S-Fマガジン2021年4月号掲載の若島正氏による評論「「解釈」という名の物語―ジーン・ウルフの「アメリカの七夜」を読む」を読んだ。
ここで若島氏は「アメリカの七夜」という謎めいた作品に取りつかれた海外研究者たちの有力な評論を紹介し、その労苦については敬意を払いつつも、自身の精読によって作品の深奥へと入り込み、その成り立ち自体を従来の視点から180度転換させる新解釈を引き出してみせた。
その大胆かつ繊細な切り口は、ジーン・ウルフの作品を長年研究してきた碩学ならではのスリルあふれるものであった。
さて、踏み込んだ感想を述べる前に、解釈の対象となった中編の簡単な紹介と、若島氏の評論のまとめを行ってみたい。
ジーン・ウルフ作「アメリカの七夜」は1978年に刊行されたオリジナルアンソロジー「Orbit20」が初出の中編で、1980年の第1短編集「The Island of Doctor Death and Other Stories and Other Stories 」にも収録された。
日本ではS-Fマガジン2004年10月号のジーン・ウルフ特集で初めて邦訳され、その後2006年2月刊行の日本オリジナル作品集『デス博士の島その他の物語』に収録されている。
作中の謎をめぐってアメリカでも日本でも多くの愛読者を悩ませてきた作品だが、若島氏によるといま最も有力な解釈とみなされているのが、本作の書評コンテストで受賞したデイヴ・トールマンの説らしい。
ウルフ研究者のマーク・アラミニによる全著作解釈本でも、基本的にトールマンの説が採用されており、これが正当な解釈とされているそうだ。
若島氏の評論(以下「若島論」)は、このトールマン/アラミニ説を含む既出の解釈とは異なる観点から「アメリカの七夜」を読み直すことにより、
・「技巧的なパズル・ストーリー」という従来の評価に修正を迫りつつ
・この小説がいかにジーン・ウルフの中心的なテーマにつながっているか
この二点を論じようとする試みである。
若島論では六日間の記録を日記の掲載順にまとめて議論のアウトラインを示したのち、従来から議論されてきた問題を二つ挙げてみせる。
1.「アメリカの七夜」と題されながら、日記には六夜ぶんの記述しかない。失われた一夜はどこにあり、誰が削除したのか?
2.ドラッグの入った卵菓子をナダンはいつ食べ、日記のどこにその幻覚が見出せるか?
そしてこの問題に対する既出の有力仮説として、ウルフ研究者のボースキーとトールマンの二つの説が紹介される。
ボースキー説:ナダンが削除した部分に卵菓子をひとつ食べた記述がある。ゆえに卵菓子が減っていたというのはナダンの嘘である。
ナダンは細密画を盗みに来たのであり、削除したのは五日目に書かれた下見の部分とする。
幻覚剤は最後の卵に入っている。アーディスはナダンがかつて撃った怪物であり狼女である。
トールマン説:ナダンの目的はやはり細密画の入手、ただし失われたのは二日目で、このとき下見をしたと考える。
つまりスミソニアンに行ったのは三日目だとする。
この説の本体はアメリカ復権の陰謀とそれに巻き込まれたナダンという解釈で、秘密警察がアンプルでナダンを暗殺しようとして失敗し、アーディスやボビーを使ってナダンの部屋からアンプルを使った卵菓子を回収したとする。
さらに6日目以降の記述は秘密警察が機械を使って物語と筆跡を捏造したものという解釈している。
しかし若島氏は、二人とも作中に用意された解釈の域を出ていないと断じてみせる。
ここから謎解きの本番が始まるのだが、詳しいことは評論が掲載されたS-Fマガジンを読んでいただきたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、そろそろ若島論についての、私なりの感想を述べていく。
若島氏はボースキーもトールマンも作中に用意された解釈の域を出ていないと述べたが、これにはまったく同感だ。
要するに2人とも、ジャンル小説の枠に当てはめた解釈を披露しているにすぎない。
ボースキーはSFとして読み、その枠に見合う解釈をした。
トールマンは陰謀論として読み、その枠に沿った解釈をした。
場に伏せられた札をどう読むかも含め、どちらもウルフの仕掛けたゲームを遊んでいることに違いはない。
そして二人とも謎を解くことによって、物語を完結させようとしているのは変わらない。
若島氏はこれらの読みを採らない。むしろ異議を唱えるために着目するのは、ゲーム自体のルールと場の側である。
