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みつばちマーサのベラルーシ音楽ブログ

ベラルーシ音楽について紹介します!

トーダルにインタビュー 「月と日」について・後編

2008年01月12日 | トーダル
(前編からの続き)

P:今ベラルーシでは日本の文化が流行っていますよね。村上春樹といった文学、映画とか詩。このような流行に合流したいと思いましたか? あるいは現代日本文化に対する興味を興したいとは思いませんか?

トーダル:このアルバム自体は何も興さないよ。ただ、とっても美しい・・・僕はそう思うな。すごくうれしいのは、僕がついに他の作曲家と交わることができて、自分が作ったわけじゃない歌を歌ってるってことなんだ。(* 確かに自分以外の音楽家が作った歌をトーダルが歌うのは、非常に珍しいことです。)
 この曲を聴いてみたら、たぶん10曲中8曲がメジャー調の明るい歌で、2曲だけがマイナー調の哀しい歌だと多くの人は思うでしょう。でもね、僕にとっては正反対なんです。8曲がマイナー調で、2曲だけがメジャー調の歌なんです。
 日本文化の流行のことだけど、どうなんだろ、そんなこと考えもしなかったな。もちろん現実に流行に合流できたらいいと思うよ。でも一番大事なのは、このCDはベラルーシ人のために作った、ということなんだ。この文化をみんなで分かち合えたら、と思って作ったんです。(* トーダル、よく言った! えらいぞ。拍手!)

P:アダム・グリョーブスは俳句を朗読しているのですか?

トーダル:いいえ、ただ自作の「日本風」な詩を朗読しています。(* あの挿入詩はベラルーシ人が感じるところの「日本風」なんだそうです。)
 話し合って俳句はやめておこう、ということに決めました。俳句はない代わりにいろんな詩を入れました。ベラルーシの類似点もある詩もいくつかありますよ。そうしたら、本当に日本とは不調和なものができました。(* この不調和性をトーダルは成功と捉えています。何せ「対比」がテーマですから。)
 僕はいつも自分の音楽の中に、独自の映画やイラストが加わっているような、そんな音楽を作りたいと思っているんですが、今回それができたと感じています。
 ところで、アダム・グリョーブスは日本について、いろいろ知っていますよ。その点、僕はほとんど素人。おもしろいと思うのは創作活動とその過程だね。

P:冗談でこのCD「月と日」はNeuro DubelのCD「タンキ」と比較されるのではないでしょうか? 「タンキ」も日本の美術観にどこか関連しているでしょう。ですから、同系統の分野という意味では、「月と日」はベラルーシ初の日本の歌のアルバムとは言えないのでは?

(* Neuro DubelのCD「タンキ」についてですが、ジャケットデザインをここで、ご紹介できないか検索したのですが、見つかりませんでした。「タンキ」とは「短歌」と「戦車」(ベラルーシ語で「タンク」)の複数形です。
 ジャケットデザインを言葉で説明すると、表ジャケットの真ん中に戦車が2台、そしてその周りに桜の花が描かれていて、縦書きでバンド名やCDタイトルが書かれています。裏ジャケットは、灰色の筆文字で「ベラルーシはあなたのために ベラルーシはわたしのために」と下手な字で一面びっしり繰り返し書かれています。中を見ると、リーダーが中国風の衣装を身に着け、茶碗を手に持っている写真が・・・(茶道のつもり?)
 正直言って、このジャケットデザインを見たとたん、購入する気が失せ、収録曲「タンキ」も私は聴いたことがありません・・・。
 Neuro Dubelなんて、ブラックユーモア系コメディ・バンドなのに、「月と日」といっしょにしないでほしい。)(怒)

