
さらに付け加えるなら、アメリカ自動車業界のビッグ3(GM、フォード、クライスラー)を
種牡馬の三大血統に見立てているのだろう。
実際にアメリカの自動車メーカーの多くはビッグ3を起源に持ち、盾の紋章で知られるキャデラックも
フォードの設立した会社がGM傘下へと収まった歴史を持つからだ。
しかし何よりユニークなのは、Automationを「自動車の交尾」と読み替えたウルフの言語感覚だと思う。

「ブルー・マウス」
青は国際連合のシンボルカラー。解説にも書かれているように、米軍在籍中のウルフは朝鮮戦争で
国連派遣軍の一員として戦っており、自伝的色彩が強い作品と思われる。
戦場で主人公が耳にするneverの音を、ウルフも実際に戦場で聞いたのかもしれない。
そして終戦後に帰国したアメリカで、彼は同じ音を別の意味で聞くことになる。
その成果として書かれたのが「取り替え子」だろう。
なお、この物語における国連は独立国家を否定して併合のための軍事介入を行っているようだ。
戦場がどこかは明記されていないが、この図式を朝鮮戦争における南北分断に当てはめると、
近未来で再び南北に分裂した合衆国が舞台とも考えられる。
その場合、主人公は五大湖のそばで生まれたと書いてあるので、北軍の所属ということになる。
彼らが勝ったあとに来る「色の浅黒い連中」とは、石油資本と結託したアラブ人を指しているのか。

「私はいかにして第二次世界大戦に破れ、それがドイツの侵攻を防ぐのに役立ったか」
第二次世界大戦が起きなかった世界における国際情勢の1コマを取り上げた作品。
表題をWorld War ⅡではなくSecond World Warとしたのは、架空史に対する作者のこだわりだろう。
戦車の開発史を自動車の開発競争に見立て、ある米国人が目にした各国による売り込み合戦の顛末を
史実を絶妙に交えながら描いている。
楽しい作品だが、科学技術の発展が軍事技術の開発と互恵関係にある点を皮肉ってもいるようだ。
なお、主人公のゲーム相手であるランズベリーを「太鼓腹」と読み替えれば、この人物のモデルは
フルシチョフであると推測できる。
二人の危険な火遊びが世界地図を丸焼けにしなかったのは幸運だった。

「養父」
SFらしさは薄く、現代社会で父親としての実感を持てない男の葛藤を素直に書いたようでもある。
団地を本棚、落書きのある扉を表紙に見立てると、登場人物があらかじめ用意された物語から飛び出して
新たな物語を作り始めるようにも思える。この開放感はよかった。
閉ざされた部屋から見つかる子供のイメージはイエスと重なるが、彼に特別な力があるわけではなさそうだ。
むしろウルフにとって、孤独な少年は常に特別な存在なのである。

「フォーレセン」
シュールなイメージの連続する不条理劇は、ディッシュなどの書いたニューウェーブ作品を思い出させる。
この手の作品の主人公は不条理な世界に対して反発し抵抗するのが定番だが、フォーレセンという人物は
大人の体に子供の意識が入り込んだようなキャラクターであり、この世界が異常だという感覚すら希薄である。
このアイデアが後に『ウィザード・ナイト』へと発展するのだろうか。
hourとour、plantとplanetのような言葉遊びが随所に見られそうだが、これは原文を読まないとわからない。
第一世代にアダムやエイブラハムの名があるので聖書にちなんだ読み解きもできそうだが、そうした憶測すら
最後の一節であっさりと打ち砕かれてしまう。

「狩猟に関する記事」
熊を人間と同様か、あるいは神聖な存在とみなす文化は世界中にあるそうだ。
人と獣の中間的存在をたびたび書いてきたウルフが取り上げるには、絶好の題材だろう。
熊の正体については解説で指摘されているが、書き手の文章のひどさは単なる無能では説明できず、
知性そのものに問題があるようにも思われる。
また関係者についても物忘れのひどさや粗暴ぶりが見られ、さらには穴にもぐったりマーキングをするなど
動物まがいの行動を取っていることから、この世界では化学物質に汚染された食品を日々摂取し続けた結果、
人類全体が知的退行を起こしている可能性が疑われる。

「取り替え子」
収録作中のベスト。これまで読んできたウルフの中短編でも五指に入るのではないか。
表題のChangelingには取り替え子の他に、捕虜交換や思想的な転向の意味も含まれている。
日常の中に陽炎のごとく立ち上がる幻想を描いたファンタジーであり、合衆国が抱える問題を
鋭く切り取ってみせた同時代文学の傑作でもある。
ピーターとは誰なのかを繰り返し考えることで、この作品の多面性に触れることができるだろう。

「住処多し」
動く住居という設定から、まずバーバ・ヤーガの民話を思い出した。
単性生殖世界が進んだ母星と成熟による変身を選んだ植民星、どちらの文化も奇妙すぎて唖然としてしまう。
ストレートなホラーSFでありつつ、一種のポスト・ヒューマニズムSFともいえそうだ。
ただし語り手が複数の上に話が細部で違っているので、どこまでが本当なのかわからない。

「ラファイエット飛行中隊よ、きょうは休戦だ」
フォッカー三葉機をこよなく愛する主人公が、塗料だけを除いて限りなくオリジナルに近い機体を完成させる。
骨董品のようなメカへの思い入れとその背後にある物語への愛着、空を飛び英雄の物語を演じることへの喜び、
そして思いがけない存在との出会い。
ウルフの中にいた孤独な少年が、ここでは大人として自らの夢を存分に謳歌しているのが実に清々しい。
また複製とオリジナルの関係も、ウルフが繰り返し書いてきたテーマのひとつだ。
塗料までオリジナルであれば事態は違ったかもしれない、と主人公は言う。
では彼が出会った娘は、果たして本物だったのか?
フォッカー三葉機を愛用しラファイエット中隊のライバルだった実在の人物は、レッド・バロンこと
マンフレート・フォン・リヒトホーフェンである。
それを模した機体の色を見た女性が、当時誕生したばかりのソフト・ドリンクのシンボルカラーを
赤く変更する原因になったのではないだろうか?

「三百万平方マイル」
合衆国には未知の土地が三百万平方マイルもある。そんな冗談めいた話がやがて強迫観念となり、
答えを求めてさまよい続ける男の物語。
日常から少しずつ外れていく人間の心理とその行き着く先の空虚さがいい。
これもSFというより、現代アメリカ文学として十分楽しめる。

「ツリー会戦」
ハイテク化されたおもちゃたちが、自分たちの生き残りを賭けて一夜の決戦に臨む。
実際の戦争にあるクリスマス休戦を逆手に取った作品だが、内容は幻想的でありながら
シリアスで強烈な印象を残す。
さしずめ残酷版「くまのプーさん」というところか。
結末の種明かしでは「デス博士の島その他の物語」の名文句「君だって同じなんだよ」が
まったく別の意味で響く。
その残響は後の「溶ける」で、また別の意味を伴って木霊する。

「ラ・べファーナ」
ベファーナはイタリアの魔女で、そのエピソードについては作中で語られるとおり。
隣家で生まれそうな子供は本当にイエスなのだろうか。異星人のゾズという名前にも
ジーザスの響きがあるので、あるいは彼こそがこの星に救いをもたらすのかもしれない。
その場合、支配者である人間はローマ人の立場に置かれることになる。

「溶ける」
溶けるといえば雪か氷だが、前者はコカイン、後者は覚せい剤の隠語でもある。
歴史と宇宙を股にかけた大晦日の乱痴気騒ぎが消え去ると、そこには孤独な日常と1冊の本がある。
そしてその本を読んでいた主人公も、雪や氷のように消える。
すべては戯れであり一夜の夢かもしれないが、それだけが人生の真実なのかもしれない。私にも、あなたにも。