すなわち「アメリカの七夜」のメタフィクションとしての構造を明らかにし、その機能を説明することによって、従来のゲームとその場を丸ごとひっくり返そうとするのだ。
細部は省くが、その手法は従来の謎とされた部分を「もともと存在しない」、つまりナダンが日記に書いた嘘として読み解くことにあった。
ここから組み上げた推論により、若島氏はナダンの日記を創作と断定する。
この断定によって多くの矛盾点が解消され、同時に「アメリカの七夜」がテーブルの上で繰り広げられる小さなパズル遊びではなく、そこからはみ出して世界を覆いつくす無限の物語であるという新たな解釈が浮上する。
若島氏の評論が目指すのは、作品の主要な謎を解きつつ、物語を永遠に続けることだ。
従来有力視されてきたボースキーやトールマンの評論と決定的に異なる点はここだろう。
そしてジーン・ウルフ作品の愛読者ならばなおのこと、若島論に強い共感をおぼえるはずだ。
ウルフが自己複製を繰り返しながら場所と時間を超えて伝播していく物語を目指しているのは、代表作『新しい太陽の書』4部作が聖書の模本(しかも聖書自体に旧と新がある)を意図している点でも明白であり、若島氏の解釈はこれに沿ったものだからである。
さすがは日本最高のウルフ読みである若島氏、目のつけどころが実にウルフ的である。
このようにパズル的・ゲーム的な解釈への異議申し立てとして従来の説を見事に覆した若島論だが、ではその解釈ですべてが丸く収まるかといえば、なかなかそうもいかないようだ。
やはりウルフはやすやすと尻尾をつかませてくれない。
たとえば、日記の削除を否定した解釈について。
若島氏は本当に削除したならそれを日記に書くのは矛盾している、だから削除はされておらず、他人に読ませるための嘘の手がかりなのだと説く。
しかし日記が創作だとすれば、それがわかる手がかりとして「いずれそうなるようにぼくがしむけてみせる。」といった宣言を書き残すのも矛盾だろう。
若島氏の文章を引用するなら「そのことがわからないほど、ナダンはマヌケな人間ではない。」ということだ。
もちろん創作であることを意図的にほのめかした可能性もあり得るが、それではオスマン・アーガの旅行記に倣おうとするナダンの創作意図と合致しない。
もし日記に書かれた内容が嘘だとしても、その嘘を明かしてはせっかくこしらえた魅力的な虚構が台無しである。
むしろ作品全体の構成を考えると「アメリカの七夜」という作品は日記を間に挟んだ枠物語の形式を採用することにより、日記について「作中世界での真実性」を留保しつつ、真偽の判断は読者に委ねたと見なすほうが自然だろう。
ナダンの日記に続いて、枠物語の部分に読者の代理として登場するのは、ナダンの身内と思われる若い女と老婦人である。
そして日記を読んだ後の2人の反応は、実に対照的だ。
ヤースミーンと思われる若い女はナダンの生存と日記の真実性を信じ、さらにナダンが日記を書いた後に手紙を出したのではないかという「別の物語」にまで言及する。
いっぽう、ナダンの母と思われる老婦人は日記の筆跡を疑う。これは内容だけでなく、作者そのものへの懐疑である。
この母の懐疑を受けて読者がまず考えるのは、日記を送ってきたハサン・ケルベライによる捏造の可能性だろう。
ハサンは日記とともに送ってきた報告書の中で、捜索を続けるための金が届かなければ捜索を打ち切ると示唆している。
もし日記の真実性を疑うなら、これはハサンがさらに経費を請求するために偽物を書いて送ったと考えるのが一般的だ。
ではその筆跡は本当にナダン以外のものかといえば、これもまた曖昧である。
ここで老婦人が見せる葛藤は、日記が偽物らしいというだけでなく、あえて偽物と思いたい理由があるとも考えられる。
老婦人は息子の生存をあきらめかけているか、あるいは調査を続けられない事情があるのではないか。
その事情はナダンがアメリカに渡ったことと関係があり、ヤースミーンはそれを知らないのかもしれない。
若い女とは違った立場に身を置くもうひとりの読者の複雑な思いが、ここにはっきりと表れている。
日記の外側にいる最初の読者たちの反応が既に真偽まっぷたつに割れていることから、その2人を書いたウルフ自身が「どちらの解釈を採ってもよい」と示唆しているのは明白だ。
しかしこの場面の、そして全体の締めくくりとして末尾に置かれた「たぶんね。たぶん」という言葉は、老婦人の迷いを示すものであると同時に「アメリカの七夜」を繰り返し読んで欲しいと誘いかけるジーン・ウルフからの言葉でもあると思う。
