熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

現在不定期かつ突発的更新中。基本はSFの読書感想など。

レイモンド・チャンドラー「待っている」(深町眞理子訳)

2023年09月07日 | Weblog
チャンドラーの短編「待っている」を『短編ミステリの二百年2』の深町眞理子による新訳で読んだ。あらすじとしては次のとおり。

高級ホテルの雇われ探偵トニーがたまたま出くわしたイヴという女に興味を持ち、そこに旧知のギャング・アルからイヴの身の上と昔の男ジョニーについての情報が入った。ジョニーはギャング組織の金を持ち逃げしており、女とよりを戻すためホテルに現れるからその前に女をホテルから出せと。
トニーがイヴのいる最上階へ様子を見に行くと空き部屋の中に誰かいる。それはジョニーだった。
トニーは自分の名刺を渡してこれを駐車場係に見せれば逃げられる、女は隣室だと伝えて部屋を出るが、階下に戻ると最初に出会った場所に再びイヴがいた。
ホテルのフロントでジョニーが逃げたのを確認するトニー、そこへ電話がかかってくる。聞き覚えがない声の主は逃げた男を追いつめて銃撃戦になったこと、そして犠牲者が出たことを告げる…。

濡れ場と修羅場は雰囲気だけにとどめ、その先に待つ悲劇さえも控えめに暗示するあたりにチャンドラーのうまさがある。人生の落伍者と裏社会の物語でも舞台はあくまで高級ホテル、というのもアメリカで最も伝統のあるサタデー・イブニング・ポスト誌の読者がいかにも好みそうだ…と思いつつ小森収が巻末につけた作品評を読むと「慎重に読み進むことを要求する」といきなり大上段に振りかぶってから「トニーは同性愛者であることが示唆されている」といった突拍子もない解釈を繰り出すのにはぎょっとした。
どこにそんなことが?と思ったらフロント係が「今度の非番に今の電話相手を貸してくれないか」と尋ねた部分だけから憶測を逞しくしているので大いにがっかりした。
これこそ大山鳴動して鼠一匹ではないか。

原文で聞かれたのはphone numberなので、これはむしろ電話の相手をコール・ガールの派遣元(電話で呼ぶからそんな名がついた)と勘違いしたと見るべきだ。
そもそも物語の発端はトニーが女に関心を持ったことであり、アルがトニーに「女をホテルから出せ」と伝えたのはホテル内で荒事を起こさないための気遣いだった。
しかしトニーは女の境遇に同情し、昔の男を逃がすことで女を危険から遠ざけようとしたのである。ここにアルへの同性愛という作中のどこにも書かれてない要素を持ち込む暴挙は、物語の基本的な構成そのものを崩すことになりかねないが、果たしてこれが慎重な読みなのか?

またアルの「おふくろさんはどうしてる?」という呼びかけだけで小森収は「アルの母親の面倒をトニーが見ている」と決めつけているが、普通に読めば「トニーは自分の母を養っており、アルはその母親を知っている」つまり2人は昔から家族ぐるみの付き合いがあるというあたりが妥当だろう。
むしろ注目すべきはその前にアルが発した「いまの仕事も気に入ってる、ってか?」であり、ここにはトニーがかつて別の稼業についていたこと、おそらくそれは今のトニーが嫌悪するやくざな仕事であり、そこにはアルが昔の商売仲間であった可能性さえちらつく。
あるいはトニーは母の面倒を見るため、やくざ稼業から足を洗って雇われ探偵になったのかもしれない。ならばトニー自身もイヴやジョニーのように暗い過去を背負っており、彼らへの同情はそこから来ていると解釈するほうが「愛する男の母親の面倒を見ている」とこじつけるよりはよほど無理がないだろう。

