ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

死刑が廃止された場合の状況を想定してみた

2008年05月07日 | 死刑制度
 今回ここで述べる見解は、はっきり言って何ら根拠のない、私の推測によるものですから、もしかしたら杞憂に終わるかも知れませんし、そうではないかも知れません。



 日本の死刑制度が仮に廃止されたとしよう。そして廃止後の最高刑が、仮釈放なしの終身刑が導入された場合と、無期懲役が最高刑になった場合との二つに分けて考えてみよう。

 前者の場合、仮釈放なしの終身刑である以上、この刑に服する者は、一生を塀の中で過ごすことになる。もちろん、外部の生活に戻れることはない。しかし、死刑という制度がなくなった以上、この囚人らの一生の「お世話」は、我々国民の税金によってしなくてはならない。

 仮に40歳で終身刑の刑に服し、日本人のおおよその平均寿命である80歳まで生きたとしたら、この者の残り40年間の人生を、税金によって支えていくことになる。一人の囚人を一生塀の中で生かしておくだけのために、何千万円、何億円という巨額の税金がつぎ込まれることになる。このことに国民の理解は得られるか。

 しかも、以前も述べたが、このような「生かさぬよう、殺さぬよう」みたいな状態で、ただ「命だけは取られていない」状態で、国家によって「生かされているだけ」の状態が、果たしてこの囚人も含め、国民全体にとって有益なことだろうか。もっと言えば、これこそ憲法の禁じる「残虐な刑罰」(36条)ではないのか。



 後者の場合、仮に今の保護観察制度の下で、死刑制度があれば死刑相当だった犯罪者を社会復帰させた場合、果たして大丈夫だろうか。大丈夫だろうか、というのは、社会がこのような人間を受け入れるような土壌かということと、現在の保護観察制度では、あまりに覚束ないという両方の意味でである。

 社会は死刑相当だった犯罪者を唯々諾々と受け入れるほど寛容ではないと思うし、このような犯罪者ならば、刑の確定までに相当にセンセーショナルにマスコミなどによって報道されるだろうから、それによるレッテル貼りも相当にされていると思う。社会の目は冷ややかなものであるに決まっている。

 そして、現在の保護観察の運用では、社会復帰を目指した更正・矯正教育などほぼ無力だろう。現在、保護監察官が一人あたり抱えている保護観察者数は、数百件にのぼるといい、もはや保護監察官による対象者一人ひとりにきめ細かい対応など到底望めない状況であるし、保護司も多くは篤志家であったり、ボランティアであったりする。年齢も高齢化が進んでいる。保護司の報酬というのも、コーヒー代程度の些細なものである。

 適切な社会復帰教育もままなっていない現在の保護観察制度を改めないまま、ただ人権への配慮一辺倒で死刑を廃止しても、状況は改善されないだろう。もちろん、再犯率をゼロにすることは不可能だろうが、現状を改善しようとせずに死刑制度だけを先に廃止しても、国民の体感治安の悪化が進むだけではないだろうか。



 そして、これは両者のケースに該当するだろうが、特に後者のケースに言えることだと思うが、仮に死刑制度が廃止された場合、国民はより過激な刑罰を求めはしないだろうか。

 死刑よりも過激な刑罰なんて存在しないと思うかもしれないが、たとえば山口県光市の母子殺害事件が、もし死刑制度の廃止された日本で起こっていたとしたら、世論が「死刑がないのならば、せめて去勢したり断種したりぐらいしろ!」と要求してくるかもしれない。もしかしたら、体内にGPSなどを埋め込まれたまま、24時間一生監視されるようになるかもしれない。これのほうが、実は死刑にされるよりも、遥かに犯罪者の人権を蹂躙していることにはなりはしないか。生きていれば人権は保障されるなどと思ったら、それは大間違いである。



 思うに、刑罰の本質は応報であり、ある意味「見せしめ」である。国民は、凶悪な犯罪者に国家が国民に代わり死刑を執行することにより、国民の「憂さ」を晴らし、犯罪に対して国民が募らせているフラストレーションの「ガス抜き」をしているのではないか。しかし、死刑が廃止されてもガスは溜まるので、これを別のやり方で抜かないといけなくなるので、先に挙げたようなことになりかねないのではないかと思うのである。死刑がそこで絶妙のバランスを保ち、凶悪な犯罪者を絶つことにより、社会を防衛し、国民の憂さも晴らす。死刑が存在することによって、刑罰の運用が実は上手くいっているのではないかとも思う。

 しかし、いくら何でも「市中引き回しの上、打ち首」というような死刑の仕方は残虐なのは言うまでもないが、今の絞首刑といっても、極力犯罪者に苦痛を与えないで死刑を執行する方法を模索しなければならない。これは、死刑廃止派に、「死刑はやっぱり残虐だから廃止すべき!」という批判の口実を与えないためでもある。

 アメリカでは毒物投与による死刑執行が残虐であるとして違憲とする判決が最近出たが、それでも薬物投与による死刑の執行は、死刑囚に無駄な精神的負担を与えず、しかも国民の憂さを晴らすという点では、一考に値する死刑の執行方法であると思う。やり方次第では、絞首刑よりも刑務官の肉体的、精神的な負担も少ないかも知れない。



 死刑制度というのは、やはり人間社会にとってなくてはならない「必要悪」なのであろう。

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