なお、Book of Daysには暦の意味もあり、邦題候補として『ジーン・ウルフの暦』というのもあった。
現行のグレゴリオ暦は太陽暦であり、ユリウス暦を改良したことから新暦とも呼ばれることを考えると、
この作品集は短編により構成された『新しい太陽の書』の別バージョンであるとも言えるだろう。

収録作中で特に手ごたえを感じたのは「聖ブランドン」と「取り替え子」。
この二作については、改めて感想を書きたい。
コメント

ケイト・ウィルヘルム「遭遇」(『街角の書店 18の奇妙な物語』収録)

2015年09月14日 | SF
創元SF文庫で数々の傑作SFアンソロジーを編んできた中村融氏が、幻想文学寄りの名品選
『街角の書店 18の奇妙な物語』を刊行した。
雑誌の対談で「SFは広義の幻想文学に含まれる」という趣旨の発言もある中村氏だけに、
今回のアンソロジーは満を持しての刊行であり、読みごたえのある作品が揃っている。

なお、今回の選定基準は「奇妙な味」と「ブラックユーモア」ということで、濃淡はあれど
全体的にひと癖もふた癖もある異色作が揃った。
ただしこの手の作品で重視されがちな軽妙な語り口やインパクトの強さを売りにするのではなく、
むしろ情景や心情のこってりした描写やねじれた発想の広げ方などを楽しむ作品が集められた、
いわば技巧派ぞろいのアンソロジーといえるだろう。

そんな収録作のうちでもひときわずば抜けたテクニックを見せつけた作品が、いまや女性SF作家における
グランドマスターであり、心理サスペンスの名手とうたわれるケイト・ウィルヘルムの「遭遇」である。

猛吹雪の夜、アメリカの田舎町にある停車場に長距離バスが到着する。
ここを経由しての乗り継ぎバスは翌朝まで到着せず、乗員とほとんどの乗客は近くの食堂へと
避難していったが、セールスマンの男とイラストレーターの女だけが停車場の待合室に残った。
男は女をどこかで見たことがあると思うが、特徴のない顔だちは記憶にないものだ。
閉ざされた室内で自分が扱う保険証券を眺めながら、男はスキー場に置き去りにしてきた妻を思い出す。
妻は夫の内にある二面性をなじり、夫は妻の不貞を疑っていた。
やがて雪はさらに激しく降り、暖房は不調のきざしを見せる。二人は協力して暖房機の調子を保とうとするが、
まるで心のうちを見透かすような女の言動は男の心を徐々に蝕み、閉ざされた室内の緊張は高まっていく。
その緊張が頂点に達したとき、男の、あるいは女の身に何が起こったのか。

多くの人は一読しただけでは何が起きているのかほとんどわからず、ひたすら高まっていく緊張感と
居心地の悪さに圧倒されてしまうだろう。
その筆さばきだけでも名手の名に値するものだが、ウィルヘルムの真骨頂は編者の紹介文にあるとおり
「理知的」という点にあると思う。
これを手がかりに最初からじっくり読んでいくと、情景描写や登場人物の服装、そしてそれぞれの
行動ひとつひとつに対して、隠された意味が与えられていることに気づかされる。

たとえば男の仕事や服装が女とどう対応し、何を連想させるか、男と女、そして男の妻との関係は
どのようなものか、そしてなぜ乗り継ぎ駅で二人は出会ったのか。
また、窓の外に見える灯りやドアから吹き込む雪にさえ、何らかの意図が隠されているのではないか。
さらに言うなら、この停車場はどのような構造であり、見取り図はどうなっているのかという点だ。

巧みな筆致を堪能しながら細部にまで目を凝らしたとき、なかったはずの物語がいくつも浮かんでくる。
もちろんその物語が真実であるという保証はないが、読者が探せば探すほどに新たな手がかりが見つかり、
答えは少しずつ絞り込まれていく。
見事なサイコホラーにして絶妙な心理サスペンス、そして巧妙な推理小説とも読める解釈の多様性は、
ウィルヘルムの伴侶であるデーモン・ナイトが見出したジーン・ウルフの作品にも通じるものだろう。
なお参考までに触れておくと、「遭遇」が初掲載されたOrbit8には、ジーン・ウルフの短編「ソーニャと
クレーン・ヴェッスルマンとキティー」も収録されていた。

さて、この作品を極めてSF的に解釈する場合、タイトルで真っ先に連想するのは異星人との遭遇だろう。
しかし『未知との遭遇』の公開年は1977年で「遭遇」の発表年は1970年であり、この読みはやや厳しい。
むしろ密室に閉じ込められたという設定を重視して、かつ今の流行に沿ったものをひとつ挙げるとすれば、
やはり○○○○○が一番ありそうに思える。(いちおう伏せ字)
これはさすがに先進的すぎるという声もありそうだが、そもそもこの作品が発表された2年後の
Orbit10には、あの多様な解釈で知られる傑作「ケルベロス第5の首」が掲載されているのである。

その「ケルベロス第5の首」でも著者名がほのめかされた人物であり、ウルフにとって「もう一人の親」
ともいえるウィルヘルムの「遭遇」こそ、未来の傑作への先触れにして産婆役だったのかもしれない。
信用できない語り手を扱った短編としても一級品なので、一読をおすすめする。
コメント

奇才の知られざる顔 R・A・ラファティ『翼の贈りもの』

2013年05月15日 | SF
このところ続けて新刊が出ているラファティだが、これは青心社が出版した2冊目のラファティ短編集。
さらにつけくわえるなら、新たなスタートを切った青心社SFシリーズが復刻以外に初めて出した本が、
この『翼の贈りもの』である。
さらにこの次に出たのが、ラファティの長編『蛇の卵』なので、極論するとこのシリーズの宿命は
「新たにラファティを出版し続ける」ことではないかとも思えるほど。
いっそこのままラファティだけ出版し続けるという快挙を期待したいが、さすがにそれは高望みか。

作品セレクトは青心社のラファティ翻訳を一手に手がける、井上央氏によるもの。
浅倉久志氏や伊藤典夫氏の紹介作は独特の軽みと屈託のなさが身上で、そこには陰惨な事件すらも
「陽光の下であっけなくおこなわれるような」ある種の不条理さと明朗快活さが感じられるのだが、
それらに比べると井上氏の選んだ作品にはどことなく翳りや繊細さ、そして宗教的色彩が感じられて、
読後感にもずしりとくるものがある。

読後にあとを引く重さは『子供たちの午後』とも共通するが、読み応えは『翼の贈りもの』のほうが上。
ほろ苦さの中に心地よい重量感やしっとりした余韻があり、作品の深みもぐっと増したように思える。
それでいて、従来からのラファティの持ち味である「飄々とした語り口」や「アクロバチックな論理」は
決して損なわれていない。

笑顔こそ控えめになったかもしれないが、ラファティの小説が見せる表情は以前にも増して豊かになった。
いわば同じ顔を違う角度から見ることによって、その風貌に新たな魅力が加わったというべきか。


以下に各編の感想を記す。


「だれかがくれた翼の贈りもの」
タイトルからもそれとなくわかるとおり、進化論と天使の存在を結びつけた物語。
ただし宗教くささは薄く、人間の進化した先に至るであろう天使的な姿が示されると共に、
そこに辿り着く前の過渡的な存在の姿が描かれる。

ラファティが繰り返し取り上げてきたテーマとして「現人類vs超人類」という構図が挙げられるが、
ここでは翼のある若者たちが「未完の超人類=輝くかたわもの」として、生存と社会への適応と引き換えに
巨大な翼を切断され、空を飛ぶ力と豊かな才能を奪われて現人類の一員(しかも傷を負った短命な存在)へと
貶められてしまう。
このモチーフにキリストや預言者たちの受難劇を見立てることもできそうだが、あえてそれにはこだわらず、
若者ならではの「喪失の物語」と読むほうが素直に読めるだろう。

