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熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

現在不定期かつ突発的更新中。基本はSFの読書感想など。

『ふたりジャネット』についての小さな追記

2005年11月04日 | SF
たまたまネットで見つけた『ふたりジャネット』についての
SFセミナーでの発言に、いまさら驚いているところ。
現場にいたわけではないのであまりはっきりとは言えないものの、
そこまで決め付けなくてもいいだろうという気持ちが強いので
ささやかながら抵抗を試みることにした。

なるほど、母親の不思議な力というのは確かにわかるのだけれど、
それならば娘のジャネットにも同じ力が受け継がれており、その力が
望郷の念と相まって、無意識裡に彼女の願望を故郷に具象化したと
読むこともできる。
幕切れで作家のカップルが一緒に去っていく場面も、母親の力ではなく
ジャネット本人の結婚願望の高まりが引き起こしたものと考えるほうが
それまでの現象との類似性から見ても、より自然ではないだろうか。

例の解釈は刺激的だが、他の読み方を除外してしまうほどのものではないし
そこから別の読み方だって生じうるのだから、一概に突き放したような
断じ方をするのは如何なものだろうかと思ってしまった。

でも本音を言えば、そんなことはどっちでもいいんだけれど。
とにかく自分は『ふたりジャネット』が大好きだ。
そして、そう言い切れる作品に出会えただけで十分幸せである。
だから、訳者である中村氏には非常に感謝しているし、
今後も活躍していただきたいと切に願っているのである。
特にビッスンとかライバーを何とかしてくれそうなのは、
やっぱり中村氏くらいしか思いつかない。あとヴァンスとか。

ところで、ジョイス・キャロル・オーツが女性作家だというのは、
やっぱり英米文学の知識がないとわからないんじゃないだろうか。
かくいう自分もついこの間まで知らなかったし。

一角獣の復活、拷問者の帰還

2005年10月16日 | SF
傑作短編『考え方』の入っている『一角獣・多角獣』が全然復刊されないと
ボヤキ気味に書いてみたら、いつのまにか復刊が決定していた。
しかも、来月にはもう出るという。
このBlogのデザインで使っている季節外れの扇風機も、ようやく面目が
保てるようになりそうだ。

『異色作家短編集』として既に復刊中の2冊は、フレドリック・ブラウンの
『さあ、気ちがいになりなさい』と、ロアルド・ダールの『キス・キス』。
広い支持者を持つ定番の大物同士、初弾に持ってくるにはいいセレクトだと思う。
ダールは『チョコレート工場の秘密』が映画化されて大当たりの最中なので
この刊行は商業的にも非常にタイムリーな企画である。

本のデザインは初版当時の雰囲気を再現した、白黒写真のクローズアップ風。
写真の荒いドットとあっさりしたロゴの組み合わせがクールである。
地色の派手さはどうかとも思うが、目立つから書棚で見つけやすいのは確かだ。
客の目に留まって売れてくれないと困るので、この点は容認することにしよう。
この企画が成功すれば、こういった作品集がさらに出る可能性もあるのだから。

復刊の第2弾になるのが、スタージョンとマシスン。
相方はマシスンでなくブラッドベリでも良さそうだが、異色作家という売りを
より強調したいのであれば、この組み合わせのほうが効果的ではある。
まあ、こんな組み合わせが売れそうだなと思える今の状況自体が、
ちょっと信じがたいくらいの驚きなのだが。

そういえば、ウルフの『新しい太陽の書』も4巻全部が復刊されていたが、
こちらは第1巻だけが品切れになっていて、他の3巻は結構な高さで
平積みが残っていた。
みんな1巻だけ読んで、面白かったら続きを買おうということなのだろうけど
巻を追って順番に刊行されていた当時ならまだしも、今の時点で4冊まとめて
買っていかないような読者が、本当にシリーズ全部を読み通せるのだろうか。
果たして残りの巻が順調に売れてくれるのか、かなり心配である。
ここで売れ行きが思わしくないと、昨年から続くウルフの小ブームが
終わってしまうかもしれない。
『新しい太陽のウールス』が翻訳されるためにも、ある程度は売れてくれないと
私たちも困るのである。

しょうがないので、もう一揃い追加で買うとするか。
巻末の誤記もやっとなおったという噂だし。

闇の展覧会、3分冊で復刊

2005年08月13日 | SF
ホラー・アンソロジーの金字塔『闇の展覧会』が、
ハヤカワNV文庫からついに復刊された。
以前は上下2分冊だったものが今回は3分冊になり
作品の収録順も大きく変更されている模様である。
筆者はこのアンソロジー、実は上巻しか持っていないので
全収録作を読む場合は新装版を3冊とも買わなければいけない。
こういう商売の仕方は正直言って感心できないが、
まあ復刊されただけ良しとするべきか。
ついでにこのアンソロジーの手本となった『危険なヴィジョン』の
2集以降も出していただけないものかと思う。

