熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

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奇才の知られざる顔 R・A・ラファティ『翼の贈りもの』

2013年05月15日 | SF
このところ続けて新刊が出ているラファティだが、これは青心社が出版した2冊目のラファティ短編集。
さらにつけくわえるなら、新たなスタートを切った青心社SFシリーズが復刻以外に初めて出した本が、
この『翼の贈りもの』である。
さらにこの次に出たのが、ラファティの長編『蛇の卵』なので、極論するとこのシリーズの宿命は
「新たにラファティを出版し続ける」ことではないかとも思えるほど。
いっそこのままラファティだけ出版し続けるという快挙を期待したいが、さすがにそれは高望みか。

作品セレクトは青心社のラファティ翻訳を一手に手がける、井上央氏によるもの。
浅倉久志氏や伊藤典夫氏の紹介作は独特の軽みと屈託のなさが身上で、そこには陰惨な事件すらも
「陽光の下であっけなくおこなわれるような」ある種の不条理さと明朗快活さが感じられるのだが、
それらに比べると井上氏の選んだ作品にはどことなく翳りや繊細さ、そして宗教的色彩が感じられて、
読後感にもずしりとくるものがある。

読後にあとを引く重さは『子供たちの午後』とも共通するが、読み応えは『翼の贈りもの』のほうが上。
ほろ苦さの中に心地よい重量感やしっとりした余韻があり、作品の深みもぐっと増したように思える。
それでいて、従来からのラファティの持ち味である「飄々とした語り口」や「アクロバチックな論理」は
決して損なわれていない。

笑顔こそ控えめになったかもしれないが、ラファティの小説が見せる表情は以前にも増して豊かになった。
いわば同じ顔を違う角度から見ることによって、その風貌に新たな魅力が加わったというべきか。


以下に各編の感想を記す。


「だれかがくれた翼の贈りもの」
タイトルからもそれとなくわかるとおり、進化論と天使の存在を結びつけた物語。
ただし宗教くささは薄く、人間の進化した先に至るであろう天使的な姿が示されると共に、
そこに辿り着く前の過渡的な存在の姿が描かれる。

ラファティが繰り返し取り上げてきたテーマとして「現人類vs超人類」という構図が挙げられるが、
ここでは翼のある若者たちが「未完の超人類=輝くかたわもの」として、生存と社会への適応と引き換えに
巨大な翼を切断され、空を飛ぶ力と豊かな才能を奪われて現人類の一員(しかも傷を負った短命な存在)へと
貶められてしまう。
このモチーフにキリストや預言者たちの受難劇を見立てることもできそうだが、あえてそれにはこだわらず、
若者ならではの「喪失の物語」と読むほうが素直に読めるだろう。

アイデアそのものは「天使>ヘルズ・エンジェルス>奇矯な若者文化」という連想から来ていると思うが、
それをこんなに叙情的かつスケールの大きな話に仕立てたところに、身近な話を一気に飛躍させてしまう
ラファティならではの妙味がある。

「最後の天文学者」
やはり喪失の物語だが、こちらは自分の信じていた宇宙観が崩れ去り、もはや探求するものさえ失って
死を待つばかりの天文学者が主役の話。
科学そのものが誤っているという設定はラファティの得意な領分だが、今回は滅びる側に寄り添う形で、
ひとつの学問とその学徒が失われるさまを、皮肉交じりの哀調で描く。
天文学者がその身を埋める火星の風俗と、そこに住む火星人たちの奇妙な死生観がいい。
特に主人公が生きながら葬られ、眼に埋め込まれた星の花が根付いていく様子は幻想的で美しく、
一種の変身譚とも読める。

「なつかしきゴールデンゲイト」
酒場という世界の縮図をめぐって、善と悪が対決する物語。
しかし善玉は一方的な思い込み、悪玉は優れた役者であり、何が本物なのかがわからない。
そして両者の立ち位置とは無関係に時代は移り、双方とも居場所を失って店を代える仕儀となる。
すなわち善と悪とは切り離せない関係であり、一種の共依存なのかもしれない。
酒場独特のアットホームさの中で渦巻く人間関係と、最後に迎える滑稽だがほろ苦い結末に、
時間の平等さと呵責のなさを感じる。

「雨降る日のハリカルナッソス」
ソクラテスが現代に生きているという奇譚が、なぜか雨降る港町のだらだらした日常描写として語られる。
そのミスマッチと定型化したギャグの繰り返しが、なんともコミカルな一篇。
深遠な哲学者が人を食った言動で周囲を翻弄するところは、まるでラファティの話芸そのものだ。
オチはとってつけたように簡素なものだが、そこに大した意味はないだろう。
これこそ「呼吸するような自然さで」ラファティを読むための一篇だと思う。