トーダル:Neuro Dubelのリーダー、サーシャ・クルリンコビッチに、日本の歌のCDを作ることについて、電話したんだ。でも彼は何も反対しなかったよ。(* クルリンコビッチに反対されたら「月と日」は作らなかったのか、トーダルよ! 反対されても作っていただろう!)
 僕は日本のオリジナル曲を演奏したわけだしね。確かに東洋をテーマにする作曲家は今までにたくさんいたよ。彼らは作品の中で
「ほら、このように自分は日本を見ていますよ。」
と言っている。でも僕が歌う曲は、もともと本当の日本人が作曲したものだからね。まあ、いろいろ言ったけど、もちろんこのアルバムには、僕の日本の芸術観に対する考えが存在しています。
 マーサがくれたカセットテープに録音されていた歌のほとんどは、子どもが歌っていて、とても短かくて、簡素で、かわいらしいものだった。それはみんな、とても変っていて、それでいて、とても感動的な曲だった。
 その後、僕は分かったんです。ベラルーシ人は、日本人とは違う! そして日本人は、ベラルーシ人とは違うんだって。(* 「そんなの当たり前じゃん。」なんて言わずに最後までお読みください、皆様。)これが分かったときの陶酔状態! 
 これらの日本の歌はとても奥深くて、その中にすごく真剣なものがあるんです。
 そんなわけで、二つの文化が音楽を通して「出会う」・・・こういった方法を採ることにしました。

P:アルバムのタイトルは、どのようにしてつけたんですか?

トーダル:「月と日」というタイトルは、ちょうどベラルーシと日本の「出会い」を表しています。もっともこのシンボルマークはフランツィスク・スカリナのもので、普通、太陽と月と呼ばれるものです。スカリナの商標ですよね。マーサはこのマークがとても気に入っていました。日本語では、月と日という二つの漢字が「流れゆく人生」「時の輪」を意味するんだそうです。何かこう、静かで、永遠で、常に動きの中に存在するもの・・・。
 このシンボルマークの意味においてでも、二つの文化が出会ったことになるんです。
 でもまあ、何だかんだ言っても、このアルバムはとても日本的ですよ。ちょっとばかりロックンロールが入っているとしてもね。
  
P:ということは、このアルバムは、あなたの日本に対する熱い関心からではなく、実験したい、という願いから作られたのですね?

トーダル:これはとても難しいプロジェクトでした。でも、いつも僕はこのようなプロジェクトに心惹かれるんです。マヤコフスキーの詩に曲をつけたCD「MW」も同じ理由で作りました。これも簡単じゃありませんでしたよ。たぶん僕はエゴイスティックに自分自身のことを、音楽を通して「教育して」いるんです。
 今、僕は日本についてもっと知りたい、と思っています。つい最近、ふっと分かったんです。日本の曲はとても簡素。ところが、その音楽を他の言語に訳することは本当に難しいことなんです。

P:あなたはいつも何かとても難しい課題や境界や束縛を、自分に課していますね。でも人生は常に理想的であるとは限りませんよね。失敗については、どのように対応していますか?

トーダル:権力組織のある決まった範囲のためには、前もって失敗することを予測しておくようにしているよ。
 僕はよくステージに立つようにしていて、それで古くからの固定ファンもいます。難しいことをわざとしたくなるのは、心理的問題だね。つまり、僕は自分に地平線を広げさせ、自分自身の視界を広げるような企画が好きだっていう「問題」です。そして、そのために全てのプロジェクトを現実のものにしようとします。
 もちろん、自分自身を高めることは、おそらくないだろうと思われるテーマは最初から選びません。個人的な嗜好で選ぶようにしているんです。例えばマヤコフスキーと僕は誕生日がほとんど同じで、マヤコフスキーの人生は難しいものだったけど、僕の人生も「楽しい」もんですよ。
 確かに僕はいつも自分の目の前に、野心に満ちたプロジェクトを置くようにしています。でも、それを成功させるには、たくさん働いて、知って、読んで、感じて、常に自分の表現力を磨いていなければならない。それに僕には献身的なファンがいます。いっしょになって、表現力の進歩を手伝ってくれる、ファンの感想がね。
 多くのベラルーシ人リスナーは低品質の音楽に慣らされていっている。単純で原始的な音楽です。まじめな音楽を聴いたり、それについて考えたり、詩を読んだり、まじめな絵画などを見る人は減ってきています。
 芸術を理解すること、それは本当に大変な作業。それが分かっている人々も少なくなってきている。ミンスクにとっては、これは現代の問題だよ。僕の創る音楽が、何とかこの現状を変えることができれば・・・と僕は願っているんです。

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 この画像も「РИО」からです。
 トーダル君インタビュー記事は全部で4ページに渡っていましたが、そのうちの最初の見開き2ページを撮影しました。(この画像の掲載は許可を得ています。)

 「月と日」プロジェクトがトーダルにとって、「地平線を広げさせ、自分自身の視界を広げる」ような企画であったことを祈ります!


