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ジーン・ウルフの「風来」(SFマガジン2010年1月号)

2010年02月07日 | Wolfe
SFマガジン2010年1月号で、ウルフの「風来」を読む。
個人的には「デス博士の島その他の物語」「眼閃の奇跡」に連なるテーマを持つ作品であり、
そして両作品に勝るとも劣らない傑作であると感じた。

閉鎖的な社会の中で孤立していく少年と、いわゆるマレビトである「風来」の子との交流、
さらに唯一の肉親である祖母との絆を描いた小説で、これらの外面的な部分を読むだけでも
十分に感動できる作品だ。

しかし、なんといってもジーン・ウルフの作品。当然だが、これだけでおわりではない。
解説で柳下毅一郎氏が「ややもすると難解と言われることが多いウルフだが、瑞々しい
少年小説の書き手であることを忘れてはなるまい。」と書いているが、「だから本作は
シンプルな少年小説で、他の読み方はありません。」などとは一言も書いていない。
難解とは言わないにしても、携帯小説的な口当たりのいい読み方で終わらせてしまうのは
あまりにも惜しいというものだ。

実際、最初に読むときは少年小説でいいだろう。しかし一読して少年小説にしか思えないとしたら、
それ以外の面を覗き見るためにもう一度、あるいはさらに読み返すべきだ。
この短い作品の中にSF、幻想小説、本格推理、社会諷刺、そして宗教小説としての要素が
不足なく揃っているといえば、ちょっと信じられないものがあるだろう。
しかしきちんと読んでいけば、絶対にそれがわかる。
それだけのものを、ウルフは間違いなく本作に詰め込んでいるからだ。

とはいうものの、いったいどこを手がかりに本作を読んでいったらいいのかという疑問もあるだろう。
どうしても読みどころがつかめない場合のために、以下に自分なりの感想を交えたメモを載せておくので、
せっかく読んではみたものの全然わからない、という時の参考にでもしていただきたい。

(ただし、できればこのメモなしで「風来」を2回は読んでいただきたいと思う。
 また以下のメモはあくまで私見なので、内容の真偽についてはお約束できない。)


まずタイトルのThe Waifについて。
これは訳題のとおり「風来」であるが、一方でWaifはWolfにも通じていると読めるだろう。
つまりこれは作者Wolfeの署名であり、「別の子」はウルフの分身となるわけだが、また同時に
「風来」という語が「狼」へと置き換えられることを示唆するものでもある。

そして本書を読んでいくと、随所に「嘘」というテーマが含まれているのに気づくだろう。
これと狼を結びつければ、自然と「ピーターと狼」の物語が連想されるはずだ。
つまりこれは、ビンが「風来」を見ることができるのに対し、他の人には彼が見えないことを示すものである。
いわば、実在しない者をありそうに語る「嘘」と「噂」、そして隠されて見えない「真実」について語ることが、
本作における主要なテーマといえよう。

そして「風来」の物語を「ピーターと狼」になぞらえると、ビンの役割はピーターであり、すなわちビンは
使徒ペテロ=イエスの最初の弟子と見なすことができる。
つまり彼が最初に見つけた者が(イエスに相当する)「救い主」であることは、既にタイトルにおいて
暗に示されているわけだ。
また「別の子」が納屋に寝ていたことも、やはりイエスのイメージと重なり合うものである。

そしてビンの家に来たとき、別の子の足には傷があって出血していたが、灰がついて血は固まっている。
この足のケガはイエスの聖痕、そして灰は聖灰を思わせるものだ。
つまりこの場面にも、イエスの復活というモチーフが隠されていると読めるだろう。

なお、ビンを「ビーン」と読み替えると、ジーンと似た響きになる。
また「ケルベロス第五の首」の謝辞では、ウルフが自分を豆(Bean)になぞらえていることから、
ビンにもウルフ自身の姿が投影されていると見てもよいだろう。

一方で「別の子」の名前については「寒さおばけ」と「エアリエル」の二つが出てくるが、
あだ名である「寒さおばけ」のほうは、霜の妖精「ジャック・フロスト」のことだろうし、
また本当の名である「エアリエル」は大気の精を指すものだ。
そしてこれらをあわせると、「別の子」は季節と自然の化身ということになるだろう。
また他方、Jack FrostはJesus Christと綴りや響きが似ていることにも留意したい。

さらに作中では、冬から春へと移り変わっていく気配が、そこかしこに示されている。
この「春の息吹き」と、別の子の残した「希望の息吹き」が、作中でうまく重ね合わせられている・・・のだが、
これが単なる自然現象なのか、あるいは「別の子」の到来と関係があるのかを明確に書かないところが、
ウルフの憎らしいところである(まあ、いつもどおりの書き方ではあるが)。