さて銃撃戦で誰が死んだかについてだが、深町訳では「うちの親分」となっている。
アルが来たとき車の中から咳払いが聞こえるので、これがアルの「親分」かもしれない。
少なくとも深町訳のニュアンスに、アル自身が「親分」であるとの印象はなかった。
ただしアルのボスがジョニーに撃たれたとすれば、その大失態はトニーに情報を漏らしたアルの責任として仲間のギャングに始末されたとも考えられる。いずれにしろアルは「二度と誰にも電話することはあるまいよ」となるわけだ。
あるいはアルはまだ生きていて、トニーと直接口を聞きたくないほど失望しているだけかもしれないが。

アルが大失態の責任を取らされたにしろ、ギャングなら親分が殺されたケジメとしてジョニーの女と逃亡の手引きをしたトニーに落とし前をつけさせようとするのは想像に難くない。もともとはホテルで女と落ち合ったところを襲撃する予定だったのだ。
だからフロントで電話を受けた後にイヴの傍らへ戻ってじっと座るトニーは、やがて来るギャングたちとの対決を「待っている」のである。
そこに本作のタイトルが持つ、もうひとつの重要な意味があると私は考える。

深町訳に沿って読み進めると、この物語の骨子は「見知らぬ女に関心を寄せたホテル探偵が昔なじみとの板挟みになって両方を立てようとした結果、どちらもうまくいかずに大きなツケだけが残った」ということになるだろう。
女と男の板挟みという構図はいかにもチャンドラーらしいと思うのだが、そうした本筋を無視して私情丸出しのロマンティックな読みを付け加えてみたところで、それは作品に深みを与えるものにはならない。評者の先入観で物語をあまりにも歪めるのはさすがに慎むべきだろう。
もっとも当の評者は自分の書いた評論こそがメインだと信じて疑わないだろうが。

マージェリー・フィン・ブラウン「リガの森では、けものはひときわ荒々しい」

2022年04月02日 | Weblog
ふとしたきっかけでポケミスの『天外消失』を読んでから、名作と呼ばれるミステリ短編にも少しづつ手を出している。
特に『51番目の密室』の巻末に掲載された対談のせいで読みたくなったのがヒュー・ペンティコーストの「子供たちが消えた日」だが、これを探しているとき出会ったのが創元推理文庫から刊行が始まった『短編ミステリの二百年』だった。
これは短編ミステリの歴史を辿る同タイトルの連載評論に年代別で短編を付した全6巻のアンソロジーだが、その評論中で『51番目の密室』に収録されたリース・デイヴィス「選ばれた者」と並んでわかりにくい作品とされたのが、4巻収録のマージェリー・フィン・ブラウン作「リガの森では、けものはひときわ荒々しい」である。

4人の子をもうけ、世界中を転々と移り住み、今は八か月前の心臓発作で抗凝固剤の服用が欠かせなくなった老女。
「リガの森」とは彼女がむかしあるパーティで聞いた意味も分からない会話の断片であり、八か月前から彼女の頭の中に黒く広がり続ける暗い森の象徴でもある。
一人称で語られる彼女の記憶は断片的で時系列もばらばら。その合間に現在の老いた身体と認知能力の低下、そして近づいてくる死のイメージが差しはさまれる。やがて彼女は抗凝固剤を数え間違えて服用してしまい……。

語り手は頭の中に広がる「黒い森」を抗凝固剤のせいと考えているが、主成分であるワーファリン(ワルファリン)について譫妄の副作用は報告されていない。とすれば、彼女の記憶の混濁は老いによる認知症が原因と考えられる。これもミスディレクションを招くための仕掛けだろう。
鏡を見ると顔がないという描写も幻想的だが、これも脳機能の障害による相貌失認かもしれない。
そして「自分の顔がない=自分が自分であることを理解できない」というのは、まさにいま彼女が陥っている事態を象徴するものでもある。

