機関誌『俳句大学』第6号
巻頭言
俳句大学学長 永田満徳
現代は、インターネットの普及によって海外でのHAIKU作家との交流が格段に増えてきた。主にSNSを介したリアルタイムな交流も盛んになってきており、日本の俳句の原理への関心も非常に高くなっている。そこで、「俳句は何か」という、自明の問いを改めて考えてみたい。
本学の五島高資は一早く、俳句の本質である「切れ」に注目し、「俳句の詩的構造である『切れ』をまずHAIKUの必要条件とすべきである」と述べている。これは誰も異論のないことであろう。ただ、「切れ」があっても、「取り合わせ」でないことである。例えば、「大蛍ゆらりゆらりと通りけり 一茶」や、切れ字のある「白藤や揺りやみしかばうすみどり 芝不器男」のように、切れ、或いは切れ字のある一物仕立ての二句一章はその内容から言って、二句があまり断絶していず、句意が一句一章とは大差がない。しかし、切れ(切れ字)があることによって、空間をもたらし、想像の余地を与え、余韻を残す。これが「切れ(切れ字)」の最大の効用である。HAIKUにおいて、二行俳句を推進しているのは、「KIRE(切れ)」を明確にするためで、KIREのない、単なる散文詩的なHAIKUの是正を図っている。
さらに、五島高資は「五七五(四拍子)定型という韻律は日本語の構造に特有なものであり、外国語の俳句(HAIKU)において5-7-5シラブルを適用するのは無意味である」と述べている。俳句の場合はどうかというと、「初蝶の遠きところを過ぎつつあり 山口誓子」という句のように、切れのない、一句一章の句を〈俳句〉と言えるのはひとえに定型であるからである。それほど「定型」は必要不可欠である。私が自由律を俳句と認めないのはこの定型の強固さを定型のないHAIKUによって思い知らされたからである。
ところで、HAIKU連載中の『俳句界』において、「俳句は『切れ』を基本として、主に『季語』が重要な役割を持つ短詩型文芸である。」という標語で、より強く「KIGO(季語)」を取り入れたHAIKUを提唱している。Mohammad Azim Khanの「sunny spot/the push of a wheelchair」 というHAIKUを例にして、sunny spotに(in winter)を補ってみたらどうだろう。「車椅子」を「陽だまり」の中に押し出し、少しでも温まってほしいという気持ちは「冬」の季節でなければ伝わらない。それほど「KIGO(季語)」の喚起力は強いのである。五島高資のように、KIGOはあくまで詩語の一つであって、無季の句もKIREがあればHAIKUと言って良いとの考えもある。その考えは良しとして、今や、国際俳句学部の「Haiku Column」においては、はっきりとした四季のない国からもKIGOのあるHAIKUが数多く投句されてきており、俳句は〈KIGOの詩〉という認識が世界で広まっている。
俳句大学は、実践的な俳句の取り組みを通して、俳句の国際化に対応するために、俳句あるいはHAIKUを定義し直し、俳句を国際文芸として位置づけ、ひいては、現今の現代俳句における真の俳句の確立の礎になりたいと思っている。
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