『ジーン・ウルフの記念日の本』に収録されたうちで一番、そしてこれまでに紹介されたウルフの短編でも
指折りの傑作と断言できる作品、それが「取り替え子」である。
いまや幻の一冊となったNW-SF社のアンソロジー『ザ・ベスト・フロム・オービット』の収録作として
初訳されたのが1984年なので、実に31年ぶりの復活となる。
物語はある男が書き残した手記という体裁をとっている(ウルフおなじみの手法だ)。
手記の書き手は朝鮮戦争に従軍した後に中国へと渡り、帰国後は投獄の身だったという。
そしていま彼はカッソンズヴィルという故郷の町へ向かうところだ。
偶然旧友の車に同乗した書き手は昔話に花を咲かせるが、ピーター・パルミエリという少年についての記憶が
どうしても噛み合わない。
ピーター・パルミエリは書き手と同学年のはずだが、旧友によればピーターは現在8つくらいの小さな子供で、
その当時はまだ生まれていなかったというのだ。
やがて書き手はカッソンズヴィルの宿屋に到着し、そこでかつてと同じ子供のままのピーターと出会う。
ピーターは書き手のことをまったく覚えていないようだ。
そしてピーターの弟だったはずのポールはいまや立派な青年に成長していたが、家族の誰一人として
成長しない子供の存在を疑問に感じていない……ただひとり、ピーターの父親を除いて。
ピーターの父親は言う。ポールの姉のマリアがまだ赤ん坊だったころ、カッソンズヴィルに越してきて
2ヶ月後の夜に帰宅すると、見知らぬ少年がいた。
妻はこの子がマリアの兄のピーターだという。そしてピーターは成長しないまま、いつしかマリアの、
そして次に産まれたポールの弟へと立場を変えていった。
不審に思った父親は神父から聖水をもらってきて、眠っているピーターに振りかけてみたこともあるが、
その身には何一つ起こらなかった。
話を聞いた翌日、書き手は自分がかつて学んだ修道院の付属学校「無限罪の御宿り校」へ向かい、
クラス全員で撮った昔の記念写真を閲覧する。
自分が写っている場所はすぐにわかった。しかしそこに写っていたのは、彼の顔ではなかった。
かねてから名前だけは聞いていたが、実際に読んだのは今回が初めて。
最初に読んだ感じでは、ウルフが得意とする「記憶と存在についての物語」だと思った。
当たり前の日常がささいな記憶の混乱をきっかけに揺らぎだし、やがては自己を裏付ける過去の記録さえも
覆されて、ふと気づけば「何者でもない」存在になっている。
淡々とした描写を積み重ねによって読者はゆっくりと深みへ引き込まれ、最後には自分が消え去ることの
恐怖と開放感がないまぜになった、独特の余韻を味わうことになるのだ。
不条理系の幻想文学としては珍しくない話だが、作者の絶妙な語りによって印象深い作品になっている。
しかしこうした読み方とは別に、ふとした疑問から作品の背景を調べ始めたところ、これが想像以上に
生々しい背景を持った、作者の自伝的作品という一面を隠し持っているという結論に至った。
ここからはそう考えるに至った過程を書いていくが、先入観や特定の解釈に縛られたくないという人は
読まないほうがいいかもしれない。
さて、疑問のきっかけは「カッソンズヴィル(Cassonsville)」という町の名である。
ウルフが具体的な名称を出す場合、そこには何らかの意味を持たせていることが多い。
そこでカッソンズヴィルという名称をネットで検索すると、類似の名称として出てきたのが
「ケイトンズヴィル事件の九人」であった。
これはメリーランド州のケイトンズヴィルという町で、ベトナム戦争に抗議する9人のカトリック信徒が
ナパームで徴兵書類を焼き捨てたというものである。
敬虔なカトリック信者であるウルフなら、この事件を見逃すはずがない。
そして事件が起きたのは1968年、「取り替え子」が掲載されたOrbit3が発行された年なのである。
なおケイトンズヴィル事件は5月17日に起き、Orbit3はその後の9月1日に刊行されているので、
