大阪、京都、神戸など関西の歴史と名所を再発見するブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



近所の公園ではミサゴが止まる杭にトビが止まることもあります。そのトビについて調べてみましたので紹介しましょう。

身近な猛禽類として知られるトビは、タカ目タカ科に属し、タカ科の中では比較的大型の野鳥です。♂の全長は59cm♀は69cm、やはり身近な大型野鳥ハシブトカラスより一回り大きく翼開長は157162cmほどにもなります。

体色は褐色と白のまだら模様で、眼の光彩は黒褐色、地上や樹上にいるときは尾羽の中央部が三角形に切れ込んでいますが、飛んでいるときは尾羽の先端が真っ直ぐに見える個体が多く、遠くからでも他のタカと識別することが可能です。

トビは、上昇気流を利用して輪を描くように滑空し、羽ばたくことは少なく、上空を飛翔しながら鋭い眼で餌を探し、餌を見つけると急降下して捕らえることが知られています。

トビやオオタカ・ハヤブサなどの猛禽類が飛翔すると、カラスがどこからか集まって来て猛禽類と争う光景を見かけますが、餌とする食物が競合するからでしょう。体が大きく爪も鋭い猛禽類を追い回すカラスの団結力には驚きます。

トビには、「鳶に油揚げをさらわれる」のことわざがあり、隙を狙って人間が手に持っている食べ物まで飛びかかって奪うことがあり、最近もこの事例が増えているようです。

他のタカ類は、果敢に生きた獲物を狙うハンターの姿を見せてくれますが、トビは死んだ獲物や残飯を食べることがあり、勇猛な鳥とはみなされていません。

こうしたことからトビにはタカ類の中で一段低いという印象があり、平凡な親から優れた子が生まれることを「鳶が鷹を産む」と例えられたりもします。

神武天皇の前にトビが降り立ち、その身から発する金色の光で長髄彦の目を眩ませ、神武天皇の軍勢に勝利をもたらしたという話が『日本書紀』(720年)に記載されていますので、1300年間も日本人に親しまれてきた野鳥でもあるのです。



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久しぶりに有馬温泉に行ってきました。有馬温泉の日帰り温泉「金の湯」

ふと見た街角に、明治41年頃のものらしい明治大見立改正新版という温泉番付が掲示されていて、西の大関が有馬温泉、東大関が草津温泉となっていました。

西前頭2枚目の肥前温泉ケ嶽温泉とは雲仙温泉のこと、前頭3枚目の阿蘇山温泉とは阿蘇内牧温泉のことでしょう。・・・有馬の街角

前頭5枚目の肥後山家温泉とは山鹿温泉のこと、前頭19枚目にブンゴ(豊後)別府温泉とあるので、別府は当時はあまり知られていなかったのでしょう。

温泉番付前頭8枚目にある美濃下良温泉とは下呂温泉のことでしょう。前頭22枚目にも美濃下呂温泉が出てきますが、当時は2か所に分かれていたのかも知れません。・・・高台から見た有馬温泉

西前頭9枚目にある能登底倉温泉は今の和倉温泉のことでしょう。そうなると西前頭6枚目の上州和倉温泉がどこの温泉かよく判りません。・・・御所泉源

温泉番付の西前頭6枚目上州和倉温泉と7枚目伊豆修善寺温泉などは、東方に入れるのが適当ではないでしょうか。・・・天神泉源

前頭11枚目の薩摩硫黄温泉とはどこの温泉なのかよく判りません。ひょっとして指宿温泉かも。・・・天神泉源

実は、草津温泉にあった「第30回にっぽんの温泉100選」ポスターでは草津が1位、別府に続いて指宿が3位、さらに湯布院、下呂、道後と続き有馬温泉は7位にランクされていました。かなりランクを下げてしまっているので頑張って欲しいものです。



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近所の公園には12月に咲くヒマラヤザクラが花を付けていて、メジロがその蜜を吸いにやってきます。

