Nat King Cole- Mona Lisa.avi
30日は父の一周忌で里帰りをしていました。Mona Lisaは、父の葬儀の際に流していた曲です。ナットキングコールの曲は葬儀で流していても暗くならず、軽快な感じです。一週間前に父の誕生日を迎えた兄がベスト盤のCDをプレゼントに買って来てたものです。
父には弟がいました。その弟とは喧嘩も耐えず、父が興した会社が倒産しそうになったドサクサの時に弟が建て直して自分の会社にしたりしたことで色々とイザコザがありました。その後、父は経営者から社員という少し寂しい立場になった経緯があります。
仕事のない弟の相談にのって、京都から金沢に呼び一緒にダクトの仕事をしようと教えたのも父で、生活面での援助もしていたこともあり兄弟の立場が逆転して、どんな気持ちだったのかな?と考えると切ないです。弟だけでなく、祖母と妹(伯母)2人も金沢に出て来て生活の面倒を落ち着くまで見てあげたり、妹の旦那にもダクトの仕事を教えたのも父だったそうで、一家の貢献度は高かったのです。「兄さんがいたから私たちの今があるのね。」と伯母が先日の法要の際に言っていましたが、本当にそうだなぁとつくづく思います。
倒産後は一応、専務という役はもらっていたけど、自分は元社長で兄であるという気持ちがあり弟はドライな感じで社長という立場で接するし、母の話しを聞くと「軽視されてた」と言うので父は若い頃は腹も立ってたでしょうね。でも、仕事ができれば満足というお気楽な面もあったと思います。経営と職人の二つは器用にできる方ではなかったでしょうから、結果、よかったのかもね。って感じます。
父は仕事が好きでした。中学を卒業して見習いとして働き、母(祖母)と3人の弟と妹のために仕送りをしながら身につけた仕事でしたが、建物の空調を整えるには欠かせない技術で、その技術は他の業者からも「兄貴に任せておけば安心」と定評があり、私が思っている以上に仕事のできる父だったのだと思います。だから、末の兄が同じ職場で仕事をしていると「兄貴の息子やな~」と納得されることもしばしば。当時のその業界では、名は知れ渡っていたらしいです。
当時は私は幼児だったので詳しいことはわかりません。だから、イザコザがどういうものだったのかわからないけど、今はそれでいいのじゃないかと思っています。伯父(弟)は私たち家族のピンチも助けてくれたので、本当のところ持ちつ持たれつ間柄だったのだと思います。
どちらかというと父が悲しい気持ちでいたのは定年を迎えてからのことです。父の中には定年を迎えても会社内で後進の指導も兼ねて、現場に出ることはなくともまだまだ働けると思っていました。親戚であるから、働かせてくれるだろうと思っていたところに、定年で退職してくれと言われたことが悲しかっただろうと思います。それも、昔のイザコザの借金があるから「退職金をだせないし、解雇という形にして雇用保険をもらえるようにするから」と言われたことにあったと思います。お金は貰えても「解雇」じゃねぇ。そして自分はいつまでも兄弟だと思っていた弟から、関係を切られたような寂しさを味わったこともあるのでしょう。そのショックから定年後すぐに、突発性難聴炎になったり荒れていたそうです。しかし、伯父側にも経営者としての理由はあったことでしょうから、仕方がないのことです。
母にこの話をすると、粘着力の強い感じで話し出すので嫌なのです。話す人が私ぐらいしかいないのはわかるのですが、冷静に聞くと過剰な被害者意識と恩着せがましい感じが溢れて来ます。
肝っ玉母さんも血の濃い親戚が絡むと、過去を消化するには時間がいるようで「そんな風に言うのやめよう」と言ってやっと我に帰ります。自分では粘着力の強い念を出してる気はないのです。この無意識な感じが私は引いてしまいます。
過去は気持ちひとつで、きれいにできるというか、前向きに生きる手立てにもできる思います。相手やその時の状況を想像すると「人は完璧ではない」と感じます。人間だから間違えるし、お金や地位に目が眩むこともあったり。。。
