緑には、東京しかない

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

夏日のパレスサイド散策:皇居外苑と皇居二重橋

2012年07月31日 21時16分00秒 | 皇居周辺・城西


内堀通りから逸れて皇居外苑の砂利の部分を歩いて二重橋へ向かいます。皇居前広場の敷地のほとんどが砂利に覆われていて、皇居外苑そのものが広大な「枯山水式庭園」のようにも見えます。近畿地方の京都市東山区にある南禅寺の方丈の枯山水式庭園を10000倍の規模にしたのが皇居外苑です。「枯山水式庭園」というのは砂利を「海」に見立てて、松の木や石などを海の中に浮かんでいる「島」と見立てているそうです。




実際に砂利の中を歩いているとまるで自分が広大な真っ白な海の中を移動しているような錯覚に囚われます。この日は強烈な日差しが上空から照りつけてきたので、砂利の表面温度はすごく高くなっていて、立ち止まって指で砂に触れてみるとすごく熱いと感じました。砂利は意外と深く、足を囚われないように慎重に散策していきます。




皇居外苑や二重橋は東京の観光のコースに入っていることが多いそうなので、緑も観光気分で楽しんでみます。東京都心部を歩いていると観光バスで東京を観光している地方の人たちや外国人観光客をよく見かけます。千葉県で生まれ育って、通勤や通学、買い物などで東京へ出かけることが日常生活の一部になっている千葉都民の緑から見ると「東京なんか観光して一体何が楽しいんだろう? 地方(ただし、今後副首都になることがほぼ確定している大阪を除く)の人たちは物好きなんだな」と思えてしまいますが、観光客の気持ちになって散策してみます。




見事に手入れがなされて維持されている黒松の木々と広大な芝生の奥に密集して建っている東京駅丸の内の高層ビル群。江戸時代に大名屋敷が集まっていた「本丸の内」は明治維新後に官有地となり陸軍の練兵場となりました。そして三菱財閥の2代目当主・岩崎弥之助に払い下げられ、その後は「三菱財閥」「日本生命」など大阪発祥の大企業が集結する日本一のオフィス街となっていきます。




丸の内ビルとJPタワーの丁度間に「グラントウキョウノースタワー」が見えました。JPタワーが東京中央郵便局跡地に最近完成しましたが、この高層ビルの完成によって東京駅丸の内周辺の高層ビルの密集度が更に上がったように感じます。




写真の左側で3機のタワークレーンが展開している工事中の高層ビルは「(仮称)大手町1-6計画」の高層ビルです。「みずほ銀行大手町本部ビル」と「大手町フィナンシャルセンター」の跡地に建設されていて、2014年4月に竣工予定です。




皇居外苑は一応は正式な「公園」であることになっていますが、子供たちが遊ぶための遊具などはもちろん、休憩するためのベンチなども一切置いてありません。広場の散策や江戸城の歴史に触れる憩いの場として見る向きが強く、また皇居に隣接している場所柄から、制服警察官が常駐していることも特徴です。




普段は団体の観光客が二重橋周辺に集まって賑やかな雰囲気なのですが、この日は本当に「無人」に近かったです。




日比谷方向をズームで撮影してみると「帝国ホテルインペリアルタワー」や「汐留シオサイト」の高層ビル群などが見えました。




しばらく歩くと二重橋濠に架かっている「二重橋」の正門石橋が見えてきました。新年や天皇誕生日の皇居一般参賀時には二重橋を渡って新宮殿へ歩く一般の人たちがテレビのニュースで流れているのを思い出しました。




正面から撮影した「正門石橋」です。江戸時代のこの場所には本丸の内から江戸城の正門へ向かうための「西の丸大手橋」と称される木橋が架けられていました。明治維新後の明治20年(1887)に江戸城に明治宮殿が造営される際に、木橋から石橋に改架し、橋名も正門石橋と改称されました。2012年現在、東京都内で現存する石橋の中では2番目に古いのだそうです。




ズームで撮影してみましたが、西側からやってくる雲が写ってしまったのが残念です。快晴の空の下の正門石橋を撮ってみたかったのですが・・・。




坂道を登って正門石橋の前まで迫ってみたいと思います。




江戸時代は「西の丸大手門」と呼ばれ、現在は「皇居正門」と呼ばれる門が正門石橋の脇に建っています。高い石垣の上に門があるので、その門に接続している正門石橋も水面からかなり高い位置に架けられています。




