熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

現在不定期かつ突発的更新中。基本はSFの読書感想など。

カウパーとウェルズで締められても…

2006年07月09日 | SF
『ベータ2のバラッド』も、ラストの2作品を残すのみ。

『ハートフォード手稿』
NWとの比較にはもってこいの非NW作品。とにかく文章が重い。
これに比べれば、ロバーツの作品すら軽やかに思えてくるほど。
しかもこの前がエリスンだから、もっさり感が5割増しくらいに
感じられて、特に出だしはかったるくて仕方がなかった。
こういう作品を読むと、NWという動きが「何を書くか」以上に
「いかに書くか」を強く意識し、実践していたのだということを
再認識させられるものがある。

内容については、実話仕立てとテキスト内テキストがメタっぽいものの、
基本的にはウェルズの本歌取りであり、かつ17世紀英国の歴史に関する
引き写しである。
一番スリリングなのはカウパーの創作部分ではなく、当時の英国社会の
危機的状況のほうだというのが、どうにも困ったところ。
読み物としては悪くないけど普通の話で、刺激的なところは全然ない。

アンソロジーというのは読後の余韻が全体の印象に大きく影響するので
トリを飾る作品にこれを持ってきたのは、いまひとつ納得がいかない。
なんといっても、作品の格が軽すぎるのだ。
他のアンソロジーに収録済みなのがネックだが、ウェルズからの流れで
最後を締めるなら、ここにはオールディスの『唾の樹』を置きたいところ。
あの作品こそ、ゴシックとペシミズムの系譜、科学による進歩への傾倒と
懐疑を見事に融合させた「小説によるSF史」であり、解説で編者が述べた
「英国SFの源流」を示す上でも格好の作品だと思うのだ。
以上は主観的な意見だが、このアンソロジーを読み終えたら『影が行く』に
収録されている『唾の樹』にも目を通して欲しいと思う。
(余談になるが、あの原題は『よだれの樹』と訳したほうが語感もいいし、
その貪欲な感じがより内容にふさわしいという気がする。)

どうせオールディスを載せるなら、かの『リトル・ボーイ再び』を
持ってくるというのも、なかなか捨てがたいものがあるのだが。
こういう危ないセレクトに走りたがるのが、編者と私の好みの違いと
いうことなのかもしれない。

『時の探検家たち』
カウパー作品の補足的に収録された作品。もちろん非NWである。
英国SFの始祖という点では収録の意図もわかるけれど、正直なところ
これとカウパーを抜けば別の作品が十分入ったろうに、とも感じてしまう。
読者としては、こういうひねった編集はあまりうれしくないところだ。

といっても、ウェルズの作品自体はやはり面白い。
怪奇趣味と科学的描写が表裏一体となって描かれる物語は、因襲と科学が
ぶつかり合う時代ならではの「世界のねじれ感」が魅力的であり、一方では
この「ねじれ感」こそ、今もSFの根っこにあるものだと痛感させられる。
それと作中でネボジプフェル博士がタイムマシン製作の動機に「孤独感」を
挙げていたのは、興味深いところだった。
スタージョンに代表されるように、SFと「孤独」というのは非常に親和性の
高いものなのだが、ウェルズの頃からそれが書かれていたとは思わなかった。
実はよく考えてみれば、モロー博士も透明人間も「孤独者」の物語なのだけど。

ウェルズとそのオマージュというセットであれば、まず筆頭に挙げられるのは
ウルフの『デス博士の島その他の物語』と『モロー博士の島』の組み合わせ。
本来はこのセットを掉尾に置くのが最強の布陣だが、さすがにそれは無理なので
カウパーを持ってきたというのが実情か。
まあ各読者は自分なりにこの部分を他の作品に置き換えて遊ぶというのも、
このアンソロジーの楽しみ方のひとつということになるのかも。

収録作に異論はあるものの、こういう本が出ること自体がうれしい企画であり
ここで読めなかった作品に対する欲求もさらに高まるというものである。
テーマアンソロジーに限らず、今後も埋もれたSFの名作や佳作を書籍化する
企画が続いて欲しいものだ。
とりあえずは浅倉セレクションの『グラックの卵』に期待したい。
それと『異色作家短編集』別巻の早期刊行を、切に望むものである。
ロバーツやエリスンを待たされると、そのうち禁断症状が出てきそうだ。

四色問題その他の物語

2006年07月04日 | SF
前回に引き続き『ベータ2のバラッド』収録作から、
表題作以外で読み終わったものについての感想。

『四色問題』
バロウズ読んでないもので、文体模写といわれても何がなにやら。
まあいろいろと小難しい話が書かれているものの、実のところは
NWのセルフ・パロディじゃないの、というのが私の見方。
四色問題にかこつけて、バラードの「内宇宙への道はどちらか?」を
大っぴらにパロディ化してしまったのが、本作ではないかと思うのだ。
五色目の場所はどこかを延々論じまくったあげく「そんな場所はない」と
バッサリ斬り捨てたり、国を挙げての数学的証明事業がいつの間にやら
カバラ装置の開発事業になってしまったり、セックス・テンソルに乗って
内宇宙から大艦隊が飛来したりと、もうやりたい放題である。
話が進むにつれて、作中に出てくる「パルプSF誌」が「パルプカバラ誌」
に化けてしまうあたりなど、「SFとは何か」というNW的論争に対する
ベイリー流の皮肉ではないかと勘ぐりたくなるところだ。

確かに奇作・怪作の名にふさわしい珍品ではあるのだが、実は内輪受けの
軽いスラップスティック・コメディと見るならば、あまり持ち上げるのも
どうだろうという感じ。
どうせなら巻頭に「内宇宙への道はどちらか?」を掲載して、その直後に
『四色問題』を載せてくれれば、まさしく「NW史改変アンソロジー」として
不動の評価を得られたかも知れないと思ってみたりして。
まあそれは編者の意図とは全然関係ない話なのだけれど。

