〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

義母の通夜に

2021-02-19 07:59:21 | 日記
 明後日は予定していた文学講座を二週間延ばしてもらい、
義母の今日の通夜と翌日の告別式に出席するため、これから
三重県の熊野に参ります。 出かける前に、一点だけ書いておきます。
一昨年『文學界』の五月号に発表された佐藤優の評論
『父と子・・猫を棄てる物語と放蕩息子のたとえ
―村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき』について、です。

先に言いますと、佐藤優は村上の『猫を棄てる』の物語を『新約聖書』の「ルカによる福音書」の
第15章の放蕩息子の話が書かれていると読んでいます。

佐藤の紹介するこの話は親の多額の財産を無理に分けてもらって勝手に出て行った息子が
放蕩し食い詰め、ただの奉公人として置いてほしいと父の元に戻ってくると、
父は死んだ子供が生きて戻ってきたと全てを許し、逆にさらに良い待遇で迎え入れる話です。

『猫を棄てる』は父親の戦争体験を村上春樹がどう受け継ぐかの話が骨子です。
そこで佐藤優はこう読むのです。
春樹の父千秋は自分が棄てた猫が自身の体験から猫が戻ってきてほっとしたであろう、
春樹の父千秋自身が若いころ、他家に養子にやられて、戻ってきたことがあるからです。
春樹の祖父弁識も、養子にやった春樹の父千秋が戻ってきてほっとしたであろう、
佐藤優は『猫を棄てる』をこの放蕩息子を父が罰するどころか、
全て喜んで許す話、ルカによる福音書の話として読みます。

佐藤優の結論は、この日本兵の「殺した側の物語」は日本にとって、
「トラウマを形成するものであっても、記憶を語り継ぐことをわれわれは
神から命じられているのである」と捉えます。
 
佐藤のこの評論自体は簡潔で、好感を持ちましたが、
これと村上が『猫を棄てる』で書いていることはその肝心なところが異なるな、と思いました。
「記憶を語り継ぐことをわれわれは神から
命じられている」としても、村上が書いていることはそれこそ記憶が作られ、
捏造されている、これをこのエッセイでは問題化しているのです。

小説家村上春樹がこの自伝的エッセイに書き残したいこととは、
記憶がそれと知らず自身で捏造されること、そこに自身の正しさ観念が生じます。
それが人類の永劫の闘い、神と神とが闘う所以でもあり、
これを超えようとしていると私なら読みます。

村上の作品『猫を棄てる』の物語は「猫を棄てる」話では終わっていない、
物語の結末は「猫が消える」話に進み、
出来事は「棄てる」話から「消える」話に転換するのです。
すなわち、「猫を棄てる」ところから始まって「猫が消える」物語に進み、
そうなると、原因と結果の因果律、相関関係が見えなくなる、「結果」は「原因」を呑み込む、
記憶は恣意的に作られる、これが悲劇を生む、自己の記憶が恣意的に作り出されて、
「正しさ」の観念を造り出す・・・、
これを克服しようと村上は筆を執ったのではないでしょうか。
そのため、自己の主体のまなざしのその「向こう」、外部に目を向けることが必要なのです。
宇宙の生成が「偶然」という、我々の思惑の外部、
我々のまなざしの「向こう」によって形成されている、
これと向き合うことを村上は要求する、こう考えます。

神から命じられている記憶を語るという思い込みを一旦粉砕すること、
その絶対性を斥けること、自己の正しさという観念を消去すること、
それを経て行くことが作家村上春樹の「書くこと」です。
「書くこと」は自身を「透明」にさせ、自身が自身のメタレベルに立つことです。
この主体のまなざしの自己消去こそ村上の文章を書く必然性、村上の各主体を形成する、
この主体の消去即顕在というパラドックスが彼の書きたいことと読みました。
如何でしょうか。

それでは行ってきます。

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