正門石橋は普段は通ることができないようになっていて、正門には皇宮警察の皇宮護衛官の儀仗隊が常駐しています。




正門石橋の脇から御所の方向を見るともう一つの橋が架かっています。これが二重橋の「正門鉄橋」と呼ばれている橋で本来はこの鉄橋こそが「二重橋」なのだそうです。世間一般的には石橋の方が目立つしインパクトがあるので、石橋の方が二重橋であると誤解されることが多いそうです。





正門鉄橋は江戸城の西丸下乗橋のあった位置で、木造橋時代に橋桁が上下二段に架けられていた。そこから「二重橋」と呼ばれるようになりました。現在の鉄橋は昭和39年(1964年)に架け替えられたもので、橋桁は二重ではありません。




皇居外苑から新宮殿の広場へ向かう際に正門石橋と正門鉄橋を渡ることになります。この次は再び皇居外苑の中を散策していきます。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真夏のパレスサイド散策:祝田橋を渡って皇居外苑(皇居前広場)へ

2012年07月30日 12時53分11秒 | 皇居周辺・城西


桜田濠と凱旋濠の間に架けられている土橋「祝田橋」を渡って皇居前広場へ入ります。皇居前広場を縦断している内堀通りは大変交通量が多く、常に車列が途切れることはありません。全国的に見ても皇居前広場のような都市部の広大な緑地帯の中を縦断している幹線道路というのは珍しいのではないでしょうか。




祝田橋上からJR有楽町駅方向を撮影してみました。満水状態に近い日比谷濠と日比谷交差点周辺に立っているビル群を見渡すことができます。東京都心部の中枢でありながら、どこか郊外の緑地帯の中を散策しているような気持ちになります。天気も快晴で雲一つなく、散策していて最高です。




正面のビルは「DNタワー21」、その右側のビルは「ザ・ペニンシュラ東京」です。DNタワー21の手前の「第一生命館」は昭和13年(1938年)に竣工した第一生命保険の本社ビルですが、終戦後は占領軍に接収され、1952年(昭和27年)に返還されるまで連合国最高司令官総司令部として使用されていました。その後の1990年代に農林中央金庫有楽町ビル、第一生命館をそれぞれ部分保存の上、解体・再構築し、第一生命保険と農林中央金庫の頭文字からDNタワー21と名付けられました。




祝田橋交差点の横断歩道を渡って桜田門寄りの歩道を歩いていきます。桜田濠と凱旋濠の石垣に囲まれて「切通し」のように見える内堀通りの先を見ると皇居外苑の広大な緑地帯が広がっています。緑地帯といっても上野公園や代々木公園のような鬱蒼とした木々に覆われているのではなく、芝生や黒松の木できれいに整備されてる程度です。




ズームで撮影してみると黒松の木々に覆われている緑地帯の奥に「丸の内ビル」「新丸の内ビル」を始めとする東京駅丸の内・大手町の行動ビル群が整然と並んでいます。2000年代の中盤から丸の内や大手町は高層ビルの建設が進んできたので、皇居前広場から東京駅にかけての景観がこの10年間に大きく変貌しています。




日露戦争の戦勝を記念して架けられた祝田橋によって日比谷濠は二つのほりに分断されましたが、桜田門寄りの濠が「凱旋濠」です。水面の突き当りに見える築堤の上に「桜田門」が建っています。




凱旋濠に沿った桜田通りの向こう側には「法務省」と「警視庁本庁舎」の特徴的な建物が見えます。警視庁は桜田門の前に立っていることから「桜田門」という俗称で呼ばれています。昭和6年(1931年)に豊後杵築藩松平家屋敷跡に建てられた旧庁舎は昭和52年に解体されて、昭和55年(1980年)に現在の新庁舎が竣工しました。




凱旋濠の畔に組み立てられている石垣をそばから撮影してみました。実際にそばで撮影すると石垣は非常に高さが高く、石垣の上には黒松の木々が植えられています。




徳川家康が関東地方にやってくる以前の江戸城については未だにどこにあるのかはっきりとはしていないそうです。東京都心部周辺の土地を収めていた地方豪族である太田道灌の江戸城は一説には東京地下鉄東西線竹橋駅の直下、地下30メートルの位置に埋まっているという情報もあるそうです。