一読して脈絡がないようにも見える文章だが、この作品を迫りくる老いと認知症を主観的に描いたものと読むならば、むしろこうした書き方は必然だと思う。
編者はこの作品について「女性向けと思われている(高級雑誌の)マッコールズに掲載された」「読者を拒んでいるような脈絡のなさ」と評しているが、老境に差し掛かり身体と記憶の衰えに焦燥する女性の独白という形式を考えればまさにうってつけの掲載誌であり、これを読んで身につまされる思いをした読者がいたことも十分に想像できる。
そして作者自身のプロフィールが明らかにされたいま、軍属の夫と共に日本へ渡り2年を過ごしたという著者の体験を「世界中を転々とし」たという語り手の体験に重ねるのはむしろ自然ではないだろうか。幻想的に見える描写は、語り手がリアルに感じとった世界の姿なのだ。

かつて親しんだ小説や絵画作品からの引用が次々と浮かんでくるのに、その出典がなんだったのか思い出せないもどかしさ。
そして書棚に並んだかつての愛読書を手に取ってみても「言葉は勇ましくページの上を行進してゆく。意味は湿った花火のように、わたしの頭のなかでぷすぷすはぜるだけ」。
こうした語り手の心情は、絵画鑑賞や読書が楽しみの人間にとって決して他人事とは思えない。
いずれそうした時が自分にも訪れるのだと考えたとき、難解というよりはむしろ生々しい不安をかきたてられた。
ミステリとしても幻想小説としても分類し難い作品ではあるものの「信頼できない語り手」を扱う一編として読み継がれて欲しい物語。
名手・深町眞理子氏の訳文も冴えわたっている。

なおこの作品は1970年発表だが、この5年後の1975年には本作で取り上げた内容をさらに突き詰めて描き切ってみせた、ミステリとしても幻想小説としても第一級の傑作長編が刊行されている。もちろんジーン・ウルフの『ピース』である。
『ピース』が好きな人ならリガの森で迷うこともないはず。臆せずにぜひ読み比べて欲しい。

アイランド博士、映画化か?

2006年03月06日 | Weblog
どうやら三省堂のトークショーで『アイランド博士の死』の
自主制作っぽい映画が流されたらしいので、こっちでもネットを
当たってみたら、それとは全然違う映画化情報を発見。
こちらは35mmのちゃんとした商業映画らしい。
以下はそのHPからの情報。

監督はMitchell DeoudesとAndy Davisの2人。
2003年にコスタリカとロスで撮られたというカラー作品で、
今はポストプロダクションの最中とのこと。
スクリーンショット等を見る限り、映像面では原作に忠実な再現を
心がけているようだ。
ただしSFXについては、どの程度の物になるのか不明。
というか、今の時点でHPにスタッフ募集が出ているくらいだから
かなり不安があるというのが本音なのだが。
まあ監督の2人は大作映画やMTVのSFXで実績があるようだし、
カネとヒトさえ揃えばそれなりの物を撮ってくれそうだ。

そしてこのHP最大の見所は、コンセプト・アートのコーナー。
「アイランド博士」の全体像は原作のイメージと違うけど、
これはこれで悪くないかも。
猿の死体の模型はリアルすぎて、かなりヤバい感じである。
でもやっぱり一番の注目は、ニコラス少年のアップだろう。
映画ではさすがに再現できなかったようだが、イラストでは
しっかり非対称になっているので、気になる方はぜひこちら
ご覧いただきたい。
(追記:後でよく見たら、スタッフ募集の所に「分裂表情の合成」と
あったので、これから映像化にとりかかるものと思われる。)

配役についてだが、ニコラス役は爬虫類っぽい気持ち悪さが
けっこういい感じ。イグナシオは野性的でハンサムだが、
馬乗りパンチをニコラスにかますシーンなどもあるようだ。
さすがはバーリ・トゥードの得意なブラジリアンである。
ダイアン役の女優さんは19歳に見えないが、なかなか
色っぽくて良いと思う。(むしろアーディスに近いかも)
これなら「大人っぽい側」であるケネス君が、ついつい
胸を触っちゃったのも納得である。