『降誕祭前夜』
華やかさはかけらもないながら、実在しない光景をまるでそこにあるが如く
鮮明に描き出して見せるのが、ロバーツの真骨頂。
その文章は、さながら渋いモノクロ映画を見ているかのような味がある。
淡々とした筋運びの中にじわじわと不穏な空気が高まってくる展開は、
まさに英国ゴシック小説の正当な系譜を感じさせるものだ。
歴史改変や異様な社会制度というテーマは別段目新しくもなく、話自体は
極めて真面目な文学派SFなのだが、この異端の作品集の中にあっては
その真面目さがかえって独自の存在感を放っているという良さもある。
SFマガジンあたりに載っていたら、まず2度と日の目は見なかっただろう。
この手の小説はやはり「ゴシック叢書」の版元から出されるのがふさわしい。

もう一つ面白かったのは、英国人にとっては「ナチズム」による支配体制が
未だ根深い恐怖として残っているのだと再認識させられたこと。
最近『V・フォー・ヴェンデッタ』を読んだせいもあるが、全体主義の台頭で
恐怖政治がもたらされる事への恐れと反発は、他のどの国にも増して強いと
感じさせるものがある。
その恐怖心と反発心が、「もしドイツが戦争に勝っていたら」という物語を
繰り返し生み出す土壌となっているのだろう。
ちなみにこれをアメリカ人の場合に置き換えるなら、真珠湾と核の呪縛に
今も捉われている、ということになるのだろうか。まあ単なるイメージだが。

『プリティ・マギー・マネーアイズ』
歓楽の街ラスベガスを舞台に繰り広げられる、聖なる娼婦と心優しき負け犬の
奇跡と愛と絶望の物語。
男と女の悲哀としたたかな駆け引きの顛末を、ギャンブルというテーマを通じて
一気呵成に書き上げた佳作である。
女の情念と街の熱気が絡み合うことで生みだされた幻が、一人の男を捕らえて
蟻地獄のように引きずり込んでいくという、一種の都市小説とも読めるだろう。
まあ一番カッコいいのは、まるでペンならぬペニスを握っていきり立つかの如く、
ハイテンションでドライブしまくるエリスンの文体に尽きるのだが。
原文はもっとぶっ飛んでいそうな気もするが、この幻の作品を日本語で読めるのは
とにかくありがたいことである。
翻訳者の伊藤氏のご苦労には、最大限の敬意と感謝を表したい。

この話を読んでいて、リーミイの『サンディエゴ・ライトフット・スー』を思い出した。
別に似ているというわけではないが、これも女の妄執とせつない悲しみを描いて
忘れがたい作品である。
できればリーミイもどこかで復刊して、ぜひ読み比べるチャンスを与えて欲しい。

若きディレイニーの肖像

2006年07月02日 | SF
「未来の文学」初のアンソロジーが、いよいよ刊行された。
一応はNWという看板をぶらさげてはいるものの、運動や思想よりは
むしろ時代を象徴するためのキーワードとして選ばれたフシがある。
むしろ「20世紀SF」の若島版、もしくは裏バージョンと呼んだほうが
このアンソロジーの性格をよく表しているような感じがする。

さて、表題作『ベータ2のバラッド』。
ディレイニーの最初期作品であり、確か彼の初SF作品だったように思う。
あまりに古典的な展開なのでちょっと意外な気もしたが、当時新進作家の
ディレイニーが、SFを書き始めるにあたって「いかにSFらしく書くか」を
意識して書いたと考えると、実は型にこだわる彼らしいと言えるかも。
ヴォートっぽいテーマを扱ったあたりには、当時のディレイニーが持っていた
SF観や、彼の好みを伺わせるようでもある。

SFらしさにこだわるあまり、彼の魅力である奔放なイメージは若干抑え気味に
なってしまったが、五感に直接訴えかけるような情景描写の鮮やかさは、やはり
ディレイニーならではの持ち味である。
物語の核である「バラッド」の謎解きが記録と伝聞だけで成し遂げられてしまうのは
ダイナミックさと緊張感に欠けるところで、ここが本作最大の弱点。
だがこれも、「語りの多様性」と「物語の多面性」に主眼を置いたものと考えれば、
これまたディレイニーらしいと言うべきか。

いろいろな面で、後年の作品に比べれば食い足りないし、荒っぽくて詰めも甘い。
それでもこの作品には、まぎれもなくディレイニーの印が刻印されている。
そしてこの物語自体が、若きSF作家の意気込みと挑戦の貴重な記録なのである。
主人公のバラッドを巡る探求の姿は、ディレイニーのSFに対する探求の姿と
ぴったりと重なるのだ。

そしてこの『ベータ2のバラッド』、作中に後のディレイニー作品の原型が
いくつも表れているという点でも、非常に興味深い作品だと言える。
例えば、口承文芸と宇宙冒険SFの部分は『ノヴァ』。
言語への興味と自己認識の問題は『バベル=17』。
そしてキリストにまつわる物語については『アインシュタイン交点』。
『ベータ2のバラッド』を、上記の作品が生まれるための習作として位置付けるのも
あながち無理ではないと思うのだが、どうだろう。

単体の作品としては不十分な面もあるが、ディレイニーという作家について
マルチプレックスに読み解きたいと思う読者なら、『ベータ2のバラッド』は
ぜひ読んでおくべきだと思う。
まだカットも磨きも粗いけれど、ここには確かに宝石の「輝き」が潜んでいる。