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ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

一切の「人道支援」も断つべし

2009年05月27日 | 外交事情考察
厳しい安保理決議は不可避=北核実験でロシア(時事通信) - goo ニュース

 インタファクス通信によると、ロシア外務省筋は26日、核実験を強行した北朝鮮に対する国連安保理決議が厳しい内容になるとの見通しを示した。
 同筋は「安保理が厳しい決議を採択するのは不可避だ。この問題には安保理の威信がかかっている」と述べた。
 ただ、同筋は「(北朝鮮の)封鎖や孤立化、隔離を議題にすべきではない。対話の扉は常に開かれていなければならない」とも指摘した。 



 核実験の強行、そして度重なるミサイル発射という蛮行を繰り返してふんぞりかえっている北朝鮮に対しては、国際社会、最低でもわが国は、「人道支援」を含め一切の支援を断たなければならない。



 世界食糧計画(WFP)のドマルジュリ平壌事務所長は昨年10月22日、ソウルでの講演に際して公表した資料で、北朝鮮は「慢性的な食糧難」状態が一層悪化し「甚だしい食糧、生活の危機」になったと指摘し、更に、北朝鮮で配給を受けている層の中で、食糧が足りず山で動植物などを採っている人が、2003-05年の平均で50%程度だったのに対し、昨年は70%に増えたほか、都市居住者の8割は親せきから食糧を分けてもらいしのいでいると述べた(産経新聞)。

 確かにこのように、北朝鮮の食糧事情は非常に厳しい状態で、飢餓に直面しているのは、何の罪もない人たちであるから、国際社会が一切の人道支援を断てと主張するのは残酷のように思われるだろう。

 しかし、そもそも、これまでも幾度にもわたり北朝鮮にはWFPをはじめ、人道支援団体が食糧援助等をしてきたが、その結果はどうか。国際社会がいくら手を差し伸べても、あの国は「自分で立つ」ことはせず、民からふんだくったカネを先軍政治の名の下に、その殆どを軍事費に注ぎ込んでいる。これは「人道支援」が皮肉にも、「非人道的な」独裁政権の延命をさせてきたと言うほかない。



 人道支援が「正しく」効果を発揮するには、支援先の国家が開放状態になければならない。つまり、北朝鮮のような鎖国政策を取っている国家にやっても効果は見込めないということだ。

 かの国では、人道支援で国内に入ってきた食糧が、ヤミ市で公定価格の数百倍の値段で食料品などが流通するようになり、本当に飢餓から救いださなければならない市民の手に行き渡らない。たとえ行き渡ったとしても、それは些細なものだ。

 それでは、どうして飢餓は起こるのであろうか。それは国家体制が独裁体制によって成っているからだ。独裁体制では、今わが国で話題の「政権交代」も起こらない。

 政治体制の変化が起きない、ないしは国民から起こせないという状態では、そこでは一つの政策しかなされず、体制は硬直化して失政が繰り返されても、独裁体制だから政権が交代することもない。つまり、国民の声の反映しての政治という民主主義が敷かれていない北朝鮮は、体制内部から変化が起きない限り、飢餓で苦しむ国民がいなくなることはない。



 私が言いたいことは一つ。今回の蛮行を機に、国際社会は北を兵糧攻めにして疲弊させて、あの国に先軍政治や瀬戸際外交が何の得にもならないということを、痛感させることである。そのために、あらゆる支援を停止する。これこそが最善の方策であって、間違っても「笑み」を見せることがあってはならない。

 対話と圧力の時代は終わった。これからは圧力のみが北を動かす手段である。

典型的な内政干渉

2009年04月09日 | 外交事情考察
自由社の歴史教科書、検定合格に抗議…韓国外交通商省(読売新聞) - goo ニュース

 韓国外交通商省は9日、「新しい歴史教科書をつくる会」(藤岡信勝会長)のメンバーらが執筆した「中学社会 歴史」(自由社)が日本の文部科学省の教科書検定に合格したことに対する声明を出し、「過去の過ちを美化する歴史認識に基づいた教科書が検定を通過したことに強く抗議する」と表明した。
 声明は「日本の青少年が一部の歴史教科書を通じ、誤った歴史観を持つようになる」としている。外交通商省は在韓日本大使館の高橋礼一郎公使を呼び、口頭で抗議した。
 韓国メディアは、以前の検定で合格した「新しい歴史教科書」(扶桑社)に続き、「 歪曲の程度が甚だしい教科書が2冊になった」(聯合ニュース)と伝えている。



 韓国の行為は、れっきとした内政干渉である。だが、これも実は内政干渉だと一概に突っぱねるわけにもいかないのが現状だ。というのは、朝日新聞らマスコミの「誤報」によって、全く不要な「近隣諸国条項」というものが、教科書検定において確立してしまったことが原因となっているからだ。この事件は、いわゆる「侵略→進出書き換え事件」である。この誤報を受けて、1982年、鈴木善幸内閣時の宮沢喜一官房長官の談話がもとになり、近隣諸国条項が、教科書検定基準に盛り込まれてしまったのである。

 そこで「近隣諸国条項」を今一度お浚いしておこう。近隣諸国条項とは、前述の宮沢談話をうけて、教科書検定基準の中に、「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」という条項を設けた、というものである。これが韓国や中国の居丈高の内政干渉を許す諸悪の根源となってしまっている。



 しかし、常識的に考えてみればいい。自国で使用する教科書について、日本が「近隣諸国」の意見に耳を傾ける必要はあるのか?韓国は、中国は、自国の教科書を選定するにあたり、日本の主張に耳を傾けているか?韓国の歴史教科書が、竹島は韓国が不法に占拠しているものだと教えているか?中国の教科書に記載されている、南京大虐殺の人数30万人はあり得ないからといって日本が抗議したら、中国はそれに応じるか?もし、そのように日本政府が教科書に記述するように韓国や中国に求めたら、韓国や中国は「分かりました」と言って日本の意見に従うのか?

 確かに「歪曲」した歴史を子供に教えてはならない。大東亜戦争に侵略の側面があったことも否定できないし、そのような負の側面にもきちんと向き合って教科書は記述されるべきだろう。だが、それは「近隣諸国」の外圧によってなされるべきことではない。自分の国の教科書は自分の国の判断によって決める。当たり前の話ではないか。

 それから、韓国はご存じないのだろうが、「つくる会」の歴史教科書の採択率は、わずか0.4%しかない。「つくる会」の教科書を使用しているのは、東京都立の中高一貫校や杉並区立中ぐらいで、この歴史教科書に、いちいち外野が騒ぎたてるほどの影響が、はたしてあるのか。私には「から騒ぎ」に思えてならない。



 そもそも、今回の韓国の「抗議」は、内政干渉であると同時に、教育への政治的介入ではないのか。政治の力によって教育内容が曲げられようとしているのだ。これこそ日教組の大好きな「不当な支配」ではないだろうか。

 以前、東京の都議が知的障害者の養護学校を訪問した際、そこで行われていた性教育を目の当たりにした都議らが、授業で使用されていた教材を没収したという事件が起こった。このとき、日教組やサヨクは何と言っていたか?教育への「不当な支配」だと言っていたのではないのか?ならば、今回はどうして韓国の抗議を批判しないのか?これこそ、法的根拠も何もないれっきとした、正真正銘の教育への「不当な支配」であろうに。



 韓国の内政干渉ももちろん論外だが、一番話にならないのは、こうした内政干渉をわざと引き起こしている輩が国内に存在していることだ。たとえば共産党がバックについている、俵義文の「子どもと教科書全国ネット21」などがその代表例だ。ほかにも、「つくる会」の教科書不採択運動を煽っている団体には、中核派のメンバーがいたりと、実は平和という言葉から一番遠い者たちが平和の名を騙り、「近隣諸国」の内政干渉を引き起こしているのだ。

 しかも彼らの主張が矛盾していておかしいのが、「つくる会」の歴史教科書に対しては、文部科学省に検定不合格にするよう迫りながら、沖縄の集団自決、「従軍慰安婦」問題に関しては、その教科書検定制度を批判、否定する。自分たちの都合のいいときだけ教科書検定を利用しながら、自分たちのイデオロギーに反する場合だけ、ちゃっかり教科書検定は違憲と嘯くのである。4年に一度のオリンピックのごとく盛り上がるのは、いい加減やめにしたらどうか。

 ちなみに、教科書検定制度は、不合格とされた教科書を「一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから」、憲法に言う「検閲」(21条2項)にあたらず、合憲とするのが、通説、判例の見解である(第一次家永教科書事件最高裁判決。最高裁平成5年3月16日)。



 最後に、以前、私がアマゾンにて、「つくる会」の歴史教科書についてレビューを書いたが、それをここに再掲しておく。

 この教科書の一体何処が偏っているのだろう。それが私がこの教科書を読んで最初に思ったことだ。この教科書は決して先の大戦を肯定などしていない。民政党の斉藤隆夫についても触れている。

 この教科書を口汚く批判している人達は、恐らく教科書執筆陣のことが嫌いなのではないだろうか。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのように、自分達と相容れない考えの人達が執筆しているものだから、内容に関しても「戦争賛美だ」とか「子供を不幸にさせる!」というような感情的な批判が先行してしまっていて、冷静に眺められていないのだろう。要するに、この教科書を批判している勢力は、教科書を通じて執筆陣を批判していたのである。