個人的には、日本に来たら見に行っちゃうと思う。
ただし結構きわどそうな作品なので、無事に完成しても
国内で配給されない可能性は高いのだが…。
せめてDVDくらいは出てくれることを期待しよう。

…万一これが日本で劇場公開された暁には、ぜひ柳下氏に
映画評をやって欲しいものだ。

絶望先生によろしく

2006年03月03日 | Weblog
「絶望した!」
「アイランド博士に絶望した!!」

…またもや、わかる人がかなり少なそうなネタである。

まあ前回書いた『アイランド博士の死』の感想がこんな調子だったので、
ついでに『さよなら絶望先生』で一発ネタをやってみようかと思ったが
サナトリウムネタならばむしろ同じ作者の『勝手に改蔵』のほうが
ピッタリきそうだと気がついた。
というわけで、私が勝手に考えたキャスティングを発表。

ニコラス役はやはり地丹で決まり。
背格好から分裂人格、お母さんが他所に男を作ってるなど、
ニコラスとかぶる部分が多すぎて怖いくらいだ。
殺人癖のあるイグナシオは名取羽美以外には考えられないので、
残った改蔵は必然的にダイアン役に落ち着くことになる。

アイランド博士はもちろん菜園すず部長になるのだが、この際
絶望先生と2人で担当というのもありじゃないかと思う。
絶望先生も「なんか飼ってたはずの水槽」を例に挙げて
「事あるごとに目をそむけて生きてまいりました!」
とか言ってたしなあ。
あの島自体も季節とかケーブルとか言葉遣いとか、
いろいろと不安定要素だらけだし。
…アイランド博士ってどうせ「中の人」がいるんでしょ?
最後にポロッと「われわれ」とか口走ってたくらいだから。

ちなみにこれらの元ネタはゆとりWebさんのデータベースに
まとめられてるので、深いところを知りたい方はご覧ください。

クリスマスをパンで祝ってみた

2005年12月28日 | Weblog
前回食べてみたいと書いたシュトーレン、クリスマスにパン屋に行ってみると
普通に売っていたので、さっそく購入してきた。
本場のものはかなり大きいらしいが、今回買ったのはフランスパンの
クッペ程度の大きさである。
茶色い本体にまぶした粉糖が「幼子を包む産着」を表しているそうで、
言われてみればそんな気にもなってくる。
サイズの割にはずしりとした重さがあり、味のほうにも期待ができそうだ。

パンを持ち帰ってから、改めて『闇の展覧会』を読んでみたのだが、
ひざまずいてうんぬんという記述を見る限り、あのラストはやはり
ミサの聖体拝領と考えるのが妥当に思える。
とはいうものの、幼子を象ったパンを切り分けるという図式については
いかにもウルフが好みそうだ、という気持ちも捨てがたい。
いずれにしろ、何の変哲も無いクリスマスケーキよりは、由緒ある郷土菓子を
切り分けるほうが何倍も面白味があるし、ウルフの作中で食われた様々な
登場人物に思いをはせながらこれを食すというのも、なかなか乙なものである。

切ったシュトーレンからは、干しブドウのすえたような甘ったるい香りが
いい感じに漂ってきた。
切り口はさながら、目の詰まったパウンドケーキのようである。
ナッツと干した果実が詰まった、ちょっと豪華だが素朴な季節菓子。
ちょっとボソボソとした食感のそれを、まさにむさぼるように食べた。
(というよりも、むさぼり食わないとパン屑がボロボロこぼれるのである。)
もちろん食べながら「永遠の命」に思いをめぐらせたわけでもない。
せいぜい国書から『デス博士の島その他の物語』が早く出て欲しいと
思った程度である。