以前にここで取り上げたウルフの『探偵、夢を解く』は
今回の3分冊の第1巻『敵』に収録されているので、
興味のある向きはこのチャンスにご一読をお勧めしたい。

我が赴くはラストリゾート

2005年06月18日 | SF
ベスターの『願い星、叶い星』を読んで、前言を反省した。
エロ・グロ・通俗・サイコという点では、ベスターの作風がまさしくそれである。
SFというジャンルにおいては、この系譜のルーツであると言ってもよい。
この手のものを「SFじゃない」と断じたように取られる文章は、
かなり軽率な物言いだったと思う。

まあ文章のウデは比較にならないけど、やってること自体は『左巻き式』も
そう変わらない気がするのだ。
ベスターのほうには現在の18禁系ほどの露骨さは無いのだが、
発表当時ならば、ずいぶん扇情的な部類に入っただろう。

ただ『左巻キ式』においてどうにも容認しがたいのは、その文章の根っこに
感じ取れる「自涜・自傷性」、すなわち自己の愛する対象を傷つけ、
あまつさえ破壊することでしか「リアリティ」を実感できない感性である。
これを徹底することで、究極的には自分の「愛」を再確認するという行為は
頭で理解は出来ても、感覚的に受け入れられない。

それはきっと「幼児性」だと思うし、それを自ら受け入れてしまうことは
自分の中のそれに甘えてしまうことのように感じるのだ。
同属嫌悪かつ好みの問題でしかないと言われても、この点はどうにもならない。
ここから先は「評論」でもなんでもなく、自分の主張の問題だからである。

ベスター作品において描かれる暴力性は、世界と対峙するための
エネルギーとなり、自己の外部に向けて噴出する力となる。
『ごきげん目盛り』のように、その動機が極めてネガティブなものでも
行動自体は「生存」を目的とした、極めてポジティブな形をとるのである。

このポジティブさが、ベスター作品にピカレスクの面白さを与え、
ガリー・フォイルを「救世主にして変革者」たらしめた理由だと思うのだ。
そのしぶとさとしたたかさ、そして悪趣味ともとれるけれん味を、
私は愛している。

自分が変われば、世界も変わる。変わらなくても変えてみせる。
その意志がたとえウソであっても、その考え方は正しい。
「鋼鉄の音」が鳴り響く中にあっても、生きることを止めるわけにはいかないのだ。
セカイと事を構えたいなら、このくらいのタフさとスケールのでかさは持ちたいし、
持っていなくちゃいけないと思う。

SFMよ、どこへ行く

2005年05月28日 | SF
7月号のSFマガジン、特集は「ぼくたちのリアル・フィクション2」。
作家陣を見たが、悪いけどSFマガジンで読む顔ぶれではない気がする。
こういうのを読みたければ、いまなら他にいくらでも媒体はあるのだ。
SFMもファウストを、あるいはファウスト賞を取れるタイプの作家を
指向しているのかもしれないが、本家の講談社がこのジャンルで大いに
気を吐いている現状においては、何をいまさらという感じである。

海猫沢めろんあたりを次代の看板作家にでもする気なのだろうか。
『左巻キ式』に拒絶反応を起こした自分にとっては、歓迎しかねる事態である。
SFMだって、変化していくのは当然だ。
でもそれが「新しいスタイル」を求めているようで、実は「時代への迎合」に
過ぎないのなら、それはSFの目指すべきものじゃないと思う。

暴力的な感性の噴出が「同時代的」で「すぐれたセンス」とは思えない
自分にとって、今の出版界の状況には非常に辛いものを感じている。
そんな中でSFMまでもがその流れに没してしまうとすれば、
その存在に独自の価値を見出すことはできないだろう。
少なくとも、自分の考える「SF」は、そこにはないからだ。

新本格?それならミステリ・マガジンにでも載せたらいいんじゃないですか?