ヒマラヤザクラの花の盛りは11月中旬くらいでした。従って盛りは過ぎていますが、餌の乏しい冬期のメジロにとっては有難い存在でしょう。

下の写真を見て、クチバシが異常に長いことに気が付きました。

トリミングして拡大してみましょう。どうやらクチバシの間から舌が出ているようです。

メジロのクチバシはそれほど長くありませんが、先端がブラシ状に広がる舌があり花の蜜を嘗め取るようです。

ヒマラヤザクラの花が下向きに咲いている場所では、下の写真のような姿勢で蜜を嘗めていました。

このような場所では背伸びして蜜を嘗め取っていました。

やや下向きの花の蜜を嘗め取るメジロ。普通メジロの虹彩は茶色ですが、この個体の光彩はやや白く見えています。屋久島固有種シマメジロの光彩は灰褐色ですがそれでは無いでしょう。

これも逆立ちして蜜を嘗め取るメジロ。首から胸にかけての黄色が鮮やかでした。



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先日12月1日から3日までの3日間、3000円で5軒の飲食店を飲み歩きできるサンタバル に友人3人と一緒に参加してきました。ちょっと遅くなりましたが紹介しましょう。・・・1軒目の道頓堀クラフトビール醸造所

思っていたよりも巨大な店舗で、びっくりしました。まずクラフトビールで乾杯

2件軒は、中華レストランの梅蘭に行ってみました。3000円で5軒使えるので、1店舗当たり600円で済む勘定です。

ここでは日本酒と中華前菜3点セット。これで600円。

3店目は蒸し料理ダイニングの「すちーむ」

ここではワインで乾杯。料理は小さなフライパンに入った焼肉でした。

4軒目は北新地鳥屋。ここではハイボールと鶏のから揚げのセット。結構繁盛している店で、ちょっと待たされました。

最後の5軒目は、お好み焼きの「鶴橋風月」。ここでもビールで締めの乾杯。

セット料理はちょうどよい大きさの「イカヤキ」。3000円のチケットで5杯のアルコールと5つの前菜を頂いたサンタバルプランの紹介でした。



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防府市の毛利氏庭園に行ってきましたので、そこの紅葉写真と一緒に毛利氏の江戸時代以降の歴史を防府市HPから紹介しましょう。

秀吉政権下で毛利氏は、徳川家康と並ぶ大大名として厚遇されますが、秀吉死後の慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで家康打倒を目指す西軍の総大将となったことが裏目に出て、領国を周防・長門(山口県)2国に減じられてしまっています。

本拠地の広島から防長に移動した毛利輝元は、長門国(山口県)萩の指月山に居城を構え、日本海に面した萩が江戸時代における毛利氏の拠点となったのです。

輝元の跡を継ぎ長州藩の初代藩主となった長男秀就は、徳川家康の孫娘を正室に迎えたことから松平姓を与えられるなど、徳川氏との関係修復に成功しています。

その跡を継いで2代藩主となった綱広の頃には、藩の諸体制もほぼ固まり、毛利氏は長門・周防2か国36万9,000余石を領有する西国の大藩の藩主として江戸時代260年を過ごしたのです。

嘉永6年(1853)の黒船来航は、江戸幕府体制に動揺をもたらし、この事件を契機として毛利藩も各種の献策などによって中央政界の動向に関与するようになっています。

幕末国内の混乱が深まると、毛利氏は強硬な攘夷論に転換し、文久3年(1864)の8月の政変や、翌年(1865)の蛤御門の変(禁門の変)によって、幕府や会津藩など幕府を支持する諸勢力から排斥されたのです。

その後の幕府による2度の長州征伐を切り抜けた長州藩は、薩摩藩と同盟を結び、岩倉具視ら倒幕急進派の公家たちと組んで討幕の密勅を入手し、倒幕の先頭に立つことになるのです。

倒幕を実現した長州藩は、明治維新改革の中軸を担う人材を数多く輩出し、最後の藩主毛利元徳も新たに創設された華族制度の最高位である公爵の地位を授けられています。石高を120万石から37万石に減らされた徳川幕府への恨みは、これで晴れたのでしょうね。



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大阪市内の公園でも絶滅危惧種に指定された猛禽類のいくつかを見ることができます。・・・日の出前のチュウヒ

