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熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

現在不定期かつ突発的更新中。基本はSFの読書感想など。

「解釈」という名の物語の物語―「ジーン・ウルフの「アメリカの七夜」を読む」を読む

2021年03月13日 | Wolfe
S-Fマガジン2021年4月号掲載の若島正氏による評論「「解釈」という名の物語―ジーン・ウルフの「アメリカの七夜」を読む」を読んだ。
ここで若島氏は「アメリカの七夜」という謎めいた作品に取りつかれた海外研究者たちの有力な評論を紹介し、その労苦については敬意を払いつつも、自身の精読によって作品の深奥へと入り込み、その成り立ち自体を従来の視点から180度転換させる新解釈を引き出してみせた。
その大胆かつ繊細な切り口は、ジーン・ウルフの作品を長年研究してきた碩学ならではのスリルあふれるものであった。

さて、踏み込んだ感想を述べる前に、解釈の対象となった中編の簡単な紹介と、若島氏の評論のまとめを行ってみたい。

ジーン・ウルフ作「アメリカの七夜」は1978年に刊行されたオリジナルアンソロジー「Orbit20」が初出の中編で、1980年の第1短編集「The Island of Doctor Death and Other Stories and Other Stories 」にも収録された。
日本ではS-Fマガジン2004年10月号のジーン・ウルフ特集で初めて邦訳され、その後2006年2月刊行の日本オリジナル作品集『デス博士の島その他の物語』に収録されている。
作中の謎をめぐってアメリカでも日本でも多くの愛読者を悩ませてきた作品だが、若島氏によるといま最も有力な解釈とみなされているのが、本作の書評コンテストで受賞したデイヴ・トールマンの説らしい。
ウルフ研究者のマーク・アラミニによる全著作解釈本でも、基本的にトールマンの説が採用されており、これが正当な解釈とされているそうだ。

若島氏の評論(以下「若島論」)は、このトールマン/アラミニ説を含む既出の解釈とは異なる観点から「アメリカの七夜」を読み直すことにより、
・「技巧的なパズル・ストーリー」という従来の評価に修正を迫りつつ
・この小説がいかにジーン・ウルフの中心的なテーマにつながっているか
この二点を論じようとする試みである。

若島論では六日間の記録を日記の掲載順にまとめて議論のアウトラインを示したのち、従来から議論されてきた問題を二つ挙げてみせる。
1.「アメリカの七夜」と題されながら、日記には六夜ぶんの記述しかない。失われた一夜はどこにあり、誰が削除したのか?
2.ドラッグの入った卵菓子をナダンはいつ食べ、日記のどこにその幻覚が見出せるか?

そしてこの問題に対する既出の有力仮説として、ウルフ研究者のボースキーとトールマンの二つの説が紹介される。

ボースキー説:ナダンが削除した部分に卵菓子をひとつ食べた記述がある。ゆえに卵菓子が減っていたというのはナダンの嘘である。
ナダンは細密画を盗みに来たのであり、削除したのは五日目に書かれた下見の部分とする。
幻覚剤は最後の卵に入っている。アーディスはナダンがかつて撃った怪物であり狼女である。

トールマン説:ナダンの目的はやはり細密画の入手、ただし失われたのは二日目で、このとき下見をしたと考える。
つまりスミソニアンに行ったのは三日目だとする。
この説の本体はアメリカ復権の陰謀とそれに巻き込まれたナダンという解釈で、秘密警察がアンプルでナダンを暗殺しようとして失敗し、アーディスやボビーを使ってナダンの部屋からアンプルを使った卵菓子を回収したとする。
さらに6日目以降の記述は秘密警察が機械を使って物語と筆跡を捏造したものという解釈している。

しかし若島氏は、二人とも作中に用意された解釈の域を出ていないと断じてみせる。
ここから謎解きの本番が始まるのだが、詳しいことは評論が掲載されたS-Fマガジンを読んでいただきたい。

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さて、そろそろ若島論についての、私なりの感想を述べていく。

若島氏はボースキーもトールマンも作中に用意された解釈の域を出ていないと述べたが、これにはまったく同感だ。
要するに2人とも、ジャンル小説の枠に当てはめた解釈を披露しているにすぎない。

ボースキーはSFとして読み、その枠に見合う解釈をした。
トールマンは陰謀論として読み、その枠に沿った解釈をした。
場に伏せられた札をどう読むかも含め、どちらもウルフの仕掛けたゲームを遊んでいることに違いはない。
そして二人とも謎を解くことによって、物語を完結させようとしているのは変わらない。

若島氏はこれらの読みを採らない。むしろ異議を唱えるために着目するのは、ゲーム自体のルールと場の側である。
すなわち「アメリカの七夜」のメタフィクションとしての構造を明らかにし、その機能を説明することによって、従来のゲームとその場を丸ごとひっくり返そうとするのだ。
細部は省くが、その手法は従来の謎とされた部分を「もともと存在しない」、つまりナダンが日記に書いた嘘として読み解くことにあった。
ここから組み上げた推論により、若島氏はナダンの日記を創作と断定する。
この断定によって多くの矛盾点が解消され、同時に「アメリカの七夜」がテーブルの上で繰り広げられる小さなパズル遊びではなく、そこからはみ出して世界を覆いつくす無限の物語であるという新たな解釈が浮上する。

若島氏の評論が目指すのは、作品の主要な謎を解きつつ、物語を永遠に続けることだ。
従来有力視されてきたボースキーやトールマンの評論と決定的に異なる点はここだろう。
そしてジーン・ウルフ作品の愛読者ならばなおのこと、若島論に強い共感をおぼえるはずだ。
ウルフが自己複製を繰り返しながら場所と時間を超えて伝播していく物語を目指しているのは、代表作『新しい太陽の書』4部作が聖書の模本(しかも聖書自体に旧と新がある)を意図している点でも明白であり、若島氏の解釈はこれに沿ったものだからである。
さすがは日本最高のウルフ読みである若島氏、目のつけどころが実にウルフ的である。

このようにパズル的・ゲーム的な解釈への異議申し立てとして従来の説を見事に覆した若島論だが、ではその解釈ですべてが丸く収まるかといえば、なかなかそうもいかないようだ。
やはりウルフはやすやすと尻尾をつかませてくれない。

たとえば、日記の削除を否定した解釈について。
若島氏は本当に削除したならそれを日記に書くのは矛盾している、だから削除はされておらず、他人に読ませるための嘘の手がかりなのだと説く。
しかし日記が創作だとすれば、それがわかる手がかりとして「いずれそうなるようにぼくがしむけてみせる。」といった宣言を書き残すのも矛盾だろう。
若島氏の文章を引用するなら「そのことがわからないほど、ナダンはマヌケな人間ではない。」ということだ。
もちろん創作であることを意図的にほのめかした可能性もあり得るが、それではオスマン・アーガの旅行記に倣おうとするナダンの創作意図と合致しない。
もし日記に書かれた内容が嘘だとしても、その嘘を明かしてはせっかくこしらえた魅力的な虚構が台無しである。
むしろ作品全体の構成を考えると「アメリカの七夜」という作品は日記を間に挟んだ枠物語の形式を採用することにより、日記について「作中世界での真実性」を留保しつつ、真偽の判断は読者に委ねたと見なすほうが自然だろう。

ナダンの日記に続いて、枠物語の部分に読者の代理として登場するのは、ナダンの身内と思われる若い女と老婦人である。
そして日記を読んだ後の2人の反応は、実に対照的だ。
ヤースミーンと思われる若い女はナダンの生存と日記の真実性を信じ、さらにナダンが日記を書いた後に手紙を出したのではないかという「別の物語」にまで言及する。
いっぽう、ナダンの母と思われる老婦人は日記の筆跡を疑う。これは内容だけでなく、作者そのものへの懐疑である。
この母の懐疑を受けて読者がまず考えるのは、日記を送ってきたハサン・ケルベライによる捏造の可能性だろう。
ハサンは日記とともに送ってきた報告書の中で、捜索を続けるための金が届かなければ捜索を打ち切ると示唆している。
もし日記の真実性を疑うなら、これはハサンがさらに経費を請求するために偽物を書いて送ったと考えるのが一般的だ。

ではその筆跡は本当にナダン以外のものかといえば、これもまた曖昧である。
ここで老婦人が見せる葛藤は、日記が偽物らしいというだけでなく、あえて偽物と思いたい理由があるとも考えられる。
老婦人は息子の生存をあきらめかけているか、あるいは調査を続けられない事情があるのではないか。
その事情はナダンがアメリカに渡ったことと関係があり、ヤースミーンはそれを知らないのかもしれない。
若い女とは違った立場に身を置くもうひとりの読者の複雑な思いが、ここにはっきりと表れている。

日記の外側にいる最初の読者たちの反応が既に真偽まっぷたつに割れていることから、その2人を書いたウルフ自身が「どちらの解釈を採ってもよい」と示唆しているのは明白だ。
しかしこの場面の、そして全体の締めくくりとして末尾に置かれた「たぶんね。たぶん」という言葉は、老婦人の迷いを示すものであると同時に「アメリカの七夜」を繰り返し読んで欲しいと誘いかけるジーン・ウルフからの言葉でもあると思う。
物語が閉じられるとき、そこに置かれるのは「めでたし、めでたし」である。これを物語の終わりを二重に言祝ぐものとするなら、「たぶんね。たぶん」とは、終わらない物語を二重に強調した呪文とみなせるだろう。

さて、日記の内容が嘘であるとすれば、そのどこからどこまでが嘘なのか。もし最初から最後までが嘘だとすれば、アメリカで調査中のハサンに見破られる可能性が高そうだ。
そしてナダンの身内2人が読んでいた日記が原本なのか、あるいはハサンが送ってきた写真複写なのかについても、作中でははっきり書かれていない。
老婦人が「本を閉じた」とあるので、仮にこれが原本だと考えた場合、削除の有無はページの脱落や切り取り跡として残っているはずであるが、これについても作中での言及はない。

このように細部を詰めていくと、少なくともウルフは巧妙に核心をぼかし、あるはずの証拠についてもすべては提示していないことがわかる。
これは謎解きとしての「読者への挑戦」を意図していないからではないのか。唯一の解答を求める探偵たちの前に差し出された、これがウルフなりの答えにも思える。

いっぽう、日記の書き手であるナダンもまた核心をぼかした記述をするが、こちらはナダンのロマン主義的な精神と、見たものを信じられない、あるいは信じたくないという心理作用によるものだ。
彼の気持ちの揺れは、ある場面では日記を読ませるつもりと書き、別の場面では読ませられないと書く不安定な記述にも表れている。
そんなナダンの日記が持つ魅力とはなにか。それは彼が書き留めた怪物や崩壊したアメリカの姿だけではない。
むしろそれらを見聞した本人がどのように受け取って何を感じたかという「書き手の解釈に基づく現実」こそ、最も読むべき部分だろう。
ナダンの心の動きと曖昧な現実認識をひとまずそのまま受け止めること。これこそ『デス博士の島その他の物語』のあとがき「ジーン・ウルフ-言葉の魔術師」において、柳下毅一郎氏がウルフの言葉として掲げた「わたしはつねに自分に見えるとおりのものを見せようとしている」という執筆姿勢に沿った読み方ではないだろうか。
そこに書かれたものをまず素直に受け取るという気持ちも、ジーン・ウルフの作品を読むうえで大切なものだろう。

ウルフの最高作ともいわれる傑作短編「デス博士の島その他の物語」が不朽の名作となりえたのも、タッキー少年の見た世界が彼の解釈に基づく「別の現実」であり、それが子供から大人へ、動物から人間へと変身していく少年の心身を最もうまく説明するものだったからである。
「アメリカの七夜」もまた、未知の土地で青年が初めて見た信じがたいものたちと、それに対する心の動きをつぶさにとらえた作品として、そのみずみずしい感覚を受け取ることが肝要である。
パズルに興じたりメタフィクションとして読み方を広げるのも楽しいが、わざわざウルフを読むのであれば、彼がその作品において繰り返し実践してきた「本は人なり」という考え方に立ち返って、語り手の内面に触れることを忘れてはならない。