アイデアそのものは「天使>ヘルズ・エンジェルス>奇矯な若者文化」という連想から来ていると思うが、
それをこんなに叙情的かつスケールの大きな話に仕立てたところに、身近な話を一気に飛躍させてしまう
ラファティならではの妙味がある。

「最後の天文学者」
やはり喪失の物語だが、こちらは自分の信じていた宇宙観が崩れ去り、もはや探求するものさえ失って
死を待つばかりの天文学者が主役の話。
科学そのものが誤っているという設定はラファティの得意な領分だが、今回は滅びる側に寄り添う形で、
ひとつの学問とその学徒が失われるさまを、皮肉交じりの哀調で描く。
天文学者がその身を埋める火星の風俗と、そこに住む火星人たちの奇妙な死生観がいい。
特に主人公が生きながら葬られ、眼に埋め込まれた星の花が根付いていく様子は幻想的で美しく、
一種の変身譚とも読める。

「なつかしきゴールデンゲイト」
酒場という世界の縮図をめぐって、善と悪が対決する物語。
しかし善玉は一方的な思い込み、悪玉は優れた役者であり、何が本物なのかがわからない。
そして両者の立ち位置とは無関係に時代は移り、双方とも居場所を失って店を代える仕儀となる。
すなわち善と悪とは切り離せない関係であり、一種の共依存なのかもしれない。
酒場独特のアットホームさの中で渦巻く人間関係と、最後に迎える滑稽だがほろ苦い結末に、
時間の平等さと呵責のなさを感じる。

「雨降る日のハリカルナッソス」
ソクラテスが現代に生きているという奇譚が、なぜか雨降る港町のだらだらした日常描写として語られる。
そのミスマッチと定型化したギャグの繰り返しが、なんともコミカルな一篇。
深遠な哲学者が人を食った言動で周囲を翻弄するところは、まるでラファティの話芸そのものだ。
オチはとってつけたように簡素なものだが、そこに大した意味はないだろう。
これこそ「呼吸するような自然さで」ラファティを読むための一篇だと思う。

「片目のマネシツグミ」
ラファティ進化論のひとつの到達点を示す作品。
ひとつの極小世界を弾丸として発射し、極小存在の極小時間において急激な進化を促そうとする実験が、
結果的に弾丸を発射した科学者とその世界さえも書き換えてしまう。
いわばラファティ版「フェッセンデンの宇宙」であり、理論面さえ気にしなければイーガンの作品にも
どこか通じる部分があると思う。
発端と結末が因果関係で結ばれてしまう話は他にも収録されており、ラファティの作風を特徴付ける
ひとつの傾向と見ることもできそうだ。

「ケイシィ・マシン」
死者すら含む他人の意識を共有することで、この世に存在したあらゆる快楽と背徳を体験できる
奇跡のマシンを作った人々がいた。
さて、そのマシンは製作者と世界に何をもたらし、そしてどこへ消えてしまったのだろうか?

明らかに宗教的な意味を隠し持っており、有史以降の人間の中に巣くう背徳的な享楽性を取り上げながら、
一方でそれに染まらない存在もいると示すことで、人間の堕落と気高さを対比させているようにも読める。
この話を読んでいてワルプルギスの饗宴を思い浮かべると同時に、荒野で悪夢のような幻想に耐え続けた
聖アントニウスの試練を思い出した。
ラファティの創作姿勢、そしてこの短編集を編んだ井上氏の意図がよく表れた重要作のようにも思えるが、
それだけに一筋縄ではいかない手ごわさを感じさせる難物でもある。

「マルタ」
原題は「Holy Woman」、いわば現代の聖女伝だろうか。
名物キャラクターの苦虫ジョンが出会った、マルタという女性のお話。
明らかにウソが混じった「信頼できない語り手」の冒険譚だが、金と人生にまつわる諷刺譚と読めば、
また味わいも変わってくる。
マルタとジョンの会話がバカバカしくて実にいい。このなんともいえない肩透かし感!

「優雅な日々と宮殿」
最下級の存在が最上級としてぬけぬけとまかり通ってしまうのも、ラファティではお約束。
今回は天才的なうそつきこそ最高の発明家で、もっとも原始的な種こそ最大の可能性を秘めているという
とんでもない逆説が披露される。
この話に限らず、ラファティは猿が大好きだ。そして人間は彼らの退化種であり、醜悪な戯画なのだ。

「ジョン・ソルト」
これも宗教的なお話。
にせ説教師をまんまといっぱい食わせたのはだれか?
嘘と真実が交錯し、聖痕と引き換えに最後は善き人が得をするという寓話的な物語。
健康で歪みのない身体が幸福であるとは限らない。むしろ肉体よりも魂の束縛こそが問題だということか。

「深色ガラスの物語」
原始人の忘れられた傑作に始まり、大気汚染に汚れた雨が描き出す黙示録の予兆で終わる、
歴史上に現れては消えていったガラス絵画たちの流行史が綴られる。
まさに極彩色のガラスで彩られたミニチュアの人類史であり、芸術論として読んでも楽しめる。
長編の梗概だけを一気呵成に書ききったような話なので、長編なみのアイデア量とスケール感を
短編サイズにダイジェスト化したようにも見える、ある意味ではとても贅沢な作品だと思う。
この巨視的なものの見方こそラファティの魅力だが、いわゆる「ストーリー性」を重視し、
キャラの身近さと人間くささに共感したい読者にはいまひとつウケが悪いのも納得できる。
逆に見れば、そういう瑣末な面白さを軽くやりすごすところに、「SF作家」ラファティの
傑出した資質を感じる。

「ユニークで斬新な発明の数々」
「片目のマネシツグミ」の感想で触れた「発端と結末が因果関係で結ばれる」もうひとつの話とは
この作品のこと。
世界は短いスパンの繰り返しであり、その中で発明と喪失が繰り返されるという理屈の中で、
真にユニークで斬新な発明を求める問答が繰り広げられる。
自分で自分を生み、結局滅ぼしてしまうという筋書きは「ウロボロスの蛇」の変奏を思わせる。
そんな視点から読むと、これが鉄道旅行に見立てたラファティ的宇宙論にも思えてくるだろう。
登場人物たちが乗車する鉄道の名称が「ライトトレイン(軽鉄道あるいは光速鉄道)」であることも、
この物語が日常風景と超越的世界の二重写しであることを示唆している。


わかりやすく笑える傾向の作品集ではないので、とっつきにくさはあるかもしれないが、
じっくり読ませるラファティというのも、またいいものである。
個人的には先行する作品集に負けない、もしくはそれ以上の充実度を誇る傑作集と思っているが、
そうした優劣を論じることがさほど重要でないことも十分わかっているつもりだ。
結局のところ、どれもラファティが書いた物語なのだから。
コメント

『ダールグレン』に関する覚え書き

2011年07月30日 | SF
SFファンには名高い“奇書”のひとつ、ディレイニーの『ダールグレン』が邦訳された。

記憶に欠落を抱えた青年が破壊された工業都市に到着し、そこに暮らす奇妙な人々と交流を結びながら詩作(思索)と
自分探しの日々を送るというストーリーには、明らかに当時の時代背景とディレイニー自身の経験が反映されている。
しかし、『ダールグレン』の刊行がヒッピー文化の末期にあたる1975年であり、また作中で主人公のキッドも
「フラワー・パワーは時代遅れ」と認めていることから、作者本人もひとつの“時代”の終わりを強く意識する中で、
この長大な物語を書いていたはずである。

そしてこの時代遅れのムーブメントの熱が冷め、自分を含めたすべての人に忘れ去られてしまう前に、薄れていく日々の記憶を
必死でかき集めて書き残そうとした結果が、『ダールグレン』だとすれば、ディレイニーがこれを書かずにはいられなかった
切実な思いと共に、断片的な記述や飛躍する議論、混乱する時間といった内容にも納得できるものがある。

