前日の続きです。
(若干書き改めました。)
あらかじめ『高瀬舟』を読んできた読者に、意外と思われることを先に言っておきます。
『高瀬舟』の物語の核心であるはずの喜助の弟殺しの事件の真相は、
京都町奉行所が半年もかけて調べたこと、
ところが、奉行所の捉える枠組みのなかに事件の真相は実は、ない、
まだ隠れたままになっているのです。
いや、奉行が取り調べたこの不思議な事件、
何しろ犯人は毫光の指すように護送の役人には見える、
物語の視点人物である同心の羽田庄兵衛の捉えているパースペクティブ・まなざしにも
捉えられないものだったのです。
弟殺しの罪人喜助自身の内奥に何が起こっているのか、それは彼らには見えないのです。
そこに『高瀬舟』の仕掛け、構造があると考えます。
それでは『高瀬舟』とはいかなる小説なのか、
これから少しずつ、お話します。
喜助は羽田庄兵衛に問われ応える際、〈語り手〉はこれを喜助の長い直接話法で表現します。
それはその言葉の聴き手である物語の視点人物、羽田庄兵衛の枠組みに拘束されない、
喜助自身の内なる声を表現するためです。
そこには半年もかけて繰り返し繰り返し調べられた奉行たちとのやり取りの成果が表れています。
何度も考え抜かれたため、整いすぎるほど条理の整った説明でした。
ところが、その条理の整った説明は、誰が聴いても、同じように事態を再現できるかといえば、
そうはなりませんでした。
奉行は弟殺しの殺人この事件を喜助の「心得違い」、
誤って弟を殺してしまった過失致死だと捉え、
遠島という判決を下しました。
一方、護送の役人、同心の羽田庄兵衛の方は過失致死の考えを斥け、
楽に死なせるための安楽死による殺人と考えたのです。
それでは殺した当人の喜助はこの事件をどう捉えているか、と言えば、
お奉行様が「心得違い」であると判決を下しているので、
その通り、誤って弟を殺してしまった、といささかのわだかまりもなく受け止めています。
そこにはわずかの疑いも残していません。
〈語り手〉は、喜助は同心の庄兵衛にも「温順を装って権勢に媚びるのではない」、
「公儀の役人」を敬っていると語っていました。
喜助は、銭二百文を元手に島で働けるとの喜びを庄兵衛に告白します。
そこにもいささかの偽りはありません。
日頃金銭で不足を憶える庄兵衛から見ると、銭二百文で満足して喜ぶ喜助と自分とは、
まるでそろばんの桁が違うように違っているだけではない、
苛酷な境遇に不平不満がなく満足し、受け入れている、
偉大なる人物ではないかとの思いが起こり、
喜助の姿が仏のごとく、毫光がさすような立派な人物に見えます。
喜助を心から尊敬しているのです。
だからです。
そういうまなざしでこの弟殺しの事件のことを捉えているから、
当初から奉行らと見方が異なるのです。
次は庄兵衛の内なる声、庄兵衛の解釈です。
弟は剃刀を抜いてくれたら死なれるだらうから、抜いてくれと云つた。
それを抜いて遣って死なせたのだ、殺したのだとは云はれる。
しかし、其儘にして置いても、どうせ死ななくてはならぬ弟であつたらしい。
それが早く死にたいと云つたのは、苦しさに堪へなかつたからである。
喜助は其苦を見てゐるに忍びなかつた。苦から救つて遣らうと思つて命を絶つた。
それが罪であらうか。
庄兵衛の解釈では喜助は弟殺しの罪を犯したのではない、
弟を殺したのは弟の苦から救うための行為、
今で言うユウタナジ―、安楽死させたのであり、
「心得違い」などをしていない、むしろ殺す形で苦から救った、「心得」てなしたのです。
それでは奉行はどう見ていたのか。
弟は喉に突き刺さった刃で苦しみ、喜助に早く抜いてくれと、
