〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

読みの革命

2022-01-25 14:01:24 | 日記
 
 事態を概括し、復習しましょう。
 まず、文学作品の文章を読む行為とは説明の文章を読むこととは異なります。
 例えば家電製品の説明文であれば、この説明文を正しく読めなければ
 その文章の役割は果たせません。説明文では書かれていることは一義、
 正しく読み取ることが基本です。
 しかし、文学作品の場合はどうでしょうか。

 戦後に始まった近代文学研究は作家の伝記を考証、
 作家の意図やモチーフを読むことが主でした。
 ところがアメリカでは戦前から、作家の意図を探って読むのではなく、
 作品それ自体を、つまり、一義を正しく読もうという、
 ニュークリティシズムの運動が始まっていました。
 それは戦後、日本の近代文学研究界にも影響を与えました。
 例えば、三好行雄はこれを踏まえて、従来の考証の分野も踏まえ、
 極めて見事な作品論・作家論・文学史の認識の純粋往復運動を提唱、
 現在の近代文学研究の礎を成しました。
 私も深く三好行雄の「作品論」に感銘を受け、
 その感銘の記憶は今も変わらずに深く生きています。
 そこに1970年代、フランスからソシュールの言語学を基礎にした構造主義の諸学問、
 特に1979年、ロラン・バルトの有名な『物語の構造分析』に収められた「作品からテクスト
 へ」のテクスト論が日本にも上陸、文化研究(カルチュラルスタデーズ)が広がります。
 
 そこでどうなったでしょうか。三好作品論は「客観的現実」が実体として存在することを
 前提にし、文学作品の文章も現実の実体として存在する実体概念で捉えられていた、
 一義であることが自明、当時はこれが信じられていたのです。そこで、昏迷が起こります。
 
 私はどうでしょう。 
 1986年、「多層的意識構造の中の〈劇作者〉―『舞姫』と作者―」を日文協の大会で発表する 
 時、私はもうそこから幾分逸脱していました。
 三好からの批判も来ました。
 それはとても嬉しく思いました。
 翌年、初めて国語教育の論文「教材の力」、さらにその翌年「〈他者〉へ」を 
 書くことになります。
 何故か、何故三好作品論からこれから離脱するようになったのか、
 それは作品の構造は全て関係の構造のメカニズムで組み立てられて、
 世界は関係のメカニズムとして現れる、こう考えるようになったのです。
 やがて、文学作品の読書行為には一義の実体がないことが知らされたのです。
 2001年には「消えたコーヒーカップ」という論文を書くようになりました。
 ところが、学会の大勢は実体概念である「作品」と関係概念の「テクスト」概念の峻別が
 できないまま、今日まで、混濁しています。
 蓮實重彦氏の「表層批評」を例外にし、研究状況の大勢は
 残念ながら現在まで半世紀も昏迷が続いています。

 それは何故か。何故両者がそもそも捉えられないのか。
 
 結論を先に端的に言えば、バルトの説く「読むこと」は客体の対象の文字の羅列に
 還元できない行為だと主張しているのです。

 言わば、「読むこと」は「爆発や散布」、あるいは「横断」などと比喩される行為であり、
 それは、読者に還元しない「還元不可能な複数性」であるという指摘であります。
 読み手は文学作品を読んでも、客体の文章の一義には永遠にたどり着かない、
 還元されないでバラバラ、「複数性」に陥るという捉え方が示されたのです。

 これがが根付かなかったからです。

 バルトは「還元不可能な複数性」と、
 もう一つ、「容認可能な複数性」を説いています。
 この次元の異なる両者が峻別されないまま、
 すなわち、両者の世界観認識の相違が理解されないまま、
 昏迷の自覚がないまま半世紀も経ってしまいました。
 
 そこで少なくとも四半世紀以上、述べてきたことをここに改めて、申します。
 「読みは本質的にアナーキーだ」と理解されながらも、
 「読みの主観性」は認めないというおかしなことが国語教育界でまかり通っています。