ここで話を変えて、ビンたちの社会集団について触れてみたい。
P69の下段から表われる「神父」と「ニーマン」の語によって、この社会がなんらかのキリスト教的な
教義によって成り立つ、強い同胞意識で結ばれた集団であることがわかるだろう。
そしてこの社会では、同胞の意をこめて互いを「Neighbor」と呼び合っていたものと思われる。

しかし「風来」の噂が流れ、やがてその協力者として隣人たちを焼くようになるにつれて、
「汝の隣人を愛せ」という教えとの不整合が生じてきた。
これに伴い、彼らは人を焼くことをやめるかわりに「Neighbor」という呼び名のほうを、
同じ意味を持つ「Near man(ご近所)」に変えてしまったのだ。
それが時を経てさらに訛ったものが、作中で使われている「ニーマン」なのだろう。

しかし図らずも、「near man」には人間未満(または亜人間、猿人)の意味がある。
つまりこの呼び名は、町の人々が自覚なしに人間の水準から退行していることを暗示するものであり、
またウルフが自作中で常に意識している「人」と「獣人」との違いにも通じている。
(宮脇訳は「Near man」が暗示する意味をそのまま訳文として書いてしまっているために、むしろ
語彙の変化がわかりにくくなっていると思うが、どうだろうか。)

町の人々が同胞たちを火あぶりにすることについて、教師のニーマン・プリュデリから問われた時、
ビンはこう答える。

「見たくないんなら、あんなことしなければいいと思うんです。
 あんなことをしたのは、町の人なんです。」

つまりビンは火あぶりの原因が「火あぶりにされた者」の犯した罪ではなく、むしろ
「火あぶりにした者たち」の心であることに気づいているのだ。

そしてこれは、ニーマン・プリュデリが言う「風来人がここにいる。そのことは文明再建の妨げになる」
という議論と、実は同じ根を持っていると思う。
つまり文明再建ができないのは人々の心の問題であって、決して「風来」のせいではない。
しかし人々はその事実から目をそむけようと、下の世代にまで「風来」のもたらす害を語る。
そしてこれもまた、一種の「嘘」の連鎖なのだ。

そして意図せずにその「嘘」を暴いてしまったビンに対して、級友のフィルは言う。
「家に帰って告げ口するやつが、何人も出てくるぞ」
つまりこの町で火あぶりになった人の多くは、同様の告げ口が原因となって焼かれたのだ。

ではその人々のうち、本当に風来と会ったことのある者はどのくらいいたのだろうか?
(これもまた、修辞疑問の一例である。)

ビンが学校から帰ると、ガムが「親切な隣人が届けてくれたらしい塩」の話をする。
ここで意図的に「隣人」の言葉が使われているとすれば、塩を届けたのは「ニーマン」ではなく、
「別の子」であることを示すようにも思われるが、逆に「別の子」が持ってきたという考えもまた、
単にビンの推測でしかないことを強調しておきたい。
ここでもまた、ファンタジーとリアルのどちらにも読めるという小憎らしい書き方がされている。
また、ガムが春の気配を感じた直後に塩が置いてあったという描写は、「別の子」と季節の変化に
密接な関係があることを思わせるが、これもまたガムの印象からの推測にすぎないものである。

P78では、「別の子」が寝ていた納屋が、もとはニーマン・ジョエルのものであったことが明かされ、
これによって序盤でのニーマン・ジョエルについての言及が大きく意味を持ってくる。
ビンたちに寛容で、大人たちの信頼も厚かったというニーマン・ジョエルは、いったい何をして
火あぶりにされたのだろうか?ビンは風来の子に、原因は君なのかと問いかける。
これに対し、風来の子はジョエルが「何をした」とは答えず、「あの人はとても貧しかった」と答え、
さらに続けて「憎しみは贅沢なんだよ」と語る。

これをニーマン・ジョエルが得ていた人望やその人柄とあわせて考えると、ニーマン・ジョエルこそ
人を憎むことのない「聖人」の器を持ち、罪なき人物であったことが想像できる。
そんな人物に「憎しみ」を持てる人間は、彼を焼いて何かを得ることのできる欲深い者、すなわち
「贅沢な」人間であることは、「別の子」の言葉からわかるだろう。
それを意識して考えれば、彼が「風来と通じている」という噂を流した者が、今の納屋の持ち主であり
ギッドの父でもあるニーマン・コリンであることは、自ずと見えてくるはずだ。
そして彼が、後にビンとガムの身に降りかかる悲劇の原因となることにも気づくだろう。
これはまさに、人々の讒言によって多くの犠牲者を生んだ魔女狩りの故事を思い起こさせるものである。