物語が閉じられるとき、そこに置かれるのは「めでたし、めでたし」である。これを物語の終わりを二重に言祝ぐものとするなら、「たぶんね。たぶん」とは、終わらない物語を二重に強調した呪文とみなせるだろう。
さて、日記の内容が嘘であるとすれば、そのどこからどこまでが嘘なのか。もし最初から最後までが嘘だとすれば、アメリカで調査中のハサンに見破られる可能性が高そうだ。
そしてナダンの身内2人が読んでいた日記が原本なのか、あるいはハサンが送ってきた写真複写なのかについても、作中でははっきり書かれていない。
老婦人が「本を閉じた」とあるので、仮にこれが原本だと考えた場合、削除の有無はページの脱落や切り取り跡として残っているはずであるが、これについても作中での言及はない。
このように細部を詰めていくと、少なくともウルフは巧妙に核心をぼかし、あるはずの証拠についてもすべては提示していないことがわかる。
これは謎解きとしての「読者への挑戦」を意図していないからではないのか。唯一の解答を求める探偵たちの前に差し出された、これがウルフなりの答えにも思える。
いっぽう、日記の書き手であるナダンもまた核心をぼかした記述をするが、こちらはナダンのロマン主義的な精神と、見たものを信じられない、あるいは信じたくないという心理作用によるものだ。
彼の気持ちの揺れは、ある場面では日記を読ませるつもりと書き、別の場面では読ませられないと書く不安定な記述にも表れている。
そんなナダンの日記が持つ魅力とはなにか。それは彼が書き留めた怪物や崩壊したアメリカの姿だけではない。
むしろそれらを見聞した本人がどのように受け取って何を感じたかという「書き手の解釈に基づく現実」こそ、最も読むべき部分だろう。
ナダンの心の動きと曖昧な現実認識をひとまずそのまま受け止めること。これこそ『デス博士の島その他の物語』のあとがき「ジーン・ウルフ-言葉の魔術師」において、柳下毅一郎氏がウルフの言葉として掲げた「わたしはつねに自分に見えるとおりのものを見せようとしている」という執筆姿勢に沿った読み方ではないだろうか。
そこに書かれたものをまず素直に受け取るという気持ちも、ジーン・ウルフの作品を読むうえで大切なものだろう。
ウルフの最高作ともいわれる傑作短編「デス博士の島その他の物語」が不朽の名作となりえたのも、タッキー少年の見た世界が彼の解釈に基づく「別の現実」であり、それが子供から大人へ、動物から人間へと変身していく少年の心身を最もうまく説明するものだったからである。
「アメリカの七夜」もまた、未知の土地で青年が初めて見た信じがたいものたちと、それに対する心の動きをつぶさにとらえた作品として、そのみずみずしい感覚を受け取ることが肝要である。
パズルに興じたりメタフィクションとして読み方を広げるのも楽しいが、わざわざウルフを読むのであれば、彼がその作品において繰り返し実践してきた「本は人なり」という考え方に立ち返って、語り手の内面に触れることを忘れてはならない。
いっぽう、誠実な読みを重ねた結果として、読者がさらに多様な解釈を施すことに関しては、ウルフもむしろ歓迎していたはずだ。
読者への挑戦ではなく、読者をどのようにもてなすかに全力を注ぐ。それがジーン・ウルフの流儀だからである。
そんなウルフの気持ちを汲んだ若島氏が「千一夜物語」を手がかりとして「アメリカの七夜」を読み解き、新たな解釈を提示するのは必然であり、この試みが日本のウルフファンを再び活気づけ、ウルフを読む楽しさを再認識させてくれたことに改めて感謝したい。
ではこの解釈という物語に背中を押されたひとりとして、私からもまた別の解釈を加えてみよう。
若島氏は「アメリカの七夜」という表題と千一夜物語の成立過程を関連付けながら、作者が姿を消すのは原作者不詳の原典にふさわしいとしている。
しかし同様に「アメリカの七夜」という表題から別の原典との関連を導き出し、ナダンがなぜ消えるに至ったかを推測することはできないだろうか。
その原典とはフランツ・カフカの『アメリカ』だと、私は考える。
なお、この作品はカフカの遺した手稿を友人のマックス・ブロートが編集して『アメリカ』の表題をつけて刊行した作品であり、後にカフカの手稿に沿った形に改訂されたため、今は新たな表題のほうが広く知られている。
カフカが手稿の時からこの作品につけようと考えていた表題、それは『失踪者』というものであった。