ふたりジャネット-ディッシュは勘定に入れません-

2004年10月15日 | SF
そもそもこのblogを立ち上げたのは『ふたりジャネット』の感想が
書きたかったからなのだけど、このところウルフに振り回されっぱなしで
当初の目的が伸び伸びになってました。
ここはひとつ、狼はさておき、熊の話でもしましょうか。

表題作である『ふたりジャネット』には、とにかくショックを受けた。そして、シビれた。
「故郷からでてきたものの、都会で友人のできないブンガク好きの女性。
その故郷である片田舎に、なぜかアメリカ現代文学の巨匠が続々と越してきました。」
以上。話はこれだけである。
しかし、ヒロインの故郷の家族や友人への思いと、文学への愛情、そして都会での孤独と
挫折感が交差したとき、変わり映えのしない田舎町の風景は不思議な輝きを放ち出す。
そして巨匠達の人間くさい生活ぶり。この物語の中では、彼らはみんなそろって
「近所のおじさん」である。
そしてヒロインは「なんで女性作家は一人も越してこないで、しかもオヤジばっかりなのよ!」
と怒っている。そりゃそうだと思う。ご近所として、友達づきあいは大事ですから。

「奇妙」という感じまで踏みこまず、なんだか変な話だな、というあたりで
留めるところが、ビッスン流の醍醐味。
日常の生活を歪めるのではなく、日常のほうへ「なんだか変なもの」が
なにげなくやってくる、その微妙な感じが生み出す面白さ。
ビッスンの最良の作品は、このあたりのセンスが際立っている。

考えてみれば日常の生活、いや人生そのものが十分変なことだらけなわけで、
ここで描かれている物語はその変な日常よりちょっぴり先、ちょっぴり外にある
「不思議」なのだと思う。
『熊が火を発見する』では、当たり前の日常に差し伸べられた熊たちの炎が、
人生の複雑な光と翳、そして「生」の先にある不思議としての「死」を、
美しく照らし出す。
『英国航行中』では、アメリカの「使えないおやじ」である英国が、重い腰を挙げて
大西洋を渡ってくる。社会的に変化がないのはいかにも英国的だが、人によっては
人生の中においてささやかな、だが決定的な変化が訪れる。

これらの作品で描かれているのは、みな「心の風景」とでも呼べるものだ。
物語の中で起きる「大きな事件」と「小さな個人」には、直接の関係はない。
だが、両者が交差したとき、漠然とした個人の「思い」や「願い」は、
そのまま世界の風景となる。
そんなささやかな「不思議」を、ビッスンは軽妙な歯切れ良い筆致で、
あるいは抑制された淡々とした語り口で描き出す。
そして、これらは奇跡でもなんでもない。だってもともと世界は「不思議」なのだから、
説明なんかいらないのだ。

「ウィルスン・ウー」シリーズにおいても、基本的な線は変わらない。
軽妙な語り口と人生の哀歓をにじませる巧みな話術は、落語の人情噺を思わせる。
(そういえばウーって、長屋のご隠居みたいな役回りだし)
しかしSF的なアイデアを全面に押し出すことより、「トンデモ度」は上がったが
不思議さは失われてしまった。面白いのは確かだが、インパクトには欠ける。
まあ先に述べた三作がすごすぎるのだが、話術についても『アンを押してください』や
『未来から来た二人組』のほうが、ワンアイデア勝負の分だけうまさが引き立っている。

『冥界飛行士』に至ってはあまりに普通のSF、というかこの作品集の中では異色すぎ。
人生の苦さや喪失感よりも、死にまつわる描写の暗さ、ホラーまがいの表現などが
目につき、どうにも受けつけなかった。
それ以上に「これならビッスンじゃなくても書ける」という気がしたのが、一番楽しめなかった
原因かもしれない。

この人の作風は、論理の飛躍や超越思考によって<非>常識ぶりを開陳し、それによって
世界をぶち壊すタイプではない。
そのあたりがラファティとの決定的な違いであり、同時にスタンダードなSFになるほど
インパクトが落ちる理由ではないだろうか。
ビッスン作品は世界を肯定しているほうが楽しい、そしてあんまり説明して欲しくない。
少なくとも、私はそう思う。

忘れてならないのは、この作品集を編み、全編を訳した中村氏の非凡さ。
作品配置の的確さ、こなれてリズム感のある訳文、そして『ふたりジャネット』を
表題作にしたセンスの良さ。
そして最大の功績はもちろん、ビッスンに目をつけた慧眼ぶりでしょう。
進行中のベスター作品集も含め、今後の仕事からも目が離せません。
ウォルドロップとか訳してくれないかな、3000部限定で(笑)。

ふうん、ディッシュって巨匠には含まれないのか。まあしょうがないですね、熊だから。

矢野先生、ありがとうございました。

2004年10月15日 | SF
矢野 徹氏が亡くなったという記事を、新聞の訃報欄で見た。
かなりの高齢であることは知っていたが、享年81歳とのこと。

SF界における矢野氏の業績は計り知れないものがあるが、
特に海外SFを愛好するものにとって、氏はまさに伝道者にして
心の師であり、あこがれの人であった。
心からご冥福をお祈りするとともに、数々の名作を我々に届けてくれた矢野氏に
感謝したいと思う。ありがとうございました。