          病膏盲(やまいこうこう)に入ると言わざるを得ません。
 
 なぜこんなことが起こっているのでしょうか。
 
 以下のことが分からないからです。
 「言語」は概念(意味するもの)と聴覚映像(意味されるもの)の両者が
 任意に結合する約束事によって発生・成立する、
 このソシュール言語学の基本の基本が国語教育・文学研究の学会に伝わっていないと私には
 思われます。
 文字なら、概念と視覚映像のカタチが任意に結合して一定の意味を表わす約束事になってい 
 る、これが文字であり、文字記号の連なりが文章です。
 我々読者は文学作品を読み返すと、文字のカタチを見て、
 その語句と語句の連なりで一定の意味を取っていきますが、
 その際、その連なりによって文脈・コンテクストが生成され、
 そこに文学の文章が生まれるのです。
 読み手は読書行為の際、一定の主体の思考・感性がその都度、微妙に動いていますか
 ら、例えば「昨日の夜は雨だった。」という意味は文脈が生成する際、
 微妙にあるいは大きく変わります。
 「夜」を「朝」に、「雨」を「晴」にはできない、
 「昨日」を「今日」と読み替えることはできないのですが、
 その意味をどうとるかは文脈が、コンテクストが決定するのです。
 それは読む主体の感受性の一回性なのです。
 つまり、「読む」とは元の文字のカタチ(意味されるもの)に還元は出来ても、
 概念(意味するもの)の連鎖によって生成された文脈・コンテクストには
 還元できないのです。
 「言語」のカタチ・視覚映像に戻り、概念はそのコンテクストでその時その時、
 微妙にあるいは大きく変容して文脈を形成し、「還元不可能」な「複数性」ならなざるを
 得ないのです。

 読みの革命の時期はもう来ています。

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5 コメント

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Unknown (周非)
2022-01-29 10:34:28
田中先生、
 先生のご論を翻訳しながら、突然、一番本源的なことが分からなくなりました。つまり、なぜ、「オリジナルセンテンス」を想定するのか、「オリジナルセンテンス」は捉えられないが存在すると、先生がおっしゃる根拠はどこにあるのか、分からなくなりました。
 もし物質であれば、例えば、山なら、言語では山そのものが捉えられないと理解できます。

 しかし、文学作品は、言語によって作る出されたものです。言語によって作り出されたものには、言語の意味そのものが、そもそもないのではないでしょうか。

 「オリジナルセンテンス」とは、意味そのものだと理解してよろしいでしょうか。

 先生が「『坊ちゃん』という作品がなければ、『坊ちゃん』を読むことができない」とおっしゃったのは、「オリジナルセンテンス」の存在を証明するためだと思います。

 しかし、この場合はの『坊ちゃん』という作品とは、紙に書かれた「元の文章・文字の羅列」になると思います。「オリジナルセンテンス」の存在の証明にはならないのではないかと思います。

 つまり、パーソナルセンテンスを拘束しているのは、「オリジナルセンテンス」ではなく、「元の文章・文字の羅列」だと考えては、何故だめでしょうか。

 一番根源的なところで、分からなくなっています。ご教示いただければと思います。よろしくお願いいたします。
返信する
周さんへ、 (田中実)
2022-01-30 13:58:04
ご質問、ありがとうございました。
 ご質問の内容にちょっと驚きました。深刻にお考えですね。そこでオリジナルセンテンスというのは何か、これをもう一度、考えてみましょう。
 その前に説明文を読むのと文学作品を読むのとは原理的に異なる、この問題はクリアーしましたか。
説明文には多様な読みを求められません。答えはひとつ、一義です。前回、書いた通りですね。文学作品を読むのはこれと全く異なります。読み手の内なる世界に現れた出来事を読み手自身が読み込んでいく、これが文学作品を読むことです。

 我々読者が文学作品を読むと、読み手各自にそれぞれ文脈・コンテクストが現れます。誰が読んでも同じ文字記号の羅列、同じ文章が、微妙に、あるいは大きく文脈の異なった文意の文章として各自に現れるのです。それを我々は読んでいる、読まされているのです。しかし、一般にこのことは当然すぎるのか、ほとんど意識されていません。そこで私はこれを意図的にパーソナルセンテンスと呼んでいます。これまで日本語で〈本文〉(ほんもん)と呼んでいましたが、これからはパーソナルセンテンスと呼ぶことにしました。そこで、実は、この時、読者には目には見えない、直接捉えられない、オリジナルセンテンス〈原文〉(げんぶん)が現象しているのです。
 何故なら、どんな読者も客体の文章そのものを捉えることは出来ない、常に各自の主体のフィルターに応じて捉えた、それぞれの出来事しか読み取るしかできません。客体そのものは捉えられないのです。そこでこれに如何にして接近するかが課題になります。我々読者は言わば永劫の沈黙する客体そのものの文章、オリジナルセンテンスをまず設定しましょう。これに向かって、自身の読みを自己更新する、これが読むことの基本です。
 
 簡潔にまとめましょう。 読書行為によって現れた客体の文章の文脈は客体そのものではなく、各自その主体に応じた出来事なのです。客体そのものはこの世の現実には永遠に捉えられない沈黙した存在でしかないのです。しかし、これに向かって読むのです。
 客体の文学作品の文章は、存在しているだけでは文字の記号の痕跡に過ぎません。読むことで、読み手に意味が現れます。読み手は言わば、己の宿命に到達するように永劫の沈黙、オリジナルセンテンスに向かって読み込むのです。