上野公園などの鬱蒼とした木々に覆われている都心部の緑地帯とは違った雰囲気の「皇居外苑」の中を散策していきます。緑地帯を南北に内堀通りの大通りが縦断しており、たいへん広々とした雰囲気の中を歩くことができます。内堀通りをこのまままっすぐ歩き続ければ竹橋駅まで到着することができますが、脇へそれて二重橋へ向かいます。




2012年5月17日に建て替え後にグランドオープンした「パレスホテル東京」など大手町の高層ビル群が天皇陛下の住まう皇居脇「パレスサイド」の素晴らしい景観を作り上げています。東京が日本全国に誇ることができる景色の一つだと思います。




皇居外苑の新緑の緑地帯の背後には再開発工事がほぼされ尽くした(残りはJPタワーのみ)東京駅丸の内の高層ビル群が、大手町の高層ビル群と一体になる形で南側へ続いています。




皇居外苑の見所の一つであるのがこの黒松の木々と広大な芝生広場です。綺麗に手入れがなされている黒松の木々に目が行きがちですが、木々の根元を見回してみると、40000平方メートルの芝生が目の前に広がっています。




東京都心部の洗練された緑地空間なので、東京を観光するコースの中にも含まれている皇居前広場。当然散策する際は多くの観光客で賑やかだろう・・・、と想像していたのですが、この日は平日であることも関係しているのかほぼ「無人」でした。




正面左側に写っている門は「桜田門」、つまり皇居前広場というのは江戸城の本丸の内に相当し、明治維新後は皇室用地となっていましたが、戦後は国民公園として開放されました。




祝田橋から皇居外苑の敷地へ入ります。内堀通りから少し西へそれて「二重橋」へ向かいます。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏日のパレスサイド散策:日比谷交差点から祝田橋交差点まで

2012年07月28日 15時33分50秒 | 皇居周辺・城西


7月の中旬、快晴の天気となった平日に「日比谷交差点」にやってきました。日比谷交差点は晴海通りと日比谷通りのクロスであり、わかりやすく言うと皇居外苑の脇に建っているラグジュアリーホテルの「ザ・ペニンシュラ東京」の前にある交差点です。これから祝田橋、二重橋、皇居外苑、大手門、日本経済新聞本社ビル(大手町)前を通って東京地下鉄東西線竹橋駅前まで散策してみます。




日比谷交差点の南側に広がっている広大な緑地帯は「日比谷公園」です。江戸時代の初期に埋め立てが行われた日比谷入江の上には日本全国の藩の大名屋敷が置かれていました。明治維新後は更地となり、その後に陸軍の練兵場となります。練兵場は代々木へ移転(代々木公園のある場所)し、公園として整備されることが決定します。ドイツ式庭園を基本に日本的な要素を混ぜて設計された日比谷公園は明治36年(1903年)に開園しました。




日比谷交差点から北側方向に伸びている「日比谷通り」を撮影してみました。日比谷通りはここ日比谷交差点から大手町交差点まで「国道1号線・20号線」の重複区間となっています。日比谷通りといえば毎年のお正月に開催される箱根駅伝のコースでもあります。




日比谷交差点の北側に広がっている広大な水面は「日比谷濠」と言います。徳川家康が江戸城入城時には、日比谷あたりは入り江の海岸線でした。なぜ徳川氏が湿地帯や入江のそばの高台にお城を構えたのかについては、当時の戦争に使用されていた主要兵器が「大砲」であったためと言われています(歴史の教科書的には鉄砲ですが、実際には大砲だそうです)。




晴海通りの歩道を歩いて「祝田橋」へ向かいます。お城の天守閣の周辺に内堀や外堀を配置して敵軍が近づけないようにするというのが当時の「防衛戦」の一般的な戦術ですが、敵軍の大砲の射程距離よりも遠い場所に外堀を配置出来ることが理想的です。そしてお城の背後が海であれば敵が近づけないだけでなく、徳川の軍港として利用することも可能です。このような理由から江戸城の立地場所が決定したのです。




満水状態の日比谷濠を見ながら祝田橋へ向かいます。日比谷公園のある場所に存在した入江は埋め立てられましたが、埋め立てられなかった海面部分は「日比谷濠」となりました。現在の日比谷交差点の位置には日比谷御門があり、近縁に屋敷を構える大名たちは門をくぐり日比谷濠に沿い桜田門ないし馬場先門方面に向かっていました。