奇しくもスタージョン再評価の機運が高まっている今年、『人間以上』の訳者である
矢野氏が逝かれたのは皮肉だが、旧作の再評価という最近の流れには、氏もきっと
喜んでいたに違いないと思う。

不思議のひとふで~スタージョンのタッチ~

2004年06月27日 | SF
やっとこさ「不思議のひと触れ」。感想がまとまらず手間取ってしまった。

スタージョンはすごいのか。この本全体に関して言えば、奇想系で
思い浮かべるタイプの「すごさ」というものはあまり感じなかった。
というか、スタージョンって小説自体はちゃんと書いてるから、
もともとヘンな作家というわけではなかったのだ、忘れてたけど。
まあ、河出の「奇想コレクション」は本質的に「くせ者作家集成」
という感じのラインナップだと見たので、これはまあ妥当なところか。
(一人だけ本物の「奇想系」がいるけど、こっちはかなりすごい)

逆に全編を通して感じたのは、小説家としてのテクニック。
この人のすごさは、むしろこちらにウェイトがあると思う。
トリッキーな構成、語り口のうまさ、クライマックスへの盛り上げなど
自分の持ち味をしっかり確立してるのがよくわかる。
スタージョンがキャビアかどうかわからないけど、このスタイルを
キャビアの味だとすれば、全体にその風味が感じられるという点で
本書はさながら「キャビアのお茶漬け」か。
「幻」と呼ばれるわりにサラサラと読むことができるのは、
「スタージョン入門編」をうたった編者の狙い通りかも。
逆にキャビアをごっそりほおばりたい欲張りにはちょっと
物足りないかもしれない。

とはいえ、名作と呼ばれる作品群はその称号にふさわしい味わいを持つ。

なんといっても他を圧するのは表題作「不思議のひと触れ」。
体裁は粋なロマンスだが、その書き方の凄いこと。
ロマンチックな会話を読み進むうちに読み手の持つイメージは
歪曲し変容し、さらにそれが奇妙にねじられ、向きを変えてゆく。
そして導かれる結末の鮮やかさ。これぞ語り(騙り)の魔法。
超絶テクニックが堪能できる絶品である。
また本作は(ある種の)ファーストコンタクト小説なわけだが、
異種族と人の関係における不気味さとエロチックさの描写においては
ティプトリーの「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」
に伍するものがある。あと思い浮かぶのは「シャンブロウ」とか。
この物語は文化人類学SFの先駆的作品という見方も可能かも。

スタージョン作品の多くに共通するのが「人の秘められた部分、
それも特に知られたくないところを覗き見る(あるいは触れる)」
というモチーフであり、これが作品に独特のエロティシズムを
与えている。
秘密を共有できなければそれは苦悩と罪に分かたれ、共有できれば
それは愛に変化する。その微妙なあわいもまた、スタージョン的な味である。

全編にこのモチーフが現れる中でも、この部分に特化して書かれたのが
かの「孤独の円盤」。テーマが表題作と共通だが、構成としては
「不思議のひと触れ」のほうが凝ったつくりになっているため、
比較されるとワリを食ってしまう面は否めない。
とはいえ、表題作の「原型」ともいうべきこちらの作品が持つ
切迫感や痛みの感覚は、やはり独自の存在感を放っている。
ひとつの主題をいかにストレートに、かつ最大の強度を持って
読み手に伝えるかということ。この物語はその意図を実現することに
全ての力が注ぎ込まれている。そして研ぎ澄まされたメッセージは
読む者の心に直截突き刺さってくる。
残念なのは展開に冷戦時代の匂いがつきまとうところ。社会情勢の
キナ臭さは今も変わらないが、やはり若干の古さは避けられない。

これは「雷と薔薇」にも言えることで、今読むとさすがに「先見性」の
部分は割り引くことになってしまう。
ポスト・ホロコーストものとしても、このテーマの作品が既に多数
書かれている現状では、見なれた印象に収まってしまう。
ただし、作品全体に流れる退廃と狂気の気配や、歌とメディアの力を
扱っているところは見どころ。理性や正義という考え自体の危さ、
矛盾というものを感じさせる書き方も良い。