そしてさらに突き詰めれば、「風来」とは本当に存在するものなのか、それとも荒廃に疲弊した人々が
疑心暗鬼と自己弁護のうちに生み出した「架空の人々」にすぎないのか、という疑問も湧いてくるはずだ。
やはりここにもまた、「ピーターと狼」の変奏が現れてくる。

人々は存在しない「風来」の噂に踊らされており、逆に本物の「風来」の到来には気づかないとすれば、
これは「眼閃の奇跡」の巻頭に置かれた「そんな男は覚えていない」という一文と対応するものであろう。
そして「眼閃の奇跡」もまた、救世主の到来に気づかない超管理社会の物語であったのだ。

「別の子」はニーマン・ジョエルについて「ぼくもときどき協力しようと思って、何度か本当に手伝ったこともあるよ」と語る。
ニーマン・ジョエルが農夫だったことを考えると、風来の子が何をどのように「手伝った」のか、その解釈が難しい。
普通の人と同様に仕事を手伝ったのか、あるいは風来としての能力を使ったのか。
また彼を「救世主的な存在」とすれば、何らかの「奇跡」によって食物を増やしたことも考えられるし、
霜の精にして季節の化身であるならば、天候の恵みを与えて豊作を迎えるように働きかけたとも考えられる。
「別の子」が何者であると考えるかによって、物事の真相もまたうつろうものなのだ。

そしてニーマン・ジョエル自身が、はたして「別の子」に気づいていたかということも、作中では明かされない。
また別の子は、自分の見たものをジョエルに見せることが「できなかった」と言っている。
これはジョエルにも別の子が「見えていなかった」という可能性を示すものであろう。

そして逆に言えば、そもそもビンが見ている「別の子」がはたして実在するのかというのも、
本作における根本的な問題である。
ビンはギッドに殴られた後、納屋の暗がりの中で「別の子」の姿を見た。
しかし別の子がギッドを殴った様子は見ていないし、棍棒もビン自身が持ってきたものである。
さらにビンは後になって「心の底では、いつかギッドを棍棒で殴ったらすっとするだろうな」と思うのだ。

ビン自身は嘘をついていないにしろ、あくまで彼の主観で話しているため、実はギッドを殴ったのが
ビン自身であったり、あるいはギッドを憎んでいる他の子供の仕業であるという可能性も否定はできない。
つまり、「別の子」はビンの空想が生み出した、実体のない者という事さえあり得るのだ。
(だとすれば、「別の子」という呼び方には「(ビンが想像した)彼の分身」といった意味も含まれそうだ。)

しかし、もし「別の子」が空想の存在としても、それが単に「存在しない」ということと同義でないことは、
かの名作「デス博士の島その他の物語」や「眼閃の奇跡」において書かれているとおりである。

また、ビン以外の人間にも「別の子」が見えたり見えなかったりしているようだが、これは主にビンとギッドの間で
トラブルが生じて以後のことであり、それらの発言にどの程度の信憑性があるかは不明である。
また「別の子」を見たというギッドについても、P70のネズミの話で既に虚言癖らしきものが示されているので、
その言葉に信頼性はないだろう。
あわせて「別の子」の約束後にビンが感じた「姿が見えなくなる気配」や、ビンに連れはいなかったという
ガムの言葉を考えると、ギッドが見てもいない「男の子」の嘘を言っている可能性は高いと思われる。

そしてギッドの父であるニーマン・コリンも、やはり同じようにしてニーマン・ジョエルを火あぶりにしたのだろう。

ビンとガムへの悪意は町民の悪い噂を呼び、ついには捕らえられたビンの眼前でガムを火あぶりにするという事態に至る。
そしてニーマンたちに捕らえられたとき、ビンは木立を抜けて天へと昇っていく「別の子」を見守っていた。

天へ昇る「別の子」はイエスの昇天を思わせるものであり、また春という季節も、ちょうど復活祭の時期に重なるものである。
あるいは「別の子」が霜の妖精であれば、春の訪れと共に天へ帰っていくのはごく自然なことであろう。
(そしてこの変貌を「新しい太陽の書」に重ね合わせるのもいい。結局のところ、全ての太陽神は「日の頭」なのだから。)
そしてビンがもう2度と「別の子」に会えないと感じるのは、彼の少年期が終わったことの証しでもある。

