講談社学術文庫
2000年3月 第1刷発行
2012年4月 第18刷発行
解説・湯田豊
原本 1983年 刊行
釈尊の入滅後、仏教は各地へ伝播し、やがて6世紀には日本へも伝来した
しかし、インドと遠く隔たる日本へ遥かな歳月をかけて到達したのが、釈尊の説いたままの仏教であったかと問えば、答えは否である
釈尊はもともと何を教え、どこへ導こうとしたのか?
偶像ではない人間釈尊の言と行とに、その本音を探る
仏閣、仏像には興味があるし、法事などでお経も読むけれど(ご唱和ください、に続くだけ)形式に従っているだけですし、日本に伝わる以前の仏教本来の目的や意味はほとんど知りません
人間、釈尊の教えが平易な言葉で分かりやすく著されています
読んでみればわかりますが、それらは啓発書、小説、映画などで一般的に使われている言葉なのです
ものはみな相互関係の因縁による生起(縁起)と消滅(縁滅)を繰り返している
その場所が世界であり、そのありさまが輪廻である
これがあれば、かれがある
これが生まれると、かれが生まれる
これがなければ、かれがない
これが滅びると、かれが滅びる
これは、ものの相関関係が宿命的に、あるいは神の意志によってあることを教えたものではない
身の回りにあるものすべてが、他の種々の因縁に助けられたり、消滅したりしているという法を教えている
この縁起の法は普遍的法で、世界の真理で、この真理を正しく理解し、体現した人を真理に目覚めた人、つまりブッダ(buddha=目覚めたる人)と呼ぶ
仏教の基本には、つねにブッダになることを目的にした教育があるといえる
出家者であろうと在俗の人であろうと、必ずいつかは遅かれ早かれ、ブッダになれると教えた
そのために戒を守り、日々の生活態度や考えが極端に走ることなく、バランスのとれた状態を保つように心がけるべきだとさとすのが仏教である
中道の生活が教育の目的である
遊びにふけるのも極端である
といってガムシャラに勉強、勉強といって夜も眠らずに勉強に明け暮れるのも極端である
遊んではいけないともいっていない
また勉強は無駄だともいっていない
相手に応じて一つの教えは種々の方便をもって説かれるが、相手がそれを実践のうえで戒として習得すれば、教えを再び説く必要はなくなる
行ないが、動きが、はたらきがすべて教えそのものとなるのだから、経文も、ことばも用いる必要はなくなる
ここの心境に達した人こそ、ブッダである
日々、極端に走ることなくバランスのとれた心で暮らしていけば、心穏やかな人生を送れるでしょう
たぶん…
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