〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

六日の講座のこと

2021-03-04 14:38:31 | 日記
六日、土曜日二週間遅れの講座を行います。予定日の直前、義母が亡くなり、
予定を変更せざるを得ませんでした。
お許しください。

三月一日まで、都留文科大学の学部と大学院の紀要雑誌に投稿した二つの論文の
校正に追われていました。
それによって、ほとんど、私自身の内面が瓦解・倒壊をしていたことを感じています。

こんどの土曜日は、前回見たことを振り返り、
村上春樹の『猫を棄てる』に対しては鴻巣友希子さん、
マイケル・エメリックさん、それに佐藤優さんのお書きになったものを紹介・検討し、
私見を述べたいと思っています。
私見では、それはそのまま、『一人称単数』の短編小説の趣旨に通底していると考えています。
そこには、村上春樹の捉えた世界観認識が読み手の我々に思いがけない姿として現れてきます。
しかも、それはいみじくも、あまんきみこが自身の「遺書」と呼ぶ最新童話
『あるひあるとき』のテーマと根底で通底しているようにも思いました。

 
 

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3 コメント

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文学講座ありがとうございました (中村龍一)
2021-03-07 13:58:22
昨日は文学講座ありがとうございました。私の〈読み〉の実践を考えさせる村上春樹『一人称単数』と自伝エッセー『猫を捨てる』のお話でした。
以下2点さらに補足的な説明をしていただきたく、ブログにコメントを差し上げました。
1 「〈ぼく〉は〈ぼく〉でありながら、〈ぼく〉を瓦解し続ける〈反ぼく〉(第三項)を抱え込みながら語っていく。〈ぼく〉とは〈ぼく〉は許せない〈ぼく〉を抱え込んで〈僕〉である」ということと、西郷竹彦氏の「〈ぼく〉の中の『あるべき〈ぼく〉と、しかし、現実を生きなければならない反〈ぼく〉』との矛盾の葛藤」とはどう違うのか? もう少しご説明ください。
2「『一人称単数』は結末から考えると、原因が分からなくなる話である。因果律を超えてしまう。それを村上春樹自身が、どう受け止めているかを語っている。この指摘は衝撃的でした。この因果律を超えてしまう事態を、田近洵一氏は「語り手が語りを放棄し、読者にゆだねたのだ」と説明しています。田近氏のお考えをどう考えられますか?
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昨日(3/6)の講座について (古守やす子)
2021-03-07 23:25:23
昨日はZoomでの講座をありがとうございました。
先生のお話を毎月拝聴できますことをとても贅沢に感じています。

今回は一人称の小説の「語り手」について、『舞姫』『坊つちやん』『伊豆の踊り子』『風の歌を聴け』など様々な一人称小説を例に、作品に登場する視点人物の〈生身の語り手〉と、それを語る〈機能としての語り手〉のしくみをお話し下さいました。
〈機能としての語り手〉を意識することで、登場人物である〈生身の語り手〉の闇の深さやプロットをプロットたらしめるメタプロットが〈読み手〉に立ち上がり、〈読み手〉はこれと向き合うのだと理解しました。
『一人称単数』では、〈機能としての語り手〉によって、登場人物の「私」は気づいていない、「私」が抱える「私」以外の「私」が存在する世界が現われるということを、とても興味深く伺いました。
ところで、三人称小説でも、「語り手」と「語られる人物」の関係で読んでいくことを先生から学んでいますが、村上春樹が敢えて『一人称単数』を提示した意味は何なのでしょう。(『一人称単数』の作品で「私」が「男」と三人称で語られたら、上記の世界を描き出すことはできないのでしょうか。)

また、『猫を棄てる』について先生が話された「因果律」という言葉のところをもっとお聞きしたいと思いました。子猫が消えることは「結果が原因をのみこむこと」「因果律を超えたもの」と話されましたが、リアリズム=因果律、システム=因果律、これとの対峙と捉えてよいのでしょうか。その時の「因果律」とは、「原因と結果」の「捏造」と関わると考えてよいのでしょうか。

毎回先生のお話に圧倒されながら、同時に雲を掴むような思いで講座の内容を反芻しています。お話本当にありがとうございます。次回もどうぞよろしくお願いいたします。
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ご講演のお礼 (望月理子)
2021-03-08 09:57:02
 6日には、文学講座に、ご講演くださいまして、本当にありがとうございました。二十数人の参加者の皆さんとともに、「近代文学の神髄」を探究する楽しい時間をいただきました。心から感謝申し上げます。拙い感想ですが、お礼にかえさせていただきます。 
 まず、一人称の語り手が二つに分かれて機能していることが今回、明確になりました。物語の中の登場人物としての「私」。物語の時空間に拘束されている存在です。その一方で物語に拘束されずに、聞き手に向かって語っている生身の語り手。この語り手は作中に組み込まれているということに納得です。『三人称単数』をこうした意識で読むことによって、作品の構造がくっきりしてきました。
 大変難しかったのが、反「私」の問題です。戦争責任の問題とのつながりがこれまで全く理解できなかったのですが、今日のお話をお聞きして、『三人称単数』の「私の中にある私自身のあずかり知らない何か」罪の意識とつながったように思います。そのことが「私」が最後の段落で別世界、第三項の世界に行ったのだと思いました。恐怖を感じます。そして、固有性が消去されることで受け継がれる主体が現れるというパラドックスが難しいのですが、ぼんやりですが向こうに感じられるようになりました。
 まもなく『都留文科大学紀要』にご発表される先生のご論文をもっと勉強したいと思います。
 本当にありがとうございました。
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