「敵の顔でも睨むやうな、憎々しい目」になって訴えます。
そこで、喜助は次のように言います。
わたくしは剃刀を抜く時、手早く抜かう、真直に抜かうと云ふだけの用心はいたしましたが、
どうも抜いた時の手応は、今まで切れてゐなかつた所を切つたやうに思はれました。
刃が外の方へ向いてゐましたから、外の方が切れたのでございませう。
この喜助の発言・告白を奉行はしっかりと受け止めて、
事件の出来事を正確につかみ取っています。
すなわち、喜助は弟の苦痛を取り除くため、剃刀を手早く抜こうとして、
引き抜くとき、思わず刃が外に向いて喉笛を切ってしまった、
この後気づくと弟は死んでいた、弟の死はこれが決定した、
つまり、喜助が誤って喉笛を切ったことが致命傷となった、こう判断したのです。
喜助の発言には直接的に殺そうという意志や意識は現れていません。
喉に剃刀の刺さったままの状態はまだ死ぬかどうか、決まったわけではない、
弟の要求に応じて剃刀を抜いた際の手違いで弟は死んだのです。
喜助は図らずも殺したのだから、それは「心得違い」、過失致死なのです。
奉行は庄兵衛のような先入観はありません。
奉行に敬意を抱きながらも、今回の件では「腑に落ち」ない庄兵衛が、
もし、実際奉行に聞いて見たら、奉行は庄兵衛の勘違い、思い込みを
理路整然と「条理」に基づいて説明できるはずです。
ところが、これを語っているナレーターはその奉行とも、庄兵衛とも異なる、
もちろん喜助当人の意識とも異なる、別の解釈に基づいて、
この物語を語り始めていたのです。
いわば、この物語は語られている登場人物たち、
すなわち、奉行・喜助、庄兵衛、ナレーター、この四つのまなざし、
四つの時空のコンテクストがすれ違いながら交差していたのです・・・。
後は次回にしましょう。
(若干書き改めました。)
あらかじめ『高瀬舟』を読んできた読者に、意外と思われることを先に言っておきます。
『高瀬舟』の物語の核心であるはずの喜助の弟殺しの事件の真相は、
京都町奉行所が半年もかけて調べたこと、
ところが、奉行所の捉える枠組みのなかに事件の真相は実は、ない、
まだ隠れたままになっているのです。
いや、奉行が取り調べたこの不思議な事件、
何しろ犯人は毫光の指すように護送の役人には見える、
物語の視点人物である同心の羽田庄兵衛の捉えているパースペクティブ・まなざしにも
捉えられないものだったのです。
弟殺しの罪人喜助自身の内奥に何が起こっているのか、それは彼らには見えないのです。
そこに『高瀬舟』の仕掛け、構造があると考えます。
それでは『高瀬舟』とはいかなる小説なのか、
これから少しずつ、お話します。
喜助は羽田庄兵衛に問われ応える際、〈語り手〉はこれを喜助の長い直接話法で表現します。
それはその言葉の聴き手である物語の視点人物、羽田庄兵衛の枠組みに拘束されない、
喜助自身の内なる声を表現するためです。
そこには半年もかけて繰り返し繰り返し調べられた奉行たちとのやり取りの成果が表れています。
何度も考え抜かれたため、整いすぎるほど条理の整った説明でした。
ところが、その条理の整った説明は、誰が聴いても、同じように事態を再現できるかといえば、
そうはなりませんでした。
奉行は弟殺しの殺人この事件を喜助の「心得違い」、
誤って弟を殺してしまった過失致死だと捉え、
遠島という判決を下しました。
一方、護送の役人、同心の羽田庄兵衛の方は過失致死の考えを斥け、
楽に死なせるための安楽死による殺人と考えたのです。
それでは殺した当人の喜助はこの事件をどう捉えているか、と言えば、