 この教科書を読んで戦争がしたくなる生徒など、果たしているのだろうか。それなら、残虐な描写のゲームに影響されて人を殺してしまう子供の方が遥かに多くなるであろう。

脱法行為の可能性は確かにあるが

2009年04月07日 | 外交事情考察
ソマリア沖で外国船舶救助 護衛艦、“脱法行為”の疑いも(共同通信) - goo ニュース

 防衛省によると、ソマリア沖で海賊対策活動中の海自護衛艦「さざなみ」が現地時間3日午後8時半すぎ、海上警備行動の警護対象外のシンガポール船籍のタンカーから「海賊らしい小型船舶に追われている」との国際無線連絡を受けて現場海域に急行、約20分後に追い払った。海上警備行動での警護対象は日本船籍、日本人、日本の貨物を運ぶ外国船など日本関連の船舶に限られており、脱法的な活動だった疑いがある。



 まず、自衛隊の今回の措置は国際基準に立てば当然のことであり、いちいち議論する必要もないが、それでも日本政府の海上警備行動についての解釈(警備の対象は日本籍の船舶のみ。)に縛られている自衛隊が、その中で取った精一杯の行動であると思われる。勇気ある自衛隊の行動を誇りに思いたい。



 今回、自衛隊はサーチライトを照らしたり、音響装置で接近を妨害した上で、スピーカーからソマリ語で「われわれは海上自衛隊」と警告をしたりして海賊と思しき船を追い払ったのだから、警察官職務執行法の禁じる正当防衛、緊急避難の場合のみの武器使用規定に抵触する可能性はない。防衛省が「武器使用など海上警備行動の権限を行使しているわけではない」と釈明したのはそのためだ。

 しかしながら、確かに記事で指摘しているように、今回の海自の取った行動は、強制力の行使ではないにせよ、厳密に言えば脱法行為に該当する。いくら上記政府解釈に問題があるとしても、法解釈にも明文によって規定された法規同様拘束力があり、これに反することは明文法そのものに反するということになるからだ。



 このことについて深く掘り下げて議論すると、法と道徳の話にまでなり収拾がつかなくなるのでそういった議論は行わないが、道徳上「善」とされても、法律上は「違法」とされる場合は確かに存在している。今回の場合など、まさにそれだろう。

 誰かが助けてくれと言ってくれば、手を差し伸べてあげるのは道徳上、善である。しかし、助けてくれと縋ってきても助けてはならないと法をもって規定されていれば、手を差し伸べることは道徳上、善であっても、法理論上、悪=違法となる。このことは、常に法というものが道徳を体現したものではないということを示している。

 この解決手段は二つある。すなわち、法を道徳に合わせるか、道徳が法の規定に従うか。私はソマリア沖自衛隊派遣については、前者が理に適っていると考える。理由は、それが国際標準であり、中長期的に見ればこれが日本の国益に適うのではないかと考えるからだ。



 エルトゥールル号事件を御存じだろうか。これは1890年9月16日、オスマン・トルコの使節団一行を乗せた軍艦が和歌山県串本の大島沖で台風のため遭難し、乗組員(政府要人含む。)650人中、587人の犠牲者を出した事件である。

 ここで日本は乗組員らに対し、国を挙げて救助に奔走し、地元住民の献心的な介護もあって、全員を助けることはできなかったが、人命を救うことができた。このことはトルコ海軍のHPにも、In order to alleviate the anxiety of those who survived the disaster, not only the Emperor himself manifested an enthusiastic appeal, but also the Japanese local authorities and the public showed an extraordinary effort for the survivors. The survivors and the personals belongings of the lost ones were subsequently delivered to İstanbul on two Japanese Cruisers on 25 December 1890.と、日土間の友好を象徴するものとして掲載されている。

 言い方が恩着せがましくてよくはないが、恩を売っておくというのも、外交上必要なことではないだろうか。それによって日本に対する国際社会の評価を少しでもアップさせることは、国益の点からも意味のあることであると思われるからだ。



 話を戻して。しかしながら、海賊対策法の制定というのは、実は諸刃の刃なのではないか。というのは、今国会は周知のように「ねじれ」ている。そのねじれを生じさせている民主党は、党内で海賊対策に関する見解はバラバラであり、統一的な見解を出せずにいる。しかし、法律を制定する以上、このような民主党の合意も取り付けなければならない。ここが問題なのだ。

 なぜなら、民主党に配慮して下手に譲歩した法を整備してしまうと、結果としてより自衛隊の手足を縛る立法がなされることも考えられ、かえって海賊対策が困難になる可能性も十分に考えられるからだ。それこそ海賊対策法をもって、「警護の対象は日本国籍の船舶のみ」と規定されてしまえば、二度と今回のような措置を取ることはできず、かえって国益を損なう危険性も出てくる。

 それならば、いっそ今のままの状態のほうが、海賊対策については向いているということも言える。抽象的に確定しないかたちで書かれた条文は解釈によって乗り越える(運用する)ことができるが、明確な文言をもって上記のように書かれれば、状況に応じたフレキシブルな活動ができなくなる。したがって、海賊対策法を整備するのであれば、日本国籍以外の船舶も保護の対象とできるとする、民主・自民間での明確な合意がなければやるべきではない。

 海上警備行動は、「海上における人命もしくは財産の保護又は治安の維持のため」としている。この抽象的で曖昧な文言こそがミソなのだ。だからこそ今回のような措置をしても、船員法14条「船長は、他の船舶の遭難を知ったときは、人命の救助に必要な手段を尽くさなければならない」の規定を適用して問題の解決を図るということも可能になる。繰り返すが、だからこそ下手な立法はかえって海賊対策の妨げになるのだ。



 今回の自衛隊の取った措置は確かに脱法行為の可能性があるが、逆に曖昧な法状況で派遣したからこそ、こういう行動が可能であったということを指摘しておく必要がある。

日本は蚊帳の外にされたのか?

2009年04月06日 | 外交事情考察
北朝鮮、ミサイル発射を米中露に事前通告…韓国情報機関(読売新聞) - goo ニュース

 北朝鮮の「人工衛星打ち上げ」名目での長距離弾道ミサイル発射について、韓国の情報機関、国家情報院は6日、北朝鮮が米中露3か国に対し、おおよその発射時刻を事前に伝えていたことを明らかにした。
 聯合ニュースが、国会情報委員会の非公開懇談に出席した議員の話として伝えた。
 北朝鮮が日韓両国に対する軽視姿勢を鮮明にするのが狙いだったとみられる。また、この議員は、韓国に対しては米国が情報を伝えた模様だと述べたという。
 聯合電によると、北朝鮮は、4日から8日の午前11時から午後4時の間に発射すると、国際海事機関(IMO)などに事前通告していたが、米中露への通報内容は、より詳細なものだった。 李明博大統領はミサイル発射直前の5日午前、国家安全保障会議(NSC)を招集したが、これは米国から情報提供があったためとみられる。



 これは記事にもあるように、北が日韓を軽視するための「作戦」であったことは容易に想像がつこう。北はアメリカとの直接対話を切望しているため、アメリカに対し事前に「衛星」の発射時刻を通知することも、したがって想像に難くない。

 しかしながら、韓国も蚊帳の外に置かれたとはいえ、それでもまだ韓国はアメリカから「衛星」発射について情報提供をされていたが、日本は最後まで蚊帳の外であった。これにはどういう思惑が隠されているのだろうか。



 これは推察するに2つのことが考えられる。まず一つ目として、本当に日本だけが蚊帳の外にされていた。二つ目として、蚊帳の外であったというのは実は嘘ではないか(つまり、アメリカから事前に情報を提供されていた)ということ。後者の理由については大きく分けて二つ考えられるが、これについては後述する。



 一つ目の事態の理由として、日本はアメリカから安全保障上のインテリジェンス分野・情報管理分野において信頼されていない、もしくはアメリカはこの分野において日本に対し疑心暗鬼でいるからである。仮にそうだとすれば、これは日米同盟を堅持していくにあたり、極めて死活的な問題である。

 周知のことだが、日本にはインテリジェンス分野について、政治家のみならず、官僚までも理解が浸透しているとはお世辞にも言えない、惨憺たる現状がある。たとえば今から数年前のことだが、新潟にアル・カイーダの一味が潜伏していた際に、潜伏しているという情報はフランスからもたらされたものだった。アル・カイーダから度々不審な国際電話が新潟にかかってたにもかかわらず、日本の警察機関ではこれを傍受できないという、「欠陥」を露呈したことは記憶に新しい。

 2000年には、三等海佐がロシアの武官に対し機密情報を漏えいした事件も起こっている。日本の在中国大使館に北朝鮮から逃げてきた一家が駆け込んだ際も、日本側の取った対応が中国に筒抜けになっていたことも最近のことだ。日本は実にインテリジェンス分野において詰めが甘い。

 これら事件はひとえにインテリジェンス分野についての法整備の不備ならびに無理解がもたらした結果なのだが、もし本当にこれが理由で日本が蚊帳の外にされたというのならば、早急にこの分野についての法整備をしなければならない。情報公開こそが民主主義にとって不可欠だという主張があるが、それは確かにそうなのだが、安全保障にかかわる問題においては、徒に何でもかんでも公開すればそれでいいというものではない。

 たとえば、自衛隊イラク派遣における自衛隊の武器使用に関する訓令をすっぱ抜いてスクープしたマスコミがあった。だが、これをスクープすることに一体何のメリットがあるのか。こちらの手の内を明かすだけで、テロリストぐらいしか喜ばない情報である。

 だからこそインテリジェンス分野における法整備が急務なのだ。秘密保持に関する法律を制定することによって、こういう場合には情報公開ができるが、これ以上の情報は公開できないといったように、明文をもって規定することにより、同盟国からの不信をなくし、国内における不要で不毛な論争を避ける必要がある。

 『日本のインテリジェンス機関』(文春新書)の著者である大森義夫氏は同著の中で、「どこまで公表してよいものかという判断ができず、自分や組織の責任を問われないようにするために、あらゆるものを秘密にするという、民主主義体制においてはきわめて憂慮すべき悪癖が生じている」と述べているように、実は民主主義を健全に維持する上においても、秘密保持に関する法律の整備は必要なのだ。