でも、今はこれからは、きっと違う。間違いに気づいて、やり直したい気持ちでいるかもしれない・・・ってそんな気持ちを持つと、明るくもなるし父も喜ぶでしょう。いろいろとあっても兄弟で家族だったのですから。
そんな伯父は父よりも早く体が弱くなり、父が亡くなる1カ月半前に先に旅立ちました。その3カ月前に車椅子に乗って面会したのが最後でした。伯父は喉を切開していたので話しはできませんでしたが、2人会話はせずとも手に手をとって感慨深い面会をしたそうです。
伯父はどう思っていたかはわかりませんが、父は兄弟の父親代わりをしていた性分もあり、自分が寝たきりになっても伯父のことを心配していました。
だから、先に弟が逝ってしまったことを告げずにこの世を送り出しました。じゃないと、またショックで悪化するかわからないからです。
あの世に逝ってから、弟と再会してびっくりしてるかもしれないですけど。
伯父のお堅い会社葬をした後の、父の葬儀は雰囲気が全くちがって、とても和やかな晴れやかさがありました。いつもと変わらない風景の中、穏やかな気持ちで76歳の人生の幕を閉じることができてよかったと母は言っています。その時も、誕生日プレゼントに贈られたナットキングコールは側で鳴っていたそうです。
前日にお風呂も入って、旅立ちの準備は万全の中でお迎えが来たようです。父の亡くなり方は、旅立ちを準備していったかのようにとても、キレイなものでした。
仕事が趣味とも言える父には、定年後のしばらくは辛かったことでしょう。それでも、家にいるよりは仕事をしていたかったので、知り合いの所に行ってダクト仕事をしていました。
父にとっては「仕事をすることが生きること」だったのかもしれないです。
仕事で嫌なことがあっては、愚痴もいっぱい言ったり喧嘩もしたりしたけど、それでも考えてみたら見習いの時から54年間も同じ仕事をしていたのだから「すごいねぇお父さん」と思っています。
ダクトの仕事は高所作業も多く危険を伴います。私がまだ、生まれていなかった頃に建設中の生命保険会社のビルの2階から地下まで落ちたそうです。命綱を運悪くつけてなかったのですが、不幸中の幸いで脊椎を損傷していなかったから、足が不自由になることもありませんでした。また、今の天皇陛下が即位された「即位の礼」の中継をみたいが為に、慌てて鉄骨を何かの拍子に足に落として、骨折してしまい入院した話は、母に聞いてちょっと笑ってしまったのですが、本当に怪我をしても、仕事が好きで仕事を続けていたのだから「流石だよね。」と思っています。
生まれる前のことで、知らなかった父の苦労も辛さも、楽しい嬉しい思い出と同じくらい、亡くなると輝きの増す宝石のようです。
父が携わったビル・建物は数知れず。高度成長期の建設の際は名古屋や東京にも仕事がありました。空調なので人様から見えることはないけど自分の子供のようにその場のことを大切にしていたと思います。
父の生きて来た何よりも貴重な財産は、仕事人間だったので、この仕事に出会えたことと、他の業者と共にビル・建物をつくり上げたことではないかなーと思います。その勤勉で仕事一筋、天然ボケなお人よしの父の後姿を見て育った私たちも、幸せな子供で過ごせました。
父が亡くなった6月30日は私たち夫婦の結婚記念日でもありました。
でも、父も神様と結婚してお迎えが来たのかもしれない。ってそんな風に思うと良い旅立ちでもあったので寂しさより、安堵感とこの日を迎えられた全てのことに感謝の気持ちでいっぱいでした。
Mona Lisaを流した会場はとても暖かい空気に囲まれていて、父も喜んでくれたことだと思います。お父さん、ありがとうね。
家族のことを書くのは、どうかと思う気持ちがありました。照れくさい恥ずかしい気持ちもちょっとあったり。だけど、旅立ってる父のプレゼントは手紙かと思いました。6月は父の日と誕生日もあったので。今日も、ありがとうございます。
30日は父の一周忌で里帰りをしていました。Mona Lisaは、父の葬儀の際に流していた曲です。ナットキングコールの曲は葬儀で流していても暗くならず、軽快な感じです。一週間前に父の誕生日を迎えた兄がベスト盤のCDをプレゼントに買って来てたものです。
