今回は『ジーン・ウルフの記念日の本』収録作のうち、個別の感想を書くとしたうちのひとつ
「聖ブランドン」を取り上げる。
収録作をアメリカにまつわる記念日に見立てて配置した『ジーン・ウルフの記念日の本』の中で、
アイルランドの聖人を称える「聖パトリックの日」にあてられたのが「聖ブランドン」である。
お話自体は本当に短い。アイルランド王の命を受けた聖ブランドンが猫とネズミと共に巨大な船に乗って、
地上の楽園にたどり着く。
そこで猫とネズミは互いに殺し合いを始め、聖人と天使がそれを見守るという話だ。
もちろん、このあらすじでは何一つ説明になっていない。
ウルフの書く物語は細部にこそ全体を解き明かす秘密が隠されているからだ。
もともとはウルフのファンタジー長編『ピース』の中で登場人物の一人がさりげなく話す劇中話で、
物語全体の中では小さな挿話として忘れられがちである。
しかし今回のように独立した短編として切り出されてみると、この短い話の中に多くの隠喩と
大きな世界についての物語が埋め込まれているのがはっきりわかる。
この作品だけを単独で訳したことにより、長編の流れとは無関係に短編としての内容をさらに
くっきりと表現できたのも、大きなプラス要因だろう。
以下に自分なりの解釈を書いておく。
毎度のごとくやや強引だが、こうした読み方もできるという一例としてお考えいただきたい。
まずブランドンたちが到着した場所について。
アイルランド出身の聖ブレンダンは祝福の地を探して世界を航海したという伝説があり、
中にはアメリカ大陸を発見したというものまである。
これが「聖ブランドン」の原型であるのは間違いないが、重要なのはそこではなく、
この短編が伝説の体裁を取ってアメリカ建国の歴史を語っているということだ。
その証拠となるのが、ブランドンの船のへさきがボストン湾に着いていると明かされている点である。
ボストン湾はメイフラワー号が到着したケープ・コッド湾を含めてマサチューセッツ湾を形成しており、
メイフラワー号の乗員が入植したプリマス植民地もこのエリアに含まれている。
そこで「遍歴の聖者」ブランドンを「ピルグリム・ファーザー」の暗喩ととらえると、
「猫とネズミを乗せてきた船」はメイフラワー号を意味するとわかる。
そしてこの船は「石」でできているとされているが、石(stone)を岩(rock)に読み替えると、
ジョン・ロックの社会契約論に基づきメイフラワー号の乗員が船上で結んだ誓約を指すとも読める。
またプリマスには、メイフラワー号の乗員が最初に踏んだとされる「プリマス・ロック」も存在する。
さて、石と契約とくれば、石板に刻まれた神との契約が連想される。いわゆる「モーセの十戒」だ。
ここでモーセのつづりを見ると、ラテン語ではMoysesあるいはMosesとなっている。
このつづりとよく似た単語としてmouseを挙げることで「揃って白鳥の翼のような白いあごひげを蓄え、
自分の背丈より長い杖に寄りかかっている」二人の老人のうち、聖ブランドンでないほうが何者なのか、
想像がつくというものだ。
そしてモーセはキリスト教徒ではなく、ユダヤ教における指導者であることを考えれば、
浜辺に十字架を立てた聖ブランドンがネズミの王を「異教徒」と呼んだのも納得できる。
ではこのネズミと戦う猫の精霊とは何者なのか。
一般的に海外のウルフ読者からは「キルケニーの猫」とされているが、犬の精霊(クー・シー)と
対比を成す点から、むしろケット・シーと見なすべきだろう。
さらに踏み込んでケット・シーを「ケイトの霊」と読み替えれば、ウルフが『新しい太陽の書』で
何度も取り上げた聖キャサリン(カタリナ)が思い浮かぶ。
車裂きの刑と斬首の故事で知られるアレクサンドリアの聖カタリナは、死後にその遺体が
天使によってシナイ山へと運ばれ、その地に聖カタリナ修道院が建てられた。
この修道院の図書館はバチカンに次ぐ数の写本類を収集しているとされ、これもまた
ウルフの興味を引きそうな点である。
なお、モーセが十戒を授かった場所がこのシナイ山であることは有名である。
そしてモーセが燃える柴の姿で現れた神によって示された「約束の地」こそ、
かつてカナンの地と呼ばれたイスラエル周辺の地域なのだ。
これらを総括して考えると「聖ブランドン」という作品は「分断された世界とそれをめぐる争いの歴史」を
一篇の寓話に凝縮した作品とも考えられる。
それはアメリカ合衆国が建国以来繰り返してきた戦いの歴史であり、数々の帝国が興亡を繰り返した後に
今もなお紛争の絶えない中東情勢とも重なるものである。
さらに言えば、人類の歴史とは入植と対立、そして戦争と分断の絶え間ない繰り返しでもあった。
つまり「聖ブランドン」とは、歴史の中で繰り返し引き裂かれ続けてきた様々な土地と人々についての
「小品(piece)」であり、今も模索され続ける「平和(peace)」に関する物語でもあるのだ。
この小品、しかも作中の短い挿話の中にこれだけの知識と含意を秘め、それをさりげなく
読者の前に差し出してみせるところに、ウルフの底知れない深みがある。
そして作品を通じて深みを覗き込み、そこに映る何かを見出すのが読者にとって喜びなのだ。
もし映ったのが自分自身の顔だとしても、その顔はきっと見慣れない容貌をしているはずである。
