ひとり井戸端会議

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死刑廃止論者の言いがかり

2011年01月16日 | 死刑制度
死刑「欠陥抱えた刑罰」=世論踏まえ執行判断―江田法相(時事通信) - goo ニュース

 江田五月法相は14日夜の記者会見で、死刑執行について「死刑というのはいろんな欠陥を抱えた刑罰だ。国民世論や世界の大きな流れも考え、政治家として判断すべきものだ」と述べ、世論の動向などを踏まえて慎重に判断する考えを示した。
 江田氏は「もともと人間はいつかは命を失う存在だ。そう(執行を)急ぐことはないじゃないかという気はする」とも指摘。ただ、制度の存廃に関しては「勉強したい」と述べるにとどめた。



 江田氏は就任早々、自分の職務の一つを放棄する可能性があると言い切った。本来なら、これだけで罷免に値する。死刑執行は法相の重要な職務である以上、死刑制度に否定的な社会党出身者を法相に充ててはならない。


 江田氏は「死刑という刑罰はいろんな欠陥を抱えた刑罰だと思う」と述べたというが、それならば彼には、死刑制度がどのように、なぜ欠陥を抱えているのか具体的に説明する責任がある。「思う」だけでなく、どうしてそのような結論に至ったのか、きちんと説明する義務がある。

 何故ならば、死刑制度は憲法上容認され、法律において規定され、また国民の大多数の支持も受け、裁判上実際に言い渡されている刑罰であるにもかかわらず、その刑罰の執行権限を有する大臣がこれに異議を唱えたからである。


 また江田氏は、死刑制度について「世界の流れ」を考慮すべしと言うが、これもまたおかしな理屈である。

 というのは、死刑制度は死を扱うものであって、その国や地域のもつ死への考え方が如実に表れるものであり、その国や地域の死生観にかかわることである。そういった問題を、文化や宗教の異なる海外の国が死刑を廃止しているからといって、これに従うべきと考えるべきではないと思うからである。

 したがって、死刑制度を存続させるか廃止するかを決定する基準は、海外の動向ではなく、死刑という法制度を有している国の国民の考え方であるのではないか。



 そもそも、「欠陥」を抱えていない刑罰など果たして存在するのだろうか。刑罰の根拠である法は人間が作る以上、人間は無謬の存在ではないのだから、人間が作ったものに欠陥がないと考えるほうがどうかしている。人間の作ったものに無謬性を求めるというのは、左翼の発想である。

 また、欠陥性を言うのであれば、それこそ「子ども手当」や「高校無償化」のほうが、死刑制度よりもはるかに多くの欠陥を抱えていると、私は「思う」のだが。



 法務大臣に就任したからには、職務の一つに欠陥があるからといってこれの放棄を示唆するような発言は断じて許されない。彼の理屈に従えば、「子ども手当」を欠陥と考える役所の職員が、市民への子ども手当の支給を拒否することだって可能と言わなければならない。

 つまり、彼の理屈でいけば、いくらでも職務の放棄が許されるということになってしまう。これでは国家として立ち行かなくなるのは明白である。


 法相の職務として死刑執行が現にある以上、これにイチャモンをつけて署名を拒否するのではなく、同制度に欠陥があると考えるのなら、その「欠陥」はどうすれば除去ないしは緩和できるのか考えることこそ、彼の職務遂行においてあるべき姿である。

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