上記の題で、田代俊孝という大学教授で寺の住職でもある方が、中日新聞に記事を書いていました。それによると、「納棺夫日記」の著者青木新門は、本木雅弘から映画にしたいという申し出を快諾したものの、シナリオを読んで宗教が全く排除されていることから、原作者として自分の名前を出すことを拒んだのだそうです。その気持ちは分かる気がします。私のように途中で挫折した者にさえ、納棺の話しよりも、親鸞を中心とした仏教について書きたかったのだということが伝わるからです。しかし田代は、「おくりびと」は「納棺夫日記」の哲学を映像と役者の動きで表現していた、としています。死と生は連続しているという哲学、具体的には、腐敗した遺体に群がる蛆のシーン、社長とふぐの白子を食べるシーン、クリスマスに事務所でフライドチキンを三人でむさぼり骨を写すシーンだといいます。さらに、最後に自分を捨てた父の納棺をするという場面もそうだとします。また、死をタブー視する差別と偏見への問題提起の例として、妻が自分に近づく主人公にたいして、汚らわしいと言って実家に帰る場面があるとしています。そして、
「おくりびと」には、「納棺夫日記」に見られるような哲学が言葉としては、表現されていないが、映像の上で、それを出す工夫が充分にされていた。むしろ、その哲学性こそがこの作品に重みを出している。
としています。いくらなんでも「充分」は言い過ぎだと思います。難しい宗教用語や引用をしての「納棺夫日記」の専門的な宗教の部分を取らず、極めて日常的なレベルでの原始的とも言える死と生に対する人々の想いのレベルで描いた所に、ヒットの理由があるように思うのです。納棺や最後の別れのシーンなどに、見る人がそれぞれの経験を重ね合わせて、さらに思いを深くして涙するというところがあるのではないでしょうか。
先日のTV「とんねるずのみなさんのおかげです」特集の食わず嫌いのコーナーで、所ジョージが、私の実家のある川崎市登戸(向ヶ丘遊園)の「肉の伊勢屋」という肉屋を紹介したそうです。私は見ていなくて妻が見ていて教えてくれました。私はこの店を知らず、同郷の会社の同僚に聞いたところ、知らないの?!と逆に言われてしまいました。番組で紹介された和風ビーフジャーキーや、ギフトに引っ張りだこのコーンビーフ、さらにベーコンやソーセージ、レバーパテなどもあるそうで、今度帰った時には是非行ってみたいと思っています。ただし、それでなくても手作りなところにTVで紹介されて、待ち状態という話も・・・。
今日は午前中は泌尿器科(前立腺肥大)、耳鼻科(花粉症)のハシゴ、昼は誕生日の三男とガストでステーキランチ(!?)、午後は雨でジョギングが出来ないので近くのDSで買った安いボルドーの赤ワインを飲みながら、川崎フロンターレと名古屋グランパスのTV中継を観戦です。解説がうるさいので、音を消して見ています。楽しみにチェックしている「安ワイン道場」の4月1日の記事ではないですが、ボルドーの安いのは大外れはないもののあたりも無い、のでしょうかね。可も不可もなく、ちょっと食傷気味です。これなら同じ店で売っていて試飲したバッグインボックス(箱入り)のボルドーの方が、まだ良かったなぁ。