また、これまでは他者の陰に隠れて自分をちらつかせるだけだったディレイニーが、『ダールグレン』という作品では、
自分の記憶を恥ずかしいほどにさらけだしている。
その努力の成果がこの長さであるとすれば、むやみに長いと言い切ってしまうのもあまりに酷と言うものだろう。

そんな背景を持つだけに、『ダールグレン』ではディレイニー自身の体験に基づくヒッピー生活の描写がかなりの分量を占めるが、
その中に混ぜ込んである様々な手がかりの断片(プリズム・鏡・レンズにあたるもの)を探り出していくうちに、本書は見た目以上に
複雑な構造を持つメタ小説なのではないか、と思うようになった。
邦訳の出版後1ヶ月を経過したので、ここで自分なりに気づいた点をまとめて、『ダールグレン』を読む上での覚え書きとしたい。

なお、これから書く内容はあくまで“解答”ではなく私見でしかない。
また今後読み返したときに感想が変わってしまうかもしれないので、あまり信用しないこと。

◆鎖でつなげられたプリズム・鏡・レンズ
いかにもディレイニー好みのアクセサリーであり、巽孝之氏も指摘しているように、これは装着者を一種のサイボーグへと
置き換えるための装置である。
accessoryという言葉の意味に、バイクのパーツ(作中でも壊れたハーレーが登場している)、また刊行当時には普及していなかった
パソコンの付属機器の意味もあるということは、この解釈を十分補強するものだろう。
またaccessoryのaccessに注目するなら、これはベローナという異界へアクセスするための呪具であると考えてもよいと思う。

◆“蘭”
キッドが鎖と共に装着する武器であり、アクセサリーのひとつでもある“蘭”も、装着者をサイボーグ化するパーツであるが、
同時に“Orchid”の語源がギリシア語の“睾丸”であることを考えると、これを装着することはディレイニーも関与した
文学理論である「サイボーグ・フェミニズム」を先駆的に実践した行為に他ならない。
さらに“真鍮の蘭”に至っては、その語感が人工的な身体をいっそう強く意識させるものになる。

◆ラリー・H・ジョナス
これは作中で登場する白人男性の本名だが、読み方によっては実在のSF作家「ジョアナ・ラス」と非常に近い綴りである。
ここから、作中の登場人物にはディレイニー以外にも実在の人物、しかもかなり身近な存在があてられているのではないか?
という推測が成り立つ。
なお、ラス本人の出身地も、ディレイニーが育ったニューヨークのブロンクス地区である。

◆ジョージ・ハリスン
黒人男性のジョージのヌードポスターは、ユダヤ人のイエスの肖像を裏返したイメージであると共に、ブロンド女性である
マリリン・モンローの裏バージョンでもあると言える。
これらのシンボル操作によって、ディレイニーは宗教・性・人種といった境界線の撹乱を狙っているのだろう。
さらに付け加えるなら、マリリンという名はディレイニーの元配偶者である、マリリン・ハッカーを連想させる。
すなわちベローナに君臨するジョージの配偶者である真の神は、サミュエルという真名を持つはずなのだ。

◆レイニャとキッド
主人公であるキッド(KidあるいはKiddと綴られる)の恋人であるレイニャ・コルスンによく似た名前として、
キッドが持つノートに書かれた人名リストの中に「ヴァージニア・コルスン」という名が書かれているが、
これを読んで思い出したのが、「ヴァージニア・キッド」という名前である。
この人物は熱烈なSFファンが長じてSF作家のエージェントになったという人物であり、日本においては
彼女の編んだフェミニズムSFアンソロジー『女の千年王国』が、サンリオSF文庫から出版されていた。
そしてこの『女の千年王国』に「序詩」を寄せていたのが、マリリン・ハッカーである。

さらに彼女が誕生した時のフルネームが「Mildred Virginia Kidd」であることを考えると、この人物が
『ダールグレン』とは全く無関係であると考えるほうが不自然というものだ。
ディレイニー及びハッカーとプライベートでどこまでの関係があったかは不明だが、いずれにしろ彼女が
『ダールグレン』を読んだとき、非常に複雑な気持ちになっただろうということだけは察することができる。

なお、彼女はかつてジェイムズ・ブリッシュと結婚していたが、1963年には離婚している。

◆キッドの血筋
キッド自身の素性については「母方がチェロキー・インディアン」であるということまでしか語られない。
これはキッドの血筋が、ネイティブ・アメリカンの土地に様々な人種が移民して出来上がった「アメリカ」
という国家そのものを表していると見なすこともできる。
彼がベローナという街を放浪して多様な性、多様な人種と交わるのは、アメリカという国が辿ってきた歴史を
そのまま演じているのである。
これと対照する存在としては物語の冒頭(終盤)で登場する黒人の妊婦で、彼女がベローナから去って行く姿は、
アメリカに黒人文化が根付いていく未来を予感させるものとなっている。

◆ベローナという名称
ベローナはローマ神話における戦争の女神であるが、その姿は片手に松明、もう一方の手には武器を持った
女性であるという。
ここから連想されるのが、片手に松明を持ち、片手に独立記念日の刻まれた銘板を持つ「自由の女神」である。
すなわちベローナもまた、アメリカという国家の裏面を具象化した世界であるということだ。

◆ロジャー・コーキンズ
この人物のモデルは、作中で言及された『市民ケーン』のモデルにもなったウィリアム・ランドルフ・ハーストだろう。
ウィリアムの名が「ダールグレン」の名字を持つ人物と共通することや、彼がキッドと会った修道院の修道士が
「ブラザー・ランドルフ」であることに注目されたい。
ちなみにハーストの新聞で寄稿者として腕をふるっていた一人に、かのアンブローズ・ビアスがいる。
また、ハーストの新聞に掲載されて人気を博し、やがて「イエロー・ジャーナリズム」の語源になったマンガのタイトルは
「イエロー・キッド」である。

◆ウィリアム・ダールグレン
キッドにインタビューを行い、コーキンズの手紙を代筆し、彼のために取材を行っている「ベローナ・タイムズ」の新聞記者。
彼の正体はキッドも見抜いたとおりだが、なぜ新聞記者が黒幕となったのかと言えば、たぶんアメリカ文学の父ともいえる
マーク・トウェインがモデルになっているからだろう。
彼が若いころ新聞記者であったということは周知の事実であり、その本名は「サミュエル・クレメンス」―つまり
ディレイニーと同じファーストネームを持つからだ。

ここから「黒人初のSF作家」としてのディレイニーが、アメリカ初の作家であるトゥエインと自分を重ね合わせようとしたのではないか、
という意図を読み取ることができる。
そしてトウェインの代表作である『ハックルベリー・フィンの冒険』が、アメリカを代表する教養小説である一方で、作中ひんぱんに
「ニグロ」という言葉を多用したことで差別問題にまで発展した作品であることを考えれば、『ダールグレン』との類似は明らかだろう。
またトウェインのもうひとつの代表作『トム・ソーヤーの冒険』では、ネイティブ・アメリカンが悪役として登場しているが、
これに対するディレイニー流の皮肉が、『ダールグレン』でネイティブ・アメリカンのハーフを主役に据えた理由かもしれない。

また、例の人名リストがペンネームの候補だとすると、「ウィリアム・ダールグレン」は作者自身の変名であると考えることもできる。
そしてディレイニーとダールグレンは、共にDではじまる名前でもある。


このように読み取っていくと、『ダールグレン』という作品が「ディレイニーのプライベートな人生」と
「アメリカという国家の実像」という二つの次元が入り乱れた世界として構成されているのが見えてくる。
もしや本書はフラワー・ムーブメントの体験的記録であると同時に、アメリカという国の文化と歴史を
そこに丸ごと重ね書きしようとした物語なのではないか?というのが、いま読み解ける範囲での感想である。

そう考えると、自分を含めたほとんどの読者は、まだベローナの入り口を入ったばかりのところに佇んでいるだけなのかもしれない。
その先へと進むには、何度稲妻によって追い出されても再びベローナに戻り、霧の中を少しずつ歩いていくしかないのだろう。
そこまで考えぬいた上で、ディレイニーが『ダールグレン』全体を構成したと思うとき、いまだ見えない世界の全貌に身震いするばかりである。
コメント

キジ・ジョンスンの「Spar」

2010年07月03日 | SF
Kij Johnsonのネビュラ賞受賞短編「Spar」を読んだ。

宇宙船の衝突事故で放り出された人間の女と、それを取り込んだ異星の救命艇。
女はその中で未知の存在とえんえんfuckし続けるという話だけれど、この作品の凄さは
その行為を介して「人であることの定義づけ」を、執拗なまでに揺さぶり続ける点にある。

まず序盤に置かれたこの文章からして、実に意味ありげでいい。

They each have Ins and Outs.
Her Ins are the usual, eyes ears nostrils mouth cunt ass.
Her Outs are also the common ones: fingers and hands and feet and tongue.
Arms. Legs.
Things that can be thrust into other things.