編集的にはギリギリのタイミングだとしても、時系列上の矛盾はない。
(注:これについては翻訳家の山岸真さんから「この短編は事件の前に既に完成していたはず」との
コメントをいただきました。その他についてもいろいろとご教示いただき、ありがとうございます。)
それではなぜ、成長しない少年の名はピーターなのか。
この名前と「取り替え子(The Changeling)というタイトルからの連想として既に指摘されているのが、
ピーター・パンの物語である。
作中に子供時代の遊び場だった島が出てくることからも、これは確定事項だろう。
ではピーター・パンとベトナム戦争にどんな関連が見出せるというのかと言えば、
それはピーターが「自ら大人になるのを拒否した存在」であるという点だ。
これを徴兵拒否に読み替えると、兵役に就くのを拒む若者は「大人になることを拒んでいる」
永遠の子供であると指摘しているようにも読める。
これは大学生の時に朝鮮戦争に従軍し、戦場で大人になったウルフにとっての実感ではないだろうか。
しかしその一方、大人になった書き手は朝鮮戦争に従軍した後に敵の手に落ち、そこで生き延びるために
思想転向を余儀なくされたようである。
これは聖ペテロが告発を避けるためにイエスを否認した「ペテロの否認」に通じるものだろう。
そして手記の書き手はペテロと同じく、無限罪の宿りを具現化した少年に「躓く」のである。
さらに「聖ブランドン」での発想にならって、Cassonsvilleを「キャスの息子の町」と読み替えた場合、
再び聖キャサリン(カタリナ)の名前が浮かび上がってくる。
聖カタリナはキリスト神秘の結婚をしたとされる純潔の乙女であるが、同じ名前を持つ聖女については
エジプトの「アレクサンドリアのカタリナ」と、イタリアの「シエナのカタリナ」の二人が知られている。
ピーターの家族がイタリア系ということから、ここではシエナのカタリナが有力だが、それだけでなく
アレクサンドリアのカタリナとの二重イメージも含まれるとすれば、そこには書き手が捕虜として、
あるいは帰国後の収監中に受けた「拷問」の隠喩があるのかもしれない。
またシエナのカタリナは死後にその頭部が故郷へと持ち帰られ、アレキサンドリアのカタリナは
遺体が天使によって故郷へと戻されている。
ここから本作の書き手は(中国か、あるいは帰国後に収監された刑務所で)既に死んでおり、
それを知らないままに故郷へと戻ってきたとも考えられる。
そうだとすれば、終の棲家として定めた小島の横穴は彼の墓所であり、胎内回帰の場所でもあるだろう。
さらに付け加えるなら、この物語に登場するピーター・パルミエリ(ピート・パーマー)には
「風来」でも取り上げられた「ピーターと狼」のイメージも重ねられている。
ピーターは町の人々に大声で「狼(ウルフ)が来た」と叫んでいるが、町の人々はそれに気づかないのだ。
ここに朝鮮戦争から還ってきた当時のウルフの姿を重ね合わせることは、決して不自然ではないだろう。
ここまで推論を巡らしてきた結果、ウルフがこの物語を書いた背景には、自らの従軍体験があるという
結論に至ったわけである。
しかし同時に、この物語はウルフと共に戦場へと赴き、ウルフのように還ってこられなかった
数多くの仲間たちを書いたものでもあると思う。
たぶんウルフは書き手のような境遇に至った兵士を個人的に、あるいは各種のメディアを通じて
知っていたのだろう。
そして自分がそうなったかもしれないという意味も込めて、「The Changeling」というタイトルの物語を
書いたのだと思う。
だからこの作品には、作品発表当時にベトナム戦争を巡って国を二分する議論が起きていた合衆国の世情と、
それとは対照的なまでに忘れ去られてしまった朝鮮戦争の記憶との間で引き裂かれた作者自身の自画像が、
生々しいまでに描き込まれていると感じるのだ。
先に短編集全体について書いた時、本作を「アメリカ文学における優れた現代小説」と紹介したのは
こうした理由による。