父には弟がいました。その弟とは喧嘩も耐えず、父が興した会社が倒産しそうになったドサクサの時に弟が建て直して自分の会社にしたりしたことで色々とイザコザがありました。その後、父は経営者から社員という少し寂しい立場になった経緯があります。
仕事のない弟の相談にのって、京都から金沢に呼び一緒にダクトの仕事をしようと教えたのも父で、生活面での援助もしていたこともあり兄弟の立場が逆転して、どんな気持ちだったのかな?と考えると切ないです。弟だけでなく、祖母と妹(伯母)2人も金沢に出て来て生活の面倒を落ち着くまで見てあげたり、妹の旦那にもダクトの仕事を教えたのも父だったそうで、一家の貢献度は高かったのです。「兄さんがいたから私たちの今があるのね。」と伯母が先日の法要の際に言っていましたが、本当にそうだなぁとつくづく思います。
倒産後は一応、専務という役はもらっていたけど、自分は元社長で兄であるという気持ちがあり弟はドライな感じで社長という立場で接するし、母の話しを聞くと「軽視されてた」と言うので父は若い頃は腹も立ってたでしょうね。でも、仕事ができれば満足というお気楽な面もあったと思います。経営と職人の二つは器用にできる方ではなかったでしょうから、結果、よかったのかもね。って感じます。
父は仕事が好きでした。中学を卒業して見習いとして働き、母(祖母)と3人の弟と妹のために仕送りをしながら身につけた仕事でしたが、建物の空調を整えるには欠かせない技術で、その技術は他の業者からも「兄貴に任せておけば安心」と定評があり、私が思っている以上に仕事のできる父だったのだと思います。だから、末の兄が同じ職場で仕事をしていると「兄貴の息子やな~」と納得されることもしばしば。当時のその業界では、名は知れ渡っていたらしいです。
当時は私は幼児だったので詳しいことはわかりません。だから、イザコザがどういうものだったのかわからないけど、今はそれでいいのじゃないかと思っています。伯父(弟)は私たち家族のピンチも助けてくれたので、本当のところ持ちつ持たれつ間柄だったのだと思います。
どちらかというと父が悲しい気持ちでいたのは定年を迎えてからのことです。父の中には定年を迎えても会社内で後進の指導も兼ねて、現場に出ることはなくともまだまだ働けると思っていました。親戚であるから、働かせてくれるだろうと思っていたところに、定年で退職してくれと言われたことが悲しかっただろうと思います。それも、昔のイザコザの借金があるから「退職金をだせないし、解雇という形にして雇用保険をもらえるようにするから」と言われたことにあったと思います。お金は貰えても「解雇」じゃねぇ。そして自分はいつまでも兄弟だと思っていた弟から、関係を切られたような寂しさを味わったこともあるのでしょう。そのショックから定年後すぐに、突発性難聴炎になったり荒れていたそうです。しかし、伯父側にも経営者としての理由はあったことでしょうから、仕方がないのことです。
母にこの話をすると、粘着力の強い感じで話し出すので嫌なのです。話す人が私ぐらいしかいないのはわかるのですが、冷静に聞くと過剰な被害者意識と恩着せがましい感じが溢れて来ます。
肝っ玉母さんも血の濃い親戚が絡むと、過去を消化するには時間がいるようで「そんな風に言うのやめよう」と言ってやっと我に帰ります。自分では粘着力の強い念を出してる気はないのです。この無意識な感じが私は引いてしまいます。
過去は気持ちひとつで、きれいにできるというか、前向きに生きる手立てにもできる思います。相手やその時の状況を想像すると「人は完璧ではない」と感じます。人間だから間違えるし、お金や地位に目が眩むこともあったり。。。
でも、今はこれからは、きっと違う。間違いに気づいて、やり直したい気持ちでいるかもしれない・・・ってそんな気持ちを持つと、明るくもなるし父も喜ぶでしょう。いろいろとあっても兄弟で家族だったのですから。