新緑の柳の木々が並んでいる晴海通りの歩道をひたすら歩いていきます。晴海通りの交通量は大変多いですが、歩道を歩いている人間は全くと言っていいほどいませんでした。この日は日差しも強烈でしたし、外を散策する人たちは道路を挟んだ日比谷公園の中を歩いているのかもしれません。




かつて海であった日比谷濠を大手町方向を撮影してみました。濠の右側には丸の内や大手町の高層ビル群が密集していてまさに「パレスサイド」にふさわしく、素晴らしい景観が展開しています。




北側に伸びている日比谷通りの歩道にも柳とイチョウの街路樹が植えられています。日比谷通りに沿って建てられているビルはどれも高さ31メートルに統一されていて、まるで大阪都心部の淀屋橋から本町にかけての御堂筋を散策しているみたいです。




正面に見える31メートルビルは「国際ビル」で「帝国劇場(通称「帝劇」)」が入居しています。益田太郎、西野恵之助、渋沢栄一、荘田平五郎などの日本経済界の有力者たちが発起人となって、大倉喜八郎が采配を振って設立された本邦初の西洋式演劇劇場です。1911年(明治44年)3月1日に竣工式が行われました。現在の建物は谷口吉郎氏の設計で新たに現在の帝国劇場が1966年(昭和41年)9月29日に落成しました。




振り返って晴海通りを銀座方向を撮影してみました。大通りの脇に立っている黄土色のビルは「ザ・ペニンシュラ東京」、奥のタワークレーンが建って建設中の高層ビルは建て替え工事中の「歌舞伎座」です。晴海通りは日比谷交差点から勝鬨橋までほぼまっすぐに伸びているので東銀座周辺まで見通すことができます。




日比谷入江に沿って築かれている石垣、遠くから見るとかなり低く感じますが、実際には5メートル以上はあるそうです。




日比谷濠と凱旋濠の間に架かっている「祝田橋」が見えてきました。「橋」と言っても実際は濠を埋め立てて造った「築堤」に近いです。この高い石垣の壁の向こう側に「皇居外苑(皇居前広場)」が広がっています。




「祝田橋交差点」に到着しました。交差点の南側は霞ヶ関の中央省庁街となっており、正面に写っているのは「警視庁本庁舎」の建物です。




脇から撮影した土橋である「祝田橋」です。1906年(明治39年)に、日露戦争の戦勝を記念して外苑を縦断する形で凱旋道路が造られ、外苑南面に祝田橋(土橋)が架けられました。このことにより日比谷濠は東西に別れ、西側(桜田門側)が凱旋堀となり、東側のみが日比谷濠と呼ばれるようになりました。




「日比谷交差点」から散策を始めます。日比谷濠に沿って桜田門方面へ進み、祝田橋までです。次回の記事では皇居外苑の中を歩いて二重橋へ向かいます。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本中枢の散策:千代田区一番町(駐日英国大使館前)から靖国神社へ

2012年07月27日 15時07分24秒 | 皇居周辺・城西


「半蔵門交差点」から国道20号線新宿方向を撮影してみました。半蔵門から新宿までは江戸時代の甲州街道のルートに沿って国道20号線は続いています。麹町方面へ向かってさらに上り坂が続いているのがわかります。




半蔵門交差点から内堀通りを道なりに沿って歩いていきます。緑が歩いているのは「千代田区の麹町一丁目」です。「麹町」というと日本テレビの本社ビルがある場所のイメージが強いですが、麹町の町域は東西に広がっていてイギリス大使館がある皇居脇まで含まれています。




イギリス大使館の敷地の広大な緑地帯が内堀通りに沿って奥まで続いています。「麹町(こうじまち)」の由来は町内に「小路(こうじ)」が多かったためという説、幕府の麹御用を勤めた麹屋三四郎が住んでいたためという説もありますが、府中(ふちゅう)の国府(こくふ)を往来する国府街道の江戸における出入口であったため、つまりは国府路(こうじ)の町であったという説が有力です。




「千代田区の一番町」の皇居に隣接している一等地に建っているのが「駐日英国大使館」です。イギリス大使館の歴史は明治以前の安政6年(1859年)の英国総領事館の開設(場所は港区の高輪)までさかのぼります。領事館は公使館に格上げされて、その後は横浜や港区の泉岳寺など場所を転々としていました。高杉晋作らに焼き打ちされる「英国公使館焼き打ち事件」など、当時は尊王攘夷と呼ばれる世の中だったので色々あったそうですよ。