いっぽう、誠実な読みを重ねた結果として、読者がさらに多様な解釈を施すことに関しては、ウルフもむしろ歓迎していたはずだ。
読者への挑戦ではなく、読者をどのようにもてなすかに全力を注ぐ。それがジーン・ウルフの流儀だからである。
そんなウルフの気持ちを汲んだ若島氏が「千一夜物語」を手がかりとして「アメリカの七夜」を読み解き、新たな解釈を提示するのは必然であり、この試みが日本のウルフファンを再び活気づけ、ウルフを読む楽しさを再認識させてくれたことに改めて感謝したい。

ではこの解釈という物語に背中を押されたひとりとして、私からもまた別の解釈を加えてみよう。
若島氏は「アメリカの七夜」という表題と千一夜物語の成立過程を関連付けながら、作者が姿を消すのは原作者不詳の原典にふさわしいとしている。
しかし同様に「アメリカの七夜」という表題から別の原典との関連を導き出し、ナダンがなぜ消えるに至ったかを推測することはできないだろうか。
その原典とはフランツ・カフカの『アメリカ』だと、私は考える。

なお、この作品はカフカの遺した手稿を友人のマックス・ブロートが編集して『アメリカ』の表題をつけて刊行した作品であり、後にカフカの手稿に沿った形に改訂されたため、今は新たな表題のほうが広く知られている。
カフカが手稿の時からこの作品につけようと考えていた表題、それは『失踪者』というものであった。

『アメリカ』は女中を妊娠させたドイツ人少年がアメリカで暮らす伯父の元に送られ、現地の文化と人々に接しながら自分の居場所を探す物語である。こちらの結末では主人公が変名を使って劇場に職と居場所を得る。
いっぽう『失踪者』では、この後にカフカの遺した短い断章が添えられ、主人公が乗った列車が渓谷にかかる橋にさしかかった時、「水面近くをかすめたとたん、冷気が顔を撫でた。」という一文で終わる。
カフカ小説全集の解説で『失踪者』を訳した池内紀氏はこの幕切れについて「小説はカフカ自身が述べたとおり、「とめどなくつづく」。終わりをみないのが、もっとも正確な終わり方と言っていい。」と評している。なんともウルフ的ではないか。
いや、むしろウルフのスタイルがカフカ的であると言うべきか。

なお『アメリカ』が『失踪者』に変身して再度お目見えするのは1983年のことで、刊行時期については1978年のOrbit20に掲載された「アメリカの七夜」が先行している。
しかしカフカが『失踪者』という表題をつけようとしていたことは、1946年版の『アメリカ』あとがきでブロートが明かしているので、それを知っていたジーン・ウルフが、自分なりの再構築による『失踪者』を書き上げた可能性もあり得ないとは言えない。

ナダン・ジャアファルザデーは役者として舞台に上がったとき、アメリカ人ふうの「ネッド・ジェファソン」という名を与えられた。
ジェファソンといえばすぐに思い浮かぶのが、アメリカ建国の父のひとりとされる第三代大統領のトマス・ジェファソンである。この人物はラシュモア山に彫られた4つの顔のひとつでもある。
ペルシアからやってきた青年がアメリカの象徴へと変身し、やがて失踪する。ウルフの筆によって、『アメリカ』は見事に『失踪者』へと変身したのだ。

さて、ウルフの執筆プランではあらかじめ失踪が定められていたとして、作中でのナダンはどこまで計画的に動いていたのだろうか。
アメリカに渡る前から失踪を企んでいたのなら、実はナダンはワシントンDCに行かず、「もっと北の地」であるデラウェア湾に上陸し、
そこで書いた日記をわざと放置したのかもしれない。DCの地図はテヘランでも見られるので、あとは想像で書くことも不可能ではない。
あるいはジェファソンの名を得た時、ナダンは国を捨て、家族を捨て、過去を捨ててアメリカの地で消える覚悟を固めた可能性もある。
この場合、手記に書かれたアーディスに関する最終夜の記述は、失踪をカモフラージュするために急遽書き上げた作り事だろう。

しかしアーディスが日記に書かれたとおりの醜悪な変身生物であり、その朽ち果てた肉体が疫病や汚染を媒介するものであれば、それと同衾したナダンの愛と欲望が恐怖と絶望に変わったのも無理はない。

そして最後に窓ガラスから見えた顔、これはアーディスかその仲間のものと思いがちだが、日記にはその点もはっきりとは書かれていない。
もしかすると窓に見えたのは、室内の灯火によって鏡と化したガラスに映ったナダン自身の顔だったのではないか。
それならナダンもまた獣人に変化したか、あるいはその前に食べた卵菓子の幻覚剤がナダンの恐怖に反応して幻を見せたということになる。
いずれの解釈にしろ、語り手本人が変身してしまうという結末は、ジーン・ウルフの書く物語にふさわしいものだと思う。

なお、作品の発表された当時の世界情勢を見ると、1973年の第1次オイルショックでアメリカ経済は衰えを見せ、さらに発表年の1978年にはイラン革命が始まっている。
ウルフは時事的な話題にこだわらない作家だが、「取り替え子」が朝鮮戦争とベトナム戦争を描いた物語として読めるように、あるいは「風来」の世界が9.11の後のアメリカ社会に重なるように、時事問題を扱わないというわけではない。
たぶん「アメリカの七夜」も、時代背景を反映して書き始められたものだろう。
しかし出来上がった作品は時代を超え、それこそ千一夜物語やカフカの作品のように長く読み継がれるものとなり、今も読者を魅了し続けている。
大衆作家として書きながら、その枠をたやすく超えてみせる。それがウルフの非凡さである。

評論への感想を書くつもりが、思ったよりも話が膨らんでしまった。
結局のところ、私もまた解釈という物語を付け加えたい誘惑にあらがうことができなかったようだ。
そしてウルフの作品が読み継がれるかぎり、解釈という物語はこれからも続いていくだろう。

ウルフを読み、その解釈の輪をつないでくれる人が、ますます増えることを願ってやまない。

ジーン・ウルフ、逝去。

2019年04月16日 | Wolfe
2019年4月14日、ジーン・ウルフが亡くなった。
享年87歳、長く心臓を患っていたという。
噂に上がっていた『書架の探偵』の続編はとうとう上梓されなかったが、
自らの分身である流行作家を図書館に住まわせ探偵役を務めさせる物語が
遺作となったのは、著者にとって幸せな事だったと思う。

なお『書架の探偵』の主人公E.A.スミスは「Smithの後にeがつく」と名乗るが
姓の最後にeがつく点はあのフィリップ・マーロウと同じ。
そして著者自身の姓も「Wolfの後にeがつく」ことを考えあわせると、この名が
ウルフ自身を指し示す署名であることに疑いはない。

さて私自身はというと、ウルフの死をことさらに嘆くつもりはない。
私たちの書架には、既にウルフの複生体である数々の著作があるからだ。
『書架の探偵』はそれを密かに伝える、著者最後のあいさつだったのかもしれない。

その作品を愛して繰り返し読み続ける限り、ジーン・ウルフはいつも我々と共にある。
そしてウルフの作品について語るとき、我々もまたひとりのウルフとなるのだ。

ジーン・ウルフ「取り替え子」

2016年03月13日 | Wolfe
『ジーン・ウルフの記念日の本』に収録されたうちで一番、そしてこれまでに紹介されたウルフの短編でも
指折りの傑作と断言できる作品、それが「取り替え子」である。
いまや幻の一冊となったNW-SF社のアンソロジー『ザ・ベスト・フロム・オービット』の収録作として
初訳されたのが1984年なので、実に31年ぶりの復活となる。

物語はある男が書き残した手記という体裁をとっている(ウルフおなじみの手法だ)。
手記の書き手は朝鮮戦争に従軍した後に中国へと渡り、帰国後は投獄の身だったという。
そしていま彼はカッソンズヴィルという故郷の町へ向かうところだ。
偶然旧友の車に同乗した書き手は昔話に花を咲かせるが、ピーター・パルミエリという少年についての記憶が
どうしても噛み合わない。
ピーター・パルミエリは書き手と同学年のはずだが、旧友によればピーターは現在8つくらいの小さな子供で、
その当時はまだ生まれていなかったというのだ。

やがて書き手はカッソンズヴィルの宿屋に到着し、そこでかつてと同じ子供のままのピーターと出会う。
ピーターは書き手のことをまったく覚えていないようだ。
そしてピーターの弟だったはずのポールはいまや立派な青年に成長していたが、家族の誰一人として
成長しない子供の存在を疑問に感じていない……ただひとり、ピーターの父親を除いて。

ピーターの父親は言う。ポールの姉のマリアがまだ赤ん坊だったころ、カッソンズヴィルに越してきて
2ヶ月後の夜に帰宅すると、見知らぬ少年がいた。
妻はこの子がマリアの兄のピーターだという。そしてピーターは成長しないまま、いつしかマリアの、
そして次に産まれたポールの弟へと立場を変えていった。
不審に思った父親は神父から聖水をもらってきて、眠っているピーターに振りかけてみたこともあるが、
その身には何一つ起こらなかった。

話を聞いた翌日、書き手は自分がかつて学んだ修道院の付属学校「無限罪の御宿り校」へ向かい、
クラス全員で撮った昔の記念写真を閲覧する。
自分が写っている場所はすぐにわかった。しかしそこに写っていたのは、彼の顔ではなかった。

かねてから名前だけは聞いていたが、実際に読んだのは今回が初めて。
最初に読んだ感じでは、ウルフが得意とする「記憶と存在についての物語」だと思った。
当たり前の日常がささいな記憶の混乱をきっかけに揺らぎだし、やがては自己を裏付ける過去の記録さえも
覆されて、ふと気づけば「何者でもない」存在になっている。
淡々とした描写を積み重ねによって読者はゆっくりと深みへ引き込まれ、最後には自分が消え去ることの
恐怖と開放感がないまぜになった、独特の余韻を味わうことになるのだ。
不条理系の幻想文学としては珍しくない話だが、作者の絶妙な語りによって印象深い作品になっている。

しかしこうした読み方とは別に、ふとした疑問から作品の背景を調べ始めたところ、これが想像以上に
生々しい背景を持った、作者の自伝的作品という一面を隠し持っているという結論に至った。
ここからはそう考えるに至った過程を書いていくが、先入観や特定の解釈に縛られたくないという人は
読まないほうがいいかもしれない。

さて、疑問のきっかけは「カッソンズヴィル(Cassonsville)」という町の名である。
ウルフが具体的な名称を出す場合、そこには何らかの意味を持たせていることが多い。
そこでカッソンズヴィルという名称をネットで検索すると、類似の名称として出てきたのが
「ケイトンズヴィル事件の九人」であった。
これはメリーランド州のケイトンズヴィルという町で、ベトナム戦争に抗議する9人のカトリック信徒が
ナパームで徴兵書類を焼き捨てたというものである。
敬虔なカトリック信者であるウルフなら、この事件を見逃すはずがない。
そして事件が起きたのは1968年、「取り替え子」が掲載されたOrbit3が発行された年なのである。
なおケイトンズヴィル事件は5月17日に起き、Orbit3はその後の9月1日に刊行されているので、
編集的にはギリギリのタイミングだとしても、時系列上の矛盾はない。
(注:これについては翻訳家の山岸真さんから「この短編は事件の前に既に完成していたはず」との
 コメントをいただきました。その他についてもいろいろとご教示いただき、ありがとうございます。)

