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『ダールグレン』に関する覚え書き

2011年07月30日 | SF
SFファンには名高い“奇書”のひとつ、ディレイニーの『ダールグレン』が邦訳された。

記憶に欠落を抱えた青年が破壊された工業都市に到着し、そこに暮らす奇妙な人々と交流を結びながら詩作(思索)と
自分探しの日々を送るというストーリーには、明らかに当時の時代背景とディレイニー自身の経験が反映されている。
しかし、『ダールグレン』の刊行がヒッピー文化の末期にあたる1975年であり、また作中で主人公のキッドも
「フラワー・パワーは時代遅れ」と認めていることから、作者本人もひとつの“時代”の終わりを強く意識する中で、
この長大な物語を書いていたはずである。

そしてこの時代遅れのムーブメントの熱が冷め、自分を含めたすべての人に忘れ去られてしまう前に、薄れていく日々の記憶を
必死でかき集めて書き残そうとした結果が、『ダールグレン』だとすれば、ディレイニーがこれを書かずにはいられなかった
切実な思いと共に、断片的な記述や飛躍する議論、混乱する時間といった内容にも納得できるものがある。

また、これまでは他者の陰に隠れて自分をちらつかせるだけだったディレイニーが、『ダールグレン』という作品では、
自分の記憶を恥ずかしいほどにさらけだしている。
その努力の成果がこの長さであるとすれば、むやみに長いと言い切ってしまうのもあまりに酷と言うものだろう。

そんな背景を持つだけに、『ダールグレン』ではディレイニー自身の体験に基づくヒッピー生活の描写がかなりの分量を占めるが、
その中に混ぜ込んである様々な手がかりの断片(プリズム・鏡・レンズにあたるもの)を探り出していくうちに、本書は見た目以上に
複雑な構造を持つメタ小説なのではないか、と思うようになった。
邦訳の出版後1ヶ月を経過したので、ここで自分なりに気づいた点をまとめて、『ダールグレン』を読む上での覚え書きとしたい。

なお、これから書く内容はあくまで“解答”ではなく私見でしかない。
また今後読み返したときに感想が変わってしまうかもしれないので、あまり信用しないこと。

◆鎖でつなげられたプリズム・鏡・レンズ
いかにもディレイニー好みのアクセサリーであり、巽孝之氏も指摘しているように、これは装着者を一種のサイボーグへと
置き換えるための装置である。
accessoryという言葉の意味に、バイクのパーツ(作中でも壊れたハーレーが登場している)、また刊行当時には普及していなかった
パソコンの付属機器の意味もあるということは、この解釈を十分補強するものだろう。
またaccessoryのaccessに注目するなら、これはベローナという異界へアクセスするための呪具であると考えてもよいと思う。

◆“蘭”
キッドが鎖と共に装着する武器であり、アクセサリーのひとつでもある“蘭”も、装着者をサイボーグ化するパーツであるが、
同時に“Orchid”の語源がギリシア語の“睾丸”であることを考えると、これを装着することはディレイニーも関与した
文学理論である「サイボーグ・フェミニズム」を先駆的に実践した行為に他ならない。
さらに“真鍮の蘭”に至っては、その語感が人工的な身体をいっそう強く意識させるものになる。

◆ラリー・H・ジョナス
これは作中で登場する白人男性の本名だが、読み方によっては実在のSF作家「ジョアナ・ラス」と非常に近い綴りである。
ここから、作中の登場人物にはディレイニー以外にも実在の人物、しかもかなり身近な存在があてられているのではないか?
という推測が成り立つ。
なお、ラス本人の出身地も、ディレイニーが育ったニューヨークのブロンクス地区である。

◆ジョージ・ハリスン
黒人男性のジョージのヌードポスターは、ユダヤ人のイエスの肖像を裏返したイメージであると共に、ブロンド女性である
マリリン・モンローの裏バージョンでもあると言える。
これらのシンボル操作によって、ディレイニーは宗教・性・人種といった境界線の撹乱を狙っているのだろう。
さらに付け加えるなら、マリリンという名はディレイニーの元配偶者である、マリリン・ハッカーを連想させる。
すなわちベローナに君臨するジョージの配偶者である真の神は、サミュエルという真名を持つはずなのだ。

◆レイニャとキッド
主人公であるキッド(KidあるいはKiddと綴られる)の恋人であるレイニャ・コルスンによく似た名前として、
キッドが持つノートに書かれた人名リストの中に「ヴァージニア・コルスン」という名が書かれているが、
これを読んで思い出したのが、「ヴァージニア・キッド」という名前である。
この人物は熱烈なSFファンが長じてSF作家のエージェントになったという人物であり、日本においては
彼女の編んだフェミニズムSFアンソロジー『女の千年王国』が、サンリオSF文庫から出版されていた。
そしてこの『女の千年王国』に「序詩」を寄せていたのが、マリリン・ハッカーである。