トーダルにインタビュー 「月と日」について・前編

2008年01月12日 | トーダル
 トーダル&WZ-オルキエストラが2005年に発表したアルバム「月と日」について、当時ベラルーシのマスコミがさまざまな報道をしました。

 その中で最も詳しいのが、雑誌「РИО」(2005年第38号 9月19日発売)の記事でした。(雑誌名は「娯楽と休息」の略語。)
 これを読めば、他の報道の内容も大体網羅している(少々、くだらない質問もしていますが。)と思われますので、その日本語訳を公開します。(ただし、「月と日」に関する以外内容については若干省略しています。)
 また翻訳文中の(*)は私からの注釈。あるいはコメントです。

 原文は現在「Belarus Today」というサイト上でも読むことができます。(ただしロシア語表記のみ。)

http://www.belarustoday.info/?pid=20827


 この画像は「РИО」の表紙です。トーダルの横顔が表紙です。彼が向いている方角は当然右!つまり、東=日本!
 それにしてもバックに合成された日本語の古文書のようなものが、逆さまに印刷されているのが笑えますね。(^^;)
(この画像の掲載は許可を得ています。)


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「芸術を理解すること、それは大変な作業」

 トーダルは最も多芸で、最も驚かされるベラルーシのミュージシャンだ。常に意外な、いや、かえって馬鹿げて聞こえるほど困難な計画を立てる。ジャンルからジャンルへと移動する、創作活動の放浪の旅を常にしているようだ。
 長い間その完成が待たれていたCD「月と日」をついに発表した。コンサートは本物の日本の歌がベラルーシ語で聴けるという、またとない機会となるだろう。ここにはサムライも羊男もいない。桜の花も富士五十夜景もない。(*「さくら」は収録されてますよ! それと「富士五十夜景」って「富嶽三十六景」の間違い?)

 日本文化愛好者がひけらかす標準的でステレオタイプ的な、そして陳腐な日本より、このCDはずっと難解で、繊細である。
 ここにはバラードがあり、カントリーミュージックがあり、ジャズさえある。しかし、このCDの持つ世界観は明らかに日本的であり、それにより独自の性格を持ち合わせているのである。

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РИОの記者(以下、P):まずこのプロジェクトについて、はじめから話してください。CD完成まで2年もかかったのは、どうしてでしょうか?

トーダル:全ては日本人マーサに出会ったことから始まりました。プロデューサーをしているユーリー・ツィビンのおかげで会うことができたんです。二人は日本の歌をベラルーシ語に翻訳してみないか、と持ちかけてきました。そのときは、どんな曲ができるのか、まるで分かりませんでしたね。でもこのアイデアはおもしろそうに思えました。日本の歌をベラルーシ語で歌える、なんて今まで考えもしなかったし。
 マーサとは今後どのように話を進めたらいいか、話し合ったのですが、当時は別のアルバム(* 2004年発表のCD「愛の汽車」のこと。)を作っていて、忙しかったんです。日本の歌のCDは慌てて、間に合わせ的には作りたくなかった。
 その後、僕は詩人のアレーシ・カモツキーといっしょに翻訳を始めました。日本の歌が録音されたカセットテープと、歌詞をロシア語に翻訳されていたのをもらっていたんですが、作業はとても難しいものとなりました。
 まず、オリジナル曲を聴いたんですが、何だか二人とも変な気分になりました。というのも、日本のことについて伝統がある古い国で、サムライがいるといったイメージを持っていたけれど、収録予定の曲は現代西欧音楽に聞こえたからです! (* トーダル君たちは日本の音楽イコール東洋の音楽で、とてもニョロニョロした音楽を想像していたようです。)
 まあ、とにかく課題が難しければ難しいほど、働くのが楽しくなってくるんですよ。

P:このアルバムには何か構想はありましたか?