お奉行様が「心得違い」であると判決を下しているので、
その通り、誤って弟を殺してしまった、といささかのわだかまりもなく受け止めています。
そこにはわずかの疑いも残していません。
〈語り手〉は、喜助は同心の庄兵衛にも「温順を装って権勢に媚びるのではない」、
「公儀の役人」を敬っていると語っていました。
喜助は、銭二百文を元手に島で働けるとの喜びを庄兵衛に告白します。
そこにもいささかの偽りはありません。
日頃金銭で不足を憶える庄兵衛から見ると、銭二百文で満足して喜ぶ喜助と自分とは、
まるでそろばんの桁が違うように違っているだけではない、
苛酷な境遇に不平不満がなく満足し、受け入れている、
偉大なる人物ではないかとの思いが起こり、
喜助の姿が仏のごとく、毫光がさすような立派な人物に見えます。
喜助を心から尊敬しているのです。
だからです。
そういうまなざしでこの弟殺しの事件のことを捉えているから、
当初から奉行らと見方が異なるのです。
次は庄兵衛の内なる声、庄兵衛の解釈です。
弟は剃刀を抜いてくれたら死なれるだらうから、抜いてくれと云つた。
それを抜いて遣って死なせたのだ、殺したのだとは云はれる。
しかし、其儘にして置いても、どうせ死ななくてはならぬ弟であつたらしい。
それが早く死にたいと云つたのは、苦しさに堪へなかつたからである。
喜助は其苦を見てゐるに忍びなかつた。苦から救つて遣らうと思つて命を絶つた。
それが罪であらうか。
庄兵衛の解釈では喜助は弟殺しの罪を犯したのではない、
弟を殺したのは弟の苦から救うための行為、
今で言うユウタナジ―、安楽死させたのであり、
「心得違い」などをしていない、むしろ殺す形で苦から救った、「心得」てなしたのです。
それでは奉行はどう見ていたのか。
弟は喉に突き刺さった刃で苦しみ、喜助に早く抜いてくれと、
「敵の顔でも睨むやうな、憎々しい目」になって訴えます。
そこで、喜助は次のように言います。
わたくしは剃刀を抜く時、手早く抜かう、真直に抜かうと云ふだけの用心はいたしましたが、
どうも抜いた時の手応は、今まで切れてゐなかつた所を切つたやうに思はれました。
刃が外の方へ向いてゐましたから、外の方が切れたのでございませう。
この喜助の発言・告白を奉行はしっかりと受け止めて、
事件の出来事を正確につかみ取っています。
すなわち、喜助は弟の苦痛を取り除くため、剃刀を手早く抜こうとして、
引き抜くとき、思わず刃が外に向いて喉笛を切ってしまった、
この後気づくと弟は死んでいた、弟の死はこれが決定した、
つまり、喜助が誤って喉笛を切ったことが致命傷となった、こう判断したのです。
喜助の発言には直接的に殺そうという意志や意識は現れていません。
喉に剃刀の刺さったままの状態はまだ死ぬかどうか、決まったわけではない、
弟の要求に応じて剃刀を抜いた際の手違いで弟は死んだのです。
喜助は図らずも殺したのだから、それは「心得違い」、過失致死なのです。
奉行は庄兵衛のような先入観はありません。
奉行に敬意を抱きながらも、今回の件では「腑に落ち」ない庄兵衛が、
もし、実際奉行に聞いて見たら、奉行は庄兵衛の勘違い、思い込みを
理路整然と「条理」に基づいて説明できるはずです。
ところが、これを語っているナレーターはその奉行とも、庄兵衛とも異なる、
もちろん喜助当人の意識とも異なる、別の解釈に基づいて、
この物語を語り始めていたのです。
いわば、この物語は語られている登場人物たち、
すなわち、奉行・喜助、庄兵衛、ナレーター、この四つのまなざし、
四つの時空のコンテクストがすれ違いながら交差していたのです・・・。
後は次回にしましょう。