ひとつの国を巡る二つの戦争の物語として読むことにより、この作品はまた別の姿を見せるのだ。
指折りの傑作と断言できる作品、それが「取り替え子」である。
いまや幻の一冊となったNW-SF社のアンソロジー『ザ・ベスト・フロム・オービット』の収録作として
初訳されたのが1984年なので、実に31年ぶりの復活となる。
物語はある男が書き残した手記という体裁をとっている(ウルフおなじみの手法だ)。
手記の書き手は朝鮮戦争に従軍した後に中国へと渡り、帰国後は投獄の身だったという。
そしていま彼はカッソンズヴィルという故郷の町へ向かうところだ。
偶然旧友の車に同乗した書き手は昔話に花を咲かせるが、ピーター・パルミエリという少年についての記憶が
どうしても噛み合わない。
ピーター・パルミエリは書き手と同学年のはずだが、旧友によればピーターは現在8つくらいの小さな子供で、
その当時はまだ生まれていなかったというのだ。
やがて書き手はカッソンズヴィルの宿屋に到着し、そこでかつてと同じ子供のままのピーターと出会う。
ピーターは書き手のことをまったく覚えていないようだ。
そしてピーターの弟だったはずのポールはいまや立派な青年に成長していたが、家族の誰一人として
成長しない子供の存在を疑問に感じていない……ただひとり、ピーターの父親を除いて。
ピーターの父親は言う。ポールの姉のマリアがまだ赤ん坊だったころ、カッソンズヴィルに越してきて
2ヶ月後の夜に帰宅すると、見知らぬ少年がいた。
妻はこの子がマリアの兄のピーターだという。そしてピーターは成長しないまま、いつしかマリアの、
そして次に産まれたポールの弟へと立場を変えていった。
不審に思った父親は神父から聖水をもらってきて、眠っているピーターに振りかけてみたこともあるが、
その身には何一つ起こらなかった。
話を聞いた翌日、書き手は自分がかつて学んだ修道院の付属学校「無限罪の御宿り校」へ向かい、
クラス全員で撮った昔の記念写真を閲覧する。
自分が写っている場所はすぐにわかった。しかしそこに写っていたのは、彼の顔ではなかった。
かねてから名前だけは聞いていたが、実際に読んだのは今回が初めて。
最初に読んだ感じでは、ウルフが得意とする「記憶と存在についての物語」だと思った。
当たり前の日常がささいな記憶の混乱をきっかけに揺らぎだし、やがては自己を裏付ける過去の記録さえも
覆されて、ふと気づけば「何者でもない」存在になっている。
淡々とした描写を積み重ねによって読者はゆっくりと深みへ引き込まれ、最後には自分が消え去ることの
恐怖と開放感がないまぜになった、独特の余韻を味わうことになるのだ。
不条理系の幻想文学としては珍しくない話だが、作者の絶妙な語りによって印象深い作品になっている。
しかしこうした読み方とは別に、ふとした疑問から作品の背景を調べ始めたところ、これが想像以上に
生々しい背景を持った、作者の自伝的作品という一面を隠し持っているという結論に至った。
ここからはそう考えるに至った過程を書いていくが、先入観や特定の解釈に縛られたくないという人は
読まないほうがいいかもしれない。
さて、疑問のきっかけは「カッソンズヴィル(Cassonsville)」という町の名である。
ウルフが具体的な名称を出す場合、そこには何らかの意味を持たせていることが多い。
そこでカッソンズヴィルという名称をネットで検索すると、類似の名称として出てきたのが
「ケイトンズヴィル事件の九人」であった。
これはメリーランド州のケイトンズヴィルという町で、ベトナム戦争に抗議する9人のカトリック信徒が
ナパームで徴兵書類を焼き捨てたというものである。
敬虔なカトリック信者であるウルフなら、この事件を見逃すはずがない。
そして事件が起きたのは1968年、「取り替え子」が掲載されたOrbit3が発行された年なのである。
なおケイトンズヴィル事件は5月17日に起き、Orbit3はその後の9月1日に刊行されているので、
編集的にはギリギリのタイミングだとしても、時系列上の矛盾はない。