それではなぜ、成長しない少年の名はピーターなのか。
この名前と「取り替え子(The Changeling)というタイトルからの連想として既に指摘されているのが、
ピーター・パンの物語である。
作中に子供時代の遊び場だった島が出てくることからも、これは確定事項だろう。
ではピーター・パンとベトナム戦争にどんな関連が見出せるというのかと言えば、
それはピーターが「自ら大人になるのを拒否した存在」であるという点だ。
これを徴兵拒否に読み替えると、兵役に就くのを拒む若者は「大人になることを拒んでいる」
永遠の子供であると指摘しているようにも読める。
これは大学生の時に朝鮮戦争に従軍し、戦場で大人になったウルフにとっての実感ではないだろうか。
しかしその一方、大人になった書き手は朝鮮戦争に従軍した後に敵の手に落ち、そこで生き延びるために
思想転向を余儀なくされたようである。
これは聖ペテロが告発を避けるためにイエスを否認した「ペテロの否認」に通じるものだろう。
そして手記の書き手はペテロと同じく、無限罪の宿りを具現化した少年に「躓く」のである。

さらに「聖ブランドン」での発想にならって、Cassonsvilleを「キャスの息子の町」と読み替えた場合、
再び聖キャサリン(カタリナ)の名前が浮かび上がってくる。
聖カタリナはキリスト神秘の結婚をしたとされる純潔の乙女であるが、同じ名前を持つ聖女については
エジプトの「アレクサンドリアのカタリナ」と、イタリアの「シエナのカタリナ」の二人が知られている。
ピーターの家族がイタリア系ということから、ここではシエナのカタリナが有力だが、それだけでなく
アレクサンドリアのカタリナとの二重イメージも含まれるとすれば、そこには書き手が捕虜として、
あるいは帰国後の収監中に受けた「拷問」の隠喩があるのかもしれない。

またシエナのカタリナは死後にその頭部が故郷へと持ち帰られ、アレキサンドリアのカタリナは
遺体が天使によって故郷へと戻されている。
ここから本作の書き手は(中国か、あるいは帰国後に収監された刑務所で)既に死んでおり、
それを知らないままに故郷へと戻ってきたとも考えられる。
そうだとすれば、終の棲家として定めた小島の横穴は彼の墓所であり、胎内回帰の場所でもあるだろう。

さらに付け加えるなら、この物語に登場するピーター・パルミエリ(ピート・パーマー)には
「風来」でも取り上げられた「ピーターと狼」のイメージも重ねられている。
ピーターは町の人々に大声で「狼(ウルフ)が来た」と叫んでいるが、町の人々はそれに気づかないのだ。
ここに朝鮮戦争から還ってきた当時のウルフの姿を重ね合わせることは、決して不自然ではないだろう。

ここまで推論を巡らしてきた結果、ウルフがこの物語を書いた背景には、自らの従軍体験があるという
結論に至ったわけである。

しかし同時に、この物語はウルフと共に戦場へと赴き、ウルフのように還ってこられなかった
数多くの仲間たちを書いたものでもあると思う。
たぶんウルフは書き手のような境遇に至った兵士を個人的に、あるいは各種のメディアを通じて
知っていたのだろう。
そして自分がそうなったかもしれないという意味も込めて、「The Changeling」というタイトルの物語を
書いたのだと思う。
だからこの作品には、作品発表当時にベトナム戦争を巡って国を二分する議論が起きていた合衆国の世情と、
それとは対照的なまでに忘れ去られてしまった朝鮮戦争の記憶との間で引き裂かれた作者自身の自画像が、
生々しいまでに描き込まれていると感じるのだ。

先に短編集全体について書いた時、本作を「アメリカ文学における優れた現代小説」と紹介したのは
こうした理由による。
ひとつの国を巡る二つの戦争の物語として読むことにより、この作品はまた別の姿を見せるのだ。

ジーン・ウルフ「聖ブランドン」

2016年03月07日 | Wolfe
今回は『ジーン・ウルフの記念日の本』収録作のうち、個別の感想を書くとしたうちのひとつ
「聖ブランドン」を取り上げる。

収録作をアメリカにまつわる記念日に見立てて配置した『ジーン・ウルフの記念日の本』の中で、
アイルランドの聖人を称える「聖パトリックの日」にあてられたのが「聖ブランドン」である。
お話自体は本当に短い。アイルランド王の命を受けた聖ブランドンが猫とネズミと共に巨大な船に乗って、
地上の楽園にたどり着く。
そこで猫とネズミは互いに殺し合いを始め、聖人と天使がそれを見守るという話だ。
もちろん、このあらすじでは何一つ説明になっていない。
ウルフの書く物語は細部にこそ全体を解き明かす秘密が隠されているからだ。

もともとはウルフのファンタジー長編『ピース』の中で登場人物の一人がさりげなく話す劇中話で、
物語全体の中では小さな挿話として忘れられがちである。
しかし今回のように独立した短編として切り出されてみると、この短い話の中に多くの隠喩と
大きな世界についての物語が埋め込まれているのがはっきりわかる。
この作品だけを単独で訳したことにより、長編の流れとは無関係に短編としての内容をさらに
くっきりと表現できたのも、大きなプラス要因だろう。

以下に自分なりの解釈を書いておく。
毎度のごとくやや強引だが、こうした読み方もできるという一例としてお考えいただきたい。

まずブランドンたちが到着した場所について。
アイルランド出身の聖ブレンダンは祝福の地を探して世界を航海したという伝説があり、
中にはアメリカ大陸を発見したというものまである。
これが「聖ブランドン」の原型であるのは間違いないが、重要なのはそこではなく、
この短編が伝説の体裁を取ってアメリカ建国の歴史を語っているということだ。

その証拠となるのが、ブランドンの船のへさきがボストン湾に着いていると明かされている点である。
ボストン湾はメイフラワー号が到着したケープ・コッド湾を含めてマサチューセッツ湾を形成しており、
メイフラワー号の乗員が入植したプリマス植民地もこのエリアに含まれている。
そこで「遍歴の聖者」ブランドンを「ピルグリム・ファーザー」の暗喩ととらえると、
「猫とネズミを乗せてきた船」はメイフラワー号を意味するとわかる。
そしてこの船は「石」でできているとされているが、石(stone)を岩(rock)に読み替えると、
ジョン・ロックの社会契約論に基づきメイフラワー号の乗員が船上で結んだ誓約を指すとも読める。
またプリマスには、メイフラワー号の乗員が最初に踏んだとされる「プリマス・ロック」も存在する。

さて、石と契約とくれば、石板に刻まれた神との契約が連想される。いわゆる「モーセの十戒」だ。
ここでモーセのつづりを見ると、ラテン語ではMoysesあるいはMosesとなっている。
このつづりとよく似た単語としてmouseを挙げることで「揃って白鳥の翼のような白いあごひげを蓄え、
自分の背丈より長い杖に寄りかかっている」二人の老人のうち、聖ブランドンでないほうが何者なのか、
想像がつくというものだ。
そしてモーセはキリスト教徒ではなく、ユダヤ教における指導者であることを考えれば、
浜辺に十字架を立てた聖ブランドンがネズミの王を「異教徒」と呼んだのも納得できる。

ではこのネズミと戦う猫の精霊とは何者なのか。
一般的に海外のウルフ読者からは「キルケニーの猫」とされているが、犬の精霊(クー・シー)と
対比を成す点から、むしろケット・シーと見なすべきだろう。
さらに踏み込んでケット・シーを「ケイトの霊」と読み替えれば、ウルフが『新しい太陽の書』で
何度も取り上げた聖キャサリン(カタリナ)が思い浮かぶ。

車裂きの刑と斬首の故事で知られるアレクサンドリアの聖カタリナは、死後にその遺体が
天使によってシナイ山へと運ばれ、その地に聖カタリナ修道院が建てられた。
この修道院の図書館はバチカンに次ぐ数の写本類を収集しているとされ、これもまた
ウルフの興味を引きそうな点である。

なお、モーセが十戒を授かった場所がこのシナイ山であることは有名である。
そしてモーセが燃える柴の姿で現れた神によって示された「約束の地」こそ、
かつてカナンの地と呼ばれたイスラエル周辺の地域なのだ。

これらを総括して考えると「聖ブランドン」という作品は「分断された世界とそれをめぐる争いの歴史」を
一篇の寓話に凝縮した作品とも考えられる。
それはアメリカ合衆国が建国以来繰り返してきた戦いの歴史であり、数々の帝国が興亡を繰り返した後に
今もなお紛争の絶えない中東情勢とも重なるものである。
さらに言えば、人類の歴史とは入植と対立、そして戦争と分断の絶え間ない繰り返しでもあった。
つまり「聖ブランドン」とは、歴史の中で繰り返し引き裂かれ続けてきた様々な土地と人々についての
「小品(piece)」であり、今も模索され続ける「平和(peace)」に関する物語でもあるのだ。

この小品、しかも作中の短い挿話の中にこれだけの知識と含意を秘め、それをさりげなく
読者の前に差し出してみせるところに、ウルフの底知れない深みがある。
そして作品を通じて深みを覗き込み、そこに映る何かを見出すのが読者にとって喜びなのだ。

もし映ったのが自分自身の顔だとしても、その顔はきっと見慣れない容貌をしているはずである。

バラエティ豊かな名短編集『ジーン・ウルフの記念日の本』

2015年12月25日 | Wolfe
待望のジーン・ウルフ第2短編集が邦訳された。
連作長編のケルベロスや日本独自の編集でえり抜きの傑作を抱き合わせたデス博士に比べると
バラエティに富んだ内容で、難解な技巧派というウルフのイメージを覆すような作品も多い。
基本的には本人が楽しんで書くタイプだと思うので、読者もまずは想像力の広がりや屈折したユーモア、
言葉遊びのセンスなどを楽しむつもりで構えずに読めばいいだろう。

しかしウルフの作品に多少なりとも親しんでいるなら、この作家が繰り返し取り上げるモチーフや
テーマにこだわって読むこともできる。
何か引っかかりを感じたら、ネット検索などで情報を調べてみるのもいいと思う。
そこから得た知識によって読者自身が変貌を遂げ、結果として新たな物語を見出す可能性が生まれるからだ。
こうした読み方は小説の面白さとは別物との声もあるようだが、そもそも物語を読んで楽しむことに
ルールなどなく、各自が好きなように読めばいいと思う。
そしてウルフの作品には、多少の手間をかけてでも作品の奥底まで覗き込みたくなるような魅力、
あるいは魔力があるのだ。

「まえがき」
これ自体が著者による優れたガイドであり、また番外短編「返却期限日」を含んでいる。
まさか読み逃す人はいないと思うが、必ず目を通すこと。

「返却期限日」
ユーモア短編だが、図書館から本を借りっ放しの人にとっては一種のホラーでもある。
魔女的な存在感を発揮する図書館司書の女性が、文字通りチャーミングだ。

「鞭はいかにして復活したか」
本編の巻頭を飾る傑作。一読するといわゆる奇想系、奇妙な味の短編という趣きがあるが、
実はウルフが繰り返し書いてきた経済と道徳についての寓話でもある。
人道的、経済的な理屈で論じられる奴隷制の復活については、見かけとは別の理由があり、
ヒロインの妄想で出てくるブランド名がそれを示唆している。
またタイトルのwhipは票のまとめ役の意味も持つ、という解説の一文は本作を楽しむ上で
大変重要だが、ここで一考すべきはwhipが誰を指すかという点だろう。
そこに気づいたとき、物語の結末はがらりと様相を変える。実にウルフらしい仕掛けだ。
なお、赤と緑は投票の賛否を表す色であり、国連でもこの色によって採決を行う。
これはまた、カトリックの聖職者が身に着ける祭服の色でもある。

「継電器と薔薇」
タイトルはLily and Rose(百合と薔薇)のもじりだろう。
コンピュータを使用した世界的ネットワークとマッチングサービスは今や現実の話だが、
それらが転職や離婚といったアメリカ的文化を脅かすという展開が面白い。
主人公が呼び出された聴聞会は非米活動委員会と思われるが、アメリカ的な価値観を否定することが
そのまま反米活動とみなされるのが滑稽であり、また恐ろしくもある。