次はジンジャークッキーを食べてみたい。もちろん、人型のやつを。

シュトーレンをむさぼり食いたい

2005年12月07日 | Weblog
つい先ごろ、『闇の展覧会』の2巻目(旧版のほう)を
やっと手に入れることができた。
新版は収録順が変わっていることと、活字ばかりが大きくなって
水増し感が強いので、どうしても前の版が欲しかったのだ。
これでようやくスタージョンの「復讐するは・・・」が読めるというもの。

そういえば以前に取り上げた、上巻所載の『探偵、夢を解く』。
最後に食べたのはなんだったのかという話だが、同じパンの類でも
オーストリアあたりなら「シュトーレン」ではないかという気もする。
あれはもともとクリスマスの伝統的なお菓子で、その形も生まれたばかりの
イエスの姿を象ったものとの説があるそうだ。
けっこう大ぶりで長い時間をかけて食べる習慣のあるこのパンなど、
「伝統的なやり方」で「その肉をむさぼり食う」という表現には
まさにぴったりの食べ物ではないだろうか。
その名もずばり「クリストシュトーレン」というのもあるくらいだし。

難点があるとすれば、このパンの色が茶色いこと。
どう見たって「白い肉」とは表現できそうに無い色合いである。
上にかかっている砂糖は確かに白いのだが・・・。

それはともかく、今はちょうどクリスマスシーズン。
シュトーレンも街のパン屋で見かけることだし、この機会に
一度食べてみようかとも思っている。

テンプレを変えてみた

2005年05月22日 | Weblog
今までのシンプルなテンプレも好きなのだけど、
せっかく扇風機のデザインがあるので、そっちを採用してみた。
まがりなりにもタイトルに「スタージョン」と入っている以上、
やっぱり扇風機は必要だろうという筆者なりの「考え方」である。

しかし、その「考え方」を収録した『一角獣・多角獣』が
いつになっても再刊されないのは困りものだ。
河出の新刊もどうなっているのか、音沙汰が無いようだし。

一方でついに『ランクマーの二剣士』までが出る運びとなった
ファファード&グレイ・マウザーについては、素直にこれを喜びたい。
これが当たって『ビッグ・タイム』の改訳版が出たりしないかと、
ひそかに期待もしているのだが。
サンリオの版権を相当引き受けたと見られるだけに、
東京創元社ならびに編集の皆様には、ぜひともご一考願いたい。

でゅしゃまんが大王

2005年01月11日 | Weblog
デュシャン展で思いついた、元ネタがわかる人限定ギャグ。

「みんなでデュシャンになります!」
「デュシャンになるのか!!」

「デュシャンですよー」「大ガラスですよー」
「レディメイドですよー」「芸術ですよー」

「そんなんじゃありませんのだ!」

…こりゃ、まんま事実じゃないか。
ギャグにもなってないじゃん。

OUTSIDE DUCHAMP EXHIBITION -デュシャン展覧会の外で-

2005年01月10日 | Weblog
デュシャンの感動が大きすぎて、つい感想を書いてしまった。
モノを前にしてここまで思考が踊るような感覚を覚えたことが、かつてあっただろうか。
良い本を読むときと同じ感覚が、読書という形ではない体験としてそこにある。
これは楽しい。ゾクゾクする。
展示会場の各所に書かれた「デュシャンは語る」の引用が、また実に見事だった。

ある程度予想はしていたけれど、会場は思った以上にすいていた。
大阪はかなりの盛況だと聞いていたが、会場が都内でなかったのも影響したのだろうか。
主催者が観客に展示物の批評をしてもらうという試みもされていたが、
見た限りではあまり反応は芳しくないようだ。
ここまで意欲的な内容なのに、もったいないと思う。
鑑賞者が主体的に作品に関わる機会を設けてくれる場なんてのは、
そう多くはないと思うのだが。

とはいえ、鑑賞にあたってある程度の知識がないと、向かい合って
それと格闘することもできないような作品ばかりとも言える。
やっぱり見る側もそれなりの準備と覚悟がいるのかも知れない。
なにもなくても楽しめる人こそ、最も優れた観客であるのだろうけど。