『アメリカ』は女中を妊娠させたドイツ人少年がアメリカで暮らす伯父の元に送られ、現地の文化と人々に接しながら自分の居場所を探す物語である。こちらの結末では主人公が変名を使って劇場に職と居場所を得る。
いっぽう『失踪者』では、この後にカフカの遺した短い断章が添えられ、主人公が乗った列車が渓谷にかかる橋にさしかかった時、「水面近くをかすめたとたん、冷気が顔を撫でた。」という一文で終わる。
カフカ小説全集の解説で『失踪者』を訳した池内紀氏はこの幕切れについて「小説はカフカ自身が述べたとおり、「とめどなくつづく」。終わりをみないのが、もっとも正確な終わり方と言っていい。」と評している。なんともウルフ的ではないか。
いや、むしろウルフのスタイルがカフカ的であると言うべきか。
なお『アメリカ』が『失踪者』に変身して再度お目見えするのは1983年のことで、刊行時期については1978年のOrbit20に掲載された「アメリカの七夜」が先行している。
しかしカフカが『失踪者』という表題をつけようとしていたことは、1946年版の『アメリカ』あとがきでブロートが明かしているので、それを知っていたジーン・ウルフが、自分なりの再構築による『失踪者』を書き上げた可能性もあり得ないとは言えない。
ナダン・ジャアファルザデーは役者として舞台に上がったとき、アメリカ人ふうの「ネッド・ジェファソン」という名を与えられた。
ジェファソンといえばすぐに思い浮かぶのが、アメリカ建国の父のひとりとされる第三代大統領のトマス・ジェファソンである。この人物はラシュモア山に彫られた4つの顔のひとつでもある。
ペルシアからやってきた青年がアメリカの象徴へと変身し、やがて失踪する。ウルフの筆によって、『アメリカ』は見事に『失踪者』へと変身したのだ。
さて、ウルフの執筆プランではあらかじめ失踪が定められていたとして、作中でのナダンはどこまで計画的に動いていたのだろうか。
アメリカに渡る前から失踪を企んでいたのなら、実はナダンはワシントンDCに行かず、「もっと北の地」であるデラウェア湾に上陸し、
そこで書いた日記をわざと放置したのかもしれない。DCの地図はテヘランでも見られるので、あとは想像で書くことも不可能ではない。
あるいはジェファソンの名を得た時、ナダンは国を捨て、家族を捨て、過去を捨ててアメリカの地で消える覚悟を固めた可能性もある。
この場合、手記に書かれたアーディスに関する最終夜の記述は、失踪をカモフラージュするために急遽書き上げた作り事だろう。
しかしアーディスが日記に書かれたとおりの醜悪な変身生物であり、その朽ち果てた肉体が疫病や汚染を媒介するものであれば、それと同衾したナダンの愛と欲望が恐怖と絶望に変わったのも無理はない。
そして最後に窓ガラスから見えた顔、これはアーディスかその仲間のものと思いがちだが、日記にはその点もはっきりとは書かれていない。
もしかすると窓に見えたのは、室内の灯火によって鏡と化したガラスに映ったナダン自身の顔だったのではないか。
それならナダンもまた獣人に変化したか、あるいはその前に食べた卵菓子の幻覚剤がナダンの恐怖に反応して幻を見せたということになる。
いずれの解釈にしろ、語り手本人が変身してしまうという結末は、ジーン・ウルフの書く物語にふさわしいものだと思う。
なお、作品の発表された当時の世界情勢を見ると、1973年の第1次オイルショックでアメリカ経済は衰えを見せ、さらに発表年の1978年にはイラン革命が始まっている。
ウルフは時事的な話題にこだわらない作家だが、「取り替え子」が朝鮮戦争とベトナム戦争を描いた物語として読めるように、あるいは「風来」の世界が9.11の後のアメリカ社会に重なるように、時事問題を扱わないというわけではない。
たぶん「アメリカの七夜」も、時代背景を反映して書き始められたものだろう。
しかし出来上がった作品は時代を超え、それこそ千一夜物語やカフカの作品のように長く読み継がれるものとなり、今も読者を魅了し続けている。
大衆作家として書きながら、その枠をたやすく超えてみせる。それがウルフの非凡さである。
評論への感想を書くつもりが、思ったよりも話が膨らんでしまった。
結局のところ、私もまた解釈という物語を付け加えたい誘惑にあらがうことができなかったようだ。
そしてウルフの作品が読み継がれるかぎり、解釈という物語はこれからも続いていくだろう。
