緑には、東京しかない

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

新年の中央通り(4):銀座四丁目交差点から銀座三丁目交差点まで

2013年01月06日 13時53分57秒 | 中央区全域・銀座


戦前は「尾張町交差点」と呼ばれていた銀座四丁目交差点を通り抜けていきます。江戸時代の初期に天下普請と呼ばれた土木工事で、徳川家康が江戸湾の浅瀬の埋め立て工事でこの地を造成したのが尾張の大名だったことに由来するそうです。明治から昭和初期まで、現在の銀座5・6丁目のは尾張町という町名で呼ばれていました。




三越百貨店銀座店の銀座四丁目交差点に面した正面エントランス前に置かれている門松を撮影してみました。人の背丈以上の高さがあるくらい、立派なものでした。




銀座界隈の百貨店やファッションビルなどは1月2日から営業を始める店舗がほとんどであることがわかりました。元旦に営業しているお店など、コンビニくらいしか見当たりませんでしたね。




銀座界隈の繁華街が閑散としていたことと比較すると、同じ日(元旦)に訪れた東京駅構内はものすごい数の人で賑わっていました。キャリーバックやスーツケースを携行していた人が多かったので、世の中には元旦の日に地方へ帰省する人というのも意外と多いのかもしれないですね。




三越銀座前から振り返って新橋方向を撮影してみました。普段は人通りが絶えることがない銀座四丁目交差点周辺もご覧のような有様です。翌日の1月2日になれば百貨店などが開店しますので、幾分人通りが戻ってくるかもしれません。




1930年(昭和5年)に3月4日に実施された区画整理によって銀座五~八丁目地区に編入された晴海通りの南側の地区の様子です。この区画整理によって尾張町、竹川町、出雲町、南金六町などの江戸時代から続いてきた地名が失われることになりました。




横断歩道を渡って和光銀座の1階のディスプレイの展示物を撮影してみました。お正月の雰囲気が伝わってきますね。




銀座四丁目から銀座三丁目交差点方向へ向かって散策を続けていきます。普段はJR有楽町駅から銀座四丁目交差点を経由して松屋銀座本店方向へ歩いていく人の流れで賑やかな歩道も閑散としていました。




和光銀座周辺も人通りが少なく閑散としていました。銀座周辺には初詣で人が多く集まるような神社仏閣が近くにないので仕方がないですね。この後地下鉄に乗って訪れた浅草の浅草寺はとんでもない混雑だったのですが・・・。




明治時代に入ってすぐ、1872年の銀座大火は和田倉門内の兵部省添屋敷から出火し、銀座一円が焼失するという大規模なものでした。そこで、時の東京府知事・由利公正の主導により、大規模な区画整理と、トーマス・ウォートルス設計によるジョージアン様式の銀座煉瓦街の建設が行われることになります。




この政策は火事の多かった東京を不燃都市化すること、また同年秋に開業予定だった横浜〜東京間を結ぶ官営東海道本線の終点・新橋駅と、当時の東日本経済の中心地であった日本橋の間に位置する銀座を文明開化の象徴的な街にしたい、との思惑があったとされます。煉瓦街はまず1873年に中央通り沿いに完成し、1877年に全街区の建設が完了しました。




「ヒカリミチ」イルミネーションの電飾台を横に見ながら散策を続けていると、前方に「アップル銀座店」の建物が見えてきました。・・・よく見ると開店前の長い行列が店舗の前から歩道に続いているのが見えました。




多くの住民たちが銀座を去っていく中で、他の地区で成功を収めて煉瓦街に進出してきた商人たちが銀座の表通りで商売を始めました。現在「銀座の老舗」とされている店の多くは、それ以降に進出してきた店です。




1923年9月1日に発生した関東大震災で銀座は町の大半を焼失し、壊滅的な被害を受けることになります。国の援助を受けて東京市は大規模な帝都復興計画を実施し、都市機能の拡充を行いました。銀座でも、煉瓦家屋のほとんどの取り壊し、昭和通りの整備、晴海通りや外堀通りの拡幅が行われました。




日本全国の地価公示で去年まで1位を維持してきた銀座四丁目地区の山野楽器前にやってきました。高層化や高級ブランドショップの進出、丸の内駅舎の復原工事などによって追い上げてきた丸の内二丁目地区には、去年2012年に初めて同価格となり「丸の内が銀座と並ぶ」などと話題となりました。




地下鉄の銀座駅が設置されている銀座四丁目交差点です。

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