ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

全く的外れな法相批判

2007年08月26日 | 死刑制度
 先日、長勢法相の3名の死刑囚の死刑に対し、死刑廃止議連が抗議したようだが、それについて違和感を感じた。以下、法相の死刑執行命令は当然ということを述べていく。 

 まず、刑事訴訟法475条2項には、死刑の執行の命令は「判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない」と規定されている。最高裁でこの規定は訓示にすぎないという判示がなされてはあるものの、具体的日数を挙げて死刑の執行を定めている以上、蔑ろにはできないはずである。
 死刑の執行は、本来ならば可及的速やかに行われなくてはならない、法務大臣の重要な任務なのである。

 現在の法相である長勢氏の前任であった杉浦氏は、自身の思想信条を理由に死刑執行を拒みつづけた。いつの日の産経新聞の記事かは覚えていないが、法務省の職員は辞任直前の杉浦氏に、確実に死刑を執行すべき幾人かを選び出し、それへの署名を迫ったが、彼が書類にサインをすることはなかった。
 法務省の職員が、辞任寸前の大臣に死刑執行予定者を提示し、その執行を迫ること自体は、しばしばあることで珍しくはないが、そんな杉浦氏の後任に長勢氏が同ポストに就任した。これは見方を変えれば、それまでの法相の職務怠慢を、長勢氏が処理しているということになる。 むしろ、この見方のほうが正しい。

 現在の厳罰化の流れは、誰が法務大臣になるかを考えてその流れを緩やかにしたり急にしたりするものではない。悠長に自身の思想信条を盾に死刑の執行を拒絶し続けていても、現場(裁判所)では死刑判決が出され、その数は増える。死刑を言い渡された被告人の数が3桁を突破したというニュースも記憶に新しい。では、もし法相が死刑の執行を拒み続けたら、それはどういうことを意味するか。

 死刑囚とは、日本国内において規定された適正な法手続(due process of law)を経て、その刑を決定された者だ。決して無法な復讐劇の被害者ではない。

 ということは、法的手続きはきちんと踏んできたということになる。換言すれば、適法な手続きの積み重ねの結果ということになる。そこで法相がその最終決定を保留しつけるということは、法治国家ならぬ「放置国家」であるということを意味する。国家の法体系の総元締めとも言える法務省の大臣が、法的に決定されたことに従わないということは、法の自殺行為であるとすら言える。
 法相のエゴイズムのために、それまで「生きた法」であったものを「死んだ法」へと転換するということである。

 死刑制度の廃止を主張すること自体を否定するつもりはない。しかし、死刑制度を廃止したいのならば、法務省に抗議に行くのではなく、それに向けた法的手続きを示すのが、法治国家における立法府の議員のあるべき姿ではないだろうか。

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