ウルフを読み、その解釈の輪をつないでくれる人が、ますます増えることを願ってやまない。
ここで若島氏は「アメリカの七夜」という謎めいた作品に取りつかれた海外研究者たちの有力な評論を紹介し、その労苦については敬意を払いつつも、自身の精読によって作品の深奥へと入り込み、その成り立ち自体を従来の視点から180度転換させる新解釈を引き出してみせた。
その大胆かつ繊細な切り口は、ジーン・ウルフの作品を長年研究してきた碩学ならではのスリルあふれるものであった。
さて、踏み込んだ感想を述べる前に、解釈の対象となった中編の簡単な紹介と、若島氏の評論のまとめを行ってみたい。
ジーン・ウルフ作「アメリカの七夜」は1978年に刊行されたオリジナルアンソロジー「Orbit20」が初出の中編で、1980年の第1短編集「The Island of Doctor Death and Other Stories and Other Stories 」にも収録された。
日本ではS-Fマガジン2004年10月号のジーン・ウルフ特集で初めて邦訳され、その後2006年2月刊行の日本オリジナル作品集『デス博士の島その他の物語』に収録されている。
作中の謎をめぐってアメリカでも日本でも多くの愛読者を悩ませてきた作品だが、若島氏によるといま最も有力な解釈とみなされているのが、本作の書評コンテストで受賞したデイヴ・トールマンの説らしい。
ウルフ研究者のマーク・アラミニによる全著作解釈本でも、基本的にトールマンの説が採用されており、これが正当な解釈とされているそうだ。
若島氏の評論(以下「若島論」)は、このトールマン/アラミニ説を含む既出の解釈とは異なる観点から「アメリカの七夜」を読み直すことにより、
・「技巧的なパズル・ストーリー」という従来の評価に修正を迫りつつ
・この小説がいかにジーン・ウルフの中心的なテーマにつながっているか
この二点を論じようとする試みである。
若島論では六日間の記録を日記の掲載順にまとめて議論のアウトラインを示したのち、従来から議論されてきた問題を二つ挙げてみせる。
1.「アメリカの七夜」と題されながら、日記には六夜ぶんの記述しかない。失われた一夜はどこにあり、誰が削除したのか?
2.ドラッグの入った卵菓子をナダンはいつ食べ、日記のどこにその幻覚が見出せるか?
そしてこの問題に対する既出の有力仮説として、ウルフ研究者のボースキーとトールマンの二つの説が紹介される。
ボースキー説:ナダンが削除した部分に卵菓子をひとつ食べた記述がある。ゆえに卵菓子が減っていたというのはナダンの嘘である。
ナダンは細密画を盗みに来たのであり、削除したのは五日目に書かれた下見の部分とする。
幻覚剤は最後の卵に入っている。アーディスはナダンがかつて撃った怪物であり狼女である。
トールマン説:ナダンの目的はやはり細密画の入手、ただし失われたのは二日目で、このとき下見をしたと考える。
つまりスミソニアンに行ったのは三日目だとする。
この説の本体はアメリカ復権の陰謀とそれに巻き込まれたナダンという解釈で、秘密警察がアンプルでナダンを暗殺しようとして失敗し、アーディスやボビーを使ってナダンの部屋からアンプルを使った卵菓子を回収したとする。
さらに6日目以降の記述は秘密警察が機械を使って物語と筆跡を捏造したものという解釈している。
しかし若島氏は、二人とも作中に用意された解釈の域を出ていないと断じてみせる。
ここから謎解きの本番が始まるのだが、詳しいことは評論が掲載されたS-Fマガジンを読んでいただきたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、そろそろ若島論についての、私なりの感想を述べていく。
若島氏はボースキーもトールマンも作中に用意された解釈の域を出ていないと述べたが、これにはまったく同感だ。
要するに2人とも、ジャンル小説の枠に当てはめた解釈を披露しているにすぎない。
ボースキーはSFとして読み、その枠に見合う解釈をした。
トールマンは陰謀論として読み、その枠に沿った解釈をした。
場に伏せられた札をどう読むかも含め、どちらもウルフの仕掛けたゲームを遊んでいることに違いはない。
そして二人とも謎を解くことによって、物語を完結させようとしているのは変わらない。
若島氏はこれらの読みを採らない。むしろ異議を唱えるために着目するのは、ゲーム自体のルールと場の側である。