感覚器でありコミュニケーションツールでもある身体部位が、生殖器官と並置されている。
この作品において、これらの器官は全て“fuckするための道具”なのである。
そして手と腕と舌と足。これらの器官は作中の環境下で本来の機能を失うことにより、
まさに「突っ込むための道具」と化す。

つまり環境によって純然たる“性的人間”と化してしまうわけだが、特に興味深い点は、
本来の機能を失った部位の役割が、単にfuckのための器官へと変わってしまうことにある。
これを女性におけるclitorisと関連付けたり、擬似的なpenisへの機能分化としても面白いが、
さらに生殖という行為を伴わない以上、卵巣や精嚢の存在は無視してよいと考える場合、
作中での女は異星人とのfuckを経て、もはや性を持たない生物へと変貌したと捉えても
よいのではないか。

そして異星人のほうも本物のcuntやpenisを有しているわけではないのだから、実は女の腕と
異星人の触腕の間には、さほどの違いはない。
だからThey each have Ins and Outs. という表現は、いくら異質な相手に見えたとしても
実は似たり寄ったりな存在だということを、最初から宣言しているようにも感じられる。

なお念のため書いておくと、異星人の身体描写である「毛むくじゃらで骨がない筋肉質の穴」を、
そのままcuntの比喩と考えれば、女と異星人はまさしく互いを写す鏡像であると言える。
この視点に立つと、旧来のフェミニズム/ジェンダーSFの枠内のみで「Spar」を語ることには
かなりの無理がありそうだ。
むしろその枠の外へと踏み出そうという積極的な試みこそ「Spar」という作品であり、
逆に読み手にもそれなりの心構えが求められるように思う。

原文には独特のリズムがあるのだが、これと全編に現れるInとOutの繰り返しを
Fuckの律動と捉えるとき、Sparというタイトルも四文字言葉であると気づくだろう。
だからあけすけに言ってしまえば、この作品のタイトルは「Fuck」でいいとも思うが、
そこを「Spar」に置き換えることによって、Fuckに代表される様々なタブーに対して、
Fuckそのものを武器に斬りこんでいこうという意図もあるのかもしれない。
まあさすがにそのままでは芸もないし、そもそも出版社からOKが出ないだろうけど。

さて、機械的に栄養を補給し、機械的に排泄を行う環境の中で、人はなぜfuckするのか?
そこに人間の尊厳と知的生命である事に対する、本作からのギリギリの問いがあるように思える。
妊娠・出産による種の保存という衝動や使命感も、相手が異質すぎる存在では意味をなさない。
この不毛な状況の中で、なぜ彼女はfuckするのか?あるいは、しなければいられないのか?

相手を求めているのか、相手に求められているのかもわからない状況で、快楽のためか
苦痛のためかもわからないままに続けるfuckこそ、生という理不尽さの具現化だろう。
キジ・ジョンスンはSFだから許される極限状況を設定することで、人間の意識における
自己と他者に対する認識の曖昧さ、生きることの根源に横たわる矛盾といったものを、
「生」と「性」の両面からあぶりだしてみせたのだと思う。
生きてるからfuckする。生きるためには、fuckし続けなければならない。
人生とは、しょせんfuckingなものなのだから。

この作品を読んだとき、ジェリコーによる「メデュース号の筏」という絵画を思い出した。
あれは実話に想を得た作品で、難破船の筏の上では飢えによる食人も行われたという。
そして「Spar」における女の行為も、一種の飢えによる食人行為ではないかと思うとき、
本作は見事なサバイバルSFであり、ある種の戦争文学の様相すら帯びるように思われる。
すなわちfuckのfはfoodであり、fightのfでもあるということだろう。
だから「Spar」というタイトルには、遭難者たちの拠りどころとしての「帆柱」だけでなく、
やはり格闘技における「組み手」の意味が含まれているとも考えられる。

まあこんな状況下では、少なくとも女にとってはfuckそのものが「帆柱」であるのは確かだ。
それにしがみつくことで、女は自分が生きていることを実感し、自分が孤独ではないという
はかない希望を与えられ、未来に対する不安を忘れることができる。
これらは日常的に行われているものではあるが、極限の状況下ではその意味合いや重みも
また大きく異なってくるものだ。
そしてこの世界に、拠りどころとなる帆柱はひとつしかない。
この狭い世界では快楽も癒しも闘いさえも、fuckという行為の中にしか存在しないからだ。

そして異星人との行為は、女が失った過去を「思い出すこと」と「忘れること」の反復行為でもある。
現実と回想の交錯する物語には、やはりInとOutの繰り返しの型が反映している。
そしていつしか、現実と回想、そして目的と手段はその境界を失って渾然一体となっていく。
それはまるで、女と異星人が交わり続けることで、分かちがたい存在へと変貌していくことを
密かに暗示するかのようだ。

それにしても、ラストの一文はどう読めばいいのだろう。
単純に読めば救出劇なんだけど、もはやそう読めなくなっている自分がいるとすれば、
それは異星人に何がしかの感情移入をしているということになる。
このとき理解しがたいのは異星人のほうか、あるいは女のほうか?
その読者における心理的な受け入れ方の変化もまた、この小説の狙いと考えることもできる。

あるいは、InとOutの意味するものについて。
この作品の中で、Inはもっぱら生に、Outは死に結び付けられる例が多いように感じられる。
では最後のOutの先にあるのは、本当に生なのだろうか?

そして、三人称による記述について。
これは作品に観察者としての冷静な語りを与える一方で、閉鎖環境における語り手の不明瞭さを生む。

これは本当に客観視点なのか、それとも実は、異星人が女の心を読んでいるのだろうか?
さらにもし後者だとすれば、Outしていくのは女なのか異星人なのか、あるいは両者の合体した
まったく別種の生き物なのか?
救命艇のイメージが母胎を思わせるものだけに、最後の結論もありえないものではないだろう。

このように様々な角度から読むことにより、「Spar」はファーストコンタクトSFであり、変身SF、
そして身体改変SFであり、さらには変種の侵略SFとすら読み得る広がりがある。
正当的なSFのテーマから、ここまでの異様さと多様さを持つ作品を導き出したということによって、
キジ・ジョンスンは正しくティプトリーの、そしてスタージョンの域に迫る資質を有すると示してくれた。

彼女が今後のSF界を担う存在であることは確実だし、本邦での本格的な紹介が待たれる作家である。

なお今回の感想を書くにあたり、らっぱ亭さんによるTwitterまとめ“キジ・ジョンスン「スパー」談義”と、
そこからのリンク先に置かれた感想をずいぶん参考にさせていただきました。
末文になりましたが、深くお礼申し上げます。