日の出直後、チュウヒの飛行。背後は六甲山

チュウヒやオオタカなど大型猛禽類の接近で、小型の水鳥が一斉に飛び立つ姿は壮観です。

こちらは日の出前の小型猛禽類ハイタカ。かなり近くに止まってくれました。

日の出直後のハイタカの背面

朝日を受け赤く染まったハイタカ

ハイタカの飛び出し

こちらは獲物のオオバンを捕まえたオオタカ。猛禽類の面目躍如と言われる瞬間ですね。

オオタカは獲物のオオバンをすぐに食べはじめました。大阪市内でも弱肉強食という野生の掟を、こうしてつぶさに見ることができる。素晴らしいと思います。



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防府市の毛利氏庭園に行ってきましたので、その紅葉写真と一緒に毛利氏の歴史を防府市HPから紹介しましょう。

毛利氏の祖は、源頼朝の側近として鎌倉幕府の基礎を固めた大江広元で、広元が得た所領のうち、相模国(神奈川県)毛利荘を受け継いだ四男季光が毛利と名のり、毛利氏の歴史が始まります。

毛利荘を受け継いだ季光は、承久の乱の戦功などにより鎌倉幕府内での地位を高め、評定衆として幕政にも参与しますが、妻の実家三浦泰村と執権北条時頼とが争った宝治合戦で三浦方に味方したため、鎌倉幕府での地位を失っています。

毛利氏の名跡は、季光の四男経光が引き継ぎ、経光は没収を免れた越後国(新潟県)佐橋荘を拠点とし、鎌倉から距離を置いています。

その後、経光の四男時親が北条家との縁を強くしたことから、六波羅評定衆にまで出世して毛利氏の再興に成功しますが、南北朝の内乱を契機として所領の安芸国(広島県)の吉田荘へ移住しています。

安芸国では足利尊氏と足利直冬の両勢力が激しく対立し、毛利氏一族も分裂していますが、時親の曾孫の毛利元春が一族を糾合して勢力を拡大し安芸毛利氏の礎を築いたのです。毛利元就は、次男を元春と命名しています。

室町後期の安芸国は、管領の細川氏と出雲の尼子氏連合と、山口を本拠とする大内氏との対立の場となり、毛利氏をはじめとする国人領主は両勢力の間で翻弄されていました。

1523年、家督を継承した毛利元就は、戦乱のさなかに国人領主連合の盟主となり、 陶晴賢による大内義隆殺害やその後の混乱に乗じて大内氏から自立、陶晴賢が傀儡していた大内氏を滅ぼしてその所領を加えて戦国大名となっています。

毛利元就は、その後出雲の尼子氏を降し、西国最大の戦国大名となっていますが、元就の死後(嫡男隆元が早世したため家督を継いだ)孫の輝元は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に従って中国120万石の大大名となっています。

つづく



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こちらは先日紹介しましたハイタカ(全長♀39cm、♂32cm)ですが、大阪市内の公園ではオオタカの狩りも見ることができます。

こちらが環境省レッドリスト2017準絶滅危惧(NT)指定のオオタカ(♀58cm、♂50cm)ハイタカよりも体長が20cmも大きい猛禽類です。

オオタカは主に野鳥を餌としているので、オオタカが飛来すると池のカモ達が集団で飛び出し、いなくなってしまいます。

この日もオオタカが狩りをしていました。

下を泳ぐホシハジロ(体長45cm)は、餌とするには少し大きいせいか、両者に緊張関係はありません。

ホシハジロのすぐ上を通過して、別の獲物を狙っているようです。

池の上を羽ばたきながら、獲物に急速に近づいています。

オオタカが襲った獲物は黒い野鳥でしたが、この写真ではその種類が判りません。

これなら良く判ります。白いクチバシに特徴のあるオオバン(全長39cm)でした。



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先日、山口県防府市の毛利氏庭園に行ってきましたので、写真と一緒にその歴史を紹介しましょう。

防府市の毛利氏庭園HPによれば、公爵毛利家の本邸建設は、明治25年(1892)建設が決められましたが日清・日露戦争によって着工が遅れ、大正元年(1912)9月に建設が開始、大正5年(1916)に完成しています。・・・庭園の門

この邸宅には当主一家が居住する本館だけではなく、毛利家職員の執務場所および彼等の役宅をはじめ、毛利家の始祖以下の歴代当主を祀った祖霊社、毛利元就以下の画像を配した絵画堂などが設けられていました。・・・門から玄関までのアプローチ庭園