すなわち「アメリカの七夜」のメタフィクションとしての構造を明らかにし、その機能を説明することによって、従来のゲームとその場を丸ごとひっくり返そうとするのだ。
細部は省くが、その手法は従来の謎とされた部分を「もともと存在しない」、つまりナダンが日記に書いた嘘として読み解くことにあった。
ここから組み上げた推論により、若島氏はナダンの日記を創作と断定する。
この断定によって多くの矛盾点が解消され、同時に「アメリカの七夜」がテーブルの上で繰り広げられる小さなパズル遊びではなく、そこからはみ出して世界を覆いつくす無限の物語であるという新たな解釈が浮上する。
若島氏の評論が目指すのは、作品の主要な謎を解きつつ、物語を永遠に続けることだ。
従来有力視されてきたボースキーやトールマンの評論と決定的に異なる点はここだろう。
そしてジーン・ウルフ作品の愛読者ならばなおのこと、若島論に強い共感をおぼえるはずだ。
ウルフが自己複製を繰り返しながら場所と時間を超えて伝播していく物語を目指しているのは、代表作『新しい太陽の書』4部作が聖書の模本(しかも聖書自体に旧と新がある)を意図している点でも明白であり、若島氏の解釈はこれに沿ったものだからである。
さすがは日本最高のウルフ読みである若島氏、目のつけどころが実にウルフ的である。
このようにパズル的・ゲーム的な解釈への異議申し立てとして従来の説を見事に覆した若島論だが、ではその解釈ですべてが丸く収まるかといえば、なかなかそうもいかないようだ。
やはりウルフはやすやすと尻尾をつかませてくれない。
たとえば、日記の削除を否定した解釈について。
若島氏は本当に削除したならそれを日記に書くのは矛盾している、だから削除はされておらず、他人に読ませるための嘘の手がかりなのだと説く。
しかし日記が創作だとすれば、それがわかる手がかりとして「いずれそうなるようにぼくがしむけてみせる。」といった宣言を書き残すのも矛盾だろう。
若島氏の文章を引用するなら「そのことがわからないほど、ナダンはマヌケな人間ではない。」ということだ。
もちろん創作であることを意図的にほのめかした可能性もあり得るが、それではオスマン・アーガの旅行記に倣おうとするナダンの創作意図と合致しない。
もし日記に書かれた内容が嘘だとしても、その嘘を明かしてはせっかくこしらえた魅力的な虚構が台無しである。
むしろ作品全体の構成を考えると「アメリカの七夜」という作品は日記を間に挟んだ枠物語の形式を採用することにより、日記について「作中世界での真実性」を留保しつつ、真偽の判断は読者に委ねたと見なすほうが自然だろう。
ナダンの日記に続いて、枠物語の部分に読者の代理として登場するのは、ナダンの身内と思われる若い女と老婦人である。
そして日記を読んだ後の2人の反応は、実に対照的だ。
ヤースミーンと思われる若い女はナダンの生存と日記の真実性を信じ、さらにナダンが日記を書いた後に手紙を出したのではないかという「別の物語」にまで言及する。
いっぽう、ナダンの母と思われる老婦人は日記の筆跡を疑う。これは内容だけでなく、作者そのものへの懐疑である。
この母の懐疑を受けて読者がまず考えるのは、日記を送ってきたハサン・ケルベライによる捏造の可能性だろう。
ハサンは日記とともに送ってきた報告書の中で、捜索を続けるための金が届かなければ捜索を打ち切ると示唆している。
もし日記の真実性を疑うなら、これはハサンがさらに経費を請求するために偽物を書いて送ったと考えるのが一般的だ。
ではその筆跡は本当にナダン以外のものかといえば、これもまた曖昧である。
ここで老婦人が見せる葛藤は、日記が偽物らしいというだけでなく、あえて偽物と思いたい理由があるとも考えられる。
老婦人は息子の生存をあきらめかけているか、あるいは調査を続けられない事情があるのではないか。
その事情はナダンがアメリカに渡ったことと関係があり、ヤースミーンはそれを知らないのかもしれない。
若い女とは違った立場に身を置くもうひとりの読者の複雑な思いが、ここにはっきりと表れている。
日記の外側にいる最初の読者たちの反応が既に真偽まっぷたつに割れていることから、その2人を書いたウルフ自身が「どちらの解釈を採ってもよい」と示唆しているのは明白だ。
しかしこの場面の、そして全体の締めくくりとして末尾に置かれた「たぶんね。たぶん」という言葉は、老婦人の迷いを示すものであると同時に「アメリカの七夜」を繰り返し読んで欲しいと誘いかけるジーン・ウルフからの言葉でもあると思う。