(補足)
上記の文章を書いた後、「Spar」がネビュラ賞ショート・ストーリー部門を受賞したとのこと。
さらにSFマガジン2011年3月号に柿沼瑛子氏の訳で「弧船」として掲載された。
・・・作中で“Spar”を“帆柱”と訳したのに、なぜこのタイトルになったのかは不思議なのだが。
コメント

ジーン・ウルフの「風来」(SFマガジン2010年1月号)

2010年02月07日 | Wolfe
SFマガジン2010年1月号で、ウルフの「風来」を読む。
個人的には「デス博士の島その他の物語」「眼閃の奇跡」に連なるテーマを持つ作品であり、
そして両作品に勝るとも劣らない傑作であると感じた。

閉鎖的な社会の中で孤立していく少年と、いわゆるマレビトである「風来」の子との交流、
さらに唯一の肉親である祖母との絆を描いた小説で、これらの外面的な部分を読むだけでも
十分に感動できる作品だ。

しかし、なんといってもジーン・ウルフの作品。当然だが、これだけでおわりではない。
解説で柳下毅一郎氏が「ややもすると難解と言われることが多いウルフだが、瑞々しい
少年小説の書き手であることを忘れてはなるまい。」と書いているが、「だから本作は
シンプルな少年小説で、他の読み方はありません。」などとは一言も書いていない。
難解とは言わないにしても、携帯小説的な口当たりのいい読み方で終わらせてしまうのは
あまりにも惜しいというものだ。

実際、最初に読むときは少年小説でいいだろう。しかし一読して少年小説にしか思えないとしたら、
それ以外の面を覗き見るためにもう一度、あるいはさらに読み返すべきだ。
この短い作品の中にSF、幻想小説、本格推理、社会諷刺、そして宗教小説としての要素が
不足なく揃っているといえば、ちょっと信じられないものがあるだろう。
しかしきちんと読んでいけば、絶対にそれがわかる。
それだけのものを、ウルフは間違いなく本作に詰め込んでいるからだ。

とはいうものの、いったいどこを手がかりに本作を読んでいったらいいのかという疑問もあるだろう。
どうしても読みどころがつかめない場合のために、以下に自分なりの感想を交えたメモを載せておくので、
せっかく読んではみたものの全然わからない、という時の参考にでもしていただきたい。

(ただし、できればこのメモなしで「風来」を2回は読んでいただきたいと思う。
 また以下のメモはあくまで私見なので、内容の真偽についてはお約束できない。)


まずタイトルのThe Waifについて。
これは訳題のとおり「風来」であるが、一方でWaifはWolfにも通じていると読めるだろう。
つまりこれは作者Wolfeの署名であり、「別の子」はウルフの分身となるわけだが、また同時に
「風来」という語が「狼」へと置き換えられることを示唆するものでもある。

そして本書を読んでいくと、随所に「嘘」というテーマが含まれているのに気づくだろう。
これと狼を結びつければ、自然と「ピーターと狼」の物語が連想されるはずだ。
つまりこれは、ビンが「風来」を見ることができるのに対し、他の人には彼が見えないことを示すものである。
いわば、実在しない者をありそうに語る「嘘」と「噂」、そして隠されて見えない「真実」について語ることが、
本作における主要なテーマといえよう。

そして「風来」の物語を「ピーターと狼」になぞらえると、ビンの役割はピーターであり、すなわちビンは
使徒ペテロ=イエスの最初の弟子と見なすことができる。
つまり彼が最初に見つけた者が(イエスに相当する)「救い主」であることは、既にタイトルにおいて
暗に示されているわけだ。
また「別の子」が納屋に寝ていたことも、やはりイエスのイメージと重なり合うものである。

そしてビンの家に来たとき、別の子の足には傷があって出血していたが、灰がついて血は固まっている。
この足のケガはイエスの聖痕、そして灰は聖灰を思わせるものだ。
つまりこの場面にも、イエスの復活というモチーフが隠されていると読めるだろう。

なお、ビンを「ビーン」と読み替えると、ジーンと似た響きになる。
また「ケルベロス第五の首」の謝辞では、ウルフが自分を豆(Bean)になぞらえていることから、
ビンにもウルフ自身の姿が投影されていると見てもよいだろう。

一方で「別の子」の名前については「寒さおばけ」と「エアリエル」の二つが出てくるが、
あだ名である「寒さおばけ」のほうは、霜の妖精「ジャック・フロスト」のことだろうし、
また本当の名である「エアリエル」は大気の精を指すものだ。
そしてこれらをあわせると、「別の子」は季節と自然の化身ということになるだろう。
また他方、Jack FrostはJesus Christと綴りや響きが似ていることにも留意したい。

さらに作中では、冬から春へと移り変わっていく気配が、そこかしこに示されている。
この「春の息吹き」と、別の子の残した「希望の息吹き」が、作中でうまく重ね合わせられている・・・のだが、
これが単なる自然現象なのか、あるいは「別の子」の到来と関係があるのかを明確に書かないところが、
ウルフの憎らしいところである(まあ、いつもどおりの書き方ではあるが)。

ここで話を変えて、ビンたちの社会集団について触れてみたい。
P69の下段から表われる「神父」と「ニーマン」の語によって、この社会がなんらかのキリスト教的な
教義によって成り立つ、強い同胞意識で結ばれた集団であることがわかるだろう。
そしてこの社会では、同胞の意をこめて互いを「Neighbor」と呼び合っていたものと思われる。

しかし「風来」の噂が流れ、やがてその協力者として隣人たちを焼くようになるにつれて、
「汝の隣人を愛せ」という教えとの不整合が生じてきた。
これに伴い、彼らは人を焼くことをやめるかわりに「Neighbor」という呼び名のほうを、
同じ意味を持つ「Near man(ご近所)」に変えてしまったのだ。
それが時を経てさらに訛ったものが、作中で使われている「ニーマン」なのだろう。

しかし図らずも、「near man」には人間未満(または亜人間、猿人)の意味がある。
つまりこの呼び名は、町の人々が自覚なしに人間の水準から退行していることを暗示するものであり、
またウルフが自作中で常に意識している「人」と「獣人」との違いにも通じている。
(宮脇訳は「Near man」が暗示する意味をそのまま訳文として書いてしまっているために、むしろ
語彙の変化がわかりにくくなっていると思うが、どうだろうか。)

町の人々が同胞たちを火あぶりにすることについて、教師のニーマン・プリュデリから問われた時、
ビンはこう答える。

「見たくないんなら、あんなことしなければいいと思うんです。
 あんなことをしたのは、町の人なんです。」

つまりビンは火あぶりの原因が「火あぶりにされた者」の犯した罪ではなく、むしろ
「火あぶりにした者たち」の心であることに気づいているのだ。

そしてこれは、ニーマン・プリュデリが言う「風来人がここにいる。そのことは文明再建の妨げになる」
という議論と、実は同じ根を持っていると思う。
つまり文明再建ができないのは人々の心の問題であって、決して「風来」のせいではない。
しかし人々はその事実から目をそむけようと、下の世代にまで「風来」のもたらす害を語る。
そしてこれもまた、一種の「嘘」の連鎖なのだ。

そして意図せずにその「嘘」を暴いてしまったビンに対して、級友のフィルは言う。
「家に帰って告げ口するやつが、何人も出てくるぞ」
つまりこの町で火あぶりになった人の多くは、同様の告げ口が原因となって焼かれたのだ。

ではその人々のうち、本当に風来と会ったことのある者はどのくらいいたのだろうか?
(これもまた、修辞疑問の一例である。)

ビンが学校から帰ると、ガムが「親切な隣人が届けてくれたらしい塩」の話をする。
ここで意図的に「隣人」の言葉が使われているとすれば、塩を届けたのは「ニーマン」ではなく、
「別の子」であることを示すようにも思われるが、逆に「別の子」が持ってきたという考えもまた、
単にビンの推測でしかないことを強調しておきたい。
ここでもまた、ファンタジーとリアルのどちらにも読めるという小憎らしい書き方がされている。
また、ガムが春の気配を感じた直後に塩が置いてあったという描写は、「別の子」と季節の変化に
密接な関係があることを思わせるが、これもまたガムの印象からの推測にすぎないものである。