 そのためにはまず、せっかく設置された内閣情報調査室を積極的に活用することだ。だが、内閣情報調査室は各省庁の縦割り行政の弊害をもろに受け、しかも予算、人員、人材の不足と、看板倒れの状態が起きている。法整備を急ぐと同時にこちらの立て直しも早急になされなければならない。こういう地道な積み重ねが、同盟国からの信頼を得るためには不可欠なのだ。



 二つ目の理由は大きく分けて二つあると述べたが、それはこういうものだ。

 まず、そもそもとして、もし北からのミサイル発射を事前に知り、事前に対応できるならば、日本がミサイルを探知したり追跡するなどという一連の対応は、全て「予定調和」になる。換言すれば出来レースだったということだ。では、このことを国民が知ればどう思うだろうか。MD防衛構想への支持を得られるだろうか。

 普通に考えて、いついつに発射してどの方面に向かって飛び、どこに部品等が落下するのかと事前に把握できていれば、ミサイルを探知し追跡し、最悪の場合迎撃することなど他愛もなく簡単なことだ。にもかかわらず、仮にミサイル監視・迎撃に失敗したら日本の安全保障に対する信頼は、国際的にも国内的にも大打撃を受けることになる。

 つまり、本当は事前に情報が上がっていたにもかかわらず、これを敢えて秘匿することによって、日本の防衛体制について国民の理解を得ようと政府は考えているのではないか。

 今一つは、事前情報を秘匿することにより、意図的に日本「だけが」仲間はずれにされたというかたちを作り出し、こういう事態になったのはこれまで安全保障の分野に対して口を噤ませてきた憲法9条が原因であるという構図にし、改憲への足掛かりを得ようという事情があるのではないか。私はこれであるならば敢えてこれに乗っかり、政府の方針を歓迎したいが。



 だが、実は日本も知っていたという可能性はあまり高くないだろう。北としては、日本が大騒ぎをしてくれたほうがアメリカを交渉のテーブルに着かせるには有難いはずだ。なので、北が日本を蚊帳の外に置くのは理解できる。

 そしてアメリカが韓国に対しては事前に情報を提供していたのは、韓国は万が一にも北が軍事行動に出れば一番被害を被るのだから、予め情報提供することにより、迅速な行動を期待したからということも考えられる。



 もし前者ならば、日本は諸外国から、しかも最大の信頼を置いている同盟国からも舐められていることになり、これ以上の侮辱はないだろう。日本には知らせないほうが得策、とアメリカから思われているならば、すでに日米同盟は事実上崩壊していると言っても過言ではないのではないか。

何も分かっていない人

2009年03月29日 | 外交事情考察
社民・福島氏、北ミサイル迎撃批判を延々と 野党席からも失笑(産経新聞)

 社民党の福島瑞穂党首は26日の参院予算委員会で、北朝鮮の弾道ミサイルが日本領内に落下した場合、迎撃する日本政府の方針について、「迎撃ミサイルが目標に当たったら残骸(ざんがい)が落ちる。当たらなくともミサイルは向こう(国外)へ行ってしまう。国内外の市民に被害はないといえるのか」と激しい批判を展開した。
 中曽根弘文外相は「わが国民の生命財産に被害が及ぶ恐れがあるならば迎撃は当然だ」と答弁。浜田靖一防衛相も「そのまま落ちてきた方が被害は大きい。宇宙空間で当たれば燃え尽きてほとんど落ちてこない。まず破壊することで規模を小さくするのが重要だ」と強調し、理解を求めた。
 しかし、福島氏は、「当たらない場合は国益を侵害し、当たった場合でも単なる人工衛星だったらどうなるのか」などと迎撃批判を延々と続け、野党席からも失笑が漏れた。



 どうしてこの人(=福島)は、こういつもいつも素っ頓狂で頓珍漢、そして間抜けで馬鹿げたことしか言えないのだろうか。民主党は、こんなオバさんが党首をしている政党なんかと組もうとしているから支持できないのだ。民主党政権になったら、北朝鮮に強請られ、集られ、日本が抱える拉致・核の問題の解決が遠のくことは間違いない。

 この「迷言」から察するに、どうやら福島氏はご存じないようだが、今回北朝鮮が発射しようとしているものがたとえ人工衛星だろうと、「北朝鮮に対し、いかなる核実験又は弾道ミサイルの発射もこれ以上実施しないことを要求する。」とし、北朝鮮の弾道ミサイル関連活動の中止を義務付けた国連決議1718に違反する。加えて、イギリスとフランスの国連大使も、北朝鮮の“自称”人工衛星「発射は安全保障理事会の決議に明確に違反する」との見解を表明している。



 福島氏は、「迎撃ミサイルが目標に当たったら残骸が落ちる。当たらなくともミサイルは国外へ行ってしまう。国内外の市民に被害はないといえるのか」と言うが、それでは、残骸が落ちてくることによって生じる被害と、ミサイルが直撃することによって生じる被害、どちらが甚大だろうか。誰もが須らく後者であると答えるはずだが、ここでもどうやら福島氏は常識とかけ離れた感覚をお持ちのようだ。

 しかも、北朝鮮が発射したミサイルが国外へ落ちるという保証はどこにもない。北朝鮮がただ日本本土に着弾しないと主張しているだけだ。それとも、福島氏はこの主張を鵜呑みにしろとでも言いたいのか。こういう姿勢だから、北朝鮮が拉致などしていないと言ったらそれをそのまま信じてしまうのだ。

 迎撃せずに、もしくは迎撃に失敗して北朝鮮が発射したミサイルが日本本土に着弾した場合に比べれば、迎撃成功によるミサイルの破片落下の方が被害は少ない。こんなことぐらい、小学生でも理解できそうなものだ。

 不発弾処理をする場合、たいてい半径数キロに居住する住民を避難させるが、この不発弾の多くが250キロ級の爆弾である。もし仮に北朝鮮がこのクラスの破壊力をもった弾頭をミサイルに搭載した場合、それが日本本土に着弾したら被害がいなかるものか想像ぐらいはできよう。



 さらに福島氏は、「当たらない場合は国益を侵害し、当たった場合でも単なる人工衛星だったらどうなるのか」と言うが、迎撃せずに本土にミサイルが着弾した場合に害される国益のことは、どうやら彼女の脳内にはないらしい。そもそも、当たらない場合に侵害される国益とやらは何か。もっと言えば、社民の分際で国益を語ること自体おこがましい。

 確かに迎撃に失敗した場合、MD政策の見直し論が起こるのは必至だろうし、日本の防衛政策の不備が露呈することによる国益の毀損という事態は想定できよう。しかし、日本上空(国際法上、領空とは上空100キロまでを指す。)を通過するミサイルを気付いていながらみすみす見逃し、最悪国民の生命財産に重大な危険が生じるにもかかわらず、神に祈るように危機が過ぎ去るのを待つことによって守られる国益とは一体何か。

 それから、仮に人工衛星だったらどうするのかというが、ロケット打ち上げは「周辺国への配慮」が大前提であり、他国の上空を通過する例はほとんどない。イスラエルさえも衛星打ち上げの際はミサイル攻撃と誤認されぬように軌道投入に適さない西方向の地中海側に打ち上げているという(産経新聞)。しかも、先にも述べたが、発射するものがたとえ真正の人工衛星であったとしても、国連決議1718に違反する。



 こういうため息が漏れるような話を聞くと、石原都知事ではないが、「変なものが例えば間近に落ちるようなことがあった方が、むしろ日本人ってのはある危機感というか、緊張感を持つ」のではないかと思う。なんなら一回、福島氏の自宅にでもミサイルを落とされてみますか?

ミサイル迎撃は国家の義務

2009年03月14日 | 外交事情考察
政府が北朝鮮の人工衛星発射計画を牽制(産経新聞)

 河村建夫官房長官は13日午前の記者会見で、北朝鮮が人工衛星発射の計画を国際機関に通報したことについて「たとえ人工衛星であっても発射は国連安全保障理事会決議に違反する。打ち上げ中止を強く求める」と述べた。
 中曽根弘文外相も記者会見で、発射した場合について「わが国に被害が及ぶ場合はしっかり対応する」と述べ、米国と連携して迎撃する考えを強調。「まずは発射させない努力を関係国と行っていくことが大事だ」として米国や中国、韓国などと発射中止を迫っていく方針を示した。



 北朝鮮が人工衛星と称してミサイルを発射してきた場合、MDシステムによってミサイルを迎撃するのは、国民の生命と財産を守ることを第一の責務とするのが国家である以上、これは当然であってこれを支持するのは言うまでもない。今回の件で使わなければ、一体何のためのMDか。MDは張子の虎と思われてしまう。

 しかし、気になるのは一部マスコミが北朝鮮のミサイル迎撃に対して「懸念」を表明していることだ。北海道新聞信濃毎日新聞などがそうだ。「懸念される」ことや、「気がかり」なのは日本がMDシステムを発動することではなく、北朝鮮が人工衛星と称してミサイルの発射を企てていることである。MDによってミサイルを迎撃すれば今後の日朝関係が悪化するのは確かだが、だからといって日本に飛来する可能性のあるミサイルを迎撃することに懸念を抱くのはどうかしている。ピントのずれた論評は失笑を招くだけだ。