「片目のマネシツグミ」
ラファティ進化論のひとつの到達点を示す作品。
ひとつの極小世界を弾丸として発射し、極小存在の極小時間において急激な進化を促そうとする実験が、
結果的に弾丸を発射した科学者とその世界さえも書き換えてしまう。
いわばラファティ版「フェッセンデンの宇宙」であり、理論面さえ気にしなければイーガンの作品にも
どこか通じる部分があると思う。
発端と結末が因果関係で結ばれてしまう話は他にも収録されており、ラファティの作風を特徴付ける
ひとつの傾向と見ることもできそうだ。

「ケイシィ・マシン」
死者すら含む他人の意識を共有することで、この世に存在したあらゆる快楽と背徳を体験できる
奇跡のマシンを作った人々がいた。
さて、そのマシンは製作者と世界に何をもたらし、そしてどこへ消えてしまったのだろうか?

明らかに宗教的な意味を隠し持っており、有史以降の人間の中に巣くう背徳的な享楽性を取り上げながら、
一方でそれに染まらない存在もいると示すことで、人間の堕落と気高さを対比させているようにも読める。
この話を読んでいてワルプルギスの饗宴を思い浮かべると同時に、荒野で悪夢のような幻想に耐え続けた
聖アントニウスの試練を思い出した。
ラファティの創作姿勢、そしてこの短編集を編んだ井上氏の意図がよく表れた重要作のようにも思えるが、
それだけに一筋縄ではいかない手ごわさを感じさせる難物でもある。

「マルタ」
原題は「Holy Woman」、いわば現代の聖女伝だろうか。
名物キャラクターの苦虫ジョンが出会った、マルタという女性のお話。
明らかにウソが混じった「信頼できない語り手」の冒険譚だが、金と人生にまつわる諷刺譚と読めば、
また味わいも変わってくる。
マルタとジョンの会話がバカバカしくて実にいい。このなんともいえない肩透かし感!

「優雅な日々と宮殿」
最下級の存在が最上級としてぬけぬけとまかり通ってしまうのも、ラファティではお約束。
今回は天才的なうそつきこそ最高の発明家で、もっとも原始的な種こそ最大の可能性を秘めているという
とんでもない逆説が披露される。
この話に限らず、ラファティは猿が大好きだ。そして人間は彼らの退化種であり、醜悪な戯画なのだ。

「ジョン・ソルト」
これも宗教的なお話。
にせ説教師をまんまといっぱい食わせたのはだれか?
嘘と真実が交錯し、聖痕と引き換えに最後は善き人が得をするという寓話的な物語。
健康で歪みのない身体が幸福であるとは限らない。むしろ肉体よりも魂の束縛こそが問題だということか。

「深色ガラスの物語」
原始人の忘れられた傑作に始まり、大気汚染に汚れた雨が描き出す黙示録の予兆で終わる、
歴史上に現れては消えていったガラス絵画たちの流行史が綴られる。
まさに極彩色のガラスで彩られたミニチュアの人類史であり、芸術論として読んでも楽しめる。
長編の梗概だけを一気呵成に書ききったような話なので、長編なみのアイデア量とスケール感を
短編サイズにダイジェスト化したようにも見える、ある意味ではとても贅沢な作品だと思う。
この巨視的なものの見方こそラファティの魅力だが、いわゆる「ストーリー性」を重視し、
キャラの身近さと人間くささに共感したい読者にはいまひとつウケが悪いのも納得できる。
逆に見れば、そういう瑣末な面白さを軽くやりすごすところに、「SF作家」ラファティの
傑出した資質を感じる。

「ユニークで斬新な発明の数々」
「片目のマネシツグミ」の感想で触れた「発端と結末が因果関係で結ばれる」もうひとつの話とは
この作品のこと。
世界は短いスパンの繰り返しであり、その中で発明と喪失が繰り返されるという理屈の中で、
真にユニークで斬新な発明を求める問答が繰り広げられる。
自分で自分を生み、結局滅ぼしてしまうという筋書きは「ウロボロスの蛇」の変奏を思わせる。
そんな視点から読むと、これが鉄道旅行に見立てたラファティ的宇宙論にも思えてくるだろう。
登場人物たちが乗車する鉄道の名称が「ライトトレイン(軽鉄道あるいは光速鉄道)」であることも、
この物語が日常風景と超越的世界の二重写しであることを示唆している。


わかりやすく笑える傾向の作品集ではないので、とっつきにくさはあるかもしれないが、
じっくり読ませるラファティというのも、またいいものである。
個人的には先行する作品集に負けない、もしくはそれ以上の充実度を誇る傑作集と思っているが、
そうした優劣を論じることがさほど重要でないことも十分わかっているつもりだ。
結局のところ、どれもラファティが書いた物語なのだから。
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