P78では、「別の子」が寝ていた納屋が、もとはニーマン・ジョエルのものであったことが明かされ、
これによって序盤でのニーマン・ジョエルについての言及が大きく意味を持ってくる。
ビンたちに寛容で、大人たちの信頼も厚かったというニーマン・ジョエルは、いったい何をして
火あぶりにされたのだろうか?ビンは風来の子に、原因は君なのかと問いかける。
これに対し、風来の子はジョエルが「何をした」とは答えず、「あの人はとても貧しかった」と答え、
さらに続けて「憎しみは贅沢なんだよ」と語る。

これをニーマン・ジョエルが得ていた人望やその人柄とあわせて考えると、ニーマン・ジョエルこそ
人を憎むことのない「聖人」の器を持ち、罪なき人物であったことが想像できる。
そんな人物に「憎しみ」を持てる人間は、彼を焼いて何かを得ることのできる欲深い者、すなわち
「贅沢な」人間であることは、「別の子」の言葉からわかるだろう。
それを意識して考えれば、彼が「風来と通じている」という噂を流した者が、今の納屋の持ち主であり
ギッドの父でもあるニーマン・コリンであることは、自ずと見えてくるはずだ。
そして彼が、後にビンとガムの身に降りかかる悲劇の原因となることにも気づくだろう。
これはまさに、人々の讒言によって多くの犠牲者を生んだ魔女狩りの故事を思い起こさせるものである。

そしてさらに突き詰めれば、「風来」とは本当に存在するものなのか、それとも荒廃に疲弊した人々が
疑心暗鬼と自己弁護のうちに生み出した「架空の人々」にすぎないのか、という疑問も湧いてくるはずだ。
やはりここにもまた、「ピーターと狼」の変奏が現れてくる。

人々は存在しない「風来」の噂に踊らされており、逆に本物の「風来」の到来には気づかないとすれば、
これは「眼閃の奇跡」の巻頭に置かれた「そんな男は覚えていない」という一文と対応するものであろう。
そして「眼閃の奇跡」もまた、救世主の到来に気づかない超管理社会の物語であったのだ。

「別の子」はニーマン・ジョエルについて「ぼくもときどき協力しようと思って、何度か本当に手伝ったこともあるよ」と語る。
ニーマン・ジョエルが農夫だったことを考えると、風来の子が何をどのように「手伝った」のか、その解釈が難しい。
普通の人と同様に仕事を手伝ったのか、あるいは風来としての能力を使ったのか。
また彼を「救世主的な存在」とすれば、何らかの「奇跡」によって食物を増やしたことも考えられるし、
霜の精にして季節の化身であるならば、天候の恵みを与えて豊作を迎えるように働きかけたとも考えられる。
「別の子」が何者であると考えるかによって、物事の真相もまたうつろうものなのだ。

そしてニーマン・ジョエル自身が、はたして「別の子」に気づいていたかということも、作中では明かされない。
また別の子は、自分の見たものをジョエルに見せることが「できなかった」と言っている。
これはジョエルにも別の子が「見えていなかった」という可能性を示すものであろう。

そして逆に言えば、そもそもビンが見ている「別の子」がはたして実在するのかというのも、
本作における根本的な問題である。
ビンはギッドに殴られた後、納屋の暗がりの中で「別の子」の姿を見た。
しかし別の子がギッドを殴った様子は見ていないし、棍棒もビン自身が持ってきたものである。
さらにビンは後になって「心の底では、いつかギッドを棍棒で殴ったらすっとするだろうな」と思うのだ。

ビン自身は嘘をついていないにしろ、あくまで彼の主観で話しているため、実はギッドを殴ったのが
ビン自身であったり、あるいはギッドを憎んでいる他の子供の仕業であるという可能性も否定はできない。
つまり、「別の子」はビンの空想が生み出した、実体のない者という事さえあり得るのだ。
(だとすれば、「別の子」という呼び方には「(ビンが想像した)彼の分身」といった意味も含まれそうだ。)

しかし、もし「別の子」が空想の存在としても、それが単に「存在しない」ということと同義でないことは、
かの名作「デス博士の島その他の物語」や「眼閃の奇跡」において書かれているとおりである。

また、ビン以外の人間にも「別の子」が見えたり見えなかったりしているようだが、これは主にビンとギッドの間で
トラブルが生じて以後のことであり、それらの発言にどの程度の信憑性があるかは不明である。
また「別の子」を見たというギッドについても、P70のネズミの話で既に虚言癖らしきものが示されているので、
その言葉に信頼性はないだろう。
あわせて「別の子」の約束後にビンが感じた「姿が見えなくなる気配」や、ビンに連れはいなかったという
ガムの言葉を考えると、ギッドが見てもいない「男の子」の嘘を言っている可能性は高いと思われる。

そしてギッドの父であるニーマン・コリンも、やはり同じようにしてニーマン・ジョエルを火あぶりにしたのだろう。

ビンとガムへの悪意は町民の悪い噂を呼び、ついには捕らえられたビンの眼前でガムを火あぶりにするという事態に至る。
そしてニーマンたちに捕らえられたとき、ビンは木立を抜けて天へと昇っていく「別の子」を見守っていた。

天へ昇る「別の子」はイエスの昇天を思わせるものであり、また春という季節も、ちょうど復活祭の時期に重なるものである。
あるいは「別の子」が霜の妖精であれば、春の訪れと共に天へ帰っていくのはごく自然なことであろう。
(そしてこの変貌を「新しい太陽の書」に重ね合わせるのもいい。結局のところ、全ての太陽神は「日の頭」なのだから。)
そしてビンがもう2度と「別の子」に会えないと感じるのは、彼の少年期が終わったことの証しでもある。

いままさに焼かれようとするガムを救うため飛び出したビンは、薪の炎を踏み消しながら叫ぶ。

「ぼくたちより、あの子たちのほうが立派だ!ずっと立派なんだ!みんなは知らないんだ!」

「別の子」をイエスの資質ある存在と見れば、「風来」が堕落したキリスト教信者である「ニーマン」たちより
ずっと立派な者であるという指摘は、実に正しい。(それを指摘するのがペテロであれば、なおさらである。)
また「別の子」がこの世界と自然そのものの化身なら、やはり人間よりはずっと立派な存在だろう。
そしてどちらにしろ、ビン以外の人間はそれに気づくことがない。
彼らは貧しいにもかかわらず他者を憎んでおり、その贅沢さに慣れきっているからだ。

なお、もしここでの「あの子たち」という部分が、原文では「Them」のような言葉であるとすれば、
これは「風来」を指すものではなく、火あぶりにされた人々について語っているようにも読める。
火あぶりの原因が犠牲者ではなく、町の人々の心にあると気づいたビンの聡明さを考えれば、
最後に彼が「火あぶりにされた人々のほうがよほど立派だ」と言い切る事は、当然の帰結だろう。
また、本作をビンの成長と自我の確立に主眼を置いたリアリズム小説として読む場合には、
超自然的要素が絡んでこないこちらの解釈のほうが、より理にかなっていると言える。

そしてラストシーンに降り注ぐ、ざあざあという激しい雨。
これまでの読みによって、このラストシーンは幾とおりにも読めるようになっている。

「別の子」を救い主と考えれば、これは奇跡によって彼が降らせた雨だろう。
また霜の精であれば、天に昇った霜が雨となって降り注ぐのは天の摂理である。
またこれは単なる偶然であり、季節が春になったことによる天気の変化だとも考えられる。
いずれにせよガムは救われたと思われるが、それが誰によるものかという答えは示されない。