当時の英国公使であったハリー・パークスは江戸城近くの複数の用地を物色した結果、1872年5月(明治5年)、七戸藩上屋敷、櫛羅藩上屋敷、七日市藩上屋敷、および旗本水野兵部の屋敷跡を合わせた12306坪(明治17年の本契約では10833坪)をほぼ永久に貸与されることとなりました。その後現在にいたるまで、この場所が英国大使館(1905年に公使館から大使館に昇格)の所在地となっています。同じ時期に「日英同盟」という条約が日本と英国の間で結ばれています。




もともとの英国駐日大使館の本館は赤レンガ作りの建物でしたが、関東大震災で倒壊したので昭和4年(1929年)に現在の本館の建物が建て直されました。この建物だけを観ていると本当にイギリス国内にいるみたいです。




イギリス大使館の前を通り過ぎて「千鳥が淵交差点」に到着しました。この先は千代田区の一番町から「千代田区の三番町」を散策していきます。皇居と四谷の間には「一番町」「二番町」…「六番町」までの地域名が存在します。江戸時代の旗本のうち、将軍を直接警護するものを大番組と呼び、大番組の住所があったことから番町と呼ばれていました。大番組は設立当初、一番組から六番組まであり、これが現在も一番町から六番町に引き継がれています。




右側を見ると千鳥が淵の水面と水面上を走っている首都高速都心環状線の高架橋が見えます。都心環状線はこの先、北の丸公園を抜けて神田橋方面へ続いています。




水面の奥には皇居や北の丸公園の広大な緑地帯が広がっています。桜の季節になると満開の桜が楽しめますが、この季節は新緑を眺めることができます。




振り返ると都心環状線の「千代田トンネル」の坑口が見えます。千鳥が淵の北側坑口から憲政記念館前の南側坑口まで続いている長さ約1900メートルの道路トンネルです。トンネルの中で三宅坂ジャンクションの「トンネル内分岐」が存在するなど運転する際には注意が必要です。




都心環状線は交通量が非常に多くて全く車の流れが途切れませんでした。




「墓苑入口交差点」。ここから千鳥が淵へむかって「千鳥が淵緑道」の散策道が伸びています。この散策道の途中には「千鳥が淵戦没者墓苑」があります。




千代田区三番町の地域を南北に縦断している内堀通りをひたすら歩いていきます。この辺りは以前は高級住宅地だったそうですが、近年はオフィスビルが多く進出しています。実際に歩いてみてもオフィスビルや中層マンションが混在していました。




大学や高校なども点在しています。




内堀通りの終点の「九段坂上交差点」に到着しました。靖国通りに沿って広がっている靖国神社の広大な敷地は新緑で鬱蒼としています。これで日本の中枢の散策は終わりです。




内堀通りの終点である「九段坂上」で散策終了です。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本中枢の散策:国立劇場の前を通って半蔵門へ

2012年07月26日 20時34分56秒 | 皇居周辺・城西


現在緑が歩いているのは皇居の桜田通りに沿った国道20号線の歩道で、「千代田区の隼町(はやぶさちょう)」という地域です。半蔵門に向かって歩いていますが、緩やかな上り坂となっています。標高が上がるにつれて皇居の桜田濠を見渡すと絶景の風景が広がっていきます。皇居周辺の道路はマラソンランナーが多いと聞いていたので散策するときは気をつけていましたが、平日の午後ですとほとんど見かけませんでした。




半蔵門に近づくほど標高がどんどん上がっていき、桜田濠の水面が遠くなっていきます。正面に見える広大な緑地帯の中には天皇皇后両陛下がお住まいの「御所」があるはずです。両陛下が東京にお住まいであることから東京が日本の首都であることの大きな理由となっています。東京遷都から約150年経ちますが、明治当時は東京(江戸)を含む関東地方は「東戎」と蔑まされていました。あれから150年経って東京は日本一、いや世界一の大都会に成長しました。




日本における本格的な都市の成立は古墳時代、仁徳天皇の時代にさかのぼります。上町台地と呼ばれている大阪湾の半島に「難波高津宮」から始まり平安~室町~安土桃山~戦国~江戸時代にかけて日本一の大都会「大坂」が繁栄を極めます。明治以後に天皇を京都から江戸に移動し、大阪の豪商の投資や西日本の政治的指導者のリードによって東京は世界一の大都会になることを義務付けられます。関東大震災や太平洋戦争による戦略爆撃を受けながらも東京は繁栄を続けていきました。