アンソロジストではなく読者の視点で見ると、作品の配置としては
トップに「孤独の円盤」、中締めを「雷と薔薇」、ラストに表題作
「不思議のひと触れ」というのが理想的だったように思う。
トリに持ってきたい気持ちはわかるが、読む側としては配置順で
「孤独の円盤」がさらに損をしてしまったように見えるのだ。
あと、もう少しSF性の濃い作品が多くてもいいかなとか、
「極小宇宙の神」みたいな著名な作品も読みたかったと思ったけど
グチをいうより今後の展開に期待。

次の作品集はいよいよ「応用編」をお願いします。

わが愛しき娘、そして翻訳SFたちよ

2004年06月20日 | SF
スタージョンは読みました。でも、ついでに読んだウィリスの
「わが愛しき娘たちよ」が頭にひっかかって離れません。
とにかく書き始めないとすすまないので、スタートはこの話。
そしてこいつが入った「80年代SF傑作選」などについても少々。

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テッセル、テッセル。
すてきな生き物。男の子に愛され、可愛がられる娘。
その姿はタヴィそのもの。パパのペット、愛玩され統治され
抑圧されるために作られた存在。
この学園は統治し支配し抑制するための小世界、
因習的システムを煮詰めて作った地獄である。
ワタノキは狂った世界の証し、そして唯一性的に抑圧されない存在。
これが、このエデンにおける唯一の木である。

ジベットはみんなわかっていた。彼女は外の世界から来たから。
そして、どこも同じだと理解した。世界は過酷であり、王は常に
供物を、神は常に子羊を欲している。綿まみれの子羊たちを。
そして生きぬくためには自分より弱く、無垢なものを犠牲にしなければ
ならないことを、前から知っていた。
より弱く、より無垢なものを生贄に捧げること。
これこそが原罪、人である故の罪。

男の子は遺伝子を受け継ぎ、それを残していく。
それがパパの願い。自分のコピーを残し、自分の文化を遺させること。
では娘は?21を過ぎたら彼女たちはどうなるのか?
答えはこの中にはない。もしあるとすれば、それはラストでの
テッセルへの言葉に込められているのだろう。

だれかが彼女たちを救い出してあげられれば、私もそう祈っている。

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遺伝子と文化の存続と性の問題については、まずティプトリーの諸作が
思い浮かびますが、ウィリスのこの作品はティプトリーが指摘した点を
さらに先鋭化して描いています。それゆえにいささか即物的ともとれる
部分もありますが、これもティーンエージャーの一人称という文体を
選んだ段階で意図的に行ったものなのでしょう。
この暴力的でパワフル、そして繊細で心優しいヒロインの姿を、あの
コーティと比べてみても面白いかもしれません。

80年代の翻訳SFについては、ジャンルの拡大とSFブームの到来、
そしてその終焉とそれに続く「冬の時代」についての大きな要因で
あったと思っています。この結果、日本への翻訳SF紹介の歩みは
急激に遅れ、紹介される作品にもそれまでに比べ幅がなくなった
(あるいは幅そのものが失われた)ように感じます。
「80年代SF傑作選」にはその要素がちらほらと見え隠れしていると
思うのですが、そのへんについてはまたの機会に。

ここまでで翻訳SF紹介が遅れたぶんを今取り戻そうという関係者の
思いが、河出のアンソロジーや「影が行く」、そして最近の話題である
「奇想コレクション」などの試みに表れているように思えます。
これが一過性のものになるのか、そして本当に読まれるべき作品が
この機会にどれだけ紹介されるかが、今後のSFの命運を占うものに
なるかもしれません。

立ち上げの理由

2004年06月06日 | SF
うーん、タイトルだけイーガンっぽくしようとしたけど、
実は読んでなくてすいません。

SFファンをやっていながら、最近はあまり読まない状態が
続きましたが、最近になって河出から奇想コレクションなる
シリーズが出てると知り、にわかに購入意欲がわいてきました。

しかもスタージョンは昨年ひさびさに短編集がでてるし。
おまけにウィリスの新作は元ネタが「ボートの三人男」!
これは知らなかった。「ドゥームズデイ・ブック」を買いっぱなしで
読まなかったのは失敗でした。

というわけで、久しぶりにSFを読んで感想など書いてみようかと
思い、これらを探しに行ったわけです。

ウィリスを見つけるのは大変でした。ビッスンは簡単に買えました。
で、スタージョン。
「不思議のひと触れ」はあったけど、「海を失った男」が
見つからない。「墓読み」って読んだ事ないから欲しかったのに。

ということで、こんなタイトルになりました。
これからぼちぼち読んでいきますので、気づいたことや
感想などを書いていこうと思ってます。
メモっぽくなるか評論調になるかは出たとこまかせですが、
まずはよろしくお願いします。