 自衛隊法82条の2が、「防衛大臣は、弾道ミサイル等(弾道ミサイルその他その落下により人命又は財産に対する重大な被害が生じると認められる物体であつて航空機以外のものをいう。以下同じ。)が我が国に飛来するおそれがあり、その落下による我が国領域における人命又は財産に対する被害を防止するため必要があると認めるときは、内閣総理大臣の承認を得て、自衛隊の部隊に対し、我が国に向けて現に飛来する弾道ミサイル等を我が国領域又は公海(海洋法に関する国際連合条約に規定する排他的経済水域を含む。)の上空において破壊する措置をとるべき旨を命ずることができる。 」と規定していることから、「弾道ミサイル等」の中に人工衛星も含まれるので、北朝鮮がいかに詭弁を弄しようととも、かの国が発射してくる飛来物を迎撃することは法的にも可能なのである。

 

 しかしながら、ここで問題となってくるのは集団的自衛権の行使についてである。周知のことだが、我が国は憲法9条の存在ゆえに、集団的自衛権を「有してはいるが行使できない」という解釈をとっており、これがミサイル防衛上影を落としているのである。

 だが、日本上空を飛行してミサイルの発射実験を行うなどということは、常識的に考えておかしなことである。普通の国であれば日本と同じような立場に置かれたとしたら、原則的に迎撃の対象としてこれを破壊するだろう。これは個別的自衛権の行使として対処可能である。麻生首相の「他国の上を飛んでミサイル実験をした国はない。発射を見過ごすつもりはない。」という発言はもっともなことだ。

 そしてこの種の議論を見ていていつも思うのだが、「どこに落ちるか分からないから迎撃は慎重にならざるをえない」というのは、あまりにも悠長に考えすぎではないか。

 日本に向けてミサイルを発射しますと宣言すれば、それは宣戦布告になるから当然迎撃は可能ということになるが、日本に落ちるかどうか分からないけど、日本の領空を通過してミサイルを発射しますという場合には迎撃できないということであれば、無駄な犠牲を増やすだけである。平和主義を宣言した憲法9条が不要な犠牲を強いることを強制した規定とはどうしても思えない。

 思うに、今回の北朝鮮によるミサイル発射は、明らかに日本をターゲットにしたものである。だからこそ、秋田県沖と日本領空を通過した太平洋沖を事前に「危険区域」として指定してきたのだ。それならば人工衛星と称したミサイル発射を「武力攻撃」とみなして、個別的自衛権の範囲で対処すればいいのではないか。

 今回のようなケースみたく、国民の生命と財産に重大な損害をもたらすと考えられる場合に、こういった脅威を除去するために、万が一のことを考えて自衛権を行使することは、憲法9条も国連憲章も禁じているということはできないだろう。
 


 そもそもだが、北朝鮮は今回の発射物をあくまでも「人工衛星」とするのなら、国際法上何ら「やましいこと」もなく問題ないのだから、”自称”人工衛星を中国やロシアに向けて発射してみればどうか。

 中国やロシアは、人工衛星であれば北朝鮮でも打ち上げる権利はあると言っていたではないか。人工衛星だろうと迎撃の対象だと鼻息荒い日本に向けて発射するより、中国やロシアに向けて「ぶっ放した」ほうが、「衛星」開発に費やしたコストなども無駄になるまい。一考に値すると思われるが、どうだろうか。

北朝鮮の「ミサイル外交」について

2009年03月09日 | 外交事情考察
「衛星」発射迎撃なら報復 北朝鮮、日米韓に警告(共同通信) - goo ニュース

 北朝鮮の朝鮮人民軍総参謀部は9日、日米韓などが長距離弾道ミサイル「テポドン2号」として警戒している北朝鮮の「衛星」発射を迎撃した場合、即時に反撃し、日米韓の「本拠地へ正義の報復打撃戦を開始する」と警告する報道官声明を発表した。また、軍最高司令部は同日から実施される米韓合同軍事演習は「一種の宣戦布告」と非難し、全将兵に万端の戦闘準備と領土を少しでも侵犯された場合の反撃命令を出したと表明。総参謀部も報道官声明で、同演習期間は南北軍当局間の通信回線を遮断する、と明らかにした。



 この問題には多くの法的、政治的論点が混在しているためその全てについて議論をするのは私一人では不可能に近いので、今回は安全保障の観点から国際法に触れつつ、論じることにしたい。なお、憲法9条については「私の憲法9条改正論」において詳述したので、そちらを参考にされたい。

 これから北朝鮮の「ミサイル外交」について論じていくにあたり、安全保障の観点から国際法に触れることにしても、その範囲は膨大で全てをカバーしようとすると総花的な議論になってしまうので、ここは以下の項目に絞って論じることにし、更に追記することがあれば、それは次回以降にすることにする。


①ミサイルと人工衛星の違い
②日本の取りうる行動
③北朝鮮の「本気度」


①ミサイルと人工衛星の違い

 これは実はかなり見極めが難しいと言われている。人工衛星とミサイルとでは技術的に両者の間に大きな違いはないとされ、極端に言ってしまえば、それこそ打ち上げ時における目的(宇宙の観測や通信を目的とするのか、それとも他国を攻撃するのが目的か。前者ならば人工衛星だし、後者ならばミサイルになる。)が異なるぐらいだ。

 仮に今後北朝鮮が打ち上げた物体がミサイルであれば、大気圏外で切り離されたロケットの先端部をそのまま大気圏に再突入させて、地上の一定の目標に向けて落下させることになる。そしてこれを迎撃するのが後述するMD(Missile Defense)である。

 多くの論者が指摘するように、北朝鮮は仮にミサイルとして発射しても人工衛星だと強弁すると私も思う。しかし、これまでも北朝鮮はミサイル発射を人工衛星だと強弁した「前科」があり(たとえば1998年8月31日の日本い向けたテポドン1号発射事件)、こうしたことから、北朝鮮が「人工衛星」をロケットで打ち上げると発表したことについて、ヒル氏は、「本質的にミサイルの打ち上げである」と述べ、北朝鮮の弾道ミサイル関連活動の中止を義務付けた国連決議1718に違反するとの見解を示している。

 つまり、北朝鮮が発射した物体を、ミサイルか人工衛星かと論じること自体、そもそも意味はないのである。これは北朝鮮自身が引き起こしたいわば「身から出たさび」で、人工衛星だろうとミサイルだろうと、もはやかの国は発射することはできないのである。ミサイルか人工衛星かと議論すること自体が、北朝鮮を利することになる。

 ミサイルか人工衛星かという議論をしてしまうと、それでは北朝鮮本国にある原子炉も、電力開発のためか軍事目的かという議論が可能になり、このことは北朝鮮に原子炉建設の正当性を与えることにもなりかねず、日本政府がミサイルか人工衛星かという議論に与すべきはない。


②日本の取りうる行動

 これも実はかなり難しく、制限があるものである。理由は複数あるものと考えられるが、その主たるものが憲法9条であることは論を俟たないことであろう。平和主義を宣言したとされる本条が、平和維持を妨げているのだから皮肉であるが、そういう議論は置いておいて、憲法9条という「縛り」のある中で日本の取りうる行動はどういうものがあるか検証してみる。

 まずは外交努力による危険の除去。これは不可欠である。何事においてもまずは交渉が不可欠である。いきなり殴り合ったところで問題が解決しないことは、国家間の関係を人間関係に置き換えてみれば分かる。当然、日本政府は北朝鮮が暴挙を働かないよう、あらゆる外交上の努力を試みるべきである。

 しかし、これだけで常に戦争回避ができるとは限らない。安全保障において絶対に必要なことは、常に万が一の状態(最悪の状態)を想定して行動することだ。つまり、戦争状態への突入である。

 万が一北朝鮮が暴走した場合、憲法9条がある状態の日本の取りうる行動は、まず今回のミサイル発射に対しては、MDで対応するのがはやり一番現実的な対応であろう。MDと呼ばれるミサイル防衛システムは、イラク戦争においてクウェートなどに配備され、実際にミサイル迎撃のために発射されたパトリオットミサイルをはじめ、弾道ミサイルを早期に発見するレーダー網、着弾地点の解析や迎撃ミサイルの管制を行うシステム、陸上・海上発射型の迎撃用ミサイルなどによって構成されているとのことである(日本のMD構想に関しては防衛省HPを参照)。

 MDについては迎撃成功率はこれまで16回の実験のうち4回が失敗(一番最近の失敗例としては、昨年11月19日にアメリカのハワイ沖で行われた、MD機能を担う海上自衛隊のイージス艦「ちょうかい」搭載の海上配備型迎撃ミサイル(SM3)の発射試験の実施におけるものがある。)とのことであるから、単純に割ってみれば成功率75%ということになる。

 もちろん、人間の行うことである以上あらゆることにおいて完璧などはなく、成功率100%を確保できなければ導入すべきではないという主張は導入阻止のためのただのイチャモンであるが、実際問題としてMDぐらいしか北朝鮮のミサイルに対応できる選択肢がない以上、75%に賭けるしかないだろう。これが現実である。

 MDの成功率について石破茂氏は著書『国防』のなかで、「命中率は年々上がっています。実際のところ北朝鮮からミサイルが飛んできたとき、MDが迎撃できる可能性は、現時点でも6~7割以上になると思います」(136ページ。ここで言う「現時点」とは、本書が発売された2005年当時であると思われる。)と述べていることから、やはり成功率は75%がせいぜいなのだろう。

 なお、北朝鮮から日本に向けてミサイルが発射された場合、その速度はマッハ10(時速約12250キロ)になると考えられているという。したがって、しばしばミサイル迎撃の代表として出されるパトリオットは、短距離ミサイルの迎撃が専門のため、北朝鮮のミサイルは迎撃できない。パトリオットは大気圏外で迎撃し損ねたものを最終的に迎撃する役割を持っているにとどまっているという。


③北朝鮮の「本気度」

 同じことの繰り返しで気が引けるが、これもまた実際は非常に見極めが難しいのではないか。不安を煽る必要はないが、少なくともミサイルが発射されてそれが本土に着弾したならば多くの人命失われる可能性が十分に考えられる以上、安易にただの脅しと決めつけることは避けるべきではないのか。しかし、私も以下の理由からいつものお得意の脅しではないかと見ている。