物語が閉じられるとき、そこに置かれるのは「めでたし、めでたし」である。これを物語の終わりを二重に言祝ぐものとするなら、「たぶんね。たぶん」とは、終わらない物語を二重に強調した呪文とみなせるだろう。
さて、日記の内容が嘘であるとすれば、そのどこからどこまでが嘘なのか。もし最初から最後までが嘘だとすれば、アメリカで調査中のハサンに見破られる可能性が高そうだ。
そしてナダンの身内2人が読んでいた日記が原本なのか、あるいはハサンが送ってきた写真複写なのかについても、作中でははっきり書かれていない。
老婦人が「本を閉じた」とあるので、仮にこれが原本だと考えた場合、削除の有無はページの脱落や切り取り跡として残っているはずであるが、これについても作中での言及はない。
このように細部を詰めていくと、少なくともウルフは巧妙に核心をぼかし、あるはずの証拠についてもすべては提示していないことがわかる。
これは謎解きとしての「読者への挑戦」を意図していないからではないのか。唯一の解答を求める探偵たちの前に差し出された、これがウルフなりの答えにも思える。
いっぽう、日記の書き手であるナダンもまた核心をぼかした記述をするが、こちらはナダンのロマン主義的な精神と、見たものを信じられない、あるいは信じたくないという心理作用によるものだ。
彼の気持ちの揺れは、ある場面では日記を読ませるつもりと書き、別の場面では読ませられないと書く不安定な記述にも表れている。
そんなナダンの日記が持つ魅力とはなにか。それは彼が書き留めた怪物や崩壊したアメリカの姿だけではない。
むしろそれらを見聞した本人がどのように受け取って何を感じたかという「書き手の解釈に基づく現実」こそ、最も読むべき部分だろう。
ナダンの心の動きと曖昧な現実認識をひとまずそのまま受け止めること。これこそ『デス博士の島その他の物語』のあとがき「ジーン・ウルフ-言葉の魔術師」において、柳下毅一郎氏がウルフの言葉として掲げた「わたしはつねに自分に見えるとおりのものを見せようとしている」という執筆姿勢に沿った読み方ではないだろうか。
そこに書かれたものをまず素直に受け取るという気持ちも、ジーン・ウルフの作品を読むうえで大切なものだろう。
ウルフの最高作ともいわれる傑作短編「デス博士の島その他の物語」が不朽の名作となりえたのも、タッキー少年の見た世界が彼の解釈に基づく「別の現実」であり、それが子供から大人へ、動物から人間へと変身していく少年の心身を最もうまく説明するものだったからである。
「アメリカの七夜」もまた、未知の土地で青年が初めて見た信じがたいものたちと、それに対する心の動きをつぶさにとらえた作品として、そのみずみずしい感覚を受け取ることが肝要である。
パズルに興じたりメタフィクションとして読み方を広げるのも楽しいが、わざわざウルフを読むのであれば、彼がその作品において繰り返し実践してきた「本は人なり」という考え方に立ち返って、語り手の内面に触れることを忘れてはならない。
いっぽう、誠実な読みを重ねた結果として、読者がさらに多様な解釈を施すことに関しては、ウルフもむしろ歓迎していたはずだ。
読者への挑戦ではなく、読者をどのようにもてなすかに全力を注ぐ。それがジーン・ウルフの流儀だからである。
そんなウルフの気持ちを汲んだ若島氏が「千一夜物語」を手がかりとして「アメリカの七夜」を読み解き、新たな解釈を提示するのは必然であり、この試みが日本のウルフファンを再び活気づけ、ウルフを読む楽しさを再認識させてくれたことに改めて感謝したい。
ではこの解釈という物語に背中を押されたひとりとして、私からもまた別の解釈を加えてみよう。
若島氏は「アメリカの七夜」という表題と千一夜物語の成立過程を関連付けながら、作者が姿を消すのは原作者不詳の原典にふさわしいとしている。
しかし同様に「アメリカの七夜」という表題から別の原典との関連を導き出し、ナダンがなぜ消えるに至ったかを推測することはできないだろうか。
その原典とはフランツ・カフカの『アメリカ』だと、私は考える。
なお、この作品はカフカの遺した手稿を友人のマックス・ブロートが編集して『アメリカ』の表題をつけて刊行した作品であり、後にカフカの手稿に沿った形に改訂されたため、今は新たな表題のほうが広く知られている。
カフカが手稿の時からこの作品につけようと考えていた表題、それは『失踪者』というものであった。