「ポールの樹上の家」
ウルフは子供だけに見える世界を何度も書いてきたが、ここでは大人の視点で世界を描いている。
米国で勃興するナチズムに無頓着な親たちは、テレビの画面を超えて徐々に迫りつつある暴力にも気づかない。
息子のポールだけが高い樹上に木造の砦を構えているが、これはアララト山頂に乗ったノアの方舟を思わせる。
「ポールは石を投げるが遠すぎて届かない」というくだりは「取り替え子」にもあるので、何らかの含みを
持たされているのかもしれない。

「聖ブランドン」
長編『ピース』の一部を成す、いわば物語内物語。
世界を巡った聖人の逸話に見せつつ、実はアメリカ移民にまつわる創作寓話という趣向なので、
「記念日の本」に収録されたのも納得できる。
登場人物がブレンダンではなくブランドンなのも、そうした意図を込めているのだろう。
単体で読んでも短編として十分な完成度を持ち、随所に仕掛けられた様々な象徴をつなぎ合わせると、
全く別の「ピース」に関する物語が見えてくる。

「ビューティランド」
これもまた、経済と道徳についての物語。土地や自然の私有とそれを金に替えることへの皮肉であり、
人間の底知れない残虐と横暴さが何をもたらすかについての警告でもある。
真実に「気づかない」「見ようとしない」というのも、ウルフが何度も書いてきたテーマである。

「カー・シニスター」
タイトルの意味は解説に書いてあるとおり。
さらに付け加えるなら、アメリカ自動車業界のビッグ3(GM、フォード、クライスラー)を
種牡馬の三大血統に見立てているのだろう。
実際にアメリカの自動車メーカーの多くはビッグ3を起源に持ち、盾の紋章で知られるキャデラックも
フォードの設立した会社がGM傘下へと収まった歴史を持つからだ。
しかし何よりユニークなのは、Automationを「自動車の交尾」と読み替えたウルフの言語感覚だと思う。

「ブルー・マウス」
青は国際連合のシンボルカラー。解説にも書かれているように、米軍在籍中のウルフは朝鮮戦争で
国連派遣軍の一員として戦っており、自伝的色彩が強い作品と思われる。
戦場で主人公が耳にするneverの音を、ウルフも実際に戦場で聞いたのかもしれない。
そして終戦後に帰国したアメリカで、彼は同じ音を別の意味で聞くことになる。
その成果として書かれたのが「取り替え子」だろう。
なお、この物語における国連は独立国家を否定して併合のための軍事介入を行っているようだ。
戦場がどこかは明記されていないが、この図式を朝鮮戦争における南北分断に当てはめると、
近未来で再び南北に分裂した合衆国が舞台とも考えられる。
その場合、主人公は五大湖のそばで生まれたと書いてあるので、北軍の所属ということになる。
彼らが勝ったあとに来る「色の浅黒い連中」とは、石油資本と結託したアラブ人を指しているのか。

「私はいかにして第二次世界大戦に破れ、それがドイツの侵攻を防ぐのに役立ったか」
第二次世界大戦が起きなかった世界における国際情勢の1コマを取り上げた作品。
表題をWorld War ⅡではなくSecond World Warとしたのは、架空史に対する作者のこだわりだろう。
戦車の開発史を自動車の開発競争に見立て、ある米国人が目にした各国による売り込み合戦の顛末を
史実を絶妙に交えながら描いている。
楽しい作品だが、科学技術の発展が軍事技術の開発と互恵関係にある点を皮肉ってもいるようだ。
なお、主人公のゲーム相手であるランズベリーを「太鼓腹」と読み替えれば、この人物のモデルは
フルシチョフであると推測できる。
二人の危険な火遊びが世界地図を丸焼けにしなかったのは幸運だった。

「養父」
SFらしさは薄く、現代社会で父親としての実感を持てない男の葛藤を素直に書いたようでもある。
団地を本棚、落書きのある扉を表紙に見立てると、登場人物があらかじめ用意された物語から飛び出して
新たな物語を作り始めるようにも思える。この開放感はよかった。
閉ざされた部屋から見つかる子供のイメージはイエスと重なるが、彼に特別な力があるわけではなさそうだ。
むしろウルフにとって、孤独な少年は常に特別な存在なのである。

「フォーレセン」
シュールなイメージの連続する不条理劇は、ディッシュなどの書いたニューウェーブ作品を思い出させる。
この手の作品の主人公は不条理な世界に対して反発し抵抗するのが定番だが、フォーレセンという人物は
大人の体に子供の意識が入り込んだようなキャラクターであり、この世界が異常だという感覚すら希薄である。
このアイデアが後に『ウィザード・ナイト』へと発展するのだろうか。
hourとour、plantとplanetのような言葉遊びが随所に見られそうだが、これは原文を読まないとわからない。
第一世代にアダムやエイブラハムの名があるので聖書にちなんだ読み解きもできそうだが、そうした憶測すら
最後の一節であっさりと打ち砕かれてしまう。

「狩猟に関する記事」
熊を人間と同様か、あるいは神聖な存在とみなす文化は世界中にあるそうだ。
人と獣の中間的存在をたびたび書いてきたウルフが取り上げるには、絶好の題材だろう。
熊の正体については解説で指摘されているが、書き手の文章のひどさは単なる無能では説明できず、
知性そのものに問題があるようにも思われる。
また関係者についても物忘れのひどさや粗暴ぶりが見られ、さらには穴にもぐったりマーキングをするなど
動物まがいの行動を取っていることから、この世界では化学物質に汚染された食品を日々摂取し続けた結果、
人類全体が知的退行を起こしている可能性が疑われる。

「取り替え子」
収録作中のベスト。これまで読んできたウルフの中短編でも五指に入るのではないか。
表題のChangelingには取り替え子の他に、捕虜交換や思想的な転向の意味も含まれている。
日常の中に陽炎のごとく立ち上がる幻想を描いたファンタジーであり、合衆国が抱える問題を
鋭く切り取ってみせた同時代文学の傑作でもある。
ピーターとは誰なのかを繰り返し考えることで、この作品の多面性に触れることができるだろう。

「住処多し」
動く住居という設定から、まずバーバ・ヤーガの民話を思い出した。
単性生殖世界が進んだ母星と成熟による変身を選んだ植民星、どちらの文化も奇妙すぎて唖然としてしまう。
ストレートなホラーSFでありつつ、一種のポスト・ヒューマニズムSFともいえそうだ。
ただし語り手が複数の上に話が細部で違っているので、どこまでが本当なのかわからない。

「ラファイエット飛行中隊よ、きょうは休戦だ」
フォッカー三葉機をこよなく愛する主人公が、塗料だけを除いて限りなくオリジナルに近い機体を完成させる。
骨董品のようなメカへの思い入れとその背後にある物語への愛着、空を飛び英雄の物語を演じることへの喜び、
そして思いがけない存在との出会い。
ウルフの中にいた孤独な少年が、ここでは大人として自らの夢を存分に謳歌しているのが実に清々しい。
また複製とオリジナルの関係も、ウルフが繰り返し書いてきたテーマのひとつだ。
塗料までオリジナルであれば事態は違ったかもしれない、と主人公は言う。
では彼が出会った娘は、果たして本物だったのか?
フォッカー三葉機を愛用しラファイエット中隊のライバルだった実在の人物は、レッド・バロンこと
マンフレート・フォン・リヒトホーフェンである。
それを模した機体の色を見た女性が、当時誕生したばかりのソフト・ドリンクのシンボルカラーを
赤く変更する原因になったのではないだろうか?

「三百万平方マイル」
合衆国には未知の土地が三百万平方マイルもある。そんな冗談めいた話がやがて強迫観念となり、
答えを求めてさまよい続ける男の物語。
日常から少しずつ外れていく人間の心理とその行き着く先の空虚さがいい。
これもSFというより、現代アメリカ文学として十分楽しめる。

「ツリー会戦」
ハイテク化されたおもちゃたちが、自分たちの生き残りを賭けて一夜の決戦に臨む。
実際の戦争にあるクリスマス休戦を逆手に取った作品だが、内容は幻想的でありながら
シリアスで強烈な印象を残す。
さしずめ残酷版「くまのプーさん」というところか。
結末の種明かしでは「デス博士の島その他の物語」の名文句「君だって同じなんだよ」が
まったく別の意味で響く。
その残響は後の「溶ける」で、また別の意味を伴って木霊する。

「ラ・べファーナ」
ベファーナはイタリアの魔女で、そのエピソードについては作中で語られるとおり。
隣家で生まれそうな子供は本当にイエスなのだろうか。異星人のゾズという名前にも
ジーザスの響きがあるので、あるいは彼こそがこの星に救いをもたらすのかもしれない。
その場合、支配者である人間はローマ人の立場に置かれることになる。

「溶ける」
溶けるといえば雪か氷だが、前者はコカイン、後者は覚せい剤の隠語でもある。
歴史と宇宙を股にかけた大晦日の乱痴気騒ぎが消え去ると、そこには孤独な日常と1冊の本がある。
そしてその本を読んでいた主人公も、雪や氷のように消える。
すべては戯れであり一夜の夢かもしれないが、それだけが人生の真実なのかもしれない。私にも、あなたにも。

なお、Book of Daysには暦の意味もあり、邦題候補として『ジーン・ウルフの暦』というのもあった。
現行のグレゴリオ暦は太陽暦であり、ユリウス暦を改良したことから新暦とも呼ばれることを考えると、
この作品集は短編により構成された『新しい太陽の書』の別バージョンであるとも言えるだろう。

収録作中で特に手ごたえを感じたのは「聖ブランドン」と「取り替え子」。
この二作については、改めて感想を書きたい。

ジーン・ウルフの「風来」(SFマガジン2010年1月号)

2010年02月07日 | Wolfe
SFマガジン2010年1月号で、ウルフの「風来」を読む。
個人的には「デス博士の島その他の物語」「眼閃の奇跡」に連なるテーマを持つ作品であり、
そして両作品に勝るとも劣らない傑作であると感じた。

閉鎖的な社会の中で孤立していく少年と、いわゆるマレビトである「風来」の子との交流、
さらに唯一の肉親である祖母との絆を描いた小説で、これらの外面的な部分を読むだけでも
十分に感動できる作品だ。

しかし、なんといってもジーン・ウルフの作品。当然だが、これだけでおわりではない。
解説で柳下毅一郎氏が「ややもすると難解と言われることが多いウルフだが、瑞々しい
少年小説の書き手であることを忘れてはなるまい。」と書いているが、「だから本作は
シンプルな少年小説で、他の読み方はありません。」などとは一言も書いていない。
難解とは言わないにしても、携帯小説的な口当たりのいい読み方で終わらせてしまうのは
あまりにも惜しいというものだ。

実際、最初に読むときは少年小説でいいだろう。しかし一読して少年小説にしか思えないとしたら、
それ以外の面を覗き見るためにもう一度、あるいはさらに読み返すべきだ。
この短い作品の中にSF、幻想小説、本格推理、社会諷刺、そして宗教小説としての要素が
不足なく揃っているといえば、ちょっと信じられないものがあるだろう。
しかしきちんと読んでいけば、絶対にそれがわかる。
それだけのものを、ウルフは間違いなく本作に詰め込んでいるからだ。

とはいうものの、いったいどこを手がかりに本作を読んでいったらいいのかという疑問もあるだろう。
どうしても読みどころがつかめない場合のために、以下に自分なりの感想を交えたメモを載せておくので、
せっかく読んではみたものの全然わからない、という時の参考にでもしていただきたい。

(ただし、できればこのメモなしで「風来」を2回は読んでいただきたいと思う。
 また以下のメモはあくまで私見なので、内容の真偽についてはお約束できない。)


まずタイトルのThe Waifについて。
これは訳題のとおり「風来」であるが、一方でWaifはWolfにも通じていると読めるだろう。
つまりこれは作者Wolfeの署名であり、「別の子」はウルフの分身となるわけだが、また同時に
「風来」という語が「狼」へと置き換えられることを示唆するものでもある。