トーダル:構想を決める段階で、これは自分一人でできる仕事ではない、と分かりました。そう、いろんな楽しい、思いがけないプレゼントがつまった共同のプロジェクトなんです。それにアレーシ・カモツキーが参加するのは自然なことでした。そこへアリャクサンダル・パミドーラウがラップでもって合流する。さらにアダム・グリョーブスが詩を持って合流。ミハル・アネムパディスタウも僕たちを支えてくれた。文字通り総動員の状態です。
 そして一番大事なのは、(特に僕にとっては、これが自慢なんだけど)今まで誰も日本の歌をベラルーシ語に翻訳した人がいなくて、日本の有名な歌を編曲した人もいなかった、ということなんです。
 ところで、はっきり知っているわけじゃないけど、ベラルーシと日本の文化には共通するものがあるんですよ。例えば、日本にも日本のダジンキ(* 収穫祭のこと。日本で言うところの「村祭」)がある。
 曲は季節に合わせて順に収録されているんですが、日本固有の世界観で、並んでいるんです。だからCDは春の茶摘み式の歌から始まる。(* 収録曲最初の曲は「さくら」で、「茶摘み」は初夏の歌だから3番目です。)

P:このCDは日本とベラルーシの文化交流の促進につながる可能性はあるでしょうか?

トーダル:もちろん、どんな可能性もあるよ。経営の視点から対応すればね。でもそれはそんなに重要なことじゃない。このCDが日本人にとっても、おもしろい作品であれば、と思っているんだ。そして、僕は日本に行ってみたいけれど、単に「編曲の専門家」として行くのではなく、「ベラルーシ文化の公式代表者」として行きたい。(* 全くそのとおりです! トーダルは編曲しかしていない人だと、日本の皆様に勘違いされたくないと、私も思っています。)

P:編曲した曲はオリジナルとはだいぶ違っているのですか? 独自の「混合分野」を作りたいとは思いませんか?

トーダル:もしオリジナル曲を実際に聴いたら、どのように違うのか分かると思うよ。
 まず、歌詞が全く違うんです。マサカが書いた歌詞の逐語訳からアレーシ・カモツキーは非の打ちどころのない完璧な詩の翻訳をした。ロシア語訳には「この歌ではこういうことを歌っていますよ。」といったことしか書いてなくて(* 私としてはもっと詳しく翻訳したつもりでしたが。)言葉を拾って詩を作ったんです。でも、できるだけ元の歌詞を変えないように努力しました。反面、収穫祭の歌「村祭」は「ダジンキ」について歌っている歌詞もわざと加えました。
 大体において、僕たちはこんな印象を持ちました。日本の音楽家はモスクワ音楽院で教えることのうち必要最小限だけ学んだじゃないかって。ハーモニーはとても西洋風なんだけど、歌詞は日本の風土そのものです。そんなわけで、このCDでは対比というものを特色として出すことにしました。古くからある対比、です。例えば「静けさと嵐」「愛と憎悪」といったような。

(* トーダルは他の新聞

http://mk.by/archiv/30.09.2005/rub11.php

のインタビューで「日本の詩は人生そのものについて瞑想している。」と感想を述べています。
 このインタビューで語っている「対比」の発想は、そのまま日本の歌とグリョーブスさんの朗読する詩の構成にも当てはまります。他にも「○○とXX」という発想はあちこちに見られます。「日本とベラルーシ」「日本語とベラルーシ語」「音楽と文学」「春と秋」「夏と冬」・・・
 「月と日」というアルバムタイトルにも、これは言えることです。タイトルは私の発案によるもので、トーダルたちが作業を開始した時点で、すでにタイトルも決定していました。私は「対比」という発想は持ち合わせていなかったのですが、図らずもこのような意味づけが、作られていく過程で、このアルバムになされていったのでした。)
 
 (後編に続く)