 あとは蛇足です。 
「元の文章・文字の羅列」はまだ読まれていません。これを読むとはじめて読み手の中にコンテクスト、文脈が生成されます。この自身に生成されたコンテクストを超えていくためにはオリジナルセンテンスが必要ですね。
返信する
田中先生へ (周非)
2022-01-30 19:18:31
 ご返事ありがとうございます。
 説明文の読みと文学作品の読みを分けて考えるべきこと、よく分かりました。
 下記のことについてまだよく分かりませんが、再度確認させていただければと思います。
 先生のご返事の中に、「オリジナルセンテンス〈原文〉(げんぶん)が現象しているのです。何故なら、どんな読者も客体の文章そのものを捉えることは出来ない、常に各自の主体のフィルターに応じて捉えた、それぞれの出来事しか読み取るしかできません。客体そのものは捉えられないのです。」と書かれています。
 「オリジナルセンテンス」は、「客体の文章そのもの」だと理解してよろしいでしょうか。
 それに、「客体の文章そのもの」は客体の文章の意味そのものだと理解してよろしいでしょうか。
 もしそうであれば、まだよく分からないのは、客体の文章の意味そのものが永遠に取られらないが存在すると言える根拠は、どこにあるのでしょうか。
 文章の意味自体は、そもそも、各読者が付与するものではないでしょうか。(もし物質であれば、対象そのものが永遠に捉えられないことが理解できますが。)
 つまり、文学作品の読みにおける「オリジナルセンテンス」の必要性は分かりますが、「オリジナルセンテンス」の存在根拠はまだよく分かりません。
 すみません。また考えさせていただきます。
 よろしくお願い致します。
返信する
田中先生の昨日のお電話の後に考えたこと (周非)
2022-01-31 13:14:51
田中先生、
 昨日、お電話でありがとうございました。
 先生のお話を考えております。
 自分の混濁の理由は、多分以下のようなことだと今は思います。

 自分は、物質と文章が違うと思っていました。
 物質の場合なら、言語によって物質そのものが捉えられないが、元々言語によって作られた文章には、「文章そのもの」がそもそも存在しないのではないかと思っていました。
 
 今は、物質も文章も、主体が言語によって捉えた客体の対象であり、客体の対象を捉えた時に、客体の対象そのものが捉えられないという現象が生じる、と理解しています。これが、「オリジナルセンテンス」の存在根拠だと思います。

 更に、説明文の文章なら、その文章固有の意味と価値を持たず、読み手の感受性などと関係なく、個々の言葉の約束された意味が機械的に捉えられることを要求します。なので、読み手の感受性を超えて存在する「オリジナルセンテンス」は無用です。

 文学作品の場合は、その文章固有の意味と価値を引き出す必要があり、それぞれの読み手の主体に現象するそれぞれの「パーソナルセンテンス」を相対化させ続ける必要があります。そのために、永遠に捉えられない客体の文章そのもの、「オリジナルセンテンス」を想定する必要があります。

 客体の文章そのものと「オリジナルセンテンス」は同じことを意味すると理解してよろしいでしょうか。

 現段階では、以上のように理解しております。
返信する
読みの原理のために (田中実)
2022-02-11 13:29:11
 コメント、遅くなりました。
 「オリジナルセンテンス」の必要性は分かりますが、「オリジナルセンテンス」の存在根拠はまだよく分かりません」とのこと、そこがまさに核心です。
「オリジナルセンテンス」の存在根拠は実体としてない、ないが読み手には想定できる、これを了解するかどうかが問題です。これは文学作品の〈読み〉をより価値あるものに更新していくために、あえて"措定"したのです。わたくし田中実個人が。それによって、恣意的な読みをそのまま許容するアナーキズムを斥けたのです。文学の価値を引き出すために措定したのであって、実体としてはない、これが肝要です。周さんは実体として存在していることが証明できることが存在の根拠だと誤解していませんか。
 客体そのものは永遠に捉えられない、客体そのものは未来永劫、読み手には捉えられない、そこで、読み手に現れた出来事を瓦解・倒壊させながら、読み進めていきます。「読みの動的過程」をたどるのです。これによって、文学的価値を引き出すのです。
 
 補っておきましょう。
 「客体の文章の意味そのもの」が実体として在ると考えれば、それは旧来の正解主義に逆戻りしてしまいます。
 そもそも文章は読まれてはじめてその"意味"が読み手の側に発生します。説明的文章の場合は、その性質上、書き手の伝えたい意味を正確に読み取ることを要求されますが、文学作品の文章はそうではありません。読み手のそれぞれのフィルタ―に応じて現れた対象、出来事を読むのです。読み手自身を読むのです。 
 捉えられない客体そのもの=〈第三項〉を求めて、自分自身の内奥を掘り進めるのが、文学作品を読むことです。この概念が手に入らないと、「表層批評」を踏まえて、「深層批評」に向かうプロセスには向かえません。こういう基本の基本、初歩の初歩に戻って疑問を持つことはとても大切です。
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