そして本書を読んでいくと、随所に「嘘」というテーマが含まれているのに気づくだろう。
これと狼を結びつければ、自然と「ピーターと狼」の物語が連想されるはずだ。
つまりこれは、ビンが「風来」を見ることができるのに対し、他の人には彼が見えないことを示すものである。
いわば、実在しない者をありそうに語る「嘘」と「噂」、そして隠されて見えない「真実」について語ることが、
本作における主要なテーマといえよう。

そして「風来」の物語を「ピーターと狼」になぞらえると、ビンの役割はピーターであり、すなわちビンは
使徒ペテロ=イエスの最初の弟子と見なすことができる。
つまり彼が最初に見つけた者が(イエスに相当する)「救い主」であることは、既にタイトルにおいて
暗に示されているわけだ。
また「別の子」が納屋に寝ていたことも、やはりイエスのイメージと重なり合うものである。

そしてビンの家に来たとき、別の子の足には傷があって出血していたが、灰がついて血は固まっている。
この足のケガはイエスの聖痕、そして灰は聖灰を思わせるものだ。
つまりこの場面にも、イエスの復活というモチーフが隠されていると読めるだろう。

なお、ビンを「ビーン」と読み替えると、ジーンと似た響きになる。
また「ケルベロス第五の首」の謝辞では、ウルフが自分を豆(Bean)になぞらえていることから、
ビンにもウルフ自身の姿が投影されていると見てもよいだろう。

一方で「別の子」の名前については「寒さおばけ」と「エアリエル」の二つが出てくるが、
あだ名である「寒さおばけ」のほうは、霜の妖精「ジャック・フロスト」のことだろうし、
また本当の名である「エアリエル」は大気の精を指すものだ。
そしてこれらをあわせると、「別の子」は季節と自然の化身ということになるだろう。
また他方、Jack FrostはJesus Christと綴りや響きが似ていることにも留意したい。

さらに作中では、冬から春へと移り変わっていく気配が、そこかしこに示されている。
この「春の息吹き」と、別の子の残した「希望の息吹き」が、作中でうまく重ね合わせられている・・・のだが、
これが単なる自然現象なのか、あるいは「別の子」の到来と関係があるのかを明確に書かないところが、
ウルフの憎らしいところである(まあ、いつもどおりの書き方ではあるが)。

ここで話を変えて、ビンたちの社会集団について触れてみたい。
P69の下段から表われる「神父」と「ニーマン」の語によって、この社会がなんらかのキリスト教的な
教義によって成り立つ、強い同胞意識で結ばれた集団であることがわかるだろう。
そしてこの社会では、同胞の意をこめて互いを「Neighbor」と呼び合っていたものと思われる。

しかし「風来」の噂が流れ、やがてその協力者として隣人たちを焼くようになるにつれて、
「汝の隣人を愛せ」という教えとの不整合が生じてきた。
これに伴い、彼らは人を焼くことをやめるかわりに「Neighbor」という呼び名のほうを、
同じ意味を持つ「Near man(ご近所)」に変えてしまったのだ。
それが時を経てさらに訛ったものが、作中で使われている「ニーマン」なのだろう。

しかし図らずも、「near man」には人間未満(または亜人間、猿人)の意味がある。
つまりこの呼び名は、町の人々が自覚なしに人間の水準から退行していることを暗示するものであり、
またウルフが自作中で常に意識している「人」と「獣人」との違いにも通じている。
(宮脇訳は「Near man」が暗示する意味をそのまま訳文として書いてしまっているために、むしろ
語彙の変化がわかりにくくなっていると思うが、どうだろうか。)

町の人々が同胞たちを火あぶりにすることについて、教師のニーマン・プリュデリから問われた時、
ビンはこう答える。

「見たくないんなら、あんなことしなければいいと思うんです。
 あんなことをしたのは、町の人なんです。」

つまりビンは火あぶりの原因が「火あぶりにされた者」の犯した罪ではなく、むしろ
「火あぶりにした者たち」の心であることに気づいているのだ。

そしてこれは、ニーマン・プリュデリが言う「風来人がここにいる。そのことは文明再建の妨げになる」
という議論と、実は同じ根を持っていると思う。
つまり文明再建ができないのは人々の心の問題であって、決して「風来」のせいではない。
しかし人々はその事実から目をそむけようと、下の世代にまで「風来」のもたらす害を語る。
そしてこれもまた、一種の「嘘」の連鎖なのだ。

そして意図せずにその「嘘」を暴いてしまったビンに対して、級友のフィルは言う。
「家に帰って告げ口するやつが、何人も出てくるぞ」
つまりこの町で火あぶりになった人の多くは、同様の告げ口が原因となって焼かれたのだ。

ではその人々のうち、本当に風来と会ったことのある者はどのくらいいたのだろうか?
(これもまた、修辞疑問の一例である。)

ビンが学校から帰ると、ガムが「親切な隣人が届けてくれたらしい塩」の話をする。
ここで意図的に「隣人」の言葉が使われているとすれば、塩を届けたのは「ニーマン」ではなく、
「別の子」であることを示すようにも思われるが、逆に「別の子」が持ってきたという考えもまた、
単にビンの推測でしかないことを強調しておきたい。
ここでもまた、ファンタジーとリアルのどちらにも読めるという小憎らしい書き方がされている。
また、ガムが春の気配を感じた直後に塩が置いてあったという描写は、「別の子」と季節の変化に
密接な関係があることを思わせるが、これもまたガムの印象からの推測にすぎないものである。

P78では、「別の子」が寝ていた納屋が、もとはニーマン・ジョエルのものであったことが明かされ、
これによって序盤でのニーマン・ジョエルについての言及が大きく意味を持ってくる。
ビンたちに寛容で、大人たちの信頼も厚かったというニーマン・ジョエルは、いったい何をして
火あぶりにされたのだろうか?ビンは風来の子に、原因は君なのかと問いかける。
これに対し、風来の子はジョエルが「何をした」とは答えず、「あの人はとても貧しかった」と答え、
さらに続けて「憎しみは贅沢なんだよ」と語る。

これをニーマン・ジョエルが得ていた人望やその人柄とあわせて考えると、ニーマン・ジョエルこそ
人を憎むことのない「聖人」の器を持ち、罪なき人物であったことが想像できる。
そんな人物に「憎しみ」を持てる人間は、彼を焼いて何かを得ることのできる欲深い者、すなわち
「贅沢な」人間であることは、「別の子」の言葉からわかるだろう。
それを意識して考えれば、彼が「風来と通じている」という噂を流した者が、今の納屋の持ち主であり
ギッドの父でもあるニーマン・コリンであることは、自ずと見えてくるはずだ。
そして彼が、後にビンとガムの身に降りかかる悲劇の原因となることにも気づくだろう。
これはまさに、人々の讒言によって多くの犠牲者を生んだ魔女狩りの故事を思い起こさせるものである。

そしてさらに突き詰めれば、「風来」とは本当に存在するものなのか、それとも荒廃に疲弊した人々が
疑心暗鬼と自己弁護のうちに生み出した「架空の人々」にすぎないのか、という疑問も湧いてくるはずだ。
やはりここにもまた、「ピーターと狼」の変奏が現れてくる。

人々は存在しない「風来」の噂に踊らされており、逆に本物の「風来」の到来には気づかないとすれば、
これは「眼閃の奇跡」の巻頭に置かれた「そんな男は覚えていない」という一文と対応するものであろう。
そして「眼閃の奇跡」もまた、救世主の到来に気づかない超管理社会の物語であったのだ。

「別の子」はニーマン・ジョエルについて「ぼくもときどき協力しようと思って、何度か本当に手伝ったこともあるよ」と語る。
ニーマン・ジョエルが農夫だったことを考えると、風来の子が何をどのように「手伝った」のか、その解釈が難しい。
普通の人と同様に仕事を手伝ったのか、あるいは風来としての能力を使ったのか。
また彼を「救世主的な存在」とすれば、何らかの「奇跡」によって食物を増やしたことも考えられるし、
霜の精にして季節の化身であるならば、天候の恵みを与えて豊作を迎えるように働きかけたとも考えられる。
「別の子」が何者であると考えるかによって、物事の真相もまたうつろうものなのだ。

そしてニーマン・ジョエル自身が、はたして「別の子」に気づいていたかということも、作中では明かされない。
また別の子は、自分の見たものをジョエルに見せることが「できなかった」と言っている。
これはジョエルにも別の子が「見えていなかった」という可能性を示すものであろう。

そして逆に言えば、そもそもビンが見ている「別の子」がはたして実在するのかというのも、
本作における根本的な問題である。
ビンはギッドに殴られた後、納屋の暗がりの中で「別の子」の姿を見た。
しかし別の子がギッドを殴った様子は見ていないし、棍棒もビン自身が持ってきたものである。
さらにビンは後になって「心の底では、いつかギッドを棍棒で殴ったらすっとするだろうな」と思うのだ。

ビン自身は嘘をついていないにしろ、あくまで彼の主観で話しているため、実はギッドを殴ったのが
ビン自身であったり、あるいはギッドを憎んでいる他の子供の仕業であるという可能性も否定はできない。
つまり、「別の子」はビンの空想が生み出した、実体のない者という事さえあり得るのだ。
(だとすれば、「別の子」という呼び方には「(ビンが想像した)彼の分身」といった意味も含まれそうだ。)

しかし、もし「別の子」が空想の存在としても、それが単に「存在しない」ということと同義でないことは、
かの名作「デス博士の島その他の物語」や「眼閃の奇跡」において書かれているとおりである。

また、ビン以外の人間にも「別の子」が見えたり見えなかったりしているようだが、これは主にビンとギッドの間で
トラブルが生じて以後のことであり、それらの発言にどの程度の信憑性があるかは不明である。
また「別の子」を見たというギッドについても、P70のネズミの話で既に虚言癖らしきものが示されているので、
その言葉に信頼性はないだろう。
あわせて「別の子」の約束後にビンが感じた「姿が見えなくなる気配」や、ビンに連れはいなかったという
ガムの言葉を考えると、ギッドが見てもいない「男の子」の嘘を言っている可能性は高いと思われる。

そしてギッドの父であるニーマン・コリンも、やはり同じようにしてニーマン・ジョエルを火あぶりにしたのだろう。

ビンとガムへの悪意は町民の悪い噂を呼び、ついには捕らえられたビンの眼前でガムを火あぶりにするという事態に至る。
そしてニーマンたちに捕らえられたとき、ビンは木立を抜けて天へと昇っていく「別の子」を見守っていた。

天へ昇る「別の子」はイエスの昇天を思わせるものであり、また春という季節も、ちょうど復活祭の時期に重なるものである。
あるいは「別の子」が霜の妖精であれば、春の訪れと共に天へ帰っていくのはごく自然なことであろう。
(そしてこの変貌を「新しい太陽の書」に重ね合わせるのもいい。結局のところ、全ての太陽神は「日の頭」なのだから。)
そしてビンがもう2度と「別の子」に会えないと感じるのは、彼の少年期が終わったことの証しでもある。

いままさに焼かれようとするガムを救うため飛び出したビンは、薪の炎を踏み消しながら叫ぶ。

「ぼくたちより、あの子たちのほうが立派だ!ずっと立派なんだ!みんなは知らないんだ!」

「別の子」をイエスの資質ある存在と見れば、「風来」が堕落したキリスト教信者である「ニーマン」たちより
ずっと立派な者であるという指摘は、実に正しい。(それを指摘するのがペテロであれば、なおさらである。)
また「別の子」がこの世界と自然そのものの化身なら、やはり人間よりはずっと立派な存在だろう。
そしてどちらにしろ、ビン以外の人間はそれに気づくことがない。
彼らは貧しいにもかかわらず他者を憎んでおり、その贅沢さに慣れきっているからだ。

なお、もしここでの「あの子たち」という部分が、原文では「Them」のような言葉であるとすれば、
これは「風来」を指すものではなく、火あぶりにされた人々について語っているようにも読める。
火あぶりの原因が犠牲者ではなく、町の人々の心にあると気づいたビンの聡明さを考えれば、
最後に彼が「火あぶりにされた人々のほうがよほど立派だ」と言い切る事は、当然の帰結だろう。
また、本作をビンの成長と自我の確立に主眼を置いたリアリズム小説として読む場合には、
超自然的要素が絡んでこないこちらの解釈のほうが、より理にかなっていると言える。