なお完成した邸内の電力は自家発電でまかなわれ、湯殿には給湯施設が、各部屋にはインターホンがあるなど、伝統的な和風建築と新技術とを融合させた当時としては先端的な建物でした。・・・玄関前広場

完成直後の大正5年(1916)に大正天皇、昭和22年(1947) と31年(1956)には昭和天皇が宿泊されたことで、邸宅は「毛利邸庭園」として山口県名勝に指定されました。

昭和41年(1966)には、毛利家から邸宅・庭園・累代家宝・維持の基本財産などの寄付があり、財団法人「防府毛利報公会」が発足しています。・・・2階から中庭方向

翌年、邸宅の子ども部屋を改造した展示室と廊下の一部に展示ケースを設けて毛利氏博物館が開設されています。・・・内部

しかし、所蔵文化財の災害や盗難などに対する危惧が指摘されたため、国などの補助を受けて昭和60年(1985)新収蔵庫の建設に着手、昭和61年(1986)からは郵政省・日本船舶振興会などからの寄付があり第2展示室の建設にも着手しています。・・・2階から見た庭園

昭和62年(1987)7月に新収蔵庫と第2展示室が完成したことで、毛利氏関係文化財の収蔵環境が整い、展示の質も向上しています。・・・庭園池越しの邸宅



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大阪市内の公園には、環境省レッドリスト2017の準絶滅危惧(NT)に指定されているハイタカ(全長♀39cm、♂32cm)が飛来してきます。・・・胸から腹部にある褐色の横斑模様が密なので♀のようです。

体が小さいぶん、警戒心が強く、枝に止まっても、すぐ飛び出してしまうので写真を撮る難易度は高い野鳥です。

今回、早朝の公園で、偶然ハイタカの飛び出しを撮影することができました。・・・こちらを向きながら翼を持ち上げ

翼をいっぱい上に広げ、飛び出す方向に視線を移し、体を沈めて脚のバネを溜め

脚で思い切り枝を蹴って飛び出します。黄色い虹彩の鋭い眼でしっかりと前を見ていますね。ハイタカは、翼の裏側に並んだ鷹斑が美しいことでも知られています。

飛び出した直後は、加速するために、翼は閉じ気味で飛行し、ある程度スピードが出ると、翼を広げて水平飛行に移るようでした。

しかし、狩りの際にはスピードを落とすため翼を大きく広げ、獲物を探します。

獲物を見つけると、翼をたたみかけて鋭い爪のある脚を伸ばして

獲物を押さえにかかります。・・・この日、ハイタカの飛び出す瞬間が撮影できたので、大変満足できました。



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防府市にある周防国分寺(金堂は国指定重要文化財)に行ってきました。周防国分寺は、周防国衙跡の北西にあり、今も創建当時の伽藍が現存している国分寺です。・・・史跡周防国衙跡の石碑

境内は東西110間(127m)、南北2町(218m)の長方形で、国分寺の標準(方2町)ではないので、後世に縮小された可能性があります。・・・築地塀の瓦には国分寺の国の文字、前面道路は旧山陽道

聖武天皇は、天平13年(741年頃)国家鎮護のために諸国に七重塔を造立、法華経の書写、20人の僧を置くという詔勅を出し、日本全国((60余州)で造営が始まったようですが、経済力の無い国での進捗は芳しくなかったようです。

創立当時は広大な寺域に金堂、七重塔などの七堂伽藍が並び、25か寺の及ぶ塔頭寺院もあったと言われ、756年にはこの地に周防国分寺は存在していたことが記録されています。・・・最高格式という5本線の筋塀

しかし、創建から420430年を経た平安末期には伽藍は荒廃、1325年に周防国目代となった覚順坊覚恵によって周防国分寺の一部が修復されたと伝わっています。・・・仁王門

七重塔跡は、金堂の南東、仁王門の北東10間のところにあり、創建当時は七重塔でしたが1363年には五重塔となっていて、応永年間(1399年頃か)の火災後には再建されなかったようです。

その後、金堂だけは山口の大内氏により再建されたようですが、現在の堂は江戸時代(1779年)に長州藩7代毛利重就によって再建されたもの。・・・ちょうど紅葉がきれいでした。

それから200余年たち、雨漏りで木部の腐朽や破損、白蟻による床下周りの被害が発生したことで、1997年から全解体修理が実施され2005年に完了しています。・・・金堂の屋根とケヤキの黄葉