『アメリカ』は女中を妊娠させたドイツ人少年がアメリカで暮らす伯父の元に送られ、現地の文化と人々に接しながら自分の居場所を探す物語である。こちらの結末では主人公が変名を使って劇場に職と居場所を得る。
いっぽう『失踪者』では、この後にカフカの遺した短い断章が添えられ、主人公が乗った列車が渓谷にかかる橋にさしかかった時、「水面近くをかすめたとたん、冷気が顔を撫でた。」という一文で終わる。
カフカ小説全集の解説で『失踪者』を訳した池内紀氏はこの幕切れについて「小説はカフカ自身が述べたとおり、「とめどなくつづく」。終わりをみないのが、もっとも正確な終わり方と言っていい。」と評している。なんともウルフ的ではないか。
いや、むしろウルフのスタイルがカフカ的であると言うべきか。
なお『アメリカ』が『失踪者』に変身して再度お目見えするのは1983年のことで、刊行時期については1978年のOrbit20に掲載された「アメリカの七夜」が先行している。
しかしカフカが『失踪者』という表題をつけようとしていたことは、1946年版の『アメリカ』あとがきでブロートが明かしているので、それを知っていたジーン・ウルフが、自分なりの再構築による『失踪者』を書き上げた可能性もあり得ないとは言えない。
ナダン・ジャアファルザデーは役者として舞台に上がったとき、アメリカ人ふうの「ネッド・ジェファソン」という名を与えられた。
ジェファソンといえばすぐに思い浮かぶのが、アメリカ建国の父のひとりとされる第三代大統領のトマス・ジェファソンである。この人物はラシュモア山に彫られた4つの顔のひとつでもある。
ペルシアからやってきた青年がアメリカの象徴へと変身し、やがて失踪する。ウルフの筆によって、『アメリカ』は見事に『失踪者』へと変身したのだ。
さて、ウルフの執筆プランではあらかじめ失踪が定められていたとして、作中でのナダンはどこまで計画的に動いていたのだろうか。
アメリカに渡る前から失踪を企んでいたのなら、実はナダンはワシントンDCに行かず、「もっと北の地」であるデラウェア湾に上陸し、
そこで書いた日記をわざと放置したのかもしれない。DCの地図はテヘランでも見られるので、あとは想像で書くことも不可能ではない。
あるいはジェファソンの名を得た時、ナダンは国を捨て、家族を捨て、過去を捨ててアメリカの地で消える覚悟を固めた可能性もある。
この場合、手記に書かれたアーディスに関する最終夜の記述は、失踪をカモフラージュするために急遽書き上げた作り事だろう。
しかしアーディスが日記に書かれたとおりの醜悪な変身生物であり、その朽ち果てた肉体が疫病や汚染を媒介するものであれば、それと同衾したナダンの愛と欲望が恐怖と絶望に変わったのも無理はない。
そして最後に窓ガラスから見えた顔、これはアーディスかその仲間のものと思いがちだが、日記にはその点もはっきりとは書かれていない。
もしかすると窓に見えたのは、室内の灯火によって鏡と化したガラスに映ったナダン自身の顔だったのではないか。
それならナダンもまた獣人に変化したか、あるいはその前に食べた卵菓子の幻覚剤がナダンの恐怖に反応して幻を見せたということになる。
いずれの解釈にしろ、語り手本人が変身してしまうという結末は、ジーン・ウルフの書く物語にふさわしいものだと思う。
なお、作品の発表された当時の世界情勢を見ると、1973年の第1次オイルショックでアメリカ経済は衰えを見せ、さらに発表年の1978年にはイラン革命が始まっている。
ウルフは時事的な話題にこだわらない作家だが、「取り替え子」が朝鮮戦争とベトナム戦争を描いた物語として読めるように、あるいは「風来」の世界が9.11の後のアメリカ社会に重なるように、時事問題を扱わないというわけではない。
たぶん「アメリカの七夜」も、時代背景を反映して書き始められたものだろう。
しかし出来上がった作品は時代を超え、それこそ千一夜物語やカフカの作品のように長く読み継がれるものとなり、今も読者を魅了し続けている。
大衆作家として書きながら、その枠をたやすく超えてみせる。それがウルフの非凡さである。
評論への感想を書くつもりが、思ったよりも話が膨らんでしまった。
結局のところ、私もまた解釈という物語を付け加えたい誘惑にあらがうことができなかったようだ。
そしてウルフの作品が読み継がれるかぎり、解釈という物語はこれからも続いていくだろう。
ウルフを読み、その解釈の輪をつないでくれる人が、ますます増えることを願ってやまない。