そしてラストシーンに降り注ぐ、ざあざあという激しい雨。
これまでの読みによって、このラストシーンは幾とおりにも読めるようになっている。

「別の子」を救い主と考えれば、これは奇跡によって彼が降らせた雨だろう。
また霜の精であれば、天に昇った霜が雨となって降り注ぐのは天の摂理である。
またこれは単なる偶然であり、季節が春になったことによる天気の変化だとも考えられる。
いずれにせよガムは救われたと思われるが、それが誰によるものかという答えは示されない。

しかし、単に作者が「答えを書かない」ことと、読者に対して「読みの自由度を保証する」ことには、
大きな隔たりがあるということは指摘しておきたい。
ウルフは本作の結末において「自由な解釈」を許しているが、高い読みのレベルでそれが可能になるのは、
作者自身が結末に至るまでの各所に綿密な仕掛けを施しているからだ。
それらの仕掛けによって、本作は最初に述べたとおり「SFであり幻想小説であり、また本格推理にして
社会諷刺小説、そして宗教小説でもある」という稀有なバランスを達成しており、なおかつどの読みにも
縛られることなく、「少年の自由と成長についての物語」として存在しているのだ。
その配慮と力量を読み取らずして、作者であるウルフの意に報いたとは言いがたいと思う。

そして小品ながらここまで磨かれた「風来」を読むと、「新しい太陽のウールス」の冒頭において
セヴェリアンも語っていた「誰も、何者も、これを読んでくれることを期待せずに」これだけ精緻な
物語を書くという作業が、書き手にとってどれだけの孤独と不安を伴うかという点に思い至る。
ウルフは作家として、自作がどのように読まれるか、そしてどこまで読みこまれるのかという不安に
駆られないのだろうか。
・・・いや、たぶんそう思ったとしても、やはり書かなければいられないのだろう。

あるいはそれこそ、ウルフが自らについて書いたエッセイを「Lone Wolfe」とした理由なのかもしれない。
きっとウルフという人は、小説を書いている今も「誰かに見つけて欲しい」と願い続ける孤独な少年のままなのだ。

素晴らしき真鍮自動チェス機械

2010年01月16日 | Wolfe
国書刊行会の『モーフィー時計の午前零時』所収、ジーン・ウルフ1977年の作品。
編者は若島正、訳者は柳下毅一郎というウルフ好きには鉄板の組み合わせである。

物語の舞台となるのは、かつての大戦争によって文明が退行した世界。
ドイツの片田舎と思われる辺鄙な村に、フリークの小男と香具師の乗る馬車がやってきた。

彼らは古代の遺産であり、いまや世界で唯一の稼動するコンピュータとなった全自動式のチェス機械を
持参しており、この機械は誰と指しても決して負けないという。
これに挑んで完敗を喫した大学教授のバウマイスターは、法外な値でコンピュータを買い取るが、
その中身は手のこんだイカサマ仕掛けだった。
落胆する教授に対し、機械を操っていた小男の「足萎えハンス」は、逆に香具師を騙そうと持ちかける。
酒場女のグレートヒェンを巻き込んだ計画はうまくいきそうに思われたが・・・。

文明の遺物とそれを操る流れ者、さらにフリークが出てくるピカレスク調の物語ということで、
アヴラム・デイヴィッドスンの代表作「どんがらがん」と近い印象を受ける。
とはいえウルフ作品だけに、単なるデイヴィッドスン似のファンタジーには終わらない。

物語の終盤で足萎えハンスが、イカサマ勝負を成功させた後“タバコ屋の主人”に納まった自分を
想像する場面が出てくるが、このときの逡巡が結末と呼応することで、何ともいえない余韻を残す。
結果としてチェス相手に困らなくなった彼は、はたして幸福なのか不幸なのか?
人は自らの囚人であり拷問者である、というのはウルフが好んで取り上げるテーマの一つだ。

さらに目を転じてみれば、チェスというゲームの中に戦時下の現実をさりげなくダブらせる演出も心憎い。
チェスを指すハンスが見上げる空に浮かんだ気球は、いわば機械の中から見上げた駒の姿である。
この瞬間、現実の世界で繰り広げられる戦争はチェス盤の上で繰り返される無数の棋譜へと同化され、
幾度となく繰り返されるゲームの一局にすぎないことが暗示されるのだ。
そしていま再び“戦車”という兵器が発明されつつあるという事実がそれとなく示されることによって、
まさに第一次世界大戦当時の状況が再現されつつあるという点にも符合している。
さらに作中に現れる名称を調べていくと、そこには第二次世界大戦の影すらも・・・。

チェスのゲームから一転して、永遠に繰り返される「世界」と「人生」の、救いがたい不条理さを
一望の下に開示する鮮やかな手際こそ、ウルフならではの絶妙の一手だろう。
戦争が近代化・機械化されていく過程が、自動機械によるチェスと重ねられている点も見逃せない。
民話風のチェス小説にして戦争文学でもあるという、ウルフ的な企みに満ちた一品である。

なお本作におけるチェス機械は、実在したチェス機械“トルコ人”のエピソードに基づく再話だが、
それ以外にも実話や他の創作からの引用らしきものが見え隠れしている。
かなり妄想が入っているので作者の狙いとの一致度は不明だが、ネットなどで調べた結果として
個人的に気になったものを列記しておく。
さらに前述した第二次世界大戦に関する事項についても、ここに記載する。


シュロスベルグ・・・実在する山で、ドイツ語で「城の山」を意味する。
ただし、作中で出てくる「シュロスベルグ」がこの山であるとの確証はない。

列と輪・・・ラインとリングか?どちらもワーグナーのニーベルンゲンの指輪つながりでは。

ファウスト・・・ゲーテによる同名詩劇の主人公。『アメリカの七夜』にも引用あり。
ヒロインの名前である「グレートヒェン」は愛称で、本名はマルガレーテである。

パンツァーファウスト・・・第二次世界大戦でドイツ軍が使用した携帯式対戦車無反動砲。
ドイツ語の「装甲」と「拳」が組み合わさったもの。

マルガレーテ作戦・・・1944年にナチス・ドイツが実行した、ハンガリー王国の制圧作戦。
ハンガリーの作戦はマルガレーテI、実行されなかったルーマニア制圧作戦はマルガレーテIIとされる。

パンツァーファウスト作戦・・・ナチス・ドイツと矢十字党により1944年10月に実行された、
ハンガリー王国のクーデター計画。マルガレーテ作戦に続いて実行された。

アドルフ・アンデルセン・・・ドイツのチェスプレーヤーで数学の教師。
『モーフィー時計の午前零時』の巻末解説の中でも、その名が挙げられている。
非公式ながら、一時期は世界チャンピオンの座についたともされる。

アドルフ・ヒトラー・・・いうまでもなく、世界で最も有名な独裁者。
彼とチェスチャンピオンのアンデルセンが同国人かつ同一名を持つという奇妙な符合こそ、
ウルフに『素晴らしき真鍮自動チェス機械』を書かせた一因ではないだろうか。
なお、アドルフという名が「高貴な狼」を意味することは、ウルフの作品全般に大きな影響を
与えている模様。(『ケルベロス第五の首』の謝辞にも、それが反映されている。)

ウィリ・バウマイスター・・・ドイツの抽象画家。
その作品はナチスから退廃芸術とみなされ、うち5点は「退廃芸術展」で展示された。
画家でもある妻の名は、マルガレーテである。

ハンス・ベルメール・・・球体関節人形で知られる、ポーランド出身のシュルレアリスト。
彼の生誕時、ポーランドはドイツ帝国領であり、ベルメールもドイツ国籍を有していた。
奇妙に歪んだ肢体を持つ彼の人形は、ナチスのアーリア人優性主義へのアンチテーゼでも
あったとされる。なお、ベルメールの最初の妻の名もマルガレーテ。
足萎えハンスの容姿と女給のグレートヒェンを襲った運命は、どこかベルメールの人形を連想させる。


ベルメールとバウマイスターが共にシュルレアリストと見なされていることを考えると、
物語の最後で言及される「無意識から生まれる新たな技術(アート)」とは、超能力と
シュルレアリスム運動を掛けたウルフならではの冗談ではないかと思われる。
あるいはこれは、超人思想と神秘主義に傾倒する一方でシュルレアリスムを否定し、
弾圧を加えたナチスとヒトラーに対する、ウルフなりの痛烈な皮肉なのかもしれない。

葉と花の帝国

2008年09月07日 | Wolfe
「地図」に続き、「《新しい太陽の書》読本」掲載の「葉と花の帝国」を読む。
セヴェリアンがウルタン師から預かり、旅の間も持っていた「茶色の本」に
収録されていた物語のひとつとされるのが、この「葉と花の帝国」である。
これも『新しい太陽の書』の別バージョンなのだが、とりわけユニークなのは
この物語がかつての「新しい太陽」について書いている、という点だ。

植物の名を持つ賢者(セージ)のうちでも最高とされるタイムという人物が、
西への旅の途中でエンドウマメ(ピース)で遊ぶ少女と出会う。
彼女は賢者タイムが連れ去り、そして再び連れ帰ることを約束されている者だった。
二人はともに旅を続け、少女は西へ進むにつれて美しい娘へと成長していく。
やがて「東の国」の王都に着いた娘は、その国の王子と一夜限りの恋に落ちる。
東の国と西の国との戦争で父を奪われたという娘は、王と王子に平和を請い願うが
それは聞き入れられず、賢者と娘はさらに西へと旅を続ける。

旅の途中で王子の息子を産んだ娘は、やがて賢者とともに「西の国」の王都に着き
平民に身をやつしたその国の皇帝とめぐり合う。
同行していた少年が敵国の王子の子と知った皇帝は、その少年を手元に置くことで
戦争に勝ち、自分が平和をもたらすと賢者たちに告げる。
少年を置いて東へと帰っていく賢者と娘。先に進むにつれて二人は若くなっていき、
やがて最初に出会った場所へと戻ってくるのだった。

寓話仕立てのこの物語では、灰かぶりやいばら姫を連想させる民話的モチーフが
ウールスを舞台とした伝説に転用されている。(イエスを思わせる挿話もある。)
ウールスという名は出てくるが、セヴェリアンの物語とは時代が異なるためか、
これ以外で二つの物語に共通する固有名詞はほとんど出てこない。
その分だけエキゾチックさやシリーズとしての統一感は薄まったかもしれないが、
むしろ物語の普遍性がより際立つようにも感じられて、自分には好ましかった。

賢者が何者で何を象徴しているかは、名前や文中の例えで十分に読み取れるし
その灰色のマントが誰を連想させるかは、シリーズのファンには言うまでもない。
しかしこの短編に関しては、深読み以前に「読んで楽しく、そして美しい」という
誰にでもわかる喜びがある。
ウルフ作品の美しさ、見事な言葉の使い方、そして魔術的な語りを全編に渡って
堪能できる、珠玉の一品。ウルフのファン以外にも広く読まれて欲しいものだ。
宮脇孝雄氏の翻訳も読みやすさと格調の高さを兼ね備えており、実にすばらしい。

余談だが、賢者の一人に地衣(ライカン:Lichen)という人物がいるが、
これは狼男(lycanthrope)のもじり=ウルフの刻印のひとつなのだろうか?
・・・などと勘ぐってしまうところが、ウルフ読みの悪い癖である。

ジーン・ウルフの「地図」

2008年09月05日 | Wolfe
SFマガジン10月号は、久々のジーン・ウルフ特集。
というより今回は『新しい太陽の書』新装版&『新しい太陽のウールス』の
発売記念ということで、タイトルも「《新しい太陽の書》読本」となっている。
小畑健氏のイラストが描き下ろしでないことや、野田昌宏氏の追悼特集と併載で
表紙に統一感がないのは残念(このレイアウトは野田氏にも失礼な感じ)だが
ウルフの書く文章がまとめて読めるのは素直にうれしい。