記念アイテムとして、なんと『大ガラス』のレプリカを売っていた。
名前はずばり『小ガラス』。
『大ガラス』東京バージョンの複製写真をアクリル板にはさんだ、
グリコの箱程度のミニチュアだ。
この名前も面白い。ベタすぎるところがむしろデュシャン的に思える。
それ以上に意義があるのは、これもまた『大ガラス』の複製であり、
そのレディ・メイド化であるということだ。

『照明用ガスと落ちる水が与えられたとせよ』の展示用レプリカもそうだが、
この『小ガラス』もまた、今回の展示から産まれた新作だとは言えないだろうか。
ただの土産品でもあり、複製としてのレディ・メイド作品でもあるそれは、
無意味と意味の間を行き来するデュシャンの思考そのものだ。

こんなお土産、他にどこを探してもないんじゃないだろうか。
鑑賞の際は、ぜひ購入することをお勧めする。

意味の裸体化、思考の送り返し~デュシャンという体験

2005年01月10日 | Weblog
「マルセル・デュシャンと20世紀美術-芸術が裸になった、その後で-」を見るため、
横浜まで行ってきた。
作品に対する愛着と一般的知識はあるが、実物を見るのはこれがはじめてだ。

衝撃的だった。
それがそこにあるということが、まぎれもない事件でありながら
作品そのものは些細な、あるいは大がかりな冗談にしか見えない。
網膜的な体験と思考的な体験が全くの乖離をみせながら、平行して存在する。
その奇妙な感覚は、ある種の法悦に近いものだった。

デュシャンを見ることは、存在の根源と矛盾に近づくことのようであり、
あるいは全くの詐欺にあっているようにも感じられる。
デュシャンにだまされた自分をだましている自分。
鏡の送り返し。

そこにはまた、「思考のレディ・メイド」という仕掛けと、それが再生産される
仕組みも感じさせる。
思考も発想もコピーされ模倣されアレンジされ、解体された後に破棄されうるなら、
そのどこが工業製品と違うというのか。

違うとすれば、その存在が完成、あるいは完結されるか否かにあるのではないか。
人も物も思考も、世に産まれた瞬間に「レディ・メイド」とならざるを得ないならば
運動し続けることでその姿を留めず、読み替えられ書き換えられることでその意味を
留めないことだけが、レディ・メイドであることを裏切り続ける唯一の方法ではないか。

だから、デュシャンは裏切り、欺き、戯れ続けた。いや、いまもそれを続けている。
彼ほどの人間がその死や墓碑を題材にされることがないのは、オリジナルとしての
デュシャンが失われても、その運動体としての本質が失われていないからだろう。
むしろすでにオリジナルが無いからこそ、その運動は永遠に持続され得るのかもしれない。

意味というものが持つ重さとばかばかしさを追いながら、その間にあるはずの
溝を飛び越え、あるいは溝の存在そのものすら否定してしまった作品たち。
芸術という分類の境界を打ち壊し続けたデュシャンは、全ての事物の存在と意味を
無効化するため、ずらし、転覆し、解体し、組み立てなおし、着せたり脱がせたりと
あらゆる手段を用いた。
そして世界をかく乱するような作品を生み出し、あるいは何も生み出さないことで
世界をかく乱し続けることに成功したのである。

ここまで知的で不敵な表現者がいたことを、後代の我々は尊敬と嘲笑によって
受け止めなければならない。
ただ戯れよう。真剣に、厳粛に、軽やかに、不真面目に。

ばかだなあ、と思うような作品の前で、そのばかばかしさと添い寝するような
深遠な知性と、それさえも打ち消そうとするような強烈な意思の力を感じながら
ただ苦笑を浮かべつつ立ち尽くす、そんな稀有な体験だった。