しかし、単に作者が「答えを書かない」ことと、読者に対して「読みの自由度を保証する」ことには、
大きな隔たりがあるということは指摘しておきたい。
ウルフは本作の結末において「自由な解釈」を許しているが、高い読みのレベルでそれが可能になるのは、
作者自身が結末に至るまでの各所に綿密な仕掛けを施しているからだ。
それらの仕掛けによって、本作は最初に述べたとおり「SFであり幻想小説であり、また本格推理にして
社会諷刺小説、そして宗教小説でもある」という稀有なバランスを達成しており、なおかつどの読みにも
縛られることなく、「少年の自由と成長についての物語」として存在しているのだ。
その配慮と力量を読み取らずして、作者であるウルフの意に報いたとは言いがたいと思う。

そして小品ながらここまで磨かれた「風来」を読むと、「新しい太陽のウールス」の冒頭において
セヴェリアンも語っていた「誰も、何者も、これを読んでくれることを期待せずに」これだけ精緻な
物語を書くという作業が、書き手にとってどれだけの孤独と不安を伴うかという点に思い至る。
ウルフは作家として、自作がどのように読まれるか、そしてどこまで読みこまれるのかという不安に
駆られないのだろうか。
・・・いや、たぶんそう思ったとしても、やはり書かなければいられないのだろう。

あるいはそれこそ、ウルフが自らについて書いたエッセイを「Lone Wolfe」とした理由なのかもしれない。
きっとウルフという人は、小説を書いている今も「誰かに見つけて欲しい」と願い続ける孤独な少年のままなのだ。
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素晴らしき真鍮自動チェス機械

2010年01月16日 | Wolfe
国書刊行会の『モーフィー時計の午前零時』所収、ジーン・ウルフ1977年の作品。
編者は若島正、訳者は柳下毅一郎というウルフ好きには鉄板の組み合わせである。

物語の舞台となるのは、かつての大戦争によって文明が退行した世界。
ドイツの片田舎と思われる辺鄙な村に、フリークの小男と香具師の乗る馬車がやってきた。

彼らは古代の遺産であり、いまや世界で唯一の稼動するコンピュータとなった全自動式のチェス機械を
持参しており、この機械は誰と指しても決して負けないという。
これに挑んで完敗を喫した大学教授のバウマイスターは、法外な値でコンピュータを買い取るが、
その中身は手のこんだイカサマ仕掛けだった。
落胆する教授に対し、機械を操っていた小男の「足萎えハンス」は、逆に香具師を騙そうと持ちかける。
酒場女のグレートヒェンを巻き込んだ計画はうまくいきそうに思われたが・・・。

文明の遺物とそれを操る流れ者、さらにフリークが出てくるピカレスク調の物語ということで、
アヴラム・デイヴィッドスンの代表作「どんがらがん」と近い印象を受ける。
とはいえウルフ作品だけに、単なるデイヴィッドスン似のファンタジーには終わらない。

物語の終盤で足萎えハンスが、イカサマ勝負を成功させた後“タバコ屋の主人”に納まった自分を
想像する場面が出てくるが、このときの逡巡が結末と呼応することで、何ともいえない余韻を残す。
結果としてチェス相手に困らなくなった彼は、はたして幸福なのか不幸なのか?
人は自らの囚人であり拷問者である、というのはウルフが好んで取り上げるテーマの一つだ。

さらに目を転じてみれば、チェスというゲームの中に戦時下の現実をさりげなくダブらせる演出も心憎い。
チェスを指すハンスが見上げる空に浮かんだ気球は、いわば機械の中から見上げた駒の姿である。
この瞬間、現実の世界で繰り広げられる戦争はチェス盤の上で繰り返される無数の棋譜へと同化され、
幾度となく繰り返されるゲームの一局にすぎないことが暗示されるのだ。
そしていま再び“戦車”という兵器が発明されつつあるという事実がそれとなく示されることによって、
まさに第一次世界大戦当時の状況が再現されつつあるという点にも符合している。
さらに作中に現れる名称を調べていくと、そこには第二次世界大戦の影すらも・・・。

チェスのゲームから一転して、永遠に繰り返される「世界」と「人生」の、救いがたい不条理さを
一望の下に開示する鮮やかな手際こそ、ウルフならではの絶妙の一手だろう。
戦争が近代化・機械化されていく過程が、自動機械によるチェスと重ねられている点も見逃せない。
民話風のチェス小説にして戦争文学でもあるという、ウルフ的な企みに満ちた一品である。

なお本作におけるチェス機械は、実在したチェス機械“トルコ人”のエピソードに基づく再話だが、
それ以外にも実話や他の創作からの引用らしきものが見え隠れしている。
かなり妄想が入っているので作者の狙いとの一致度は不明だが、ネットなどで調べた結果として
個人的に気になったものを列記しておく。
さらに前述した第二次世界大戦に関する事項についても、ここに記載する。


シュロスベルグ・・・実在する山で、ドイツ語で「城の山」を意味する。
ただし、作中で出てくる「シュロスベルグ」がこの山であるとの確証はない。

列と輪・・・ラインとリングか?どちらもワーグナーのニーベルンゲンの指輪つながりでは。

ファウスト・・・ゲーテによる同名詩劇の主人公。『アメリカの七夜』にも引用あり。
ヒロインの名前である「グレートヒェン」は愛称で、本名はマルガレーテである。

パンツァーファウスト・・・第二次世界大戦でドイツ軍が使用した携帯式対戦車無反動砲。
ドイツ語の「装甲」と「拳」が組み合わさったもの。

マルガレーテ作戦・・・1944年にナチス・ドイツが実行した、ハンガリー王国の制圧作戦。
ハンガリーの作戦はマルガレーテI、実行されなかったルーマニア制圧作戦はマルガレーテIIとされる。

パンツァーファウスト作戦・・・ナチス・ドイツと矢十字党により1944年10月に実行された、
ハンガリー王国のクーデター計画。マルガレーテ作戦に続いて実行された。

アドルフ・アンデルセン・・・ドイツのチェスプレーヤーで数学の教師。
『モーフィー時計の午前零時』の巻末解説の中でも、その名が挙げられている。
非公式ながら、一時期は世界チャンピオンの座についたともされる。

アドルフ・ヒトラー・・・いうまでもなく、世界で最も有名な独裁者。
彼とチェスチャンピオンのアンデルセンが同国人かつ同一名を持つという奇妙な符合こそ、
ウルフに『素晴らしき真鍮自動チェス機械』を書かせた一因ではないだろうか。
なお、アドルフという名が「高貴な狼」を意味することは、ウルフの作品全般に大きな影響を
与えている模様。(『ケルベロス第五の首』の謝辞にも、それが反映されている。)

ウィリ・バウマイスター・・・ドイツの抽象画家。
その作品はナチスから退廃芸術とみなされ、うち5点は「退廃芸術展」で展示された。
画家でもある妻の名は、マルガレーテである。

ハンス・ベルメール・・・球体関節人形で知られる、ポーランド出身のシュルレアリスト。
彼の生誕時、ポーランドはドイツ帝国領であり、ベルメールもドイツ国籍を有していた。
奇妙に歪んだ肢体を持つ彼の人形は、ナチスのアーリア人優性主義へのアンチテーゼでも
あったとされる。なお、ベルメールの最初の妻の名もマルガレーテ。
足萎えハンスの容姿と女給のグレートヒェンを襲った運命は、どこかベルメールの人形を連想させる。


ベルメールとバウマイスターが共にシュルレアリストと見なされていることを考えると、
物語の最後で言及される「無意識から生まれる新たな技術(アート)」とは、超能力と
シュルレアリスム運動を掛けたウルフならではの冗談ではないかと思われる。
あるいはこれは、超人思想と神秘主義に傾倒する一方でシュルレアリスムを否定し、
弾圧を加えたナチスとヒトラーに対する、ウルフなりの痛烈な皮肉なのかもしれない。
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