とりあえず短編「地図」を読んだので、感想をあげておく。
これは『新しい太陽の書』でセヴェリアンの後輩だった拷問者イータの「その後」を綴った、
シリーズ外伝的な小品だ。

いまは船長となって大河ギョルに暮らすイータの元に、旧市街へと川を下りたいと
持ちかける男が現れる。
男はイータがその場所に通じているとの情報を聞きつけ、船頭を依頼しに来たのだ。
仲間が出て行ったばかりのイータはその話を受け、二人はギョル下りの旅に出る。
襲撃者の恐怖や奇妙な水死体との出会いを経て廃墟へと辿り着くと、男はそれまで
隠し持っていた「地図」を取り出した・・・。

かなり短い作品だが、川下りの最中に見られるネッソスの姿やギョルの水上交通の様子は、
ちょっとしたウールス紀行としても楽しめる。
旧市街に到着してからは、ウルフの廃墟趣味・迷宮趣味が本領を発揮。
どことも知れない街路とそこに住む食人種の恐怖が、熱夢のごときタッチで描かれる。

そして全てが終わった後にイータが語る、物語の「真相」。
謎めいた書き出しや作中で意味を成さなかった光景が、その語りで一気に色を与えられ
隠されていたもうひとつの、そしてより大きな「物語」が顔をのぞかせる。
この短い物語はさらに大きな物語の一部であり、またその全部でもあったのだ。
そして読者は「書かれなかった光景」こそ、この作品で最も美しかった事に気づかされる。

「地図」というタイトルも、作中のキーアイテムを指すだけでなく、この作品自体が
別の物語の「縮図」であることを示している。
それはある男の半生の「縮図」であり、また小説的には『新しい太陽の書』の構造を
まるごと濃縮した「縮小版」である、ということだ。
この「地図」もまた、「黄金の書」とそれを手にした者の旅物語なのだから。

「セヴェリアン以外の視点」によるウールスの描写というだけで、シリーズのファンには
十分に興味深い作品であるが、ウルフの技巧はそれさえも霞ませるほどの冴えを見せる。
「反復」と「変奏」はウルフ作品のテーマであり、おなじみの小説技法だが、今回の作品も
コンパクトな中にそれらが効果的に(かつ密やかに)展開されている。
短いので何度も繰り返し読むのに最適、しかも他の作品に比べると格段にわかりやすく、
ウルフ演習のテキストとしても理想的だろう。
しっかり読めば裏切られない、というウルフの良さを実感できる佳品である。

小畑健の描く「新しいセヴェリアン」

2008年04月11日 | Wolfe
『新しい太陽の書』新装版のカバー絵を『DEATH NOTE』の小畑健が描くと
知ったのは『SFが読みたい! 2008年版』を流し読みした2月ごろ。
以来、いったいどんなものが出てくるだろうかと気になっていた。
4月に入って『拷問者の影』の発売も近づき、ふとネットで検索してみたら、
柳下毅一郎氏のブログで1ヶ月前に公開されていたイラストを発見。

基本的に悪いものにはならないだろう、と感じていたのだが、実物を見ると
一見してエルリック調な感じは気になるものの、格調高くてなかなか良い。
どことなく昔のファンタジー系イラストを感じさせる描線も、自分好みだ。

イラストの中心を飾るのは、マスク無しのセヴェリアンの上半身。
上半身裸に見えない衣装、よくわからない左手の包帯などに違和感もあるが
煤色のマントに身を包んだ様子はなかなか精悍。
テクノロジーと古代文明の雰囲気が混在するようなバックのオブジェなどは、
聖人の後光にも仏像の光背にも見えるデザインが秀逸だと思う。
小畑氏もきちんと内容を読み込んで描いているのだろう、と思える部分だ。
鎌風のものは、「調停者の鉤爪」と死神の鎌を掛けたデザインだろうか。

以前の表紙を手がけていた天野喜孝の絵柄のせいもあって、自分の中での
セヴェリアン像は、夢枕獏の「キマイラ」シリーズのイメージに近かった。
よく鍛えられているがマッチョではなく、むしろ痩せ気味でどこか鬱屈した
神経質そうな青年の姿。これが自分の考えるセヴェリアンである。
小畑版セヴェリアンは、このイメージを現代的にアップデートした感じで
予想以上にすんなりと受け入れられるものだった。
(でも茶髪だけはどうにも馴染めないが・・・。)

今後はこのセヴェリアンがテルミヌス・エストなどを振るって戦う様子など、
動きのある絵も見てみたいと思う。
いっそ昔のハヤカワ文庫のように、口絵付にしてくれてもいいくらいだ。
『警士の剣』のクライマックスで見せたバルダンダーズとの大立ち回りは
ぜひイラストにして欲しいのだが。

女性陣がどう描かれるかも期待されるところだが、個人的に一番見たいのは
“独裁者”(もちろん「足萎え」でない方)を描いたイラストだ。
自分の中では『DEATH NOTE』の“L”に重なるイメージを持つ“独裁者”が、
その作者からどんな姿で描かれるのか、ぜひ見せて欲しいものである。

アポロ神話としての『新しい太陽の書』

2008年01月19日 | Wolfe
『新しい太陽の書』全四巻を読み返してから結構な時間が経ったが、
自分の中でこの物語についての捉え方がなかなか固まらないまま、
長らく脳内放置の日々が続いてきた。
異世界ファンタジーとしての絢爛豪華なエキゾチシズム、とりわけ
主人公の視点から見る世界の驚異などを堪能すればよいのだろうと
思っては見るものの、それだけではウルフらしくない気がする。
というか、見た目の部分だけ読むと決して新しい話ではないので
その点だけではあまり昂揚感を感じないのである。
となると、自分にとって楽しめる読み方を探す必要があるのだが、
この長い物語の中で鍵となるべき部分をつかみ損ねてきたおかげで
これはというものを得ることができずにいた。

ようやくその鍵になりそうなものに思い至ったのは、つい先日。
それも何の事はない、「日の頭」という言葉からである。
ふとした拍子に「日の頭=アポロ」ということに気づいた時、
これは未来における「アポロ計画」の再話なのかもしれないと
今ごろになって思いついたのだ。

セヴェリアン以前の独裁者が宇宙へと旅立ち、その代償として
生殖能力を失うのは、彼らが歴代の「アポロ」だからである。
それは宇宙線による影響を意味するだけでなく、「男性のシンボル」
としてのロケットを失うことの暗喩でもあるのだろう。
そう考えると、図書館に掛かっていた「絵」の暗示するもの、そして
「拷問者の塔」の描写の意味などがより明確になってくる。
あれはみな「セヴェリアンの未来」を暗示する小道具だったわけだ。
これもまた「見せているのに気づかせない」という、ウルフお得意の
やり口に思えてならない。
相変わらず親切なんだか曲がってるんだか、よくわからない人である。

さて「アポロ計画」という「伝説」を思うとき、「未来の地球」として書かれた
ウールス世界にも「アメリカという国家」との類似性を感じるものがある。
それは別に地理的なことではなく、「南北による戦争」や「岩に彫られた顔」
などのイメージが、アメリカを象徴するシンボルに重なるのだ。
さらに南北の戦いというイメージを「朝鮮戦争」にまで広げれば、その現場に
兵士として居合わせたウルフ自身の物語としての要素もより強まるだろう。

とはいうものの、これらの要素をもって、『新しい太陽の書』という物語を
「アメリカ史の語りなおし」に限定しようという意図はない。
むしろ、それもまたより大きな物語の一面であると考えたほうがよさそうだ。

現代世界に生きる我々にとって唯一の神話にして、アメリカという国が成し得た
唯一の奇跡を「アポロ計画」とすれば、これを西洋文明における「日の頭」たる
キリストの物語になぞらえることによって、「伝説と史実」を等価の存在として
語れるのではないだろうか。
いや、より大きく言えば、世界のあまたに存在する「日の頭」たちの物語と
この『新しい太陽の書』をリンクさせることさえ可能だろう。
さらにその舞台を未来世界とすることによって、「過去と現代」さえも
ひと括りにして俯瞰することもできるのだ。
ウルフが「遥かな未来の地球」を舞台としたことには、単にヴァンスへの
オマージュに留まらない理由があったということである。

現代に英雄が登場したり、あるいは神が降臨するというレベルとは
比較にならないほどの「世界そのものの神話化」への企み。
やはりウルフの書くものは桁違いだ。
困ったことは、桁が違いすぎて全体像までは見通せないことだろう。

ある意味でウルフが著した「聖書」とも言えそうな本作、まだまだ
面白い読み方ができそうである。
長い上に難物ではあるが、多くの人に挑戦して欲しいし、より多くの
感想を読んで見たいものだ。
(とはいえ、またも版元品切れらしいのが気に掛かるのだが。)
自分も新たに気づくことが出てくれば、折に触れて書いてみたい。

『迷える巡礼』に迷ってみる

2007年05月27日 | Wolfe
SFマガジン4月号掲載、ウルフの短編『迷える巡礼』を読了。
またも手記パターンで書かれた一人称の物語。書き手の存在を強く意識させると同時に
翻って読者自身をも強く意識させるスタイルである。(要するに、いつものウルフだ。)

ある航海に参加する使命を帯びて過去へやってきた男。しかし彼が加わってしまったのは、
全く違う船の、全く違った航海だった・・・。

著名なギリシャ神話を元にしたストレートな冒険活劇にして悲劇なのだが、見方を変えれば
そもそも出るべき物語をまちがえた登場人物が、いつのまにか物語の中に溶け込んでいき、
英雄たちの一員になりきってしまうという『アメリカの七夜』的な「変容譚」の味わいも感じられ、
読みやすい中にもウルフ流に捻った感じが楽しめる、なかなかの佳品になっている。

それにしても、『デス博士の島その他の物語』の背後にも感じられた「アルゴナウティカ」
という物語、ウルフの中ではかなり重要な位置を占めるものなのだろう。
とはいえ、この作品がはたして原典どおりの物語世界を舞台にしているのかどうかは、
極めて疑わしいところだが。
(そもそもアルゴ探検隊の物語自体が、アポロニウス版の元となった伝説を含めて
いくつものバージョンを持っているようで、ウルフがネタに選ぶのもうなずける。)

幽霊屋敷のアンソロジーに寄せられた『ショウガパンの館にて』と同様に、この作品もまた
テーマアンソロジー向けに書かれた一品だそうで、お題となっている「青銅器時代の物語」
という設定にくどいほどこだわる数々の描写が面白い。
ここらへんはウルフの律儀さか、それとも職人作家としての意地なのか。
それにしても、冒頭から「メンタルの疲労」を「メタルの疲労」と誤記させるくだりなどは
言葉遊びにしても軽すぎるのでは?とも感じるが、たぶん作家本人もそれをわかった上で
あえて書いているのだろう。
なんとなくだが、こういうところにウルフのお茶目さが垣間見える気もする。

実はこの作品の場合もタイトルとオチがちゃんとセットになっている、というあたりが、
いかにもウルフらしいところ。
このオチについては、高校で習った世界史を覚えていれば「そんな話もあったなぁ」的な
納得はできるものの、アメリカ人が読むともっと別な感慨があるんだろうとも思う。
お得意の「再話」と「重ね合わせ」の技法を使って書こうとしたのは、実は失われた
アメリカ入植の物語だったのかもしれない。
だとすれば、ラストでわずかに触れられる「ローマの繁栄」が、現在のアメリカに対する
皮肉にも思えるのは、さすがに考えすぎだろうか。

・・・だとすれば、いずれアメリカもローマと同じ道を辿るという事なのか。
そして主人公が過去に送り込まれた本当の目的は、それを阻止することだったのでは・・・?
などと考えると、文中で語られなかった改変歴史SFとしての「物語」を想像させられて、
また新たな興味が湧いてしまう。
これらはあくまで妄想の域を出ない話だが、書かないところを「読ませる」という部分にこそ
ウルフという作家の魅力の真髄があるとも思えるのだが・・・さてどうだろう?