「聖ブランドン」を取り上げる。
収録作をアメリカにまつわる記念日に見立てて配置した『ジーン・ウルフの記念日の本』の中で、
アイルランドの聖人を称える「聖パトリックの日」にあてられたのが「聖ブランドン」である。
お話自体は本当に短い。アイルランド王の命を受けた聖ブランドンが猫とネズミと共に巨大な船に乗って、
地上の楽園にたどり着く。
そこで猫とネズミは互いに殺し合いを始め、聖人と天使がそれを見守るという話だ。
もちろん、このあらすじでは何一つ説明になっていない。
ウルフの書く物語は細部にこそ全体を解き明かす秘密が隠されているからだ。
もともとはウルフのファンタジー長編『ピース』の中で登場人物の一人がさりげなく話す劇中話で、
物語全体の中では小さな挿話として忘れられがちである。
しかし今回のように独立した短編として切り出されてみると、この短い話の中に多くの隠喩と
大きな世界についての物語が埋め込まれているのがはっきりわかる。
この作品だけを単独で訳したことにより、長編の流れとは無関係に短編としての内容をさらに
くっきりと表現できたのも、大きなプラス要因だろう。
以下に自分なりの解釈を書いておく。
毎度のごとくやや強引だが、こうした読み方もできるという一例としてお考えいただきたい。
まずブランドンたちが到着した場所について。
アイルランド出身の聖ブレンダンは祝福の地を探して世界を航海したという伝説があり、
中にはアメリカ大陸を発見したというものまである。
これが「聖ブランドン」の原型であるのは間違いないが、重要なのはそこではなく、
この短編が伝説の体裁を取ってアメリカ建国の歴史を語っているということだ。
その証拠となるのが、ブランドンの船のへさきがボストン湾に着いていると明かされている点である。
ボストン湾はメイフラワー号が到着したケープ・コッド湾を含めてマサチューセッツ湾を形成しており、
メイフラワー号の乗員が入植したプリマス植民地もこのエリアに含まれている。
そこで「遍歴の聖者」ブランドンを「ピルグリム・ファーザー」の暗喩ととらえると、
「猫とネズミを乗せてきた船」はメイフラワー号を意味するとわかる。
そしてこの船は「石」でできているとされているが、石(stone)を岩(rock)に読み替えると、
ジョン・ロックの社会契約論に基づきメイフラワー号の乗員が船上で結んだ誓約を指すとも読める。
またプリマスには、メイフラワー号の乗員が最初に踏んだとされる「プリマス・ロック」も存在する。
さて、石と契約とくれば、石板に刻まれた神との契約が連想される。いわゆる「モーセの十戒」だ。
ここでモーセのつづりを見ると、ラテン語ではMoysesあるいはMosesとなっている。
このつづりとよく似た単語としてmouseを挙げることで「揃って白鳥の翼のような白いあごひげを蓄え、
自分の背丈より長い杖に寄りかかっている」二人の老人のうち、聖ブランドンでないほうが何者なのか、
想像がつくというものだ。
そしてモーセはキリスト教徒ではなく、ユダヤ教における指導者であることを考えれば、
浜辺に十字架を立てた聖ブランドンがネズミの王を「異教徒」と呼んだのも納得できる。
ではこのネズミと戦う猫の精霊とは何者なのか。
一般的に海外のウルフ読者からは「キルケニーの猫」とされているが、犬の精霊(クー・シー)と
対比を成す点から、むしろケット・シーと見なすべきだろう。
さらに踏み込んでケット・シーを「ケイトの霊」と読み替えれば、ウルフが『新しい太陽の書』で
何度も取り上げた聖キャサリン(カタリナ)が思い浮かぶ。
車裂きの刑と斬首の故事で知られるアレクサンドリアの聖カタリナは、死後にその遺体が
天使によってシナイ山へと運ばれ、その地に聖カタリナ修道院が建てられた。
この修道院の図書館はバチカンに次ぐ数の写本類を収集しているとされ、これもまた
ウルフの興味を引きそうな点である。
なお、モーセが十戒を授かった場所がこのシナイ山であることは有名である。
そしてモーセが燃える柴の姿で現れた神によって示された「約束の地」こそ、
かつてカナンの地と呼ばれたイスラエル周辺の地域なのだ。
これらを総括して考えると「聖ブランドン」という作品は「分断された世界とそれをめぐる争いの歴史」を
一篇の寓話に凝縮した作品とも考えられる。
それはアメリカ合衆国が建国以来繰り返してきた戦いの歴史であり、数々の帝国が興亡を繰り返した後に
今もなお紛争の絶えない中東情勢とも重なるものである。
さらに言えば、人類の歴史とは入植と対立、そして戦争と分断の絶え間ない繰り返しでもあった。
つまり「聖ブランドン」とは、歴史の中で繰り返し引き裂かれ続けてきた様々な土地と人々についての
「小品(piece)」であり、今も模索され続ける「平和(peace)」に関する物語でもあるのだ。
この小品、しかも作中の短い挿話の中にこれだけの知識と含意を秘め、それをさりげなく
読者の前に差し出してみせるところに、ウルフの底知れない深みがある。
そして作品を通じて深みを覗き込み、そこに映る何かを見出すのが読者にとって喜びなのだ。
もし映ったのが自分自身の顔だとしても、その顔はきっと見慣れない容貌をしているはずである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます