〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

あまんさんの言いたいこと

2020-09-02 09:54:58 | 日記
前回の記事で、あまんきみこさんの新刊の童話、『あるひあるとき』について書きましたが、
今回はその作品の作者あまんさんのことです。

先月中旬、この作品の刊行にあたってのインタビュー記事が複数の新聞に掲載されました。
例えば、ネットで見た「京都新聞」の記事の末尾には、
「子どもだから『罪がない』とは言えないと思います。
知らないから無邪気で人を傷つける。だから、戦前に戻らないでほしい。
人間の英知をもって戦後を続けてほしい」
という言葉で締めくくられています。
あまんさん自身は旧満州に生まれ、15歳で日本に引き揚げるまで、そこで育ったにもかかわらず、
満州国が日本の傀儡国家であり、中国の人を差別し、
犠牲にしていたことを当時全く知らなかったそうです。
そうしたことは後年国会図書館に通って調べて分かったということで、
これはそうした経験から発せられた、
「戦前に戻らないでほしい」という戦争反対を訴える重い言葉です。
そして、この「知らないから無邪気で人を傷つける」ということは、
小学校教材になっている『おにたのぼうし』でも、『白いぼうし』でも、
通奏低音のように響いています。

『おにたのぼうし』では、鬼の子のおにたが想いを寄せる女の子は、
節分の日、病気のお母さんのために、厄払いの豆まきをしたいのですが、
貧しくて家には豆がありません。
そこでおにたは女の子のために黒い豆に変身します。
女の子はそれを全く知らないまま、「おにはそと」と投げ捨てるのです。

『白いぼうし』はチョウが無邪気な幼稚園児たけお君に捕まえられて、
白いぼうしの中に閉じ込められていました。
たけお君は本物のチョウを捕まえて英雄気分、お母さんに褒めてもらおうと思っています。
末尾、そこから逃げ延びたチョウは家族らに迎えられられて、
「よかったね。」「よかったよ。」と喜び合います。

これらを読む際、肝心なことは、語られた出来事を読むだけでなく、
語られた出来事を語るナレーター、〈語り手〉との相関で読むことです。
そうすると、『おにたのぼうし』なら、知らぬこととはいえ、
女の子がおにたに如何に残酷だったか、
『白いぼうし』なら、たけお君がチョウに如何に無邪気に残酷だったか、
見えるように語られています。


また、先のインタビューの「朝日新聞」に掲載された記事は、
「戦争の根本は「相手に殺される前に殺す」ということ。戦争だけはやめてね。
若い方、どうか頑張って。私の遺言です。」
という言葉で締めくくられています。
89歳になられたあまんさんが「遺言」とまで言っているこの願いが、
『あるひあるとき』の童話には込められていることが痛いほど伝わりますが、
それは語られた出来事の筋(ストーリー・プロット)を読むだけだと不十分です。
筋を筋としている必然性を読む、私はこれを〈メタプロット〉と呼んでいますが、
これを読むことです。

〈語り手〉の「わたし」は、幼い時、こけしのハッコちゃんと二人で一人の仲、
その象徴的な一行が「わたしがかぜをひくとハッコちゃんもかぜをひきました。」です。
「わたし」が「わたし」であるのはハッコちゃんをなでなでして汚してきたからなのです。
これを読み落とさないようにしましょう。
そのハッコちゃんが日本に連れて帰れないため燃やされることになった時、
何度もハッコちゃんの頭をなでますが、その後のことを何故か、憶えていません。
だた炎の音だけがよみがえります。

ここが〈語り〉の妙、その後あとすぐ、場面は現在に移ります。
その間70年余りの「わたし」の出来事は一切、何も語られないのです。
その後、当然ながら、「わたし」にも、
結婚とか、出産とか、近親者の死亡とか、目に見える日常のもろもろの重要で
確かな現実の出来事が起こっていたはずです。
これらはここでは一切取りあげられません。
この空白を組み込んで読む、これをこの作品の筋(ストーリー・プロット)と捉えると、
この作品の〈ことばの仕組み〉が見えてきます。
これがあまんさんにとって、「遺書」としての童話である所以は、
そうしたもろもろの現実の出来事のレベルのことを語らないことで、
空白にすることで、なでなでしてきたハッコちゃんを手放し、
焼かざるを得なかったことの意味を伝え、訴えようとしているのです。

ハッコちゃんは「わたし」の中に強く生き続ているだけでなく、
ハッコちゃんが「わたし」なのです。
このことを価値の拠点にして、この戦争拒否のお話が語られています。

ハッコちゃんが燃やされた話の後、現実の事実のもろもろの出来事を飛び越え、
近所の小さい女の子ユリちゃんがこけしと一緒に眠っている冒頭の場面に戻ります。
今もハッコちゃんが強く、強く、「わたし」の中に生きているように、
これをユリちゃんとこけしに重ねて、命がつながっていくことを語ろうとしています。
末尾は「メンコ メンコト ナデラレテ コケシハ マルコクナッタノサ」、
こけしはなでられなでられ可愛がられてて丸くなった、という言葉で終わっています。

それは単に生きることの大切さを言うのでなく、
なでなでして慈しみ、つながって生きていくことに生命の価値の源泉を、
価値を、意味を見ているのです。


人々が戦争を起こすとき、自分たちを守るため、正しさのため、神様のため、
と大義名分を立てます。
日々生活にはそうしたことが付きまとって、現実があります。
これを極限化したのが、海の中、一枚の板に二人が掴まった「カルネアデスの板」の寓話です。
自分のために相手を殺すか、相手のために自分を殺すか、です。
これが現実生活の日常の底に隠れているのです。

あまんさんなら、お母さんの死、翌年結婚、出産、
そうした現実の大変大事な出来事が起こります。
その生活の底には「カルネアデスの板」が隠れています。
あまんさんはこの難問、アポリアを空白にすることで、一旦、括弧に入れる、
それによってその奥を見る、そこに人と人との、なでなで、
つながりに生命の根源を見ているのです。
そこにはどちらを殺すかの相手と自分の区別はありません。
近代的自我や自己なる観念、イデアがないのです。
ハッコちゃんは汚れて、「わたし」になっています。

自我が要求する神様の正義より、命の繋がりが根源なのです。
あまん文学の神髄がここにあります。
コメント (4)
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