なお、最後の一文のみ語り手によるモノローグがついていないが、実はこの時に
視点人物の切り替えが起きているという点に留意したい。
これによって、最後の場面では語り手である巡礼が不在であること、そしてこれまで
写真を見ていたのが、巡礼の遺した記録を調べている別人(つまり読者)であることが
さりげなく示唆されている。
そこに気づいたうえで最後の写真を見れば、迷える巡礼の運命(結局のところ、巡礼は
手遅れになる前に掘り出されたのか)についての答えが、自然にわかるはずだ。

『デス博士』が第1位に~SFが読みたい!2007年版~

2007年02月16日 | Wolfe
毎年恒例の『SFが読みたい!』、2007年版の海外作品第1位は
なんとウルフの短編集『デス博士の島その他の物語』が獲得。
これには正直言って驚いた。なにしろ決してとっつき易くないウルフだし、
一時のブームは峠を過ぎたように感じていたもので。
今回の受賞により、『ジーン・ウルフの暦』の出版は、ほぼ確定だろう。
あとは一刻も早い刊行を待つばかりだ。

ちょうど去年のこの時期に出た短編集が、1年経ってトップを獲るのは
まず奇跡的といっていいと思う。しかもウルフの本なのである。
換言すれば他の海外作品がそれだけ小粒だったとか、天敵イーガンの
最新長編が出なかったことなどが幸いした、ということかもしれないが、
ウルフびいきとしてはあえて「獲って当然」と言わせていただきたい。

読後1年を過ぎたいまでも、収録作品の事を思い出すことがある。
まるでセトラーズ島やアイランド博士の島、そして変わり果てた姿の
アメリカを、脳内で再訪しているような気分になってしまうのだ。
そんな時、デス博士と会話するタッキーや、見えない世界を見つめる
リトル・ティブの気持ちに、少しだけ近づけるような気もする。
謎めいている故に引き寄せられ、そして何度でも訪れたくなる世界。
それがウルフの書く小説の舞台であり、ウルフの小説そのものなのだ。
こんなすごい作家の本が、1位にならないはずがない。

これだとまるで投票結果がダントツの1位だったような書きぶりだが、
実際に投票結果を見てみると、まんべんなく2位あたりに入ったのが
勝因だったということらしい。現実的にはそれが妥当だろう。
まあ勝った理由はさておき、これで業界のプロの支持は得られたので
次はいよいよ星雲賞もいただいてしまいたいところ。
柳下さんもご自身の日記で『デス博士』ベスト1獲得を喜んでおられるが
『眼閃の奇跡』が星雲賞を受賞すれば、浅倉先生に気がねすることなく
晴れて壇上で挨拶ができるというもの。
柳下さんの受賞挨拶が聞きたい人は、ぜひ『眼閃の奇跡』に1票を!

眼閃の奇跡

2006年03月23日 | Wolfe
3回続けて読み直して、ようやくその凄さの一端が垣間見えた作品。
ウルフにはめずらしく、読者に見えるところでいろいろと説明をつけているし
ラストも一応きちんとしているので、さらっと読んでもきっちり泣ける。
その一方、再読を重ねることによって物語の見え方がどんどん変わってくる
またもや底の見えない作品でもあるのだ。
こういう凝りに凝った作品が書けたのは、むしろ兼業作家だった強みかも。
小説1本で家族を養うには、ウルフの作風はちょっとマニアックすぎる。
やっぱり「ゲイマンほどのお金持ち」になるのは、なかなか難しそうだ。

例によってあらすじの紹介。
盲目の少年ティブと狂った教育長パーカー、そして教育長の召し使い役で
学校の用務員だったというニッティ。
社会からはみ出したこの3人が、コンピュータとロボットに管理された
ディストピア感に満ちたアメリカを旅していくというのが、この話の
おおまかな筋である。
そしてこの世紀末的な現実世界と、盲目のティブが幻視する「オズ」の世界を
背後で仲立ちするのは、ウルフお得意の聖書のエピソードである。

この『眼閃の奇跡』を読み、ウルフの手本にして最大の目標こそ、
実はこの「聖書」ではないかという印象がさらに強まった。
ウルフは宗教的な意味合い以上に、「原典も著者も不明確」であること、
内容が「事実としての奇跡」を書いていること、そしてなによりも
「書物でありながら現実世界に多大な影響を与え続けている」という
聖書の持つ特質にこそ、魅力を感じているのではないか。
彼は物語の力の究極の成功例を、そこに見ているように思う。
そしてウルフの作品もまた「世界の変容」を主題に書かれているのだ。

一方、この作品が「キリスト的なもの」について語ることを目的としているのも
また事実である。
盲目のティブに世界が見えないように、世界もまたティブを見ることができない。
そしてティブがイエスもしくはクリシュナ、あるいはそれに類する「世界の王」と
作中で暗示されるに至り、世界はその主を見つけられないという事が明かされる。
まさしく「地獄とは神の不在なり」というわけだ。
付け加えるなら、この世界観は『闇の展覧会』に収録された『探偵、夢を解く』の
ラストシーンにも通じるものがあると思う。
あれもまた「その男を知っているのに、名前を思い出せない人々」の物語であり、
ラストはそんな人々に対する皮肉めいた述懐と読むことも可能なのである。

リトル・ティブは、作中でその力を「癒し」として発現させるが、物語が進むにつれ
それを遥かに超えた「奇跡」を起こしている。
396ページで起きていることは、パーカーがコンピュータに対して行った「操作」と
同じものなのだ。
リトル・ティブが冷蔵庫からビールを取り、それを戻してコーラを取ったシーンは
この場面と暗に通じるものがある。
そしてラストにおいて、ついに「彼女」が登場することにより、リトル・ティブが
今いる世界は、フィクションとしての「オズ」の世界へと置き換えられる。
彼女はティブを「ドアの向こう」へと連れて行ってくれる存在かもしれないのだ。
さらに踏み込んで言うなら、そんな力を持つティブを「引き寄せた」のは、願えば
必ず仕事が見つかるという、ニッティ自身が秘めた力と見ることもできるだろう。

今のところ気がついたのは、このくらい。
しかし「オズ」をきちんと読んできた人であれば、もっと早くにこれらのポイントを
押さえることができたのかもしれない。
ティップが誰だかわからない私など、あれこれ試したあげくにアメリカのWikipediaまで
たどり着く羽目になってしまったくらいである。

『アメリカの七夜』に続き、この『眼閃の奇跡』もまた、超重量級の傑作だ。
万一これが星雲賞を取れたら、日本の海外SFファンはそのセンスを
世界に誇ってよいだろう。
本当、こういう作品をちゃんと評価して欲しい。お願いですから。

アメリカの七夜を再訪する

2006年03月15日 | Wolfe
へぇ~、これがSFマガジンに載ってから、もう1年以上経つのか。
なんだかずいぶんと長いこと取り憑かれているものだと思う。
忘れたころにこの作品のことを思い出し、そのたびに読み返すということを
今までずるずると続けてきたものだ。
まるでアーディスに取り憑かれたナダンのようなありさまである。

このたび単行本となったことで、SFマガジンの2段組で細かい活字から
ずいぶんと読みやすくなった事は、非常にうれしい変化だった。
どうせウルフを読むなら、できるだけ快適に読める形が望ましい。
そのほうが読者もリラックスして読むことができるし、新しい発見に
思い至るだけの余裕も生まれるかもしれないからである。

さて前述の効果かどうかはともかく、今回読み直した際にもいろいろと
おもしろいことに気が付いた。
一番の注目は「ナダンがなぜアメリカに来たのか」という動機について。
ナダンがアメリカに来たのに「目的」があるならば、当然その「動機」もあったはずだ。
私の読んだところでは、この両者は共に日記に書かれていたと思われる。
そして例の一件の後、この部分は日記帳から削除されたと書かれている。
この記述を一応信じるとして、抜かれたところはどこだろう。

まず第一に考えられるのは国書版の233ページ、「疑問の余地は無い」の
部分の前であるが、このパラグラフの長さが中途半端であること、前後に
記述のぶれが見られることを考慮すると、実は244ページの冒頭部分
「ようやく不安が消えた!」の前でも、削除が行われた可能性がある。
ならばいっそのこと、この両方とも削除されていると考えてはどうだろう?
そもそも削除個所がひとつであるとは、どこにも書かれていないのだ。
連続した文章ならば、中途だけを残すよりもそのパラグラフを全部抜くだろうと
考えるものだが、これはもともと日記帳だったということを思い出して欲しい。
ページごと切り取ったのであれば、中途だけ残っていても不思議ではないわけだ。
このパラグラフの前段で、ナダンはアメリカにくることとなった「動機」を書き、
それをヤースミーンに見せられないと考える。
そして不安に駆られた彼は、それに続けてアメリカに来た「目的」、すなわち
本人しか知りえない事実を書くことによって、自分の判断力についての自信を
取り戻したのではないだろうか。
可能性のひとつでしかないものの、この考え方はそれほど悪いものでもないと思う。

さて、肝心の「動機」についてだが、自分の読みに確信があるわけではないし
人によっては興醒めになる可能性もあるので、今のところは明記しない。
一応、「重要なヒントは日記以外の部分にもある」ということだけは書いておく。
鍵を握っているのはもちろん、ナダンが日記を見せたくない相手である。
この読み方をすると、アメリカがまぎれもなくナダン自身の象徴だったことが
はっきりとわかると思う。

ここからはさらに遊びの要素を大きくした読み方をしてみよう。
アーディスはおそらく食人族の仲間だと推測できる。
これは男を持て遊ぶ女の俗称が「maneater」であること、彼女を象徴する
アイテムのアラック酒が、蜘蛛族を意味するarachと同じ発音だからである。
アーリントンでの光景を考慮すると、ワシントンでも墓荒らしは常態らしいし
それが盗掘だけでなく人肉屍食を目的としている可能性も除外できない。
ナダンが代役を務めたテリーも、実はアーディスが喰ってしまったのならば
彼女がその失踪を知っていた理由も納得できるというものだ。

この考えをさらに進めて、アーディス自身を屍食鬼、つまり生ける死者だと
考えることもできるだろう。
彼女が正しくアメリカの象徴であるならば、その身体には蛆が湧いているはず。
そして彼女がナダンとパーティーに出た時の服装はエジプトの女王。
エジプトといえばやはりミイラを連想せずにはいられない。
ちなみに仮面舞踏会での扮装は劇団の次の演目である「ファウスト」のもの。
ナダンの扮装はファウスト博士、アーディスはヘレンの仮装をしているのだ。
ここからアーディスが既に死んでいるという寓意を読み取ることもできるだろう。

そして一番の問題である、ドラッグ入りの「卵」。
これはもう、どこで食べたかを確認することは不可能である。
言い換えれば、どこで食べたことにするかは読者の判断次第ということだ。
読者は自分の好みの場面でドラッグ入りの卵を食べて良いし、あるいは
全然食べなくても良いのである。
ここで注意したいのが、卵の役割について。
当初は幻覚を見るための目的だった卵の存在が、日記帳の最後に至っては
それまで見たものの現実性を確認するための道具に置き換わっているのだ。
この変遷を踏まえた上で、私は最後の卵にドラッグを入れたいと思う。
そうすれば、それまで見てきたものが全て現実だということになるからだ。
私にとっては、そのほうが面白い。

この『アメリカの七夜』、考えようによっては、読者の工夫次第で
好みに合わせた読み方がいくらでも可能な作品だと思う。
あえてガチガチに固めようと挑戦するのも良いし、その迷宮的な語りの曖昧さを
存分に堪能しても良い。
そのどちらにも対応できるだけの底の深さとサービス精神を、この作品は
十分に備えていると思う。
そして読者は本を読み返すことで、この魔性の国を何度でも訪れることができる。
まったく、なんという贅沢な体験なのだろう!

そして私自身も、まだまだこの物語の魔力から逃れられそうに無い。