さらに彼女が誕生した時のフルネームが「Mildred Virginia Kidd」であることを考えると、この人物が
『ダールグレン』とは全く無関係であると考えるほうが不自然というものだ。
ディレイニー及びハッカーとプライベートでどこまでの関係があったかは不明だが、いずれにしろ彼女が
『ダールグレン』を読んだとき、非常に複雑な気持ちになっただろうということだけは察することができる。

なお、彼女はかつてジェイムズ・ブリッシュと結婚していたが、1963年には離婚している。

◆キッドの血筋
キッド自身の素性については「母方がチェロキー・インディアン」であるということまでしか語られない。
これはキッドの血筋が、ネイティブ・アメリカンの土地に様々な人種が移民して出来上がった「アメリカ」
という国家そのものを表していると見なすこともできる。
彼がベローナという街を放浪して多様な性、多様な人種と交わるのは、アメリカという国が辿ってきた歴史を
そのまま演じているのである。
これと対照する存在としては物語の冒頭(終盤)で登場する黒人の妊婦で、彼女がベローナから去って行く姿は、
アメリカに黒人文化が根付いていく未来を予感させるものとなっている。

◆ベローナという名称
ベローナはローマ神話における戦争の女神であるが、その姿は片手に松明、もう一方の手には武器を持った
女性であるという。
ここから連想されるのが、片手に松明を持ち、片手に独立記念日の刻まれた銘板を持つ「自由の女神」である。
すなわちベローナもまた、アメリカという国家の裏面を具象化した世界であるということだ。

◆ロジャー・コーキンズ
この人物のモデルは、作中で言及された『市民ケーン』のモデルにもなったウィリアム・ランドルフ・ハーストだろう。
ウィリアムの名が「ダールグレン」の名字を持つ人物と共通することや、彼がキッドと会った修道院の修道士が
「ブラザー・ランドルフ」であることに注目されたい。
ちなみにハーストの新聞で寄稿者として腕をふるっていた一人に、かのアンブローズ・ビアスがいる。
また、ハーストの新聞に掲載されて人気を博し、やがて「イエロー・ジャーナリズム」の語源になったマンガのタイトルは
「イエロー・キッド」である。

◆ウィリアム・ダールグレン
キッドにインタビューを行い、コーキンズの手紙を代筆し、彼のために取材を行っている「ベローナ・タイムズ」の新聞記者。
彼の正体はキッドも見抜いたとおりだが、なぜ新聞記者が黒幕となったのかと言えば、たぶんアメリカ文学の父ともいえる
マーク・トウェインがモデルになっているからだろう。
彼が若いころ新聞記者であったということは周知の事実であり、その本名は「サミュエル・クレメンス」―つまり
ディレイニーと同じファーストネームを持つからだ。

ここから「黒人初のSF作家」としてのディレイニーが、アメリカ初の作家であるトゥエインと自分を重ね合わせようとしたのではないか、
という意図を読み取ることができる。
そしてトウェインの代表作である『ハックルベリー・フィンの冒険』が、アメリカを代表する教養小説である一方で、作中ひんぱんに
「ニグロ」という言葉を多用したことで差別問題にまで発展した作品であることを考えれば、『ダールグレン』との類似は明らかだろう。
またトウェインのもうひとつの代表作『トム・ソーヤーの冒険』では、ネイティブ・アメリカンが悪役として登場しているが、
これに対するディレイニー流の皮肉が、『ダールグレン』でネイティブ・アメリカンのハーフを主役に据えた理由かもしれない。

また、例の人名リストがペンネームの候補だとすると、「ウィリアム・ダールグレン」は作者自身の変名であると考えることもできる。
そしてディレイニーとダールグレンは、共にDではじまる名前でもある。


このように読み取っていくと、『ダールグレン』という作品が「ディレイニーのプライベートな人生」と
「アメリカという国家の実像」という二つの次元が入り乱れた世界として構成されているのが見えてくる。
もしや本書はフラワー・ムーブメントの体験的記録であると同時に、アメリカという国の文化と歴史を
そこに丸ごと重ね書きしようとした物語なのではないか?というのが、いま読み解ける範囲での感想である。

そう考えると、自分を含めたほとんどの読者は、まだベローナの入り口を入ったばかりのところに佇んでいるだけなのかもしれない。
その先へと進むには、何度稲妻によって追い出されても再びベローナに戻り、霧の中を少しずつ歩いていくしかないのだろう。
そこまで考えぬいた上で、ディレイニーが『ダールグレン』全体を構成したと思うとき、いまだ見えない世界の全貌に身震いするばかりである。
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