 まず、北朝鮮がミサイルを発射して「しまった」場合、宗主国の中国が黙っていないだろう。北朝鮮にとって首根っこを掴んでいる中国を敵に回せば、それは体制崩壊を意味することを、北朝鮮の指導者層は承知しているはずだ。ロシアも場合によっては敵に回す可能性が十分に考えられる。

 中国は輸出国としてこれまで大いに経済成長を遂げてきたことからして、これからも(内需拡大は必至だろうが)輸出産業によって経済成長を図ろうとする以上、いわば商売のお得意様である日本とアメリカを敵に回すようなことはさせないだろう(中国の国内総生産の3分の1は輸出である)。北朝鮮の暴挙は、中国にとっても有益なことではない。北朝鮮も決して馬鹿ではないからこれぐらいのことは承知の上、「ミサイル外交」を展開しているのだろう。

 それでは、北朝鮮の軍事力はどうなのだろうか。これについては、実はたいしたことないとか、強固なものだといった対立する議論があるが、私は前者を支持したい。

 というのは、今や軍に従事しない人民のみならず、軍人までもまともな待遇を保証されていないと言われる北朝鮮において、戦争遂行のために一番大事な要素である軍人の士気をどこまで維持できるのか、極めて疑問に感じているからである。

 仮に日本とアメリカ、韓国を相手に戦争を開始したとして、それが終始優勢ならば士気の低下を招く可能性は低いだろうが、装備の近代化に乗り遅れ、軍人の士気も低下し、腐敗が横行しているしているとされる朝鮮人民軍が、アメリカ、日本、韓国を相手に優勢に戦争を遂行できる可能性は皆無だろう。

 ひとたび劣勢に立たされて軍部による統制が利かなくなったならば、このような朝鮮人民軍の兵士の士気はゼロになり、たちまち雲散霧消していくのではないだろうか。もちろん、日本や韓国、アメリカ側も無傷で済むはずはないが。

早急に海賊対策法を制定せよ

2009年01月29日 | 外交事情考察
海賊対策のソマリア沖派遣、28日に海自へ準備指示(読売新聞)

 アフリカ・ソマリア沖の海賊対策で、海上自衛隊が日本関係船を護衛する「警護要領」の概要が27日、明らかになった。
 浜田防衛相は28日に、海自に正式な準備指示を出す。
 海自は自衛隊法82条の海上警備行動に基づき、護衛艦2隻を派遣、各護衛艦にはSH60K哨戒ヘリ2機と、海賊に襲撃された場合に特別警備隊が使う小型高速艇2艇を積み込む。
 海賊が頻発するアデン湾では、事前に東西2か所に日本関係船の集結地点を決め、日本船主協会から国土交通省を通じて防衛省に警護要請のあった船舶を、護衛艦2隻が随伴しながら船団護衛する。
 具体的には、商船を約1カイリ(約1・8キロ)間隔で1列の単縦陣で航行させ、船団の前方を護衛艦1隻が先導し、別の1隻が斜め後方から警戒監視する。15~20ノット(時速約28~37キロ)と比較的速度が速い船や、船舷が高い自動車運搬船は、過去に海賊から襲われたケースはなく、船団の前方を航行させるという。
 また、日本船団の周囲に外国船が航行し、海賊の襲撃で救難信号が発せられた場合は、護衛艦からヘリを発進させ、周辺海域にいる他国海軍に通報することを検討している。
 自民、公明両党は27日の与党政策責任者会議で、海賊対策に自衛隊を派遣するよう政府に求める方針を決定した。政府は28日に安全保障会議を開き海上警備行動の発令方針を正式決定。防衛相が海自に準備を指示する。



 海賊対策のために自衛隊を派遣することは、日本が国際社会と一丸となって共同歩調を取ることになり日本の国益にも適い、国際社会での日本の存在感を示すことにもなる。何よりも、われわれのライフラインを確保する上で極めて大切なことである。ソマリア沖には、一日に5~6隻の日本関連船舶が運航しているという。乗組員の安全を確保するためにも至極当然の措置である。

 海上保安庁によれば、海賊事件の海域別発生状況としては、2006年は東南アジア(88件)、アフリカ(61件)の順であったが、2007年ではこれが逆転して、アフリカ(120件)、東南アジア(80件)となっている。たった1年の間で、アフリカにおける海賊被害は2倍も上昇している。これはソマリアが無政府状態であることが原因の一つではあるが、いずれにせよ早急に航行する船舶の安全の確保が必要なのは論をまたないはずだ。

 しかも、1996年に日本が批准した国連海洋法条約、その100条には「すべての国は、最大限に可能な範囲で、公海その他の場所における海賊行為の抑止に協力する」とある。日本も海賊対策のためにアクションを起こす義務がある。そして昨年6月、国連安全保障理事会が、ソマリア沖での海賊行為制圧に向け「必要なあらゆる措置」を取る権限を各国に与える決議を採択した。日本は共同提案国でもある。その日本が今になってようやく海上自衛隊の派遣を決めたのは遅きに失した感は否めないが、決断は評価できる。



 一部には、海上保安庁の巡視船等を派遣すれば足りるのではないかという指摘があるが、これは一見すると一理あるように思える。しかし、これは非現実的な主張であると言わざるを得ない。

 昨年4月21日、イエメンのアデン沖を運航していた日本郵船のタンカー「高山」が海賊に襲われたが、そのとき海賊のとった行動は、40分間高山を追尾した揚句、5発もの対戦車ロケット弾を発射したというものであった(なおこのとき高山は、ドイツの駆逐艦「エムデン」によって助けられている)。一口に海賊といっても、ナイフや機関銃で武装したようなものだけでなく、このように強力な兵器で武装している場合もあるのだ。にもかかわらず、海の警察である海上保安庁に任務を任せるのは危険すぎやしないか。仮にこのような海賊に襲われ海上保安官に犠牲が出た場合、どうするのか。海上保安庁に任務を任せよと主張している者たちは責任が取れるのか。

 海賊対策においては守られる側、守る側の生命両方ともに危険に晒されることが予想される。人命がかかっている以上、何かあってからでは遅い。奪われた人命は戻ってはこない。ならば、安全保障のプロである海上自衛隊を派遣して、守る側・守られる側双方の被害を最小限にしたほうがいいのではないか。

 海上保安庁の巡視船等を派遣すればいいと主張する勢力は、おそらく護憲的思想の持ち主に多いと思われるが、憲法に愚直なまでにしたがって現場で行動する者たちの安全を脅かすようなことになれば、彼らは現行憲法を「平和憲法」と呼んでいるが、平和憲法の看板倒れもいいところだ。人の命や財産を守ることよりも優先する理念とは一体何か。



 これと関係して、私としては海上自衛隊には日本国籍の船舶以外にも、周辺を航行する海外の船舶の安全も守って欲しいと思っている。もちろんこれは現在の日本の状況からして無理のある話であることは承知だが、これこそが本来のあるべき姿であると思う。

 日本国憲法を「平和憲法」と自称するならば、自分たちだけが平和で他は知らないということはあってはならないはずだ。平和憲法の理念を活かすならば、海上自衛隊の護衛艦の近くで外国の船が被害に遭っていたら、我関せずと放置するのではなく、手を差し伸べてやるのがあるべき姿ではないか。そうでなければ、外国の船は「何が平和憲法だ!」と憤慨するに違いない。いつになったら一国平和主義から抜け出せるのか。



 ところで、タイトルでは海賊対策法の制定を要請しているが、本当のことを言えば、そのような場当たり的な法律を事後的に制定するのではなく、大本の自衛隊法自体を改正するべきである。(憲法9条による制約があるからということは承知しているが)そもそも、軍事力を有する自衛隊について定める自衛隊法が、警察官職務執行法の規定を準用していること自体がおかしい。

 今回自衛隊が派遣される際の法的根拠である「海上警備行動」も、警察官職務執行法を準用しているのである。自衛隊の武器使用基準は、警察官職務執行法7条の規定(武器の使用)が準用されている(自衛隊法93条)。警察官職務執行法によれば、自衛隊の海上警備行動において武器の使用が許される場合は、正当防衛と緊急避難に限られている。しかしながら、なぜ軍事力の発動が、警察権力について定める規定を準用されねばならないのか。

 通常、軍隊の行動について法律をもって規定する場合、その規定の仕方は警察権力の行使についての規定のように、「やってもいいこと」を列挙して定める「ポジティブリスト」形式の規定ではなく、「やってはいけないこと」を列挙する「ネガティブリスト」による形式である。警察権力がポジティブリスト形式で定められる理由は、警察権力は内部の国民に向けられたものなので、これの濫用を防止するため、権力の行使を限定的に定める必要があるからだ。

 しかしながら、軍事力をポジティブリストで規定してしまうと、有事の際にそれが軍隊の足かせとなり、戦局に応じて柔軟な対応ができず、国家安全保障を損なう危険性があるため、軍事力をポジティブリスト形式で規定する国は、日本以外にないと言って過言ではない。通常、軍事力の行使についてはネガティブリスト形式によって定め、それを国際法(国際法規や国際慣習)が補うのである。

 本来ならば海賊対策新法など整備しなくとも、自衛隊法の抜本的改正さえなしえれば(これが難しいのだが)、無用な議論などせずに済むのだ。少なくとも、まったく異なる次元の権力の行使について定める警察官職務執行法の規定の準用などという愚行は早期にやめるべきである。