そんな伯父は父よりも早く体が弱くなり、父が亡くなる1カ月半前に先に旅立ちました。その3カ月前に車椅子に乗って面会したのが最後でした。伯父は喉を切開していたので話しはできませんでしたが、2人会話はせずとも手に手をとって感慨深い面会をしたそうです。
伯父はどう思っていたかはわかりませんが、父は兄弟の父親代わりをしていた性分もあり、自分が寝たきりになっても伯父のことを心配していました。
だから、先に弟が逝ってしまったことを告げずにこの世を送り出しました。じゃないと、またショックで悪化するかわからないからです。
あの世に逝ってから、弟と再会してびっくりしてるかもしれないですけど。
伯父のお堅い会社葬をした後の、父の葬儀は雰囲気が全くちがって、とても和やかな晴れやかさがありました。いつもと変わらない風景の中、穏やかな気持ちで76歳の人生の幕を閉じることができてよかったと母は言っています。その時も、誕生日プレゼントに贈られたナットキングコールは側で鳴っていたそうです。
前日にお風呂も入って、旅立ちの準備は万全の中でお迎えが来たようです。父の亡くなり方は、旅立ちを準備していったかのようにとても、キレイなものでした。
仕事が趣味とも言える父には、定年後のしばらくは辛かったことでしょう。それでも、家にいるよりは仕事をしていたかったので、知り合いの所に行ってダクト仕事をしていました。
父にとっては「仕事をすることが生きること」だったのかもしれないです。
仕事で嫌なことがあっては、愚痴もいっぱい言ったり喧嘩もしたりしたけど、それでも考えてみたら見習いの時から54年間も同じ仕事をしていたのだから「すごいねぇお父さん」と思っています。
ダクトの仕事は高所作業も多く危険を伴います。私がまだ、生まれていなかった頃に建設中の生命保険会社のビルの2階から地下まで落ちたそうです。命綱を運悪くつけてなかったのですが、不幸中の幸いで脊椎を損傷していなかったから、足が不自由になることもありませんでした。また、今の天皇陛下が即位された「即位の礼」の中継をみたいが為に、慌てて鉄骨を何かの拍子に足に落として、骨折してしまい入院した話は、母に聞いてちょっと笑ってしまったのですが、本当に怪我をしても、仕事が好きで仕事を続けていたのだから「流石だよね。」と思っています。
生まれる前のことで、知らなかった父の苦労も辛さも、楽しい嬉しい思い出と同じくらい、亡くなると輝きの増す宝石のようです。
父が携わったビル・建物は数知れず。高度成長期の建設の際は名古屋や東京にも仕事がありました。空調なので人様から見えることはないけど自分の子供のようにその場のことを大切にしていたと思います。
父の生きて来た何よりも貴重な財産は、仕事人間だったので、この仕事に出会えたことと、他の業者と共にビル・建物をつくり上げたことではないかなーと思います。その勤勉で仕事一筋、天然ボケなお人よしの父の後姿を見て育った私たちも、幸せな子供で過ごせました。
父が亡くなった6月30日は私たち夫婦の結婚記念日でもありました。
でも、父も神様と結婚してお迎えが来たのかもしれない。ってそんな風に思うと良い旅立ちでもあったので寂しさより、安堵感とこの日を迎えられた全てのことに感謝の気持ちでいっぱいでした。
Mona Lisaを流した会場はとても暖かい空気に囲まれていて、父も喜んでくれたことだと思います。お父さん、ありがとうね。
家族のことを書くのは、どうかと思う気持ちがありました。照れくさい恥ずかしい気持ちもちょっとあったり。だけど、旅立ってる父のプレゼントは手紙かと思いました。6月は父の日と誕生日もあったので。今日も、ありがとうございます。
お父様との思い出の曲なんですね。
貴重なお父様とのエピソードを読ませていただき、とても感慨深かったです。
こちらブログの設定でトラックバックは30日以内の記事しか受け付けなかったようです。
Def Techの記事は30日以上前のものでした。
僕は音楽、特にジャズが大好きです。
こちらは色々音楽の情報を載せているので、とても興味を持ちました。
僕のブログにこちらのブログをブックマークさせていただきましたので、よろしくお願いいたします。
またお邪魔させていただきます☆