いままさに焼かれようとするガムを救うため飛び出したビンは、薪の炎を踏み消しながら叫ぶ。

「ぼくたちより、あの子たちのほうが立派だ!ずっと立派なんだ!みんなは知らないんだ!」

「別の子」をイエスの資質ある存在と見れば、「風来」が堕落したキリスト教信者である「ニーマン」たちより
ずっと立派な者であるという指摘は、実に正しい。(それを指摘するのがペテロであれば、なおさらである。)
また「別の子」がこの世界と自然そのものの化身なら、やはり人間よりはずっと立派な存在だろう。
そしてどちらにしろ、ビン以外の人間はそれに気づくことがない。
彼らは貧しいにもかかわらず他者を憎んでおり、その贅沢さに慣れきっているからだ。

なお、もしここでの「あの子たち」という部分が、原文では「Them」のような言葉であるとすれば、
これは「風来」を指すものではなく、火あぶりにされた人々について語っているようにも読める。
火あぶりの原因が犠牲者ではなく、町の人々の心にあると気づいたビンの聡明さを考えれば、
最後に彼が「火あぶりにされた人々のほうがよほど立派だ」と言い切る事は、当然の帰結だろう。
また、本作をビンの成長と自我の確立に主眼を置いたリアリズム小説として読む場合には、
超自然的要素が絡んでこないこちらの解釈のほうが、より理にかなっていると言える。

そしてラストシーンに降り注ぐ、ざあざあという激しい雨。
これまでの読みによって、このラストシーンは幾とおりにも読めるようになっている。

「別の子」を救い主と考えれば、これは奇跡によって彼が降らせた雨だろう。
また霜の精であれば、天に昇った霜が雨となって降り注ぐのは天の摂理である。
またこれは単なる偶然であり、季節が春になったことによる天気の変化だとも考えられる。
いずれにせよガムは救われたと思われるが、それが誰によるものかという答えは示されない。

しかし、単に作者が「答えを書かない」ことと、読者に対して「読みの自由度を保証する」ことには、
大きな隔たりがあるということは指摘しておきたい。
ウルフは本作の結末において「自由な解釈」を許しているが、高い読みのレベルでそれが可能になるのは、
作者自身が結末に至るまでの各所に綿密な仕掛けを施しているからだ。
それらの仕掛けによって、本作は最初に述べたとおり「SFであり幻想小説であり、また本格推理にして
社会諷刺小説、そして宗教小説でもある」という稀有なバランスを達成しており、なおかつどの読みにも
縛られることなく、「少年の自由と成長についての物語」として存在しているのだ。
その配慮と力量を読み取らずして、作者であるウルフの意に報いたとは言いがたいと思う。

そして小品ながらここまで磨かれた「風来」を読むと、「新しい太陽のウールス」の冒頭において
セヴェリアンも語っていた「誰も、何者も、これを読んでくれることを期待せずに」これだけ精緻な
物語を書くという作業が、書き手にとってどれだけの孤独と不安を伴うかという点に思い至る。
ウルフは作家として、自作がどのように読まれるか、そしてどこまで読みこまれるのかという不安に
駆られないのだろうか。
・・・いや、たぶんそう思ったとしても、やはり書かなければいられないのだろう。

あるいはそれこそ、ウルフが自らについて書いたエッセイを「Lone Wolfe」とした理由なのかもしれない。
きっとウルフという人は、小説を書いている今も「誰かに見つけて欲しい」と願い続ける孤独な少年のままなのだ。
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2 コメント

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見事な解釈です! (sfonline@SFファン)
2011-05-27 11:24:31
あまりの面白い解釈に感心しました。

「風来」を読みましたが、
作品の深い意味に気づきませんでした。

私はキリスト教については全く詳しくありませんので、漠然と文明風刺と少年の物語がうまく融合したようなものと思ってしまいました。

えに熊様のようにもっと教養があれば、もっとSFを面白く読めるんだろうなあ……。
はじめまして (mixmax(えに熊))
2011-06-16 23:30:50
sfonline@SFファンさん、ありがとうございます。
つたない文章ではありますが、少しでもウルフの面白さを伝えられたならうれしいです。

ウルフを読むのにあまり気負う必要はないですよ。
この読みも、たまたま自分の趣味と一致した範囲を書いたものですから。
手元において何度も読むうち、時々はっとした発見がある、
そこがウルフの小説のすばらしさです。
今年は作品集の出版もあるようなので、ぜひそちらも読んでみてください。

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