 実際に海上自衛隊を派遣するならば、実効性のある派遣にしなければ、まったく意味をなさない。そのために現行体制で可能なことはと言えば、海賊対策の新法の整備である。同時に、自衛隊員の人手不足も解消する必要があろう。これら問題に対し一刻も早い対処が望まれる。これ以上現場の自衛官に不要なプレッシャーはかけるべきではない。

責任感のかけらもない〝次期〟総理

2008年10月25日 | 外交事情考察
印首相との会談欠席 小沢氏「首相じゃないから」と釈明(朝日新聞)

 民主党の小沢代表は24日の青森市での記者会見で、前日のインド・シン首相との会談を体調不良を理由に欠席したことについて「総理大臣になって首脳会談ということなら、多少体調が悪くても欠席することはない。私、野党だから。総理大臣じゃない。国務大臣でもない。勘違いしないでください」と述べた。



 実に無責任極まりない「放言」である。〝次期〟総理候補と目される人物の発言としては、あまりに軽率かつ相手国に対し無礼な発言であり、小沢氏の自己本位的な体質が垣間見れるものである。これではさきにシン首相との会談において、鳩山氏がシン首相に小沢氏の突然の欠席を謝罪したことが無意味になってしまう。

 小沢氏は「多少体調が悪くても欠席することはない」と述べているが、こんなことは当たり前のことであって、むしろ、何を当然なことを言っているのか、程度の感想しかない。安倍氏の体調不良に伴う辞任を、民主はいかに批判したのか。まさか忘れたとは言うまい。小沢氏はこのように開き直っており、この点において安倍氏の辞任よりも性質が悪い。

 敢えて言わせてもらえば、彼の脳内には、選挙と権力欲しかないのだろう。だから他のことはどうでもよくなる。小沢氏の大事な仕事における「ドタキャン」はこれが初めてではない。記憶に新しいところでは、昨年のテロ特措法衆院再可決において、採決直前に退席して大阪府知事選での民主擁立候補の応援に行った。彼は基本的に我儘な人物なのだろう。だから彼は秘書たちに、「みんな朝5時に小沢邸に行かなきゃならない。それから広い庭の草取りから掃除、洗濯から台所仕事まで」やらせ、「小沢氏が)飼っている鳥の餌やり、廊下の拭き掃除、食事の世話から池の掃除まで」全部やらせるのだろう(阿比留瑠比氏のブログより)。



 ところで、小沢氏はシン首相との会談は「自宅療養」であるにもかかわらずキャンセルしておきながら、24日の青森入りは予定通り行うのだという。このことからしても、この人の脳内では選挙がまず第一にあるということが分かる。私個人の感想としては、このような彼の態度に、多くの国民が違和感を持ち、選挙一辺倒の民主党への不信感を募らせ、露骨な権力掌握根性に食傷しているのではないか(それでも「自民よりはまし」といことで、投票行動においては民主に票が流れる可能性は高いが)。

 シン首相としては、メンツを傷つけられたという思いだろう。「私との会談よりも、青森での選挙運動のほうが大事なのか」と。挙句、一部の民主の議員は「寝不足も体調不良のうち」(産経新聞)などと、開いた口が塞がらないたわ言を言い出す輩までいる始末だ。はっきり言おう、外交を舐めているし、バカにしている。こういう非礼を平気でし、しかもそれを指摘されて上記のように開き直る人の下では、諸外国との円満な関係は構築できない。



 これも多くの人が指摘していることだが、そもそも小沢氏は体力的に総理の器たりうるのか?一国を担う総理という重責を担う以上、体力と健康は一番大切な資本である。その為政者としての大前提が、彼には備わっていないのではないか。だとしたら、これは大きな問題である。そのような人物が政治を行って被害を被るのは国民なのであるから。そのことを本人は理解できているのだろうか。

 以前から小沢氏の健康面について、不安視する声はあったが、今回の一件はこれに拍車をかけることになり、民主党が政権を担ったときにおける懸念材料の一つになることは疑いの余地はない。国政を担うトップが健康でなく身体を患っているのに、活力溢れる国家を建設できるわけがない。今回の一件は、民主党の政権運営能力に疑問符をつけ、これに影を落とした。

「お友達の嫌がることはしない」のか?

2008年07月12日 | 外交事情考察
中学社会の指導要領解説書、「竹島」明記巡り調整難航(読売新聞)

渡海文部科学相は11日、町村官房長官と首相官邸で会談し、中学校社会科の新学習指導要領の解説書に、韓国が領有権を主張する竹島を「我が国固有の領土」と新たに明記することについて協議した。
 結論は出ず、都道府県教委の担当者に中学解説書を示す前日の13日まで調整が続く見通しだ。
 渡海氏によると、会談の中で、渡海氏が「竹島問題は領土問題であるので、日本の立場を教育の場でしっかりと教えないといけない」と主張したのに対し、町村氏は「6か国協議や北朝鮮問題もある」と述べたという。北京で12日までの予定で開かれている6か国協議への影響を考慮して、結論を先延ばししたものと見られる。
 政府内には、日韓関係への配慮から明記に消極的な意見や「韓国を刺激しないような表現を考えて明記すればよい」との意見もある。
 この問題を巡っては、竹島問題が新学習指導要領に明記されなかったことに対し、自民党内から不満が出たことを受けて、文科省が解説書への明記を決めた経緯がある。
 これに対し、韓国側は強く反発。韓国の権哲賢(クォンチョルヒョン)駐日大使が、6月24日に安倍前首相、25日に山崎拓・自民党前副総裁と相次いで会い、竹島に言及しないよう求めるなど、政府・与党関係者に激しい陳情攻勢をかけてきた。
 福田首相は11日、首相官邸で、解説書で竹島に言及するかどうかについて「今、関係省庁で協議をしている。全体を考えて、総合的に判断する」と述べるにとどまった。



 竹島は、韓国が一方的に戦後、不法に占拠ということは、もはや周知の事実であるので、ここでは竹島の帰属問題については言及しない。いや、そもそも「帰属」問題自体存在していない。なぜなら、竹島は日本の固有の領土であるのだから。この記事からは、日本の政治家等が領土に関していかに関心が薄いのか、そのことがよく伝わってくる。



>町村氏は「6か国協議や北朝鮮問題もある」と述べたという。

 これを言い出せば、永久的に韓国に竹島を不法占拠させることを許してしまうのではないか。確かに、拉致問題や核問題解決のために、北朝鮮に国際的な圧力をかけるためにも、韓国との協調を取る必要があることは理解できる。だから、そのためにも、波風を立てずに行きたいという町村氏の考えも理解できなくはない。しかし、これを言い出せば、いつになっても領土問題の解決はおろか、教科書に竹島を日本領土と記載することもできなくなる。
 北朝鮮の制裁解除のための「ゴネ特」は批判しても、韓国が竹島を不法占拠するための「ゴネ特」には、どうして批判をせず、むしろ相手に対し配慮すらするのか、全く理解できない。



>政府内には、日韓関係への配慮から明記に消極的な意見や「韓国を刺激しないような表現を考えて明記すればよい」との意見もある。

 このような考えを持つ者が政府にいること自体、それは韓国が竹島を不法に占拠していること以上に、憂うべきことであると思う。「韓国を刺激しないような表現を考えて明記すればよい」ということは、また「両論併記」か?両論併記が批判されて、教科書への記載見直しがされたことを、一体理解できているのか。
 こういった主張をする者は、自分の所有物が奪われても、相手に文句を言わず、自分の所有物をあげてしまうのだろう。それが、「刺激しない」ということなのだから。



 それから、この記事で少し自分なりに気になった箇所があるので、そこを指摘しておこう。

>韓国の権哲賢(クォンチョルヒョン)駐日大使が、6月24日に安倍前首相、25日に山崎拓・自民党前副総裁と相次いで会い、竹島に言及しないよう求めるなど、政府・与党関係者に激しい陳情攻勢をかけてきた。

 韓国側が抗議をしてくることが気になったのではなく、抗議をした相手方が、安倍氏と山崎氏であるというところが、気になったのである。

 ご存知のように、安倍氏と山崎氏は、対北朝鮮政策をめぐり、互いの批判合戦を展開している(そもそも、安倍氏は山崎氏を名指しして批判などしていないのだが)。この二人を連日して呼びつけて抗議をするということは、そこには何か裏があるのではないかと勘ぐったのである。

 つまり、二人を呼びつけて抗議をすることにより、竹島をめぐる日本国内の足並みを乱そうとしているのではないか、ということだ。安倍氏は無論、竹島に関しては日本固有の領土でるという主張を崩さないだろう。そして安倍氏の周辺は、対北政策強硬派が多い。対して山崎氏は、彼の親しい人物たちが自民党内や政府の竹島問題「消極派」であることからして、ここはことを荒立て、対北政策で韓国との足並みを乱すのは得策ではないという考えが働くだろう。

 よって、この両者の対立を上手く利用して、竹島問題での日本の出方を牽制しようとする狙いがあるものと思われる。そうでなければ、安倍氏と山崎氏が対立している最中に、二人を呼び出し抗議をするのは、あまりにも不自然に思える。



 ところで、いつもこういった日本の姿勢を見ていると思い出す主張がある。それはイェーリングというドイツの法学者が著書『権利のための闘争』の中で述べた次のような言葉である。



 「隣国によって一平方マイルの土地を奪われながら庸懲の挙に出ない国は、その他の領土も奪われてゆき、ついには領土を全く失って国家として存立することをやめてしまうだろう」

 そして、このような「権利侵害を黙認する国民は、自己に対する死刑判決に署名するようなものだ」



 今の日本政府は、この言葉を深く心に刻むべきだ。

2008年04月20日 | 外交事情考察
河野議長が“真中派”ぶり発揮 楊外相との会談で(産経新聞)