「国立劇場前」交差点に到着しました。国立劇場や最高裁判所がある地域は「千代田区隼町」ですが、その地域名の由来は徳川家康の江戸入府当初、鷹匠屋敷があったことによります。「鷹匠」とは鷹や隼を飼育し、鳥や小動物を捕らえるよう訓練する専門家のことです。つまり、隼(はやぶさ)という町名は、鷹匠の屋敷があったことに由来しているのです。江戸時代のこの辺りは飼い慣らされた鷹や隼が三宅坂周辺を飛び回っていたのかもしれませんね。




「国立劇場」最高裁判所の北側に隣接して建っている施設で、日本の伝統芸能を上演するほか、伝承者の養成や調査研究も行っています。歌舞伎・日本舞踊・演劇が演じられる大劇場、文楽・邦楽・日本舞踊(小規模公演)・雅楽・声明・民俗芸能が演じられる小劇場、落語・漫才などが演じられる演芸場の3つで構成されています。また、伝統芸能の公演の他これに携わる人材育成も行っています。2003年に国立劇場裏に伝統芸能情報館が開館しました。




国立劇場を設置する構想は明治時代から存在しましたが、本格的に計画が具体化するのは1956年(昭和31年)のことです。設計案についてはコンペが行われ、奈良の正倉院を思わせる校倉造風の外観とした竹中工務店の岩本博行案が当選しました(1963年)。建物は1966年10月に竣工しました。1966年7月の国立劇場法により、特殊法人国立劇場が設立され、同年11月1日に国立劇場本館(歌舞伎を中心とする大劇場・文楽を中心にする小劇場)が開場しました。




国立劇場前交差点から振り返って坂下方向を撮影してみました。この辺りは国会議事堂や首相官邸よりも標高が高く、東京都心部というよりも郊外の里山を散策している気分です。本来、隼町とは現在の隼町の北隣にあたる麹町一丁目南側の地域を差していました。この旧・隼町は江戸時代初期は旗本屋敷で、1604年(慶長9年)より明暦の大火で消失するまでの間、日枝神社が存在した。1691年(元禄4年)火除地となった後、1697年(元禄10年)町屋が起立し、隼町が成立しました。




一方、現在の隼町町域は江戸時代を通して武家地でありました。三宅坂の由来となっている田原藩三宅家上屋敷は渡辺崋山が生まれ住んだ所としても知られます。




三宅坂の坂上が近くなって来たと思うと、進行方向に桜田濠の北端部と巨大な築堤が見えてきました。緑化処理されたロックフィルダムのようにも見える築堤の上に「半蔵門」が建っています。「半蔵門」と言えば現在の皇太子様と雅子様が東宮御所から皇居へ移動されたことを報道するニュース番組などでこの門が画面に出てきますね。




ズームで撮影してみると、鬱蒼とした新緑の木々の中に石垣で組まれた「半蔵門」が見えました。こうしてみると、この門はとんでもない地形の場所に建っていると驚きました。




半蔵門へつながっている築堤前から桜田門方向を観ようと振り返った時、緑は思わずこの風景に感動しました。標高24メートルの半蔵門前から見渡したこの風景、本当に東京の都心部なのかと驚きました。




霞が関や桜田門に建っている中央省庁や警視庁の周辺は、江戸時代は日比谷入江周辺に点在する湿地帯であったと言われています。おそらく当時はこの位置から東京湾も見渡せたのかもしれません。




築堤の奥に新緑の木々に囲まれてひっそりと建っている「半蔵門」です。この門内は江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの住居とされていました。現在は吹上御苑と呼ばれ、御所(今上天皇の住居)、吹上大宮御所(かつての香淳皇后の住居)、宮中三殿、生物学御研究所、天皇が田植えをする水田などがあります。天皇や各皇族の皇居への日常の出入りには、主にこの門が用いられています。




「半蔵門」の名称については、この門の警固を担当した徳川家の家来服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来するとする説と、山王祭の山車の作り物として作られた象があまりにも大きかったために半分しか入らなかったことに由来するとする説があります。




国道20号線が新宿方面へカーブしている「半蔵門交差点」。次回は半蔵門からイギリス大使館前、千代田区三番町、そして終点の靖国神社まで一気に進みます!!!




国道20号線が新宿方面へ直角カーブしている場所が「半蔵門交差点」です。この先は内堀通りを北へ歩いて靖国神社へ向かいます。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする