1930年(昭和5年)まで「尾張町交差点」と呼ばれていた「銀座4丁目交差点」周辺を散策していきます。新橋駅前から京橋、日本橋へと中央通りを散策していく中で、一番のハイライトである区間を通って行きます。交差点に面して建っている和光の時計台は東京の象徴であり、その存在は周囲を歩く人間を魅了します。
明治・大正時代までは京橋区の銀座地区は1丁目から4丁目までしかありませんでした。「日比谷入江」にほど近かった湿地帯を埋め立てて、埋め立てに関わった藩の名前が地名となっていたので尾張町・加賀町、出雲町といった町名が付けられていたのです。昭和5年(1930年)の区画整理によって銀座5丁目~銀座8丁目に編入されていきました。
旧京橋区の銀座4丁目と尾張町1丁目の境界にあったこの交差点はかつて「尾張町交差点」と呼ばれていたそうです。約80年前に交差点の名称が変わってしまったので、この名前を覚えていらっしゃる方というのは非常に少ないのかもしれません。緑もこの事実を知ったのは以前に新聞に書いてあったことを読んでからです。
「銀座4丁目交差点」。この交差点に差し掛かった時にちょうど午前10時になり、和光の時計台の鐘楼が稼働したのです。午前10時なので10回の鐘と、ウェストミンスターの鐘が周囲に響き渡ると、歩道を歩いている人々が一斉に上を見上げるほどでした。再現してみるとこんな感じです。
「キーンコーンカーンコーン…。カーン、カーン、カーン、カーン、カーン、カーン、カーン、カーン、カーン、カーン…。」
銀座4丁目交差点を見下ろすように建っている「銀座和光」。セイコー製のプライベートブランドである腕時計や宝石を中心に、日本国内外の時計やバッグなどを取り扱っている専門店が数多く入居しています。現在の建物は関東大震災後の昭和7年(1932年)に建てられたものです。設計者は東京国立博物館や第一生命館などを担当した渡辺仁氏です。
銀座の町のシンボル的存在である和光の時計台。昭和時代の初期に造られたこの時計台はネオ・ルネッサンス様式と呼ばれています。塔の高さは9メートル、その上に8メートルの尖塔と避雷針が付いています。四方にある文字盤は正確に東西南北を向いており、直径は2.4メートル、長針は1.17メートル、短針は0.75メートルあります。昭和29(1954)年6月10日に制定された「時の記念日」からは、ウエストミンスター式チャイムの音が鳴り響くようになりました。
交差点の横断歩道を渡って、三越銀座店前から振り返って新橋方向を撮影してみました。高級ブランドショップや専門店、ショッピングストリートなどが入っているビル群が整然と続いています。
昭和時代の初期に銀座地区に編入されたエリアも約80年経った現在は銀座の中心街の顔を持っていると言えるほど発展しています。
三越百貨店銀座店の正面玄関の脇にはなんと七夕が飾ってありました。もうそんな季節が近くなっているのですね。
この後中央通りを北へ歩いて三越百貨店の日本橋本店の前を通ることになりますが、日本橋の三越よりも銀座の三越の方がにぎやかな雰囲気であると強く感じました。
銀座4丁目周辺は今まで日本一地価が高い状態が維持されてきました。圧倒的な全国的知名度、日本国内の一流百貨店の集結、国内外の高級ブランドショップの集積、歴史などの積み重ねがそれを可能にしていたのです。
2012年3月に国土交通省によって発表された地価公示によると、千代田区の丸の内が中央区の銀座4丁目に並ぶなど話題となりました。千代田区丸の内2-4-1(丸の内ビルディング)が一平方メートル当たり2700万円、そして中央区銀座4-5-6(山野楽器銀座本店)も2700万円と同額となったのです。
銀座4丁目交差点を後にして先へ進みます。
銀座4丁目交差点から北へ200メートルほど歩くとすぐに「銀座3丁目交差点」となります。松屋銀座本店など百貨店が多いエリアとなります。
銀座3丁目交差点前に建っているビルの1階には「アップルストア銀座店」のお店が入居しています。日本で初めてのアップルストアの直営店として2003年11月に開店しました。電気や家電、パソコンの町である秋葉原ではなく、なぜ銀座3丁目に作ったのかはわからないです。
中央通りと晴海通りのクロス「銀座4丁目交差点」が中心です。周囲には松坂屋・三越・松屋など百貨店が集積しています。