 河野洋平衆院議長は18日、来日中の中国の楊潔●(=簾の广を厂に、兼を虎に)外相と議長公邸で会談し、5月に予定される胡錦濤国家主席の訪日と、北京五輪の成功に期待感を表明。チベット問題に対しては「中国の主権の範囲で問題が解決されることを望む」などとして、チベット問題を内政問題として処理したい中国側の意向に配慮する姿勢を強く打ち出した。
 河野氏は「人権への国際的な関心が高いことには配慮する必要がある。もう少し広報の工夫があってもいい」と指摘したが、聖火リレーで混乱が続く北京五輪については「良い五輪になることを祈っている」と述べるにとどめた。これに対し楊氏は「日本がチベット問題を中国の内政問題ととらえていることを評価する」と河野氏の発言を歓迎する姿勢を強調した。
 同日、楊氏と会談した自民党の伊吹文明幹事長もチベット騒乱に関する報道について「中国の立場がメディアを通じて正確に伝えられていない。常に(中国がダライ・ラマ14世との)対話のチャンネルを開いていることをマスコミによく分からせる必要がある」と中国側を擁護した。



 敢えて敬称を用いることも避けて、河野・伊吹というこの二人の今回の言動を一言で表すなら「恥」である。河野・伊吹は己の良心は痛まないのだろうか。もはや媚中を超えて「隷中」の域に達しているとしか言いようがない。

 今、チベットで何が起きているのか。そしてその原因は何か。また今までのチベットはどういう状況にあったのか。この二人には到底想像もできないような惨状だろうが、チベットは今、民族の存続を賭けて闘っているのだ。民族として、そして人間としての生存を賭けて闘っているのだ。

 チベットの人たちが、この隷中政治家の言動を目の当たりにしたら、どれだけ辛く、そして冷たくあしらわれたという印象を受けるだろうか。私はこの二人を許すことはできない。チベットの人たちの苦しみを思うと、怒りがこみ上げてくる。この隷中政治家と同じ日本人の一人として、チベットの人たちに心からお詫びしたい。そして、このような政治家が国政の中枢にいる日本という国を恥ずかしく思う。



 河野・伊吹は、もし自分が抵抗のできない小さな子供で、親から躾と称して虐待を受けていて、そのことを大人に相談したところ、「それはキミの家ことだから関係ないし、キミのご両親とは仲がいいから何も言えないね」と言われたら、どう思うのだろう。河野・伊吹はこれと同じことをやってのけたのだ。語弊を恐れずにはっきりと言おう。河野・伊吹は人としての良心はあるのか?



 河野に至っては、こういった隷中ぶりは今回にはじまった話ではなく、過去に何度もの「前科」がある。河野は、首相の靖国参拝に関しては内政問題とは考えず、しきりに中国の顔色を伺い、そのお膳立てをしていたが、今回も中国の提灯持ちに徹したようだ。何故そこまで中国の顔色が気になるのか。この次元にまで達すると、単に中国に対し友好的だからというものではなく、中国に自身にとって何か重要なものを握られているとしか思えない。

 やはり河野にはこのまま衆院議長に留まらせることにより、おかしな活動をさせないようにしておくしかない。それでも、首相の靖国参拝をめぐっては三権の一つである国会の長であることを忘れ、首相参拝阻止に動いたのは周知だが、河野には永久的に衆院議長をさせ、議長席に縛っておくほかない。



 伊吹の発言には、マスコミはこういうときこそ憤慨し批判の筆を走らせるべきなのだが、発言の背景に中国がいると途端におとなしくなる。伊吹の発言はある意味報道への干渉であって、断固として対処しなければならないはずである。安倍内閣時代の赤城農水相など比にならぬほど「フザケテ」いる。マスコミよ、一政治家にここまで言われて何も言えないのか。それとも相手によって態度を使い分けるのがマスコミのあるべき姿だとでも思っているのか。マスコミの今後の「伊吹問題発言」への批判的報道を期待する。

 ところで、伊吹は本気で「常に(中国がダライ・ラマ14世との)対話のチャンネルを開いている」と思っているのだろうか。だとしたら相当の重症である。中国は今までずっとチベットには強圧的は態度で臨み、チベット側の主張には耳を傾けてこなかった。これは世界共通の「常識」である。この常識を知らない政治家は、人権尊重の精神のある国では、日本ぐらいにしかいないに違いない。伊吹はその名の通り、中国に人権尊重の「伊吹」を吹き込んでみろ。



 最後に、自分に言い聞かす意味でもこう言っておきたい。「チベットを静観する者は人に非ず」と。

経済制裁継続は至極当然

2008年04月17日 | 外交事情考察
北朝鮮制裁―柔軟な使い方が肝心だ(朝日新聞社説より一部抜粋)

 何も進展がない以上、継続せざるを得ないということだろう。政府はきのう、北朝鮮に対する独自制裁をさらに半年間、延長すると決めた。
 貨客船「万景峰号」をはじめ北朝鮮のすべての船の入港や、輸入の全面禁止などの措置がこれからも続く。これで3回目の延長だ。
 以来、米中韓ロを交えた6者協議や日朝の直接接触などを通じて交渉を重ねてきた。曲折はあったが、実質的な進展には乏しい。
 とりわけ、6者協議で昨年末までに完了すると合意していた「核計画の完全かつ正確な申告」と核施設の無能力化が終わっていないことは重大だ。拉致問題でも、このところ日朝交渉のきっかけさえ、つかめないでいる。
 現段階で制裁を解く状況にはないという政府の判断は妥当だろう。
 ただ、隣国に制裁を科すというのは、極めて異常な状態であることを忘れてはならない。非は北朝鮮にあるし、その原因を除くよう求めるのはもちろんだが、事態が動けば、押したり引いたりの柔軟な対応が欠かせない。目的は北朝鮮を動かすことにある。
 その意味で前回、昨年10月に制裁を延長したときは、一部緩和もありえたのではないか。北朝鮮は昨夏、寧辺の原子炉などを止めて封印した。最終的な核廃棄にはまだ遠いけれど、意味のある一歩ではあったからだ。
 町村官房長官は今回、談話のなかで「北朝鮮側が諸懸案の解決に向けた具体的な行動をとる場合、(制裁の)一部または全部を終了することができる」と述べた。北朝鮮の行動に即して日本政府は動くというメッセージを出すのは重要なことだ。
 とはいえ、これまでの北朝鮮の動きは鈍く、核廃棄へのプロセスは足踏みを続けている。
 米国が見返りとして示したテロ支援国家指定の解除が進まないことへの不満があると見られる。だが、ウラン濃縮計画をはじめ、シリアなどへの技術拡散といった疑惑が出てきた以上、米国がより透明な核計画の開示を求めるのは当然のことだ。
  



 ブログカテゴリー的には、もしかしたら「偏向マスコミ」に入れるべきだっただろうか。またしても「朝日」はやってくれた。この社説にはまたしても首を傾げてしまう箇所が多々見受けられる。

 まず、「隣国に制裁を科すというのは、極めて異常な状態であることを忘れてはならない」という件は、全く意味不明である。ならば、日本からほど遠いイランやキューバに制裁を科すのは「正常な状態」なのだろうか。制裁をするにあたり、国家間の地理的な距離などどうして関係があるのか。
 隣国であろうとなかろうと、様々な悪逆を働いておきながら何の誠意も見せず、ふんぞり返っている国に制裁を科すのは当然のことであって、それを隣国だからといって躊躇する理由はどこにもない。



 次に「その意味で前回、昨年10月に制裁を延長したときは、一部緩和もありえたのではないか」と朝日は言うのだが、北朝鮮をそれほどまでに喜ばせたいのか、はたまた過去の北朝鮮の行動から何も学べていないほど愚かなのか定かではないが、「甘すぎる戯言」もここまでくると哀れである。

 今までのかの国の行動パターンは、援助を引き出すために脅しを含めた駄々を捏ねる。関係国がそれに怯んだところにかこつけて譲歩をする素振りを見せる。相手国が財布を開くのを見逃さずに、(自分から一方的に悪逆を働いておきながら)それを引っ込めるようなポーズをとる。援助を引き出したら感謝もせず貪り、底が尽きたらまた同じことを繰り返す。かの国の手法はこれを繰り返すだけである。朝日はこんなことも分からないのか。

 ここで北朝鮮の見せかけだけの「進展」に騙されて制裁を緩和したら、それこそ「いつか来た道」と同じ道を辿るだけであって、北朝鮮を利することにはなったとしても、日本にとってメリットは何もないどころか、誤ったメッセージを送ることになり、かえってマイナスであることぐらい、誰でも分かりそうなものだが。

 このような「宥和」を説きながら、その数行後で「これまでの北朝鮮の動きは鈍く、核廃棄へのプロセスは足踏みを続けている」と書くのは矛盾しているのではないか。結局こういう社説の構成では、何が言いたいのかはっきりしない。



 しかしながら、かく言う自分も今までの制裁ではこれといった成果を上げているとはいえないので、何らかの方針の転換を図ることが望ましいとは思っている。だが、それは朝日の言うような「宥和」ではなく、更なる制裁の強化である。具体的には日本国内にある総連への課税強化など、まだまだ強化できることはたくさんある。本音を言えば、北朝鮮となど国交を結ぶ価値もないし、国交を結ぶことは日本にとってのマイナス的な影響を及ぼすものと考えている。

 朝日も言うように、事態の進展を阻んでいるのは北朝鮮である。見せかけだけの「進展」に惑わされることなく、今やるべきことは「しなやかな外交力を発揮」することではなく、更なる制裁の強化である。

非常識で不誠実な中国

2007年12月11日 | 外交事情考察
 中国が日中ハイレベル経済対話で両国が合意した決定のうち、自国に不利な文言を削除して発表していたことが明らかとなった。以下、読売新聞の記事引用。