(注:これについては翻訳家の山岸真さんから「この短編は事件の前に既に完成していたはず」との
コメントをいただきました。その他についてもいろいろとご教示いただき、ありがとうございます。)
それではなぜ、成長しない少年の名はピーターなのか。
この名前と「取り替え子(The Changeling)というタイトルからの連想として既に指摘されているのが、
ピーター・パンの物語である。
作中に子供時代の遊び場だった島が出てくることからも、これは確定事項だろう。
ではピーター・パンとベトナム戦争にどんな関連が見出せるというのかと言えば、
それはピーターが「自ら大人になるのを拒否した存在」であるという点だ。
これを徴兵拒否に読み替えると、兵役に就くのを拒む若者は「大人になることを拒んでいる」
永遠の子供であると指摘しているようにも読める。
これは大学生の時に朝鮮戦争に従軍し、戦場で大人になったウルフにとっての実感ではないだろうか。
しかしその一方、大人になった書き手は朝鮮戦争に従軍した後に敵の手に落ち、そこで生き延びるために
思想転向を余儀なくされたようである。
これは聖ペテロが告発を避けるためにイエスを否認した「ペテロの否認」に通じるものだろう。
そして手記の書き手はペテロと同じく、無限罪の宿りを具現化した少年に「躓く」のである。
さらに「聖ブランドン」での発想にならって、Cassonsvilleを「キャスの息子の町」と読み替えた場合、
再び聖キャサリン(カタリナ)の名前が浮かび上がってくる。
聖カタリナはキリスト神秘の結婚をしたとされる純潔の乙女であるが、同じ名前を持つ聖女については
エジプトの「アレクサンドリアのカタリナ」と、イタリアの「シエナのカタリナ」の二人が知られている。
ピーターの家族がイタリア系ということから、ここではシエナのカタリナが有力だが、それだけでなく
アレクサンドリアのカタリナとの二重イメージも含まれるとすれば、そこには書き手が捕虜として、
あるいは帰国後の収監中に受けた「拷問」の隠喩があるのかもしれない。
またシエナのカタリナは死後にその頭部が故郷へと持ち帰られ、アレキサンドリアのカタリナは
遺体が天使によって故郷へと戻されている。
ここから本作の書き手は(中国か、あるいは帰国後に収監された刑務所で)既に死んでおり、
それを知らないままに故郷へと戻ってきたとも考えられる。
そうだとすれば、終の棲家として定めた小島の横穴は彼の墓所であり、胎内回帰の場所でもあるだろう。
さらに付け加えるなら、この物語に登場するピーター・パルミエリ(ピート・パーマー)には
「風来」でも取り上げられた「ピーターと狼」のイメージも重ねられている。
ピーターは町の人々に大声で「狼(ウルフ)が来た」と叫んでいるが、町の人々はそれに気づかないのだ。
ここに朝鮮戦争から還ってきた当時のウルフの姿を重ね合わせることは、決して不自然ではないだろう。
ここまで推論を巡らしてきた結果、ウルフがこの物語を書いた背景には、自らの従軍体験があるという
結論に至ったわけである。
しかし同時に、この物語はウルフと共に戦場へと赴き、ウルフのように還ってこられなかった
数多くの仲間たちを書いたものでもあると思う。
たぶんウルフは書き手のような境遇に至った兵士を個人的に、あるいは各種のメディアを通じて
知っていたのだろう。
そして自分がそうなったかもしれないという意味も込めて、「The Changeling」というタイトルの物語を
書いたのだと思う。
だからこの作品には、作品発表当時にベトナム戦争を巡って国を二分する議論が起きていた合衆国の世情と、
それとは対照的なまでに忘れ去られてしまった朝鮮戦争の記憶との間で引き裂かれた作者自身の自画像が、
生々しいまでに描き込まれていると感じるのだ。
先に短編集全体について書いた時、本作を「アメリカ文学における優れた現代小説」と紹介したのは
こうした理由による。
ひとつの国を巡る二つの戦争の物語として読むことにより、この作品はまた別の姿を見せるのだ。