 北京で1日に開かれた「日中ハイレベル経済対話」で合意・発表された文書の一部を中国側が一方的に削除していた問題で、中国外務省の秦剛・副報道局長は11日の定例記者会見で、「文書は、共同文書でも共同発表文でもなく、内容に違いがあるのは正常だ」と述べ、文書を「共同文書」だとして発表内容の訂正を求めている日本政府に反論した。
 秦副局長は、「それぞれが発表する文書なのだから、内容が違ったとしても国際ルールには違反していない」と述べた。



 極めて不誠実かつ非常識な対応であるのは言うまでもない。これを受けて日本側は当該対話の独自の中国語版の作成と公表を検討しているというが、それはよしとして、朝日新聞によれば、「高村外相は、『大きな中で(削除の)一事をもって信頼を損ねるとか言う必要はないが、ちゃんとしてもらった方がなお信頼が高まる』と述べた」という。だが、中国側のこのような「理解しがたいこと」(町村官房長官)について、「信頼を損ねるとか言う必要はない」とはいかがなものか。仮にも高村氏は当該対話の日本側代表者ではないか。その代表者が「信頼を損ねるとか言う必要はない」と発言するとは心許ない限りである。

 中国側は日本が中国に「対応を求めた部分」をすっぽりと削除しているというのに、これが「信頼関係を損ねるとか言う必要はない」事態なのか。何故そんなに中国側を刺激しないような配慮をする必要があるのか。今回は明らかに日本側が顔に泥を塗られた格好ではないか。福田首相訪中が控えてるにせよ、高村氏は、これは両国間の信頼関係を揺るがすものだと述べてもいいはずだ。

 もし、中国側が日本に同じことをされたら、彼らはどんな対応に出るだろうか。今までの彼らを見ていれば容易に想像ができるというものだ。それにしても、上層部からの指示とはいえ、外交上の合意を一方的に反故にするようなことを堂々となしうるところからみて、いかに中国にまだ民主主義が根付いておらず、国際的なマナー感覚の欠如著しい国であるか、よく分かる出来事だった。

 それから、「秦副局長は、『それぞれが発表する文書なのだから、内容が違ったとしても国際ルールには違反していない』と述べた」というが、文書の内容が異なるのと、文書の一部を削除することは明らかに違うことだ。しかも、日本側が注文を付けた部分だけごっそりと落とすとは、明らかに悪意のある削除行為である。

 このレベルで非常識かつ不誠実な対応をされるならば、遺棄化学兵器の処理事業やガス田開発問題での中国側の対応は、当然に不誠実で非常識な対応だと思ったほうがいいだろう。
 せっかく日中間の関係は改善してきたと言われていたのに、これでは握手した反対の手で殴られたようなものだ。日本側の抗議は当然すぎることだ。

北朝鮮を「テロ支援国家」から外すのは時期尚早

2007年11月27日 | 外交事情考察
 アメリカは、国内の総選挙での共和党の惨敗、イラク政策の失敗と、ブッシュ政権の根底が揺さぶられて以降、北朝鮮への態度を急速に軟化しつつある。一時は「拉致問題の解決なくしてテロ支援国家リスト除外はない」とまで言い日本の拉致問題をバックアップしてきたが、今やヒル次官補をはじめ、アメリカ外交の中枢の人物はテロ支援国家解除に前向きだが、これに対し、このまま拉致問題を御座なりに処理されないよう、日本政府はアメリカに対しあらゆる努力を行うべきは言うまでもない。そこで、今回はいかに北朝鮮の「テロ支援国家」解除が時期尚早のものか、検討していきたい。

 アメリカが「テロ支援国家」として指定している国は北朝鮮のほかに、イラン、シリア、キューバ、スーダンがあり、2006年まではこれら各国に加えてリビアが含まれていたが、アメリカはリビアの民主化、非核化の傾向を評価して26年ぶりに外交関係を回復させた。

 リビアがテロ支援国家を解除されるまでの道のりは、今の北朝鮮のそれとは比較にならないほど厳しいものであった。アメリカはリビアに対し北朝鮮のような「ゴネ得」は絶対にさせなかった。
 たとえば、リビアは1988年にパンナム航空103便爆破事件を起こし、乗客・乗員259人全員とスコットランドのロッカビーの住民11人を殺害の決行、更にその後核開発を断行したが、前者については容疑者全員の身柄引き渡し(当初はこれを拒否していた。)および被害者遺族等らに対し一人12億円もの賠償を行い、後者に関してはIAEAの職員の査察受け入れならびに核施設の完全無能力化を実行に移した。こうした経緯を経て、ようやくアメリカによる「テロ支援国家」からの解除は実現したのだ。では翻って北朝鮮はどうか。

 周知のとおり、拉致問題に関しては「解決済み」の態度を変えていないのはもとより、赤軍派メンバーの日本人妻は、松木薫さん、石岡亮さん、有本恵子さん等の日本人拉致事件への関与していたが、北朝鮮側はこの問題を棚上げしているし、ラングーン事件では未だに賠償はおろか、その関与すら否定している有り様である。挙句、日本海にミサイルを撃ち込み、核実験まで断行したのはつい昨年の話である。
 この「ザマ」で、どうして「テロ支援国家」解除という発想が出てくるのであろうか。アメリカのとっている態度はリビアのときと比べ、明らかにダブルスタンダードであり、もし北朝鮮のような程度で「テロ支援国家」指定解除が可能ならば、リビアなどとうの昔に解除されている。

 アメリカは、核施設の無能力化という曖昧模糊とした表現で、クリントン政権のときと同じ轍を踏んではならない。核施設の無能力化など、北朝鮮がその気になれば、またいつでも「危ない玩具」を振り回して恫喝外交ができてしまう程度のものである。これでは、そのとばっちりを真っ先に受ける日本はたまったもんではない。しかも、拉致事件も有耶無耶にされる。

 ブッシュ大統領は「拉致を決して忘れない」と言ったはずだ。それならば有言実行をしてもらわなければならない。拉致被害者家族の方に残された時間は多くない。このまま拉致被害者の家族の方々が肉親と再会できないとなれば、その心境は察するにあまりある。日本政府が、国家の主権が侵害されている「現在進行形」のテロ行為に、アメリカが目を瞑ろうとしているのに、指を銜えて黙って見ていれば、国民感情も爆発するだろう。

 しかしながら、日本がアメリカに対し毅然と「解除をしてはならない」と言えるためには、テロ特措法の成立も不可欠だということを忘れてはならない。「俺はお前を助けないけど、お前は俺を助けろ」という独善的な主張は、国際社会では通じない。

国連幻想から脱却を!

2007年10月02日 | 外交事情考察
 日本人は、中学とかでの公民の授業の影響からか、国連という存在を、地球市民的世界政府みたいな存在と認識してしまっているような気がする。それはもう、カントの考えた世界政府的な。

 国連を動物に置き換えるなら、多くの日本人は平和の象徴であるハトでも想像しようか。けれども、私は国連とはハイエナだと思う。各国の利害関係が、武力や資源などを背景に、何ら他国と張れるような利点のない弱国を巻き込むように動いていくのが、本当の国連の姿なのだから。

 アメリカなどの強国が、自国に有利な国連運営をするために、議場の裏で何をしているか知っているか。たとえば、アフリカの貧しい国に対し、そこの代表を裏に呼び、援助を打ち切るなどと脅して自国の支持を獲得しているのが現状なのだ。

 どこかの政党の党首は国連をメシアの如く崇め、メシア様のお墨付きがないと、日本は何も海外で出来ないとのたまう。これも、日本人の国連に抱く幻想の現れなのだろう。

 長妻昭氏の言うように、国益よりも国際社会に貢献することを重視するのは、確かに素晴らしいように見える。しかし、国際社会(国連)で日本が発言力ある地位にあるためには、「自国にとって得か損か」という基準が絶対に不可欠であって、個人間関係では自己の利益よりも他者の利益を慮ることは美徳であったとしても、それは国際社会の基準には適合していないことは、戦後から今までの日本の外交上の結果を見ても明らかである。政治とはこちらが与えれば相手も与えてくれるというものではなく、威嚇をしつつ、ときには「アメ」もちらつかせるという駆け引きが肝要なのではないか。

 話が少し脱線したので元に戻せば、今回のミャンマーの件ひとつ取っても、国連がいかに「デクノボウ」か、十分分かったはずだ。あの安保理という国連の最高機関は、どこか一国でも反対すれば、たちまち案件を反故できてしまうのだ。

 今回ミャンマーへの制裁に反対した中国のその理由は、ミャンマーの軍事政権を中国がバックアップしているからに他ならない。もはや、この時点で、国連が「平和のためにある」などというのが、いかに嘘っぱちかいうことがよく分かるはずだ。

 なのに、日本人はまだ国連に甘い幻想を抱こうとする。これが歯がゆくて堪らないのだ。

 国連を脱退しろとは言わない。しかし、国連をあまりに重視しすぎても、日本にとっては、あの安保理の構成国である限り、アメリカに次ぐ「上納金」を納めても、何の見返りも期待できない。そもそも、国連が率先して創出した平和なんて、今まであったか。国連の予算だって、日本の消防庁程度か、それ以下しかない。こんな組織に日本は国家として何を託せばいいのか。

 日本は、国際社会の顔色ばかり、国連を通じて見ていないで、たまには強硬な態度で、国際社会の非難も恐れず意見を言って欲しい。特に拉致問題に関しては!

 日本が危機に陥っても、国連は助けてくれやしないと思う。神は自ら助ける者を助く。国連やアメリカに頼ってばかりいないで、日本のことは日本自身が決めて欲しい。国家の舵を切るのは、国連ではなく日本という国家自体なのだから。