修理が完了した金堂は、本瓦葺二重入母屋造、桁行7(22m)、梁間4(16m)、高さ約18mという堂々とした建物で、現存する国分寺の金堂としては東大寺を除けば全国最大でしょう。奈良時代にこのような大規模の金堂が創建されている周防国は豊な国だったようです。



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昨日、12月2日の大阪から見える夕日を紹介しましょう。

この日の日没は16時47分、方位は244度。沈む前、16時30頃の太陽は強烈に光っています。

渚では南方に渡り損ねたアカアシシギが2羽、餌を漁っていました。このまま大阪で越冬するかも知れません。

方位244度の方向には淡路島があります。

夕日は淡路の山の向こうに沈むので、ダルマ夕日は見ることができないでしょう。・・・と思っていると、海と山との間に光りが見えてきました。

ダルマ夕日の代わりに、蜃気楼の一種の浮島(島が浮いたように見える)の下に沈む夕日の光が見える現象を発見しました

ほとんど沈む直前の夕日。この時期の夕日は、見かけの直径の半分くらいずつ左(南)に移動しているので、2.3日前なら右側のもっと低い場所に沈むのを見れたはずです。

2.3日前に沈んだ位置なら、ひょっとしてダルマ夕日となったのかも知れません。・・・グリーンフラッシュ現象でしょうか。

完全に沈んでしまい急に暗くなりました。沈む太陽は1月になると反転して北向きに移動しはじめるので、来年1月にもう一度チャンスがありそうです。



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日本三大天神」の一つと称する防府市の防府天満宮に行ってきましたので紹介しましょう。なお「日本三大天神」の天神社はどこか特に決っていないようですね。

防府天満宮は、菅原道真が亡くなった翌年、904年に創建され「日本最初に創建された天神様」と称し、1953年に防府天満宮と改称しています。

日本三大天神の一つとされることもある大宰府天満宮の前身(安楽寺天満宮)は、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平が大宰府に下向し、道真の墓所の上に919年社殿を造営したとされています。・・・門

次に北野天満宮は、942年の託宣に基づいて947年に京都北野に道真を祀る社殿が造営されているので、防府天満宮の方が大宰府や北野よりも1543年も古いことになります。・・・拝殿

ちなみに京都府丹南市(園部)の生身天満宮は、亡くなる前の菅原道真を901年から神として祀った由緒があり、「日本最古の天神宮」と自称しています。・・・東門

さて、天満宮は、一般的に太宰府天満宮と北野天満宮の両社が総本社とされ、3社目は日本最古(扶桑菅廟最初)を称する防府天満宮が入ることが多いのですが、他にも自称日本三大天神」がかなりあります。・・・神社の裏には太平洋戦争における兵士慰霊碑がありました。

大阪天満宮は、949年に村上天皇の勅命によって天満宮を建立させ、自社と北野と東京の亀戸を「日本三大天神」と言い、大宰府を入れていません。・・・慰霊碑

また、東京江東区の亀戸天神社は、自社と北野と大阪を「日本三大天神」言い、やはり大宰府を入れていません。・・・1873年完成の春風楼

その他にも日本三大天神」の一つと自称する天神社が6社もあるようなので驚きました。・・・天満宮拝殿の敷地から見た参道



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防府市の誇る防府天満宮を紹介しましょう。防府天満宮の石の鳥居は、毛利秀就によって1629年に寄進されたもので高さ6.19m、最大幅4.33m、銘のある石の鳥居では山口県下では最大だそうです。

石の鳥居から続く石畳の参道の両側には江戸時代の石灯籠が並んでいました。

2番目の鳥居は銅の鳥居

銅鳥居から石段を上がった右(東)に見事な紅葉が見えみました。塀際の説明板には圓楽坊跡とあり<904年に周防国司の土師信貞が「松崎社」(防府天満宮の前身)を創建した際に草創され、圓楽坊は執行坊として造営、営繕を管掌していた>・・・<・・・>はその説明文

内部にある茶室「芳松庵」は<この茶室は御神忌1100年の記念事業として御祭神の茶徳を顕彰し、御神徳の余恵に預かるために建造>されたそうです。

圓楽坊の説明の続き<明治元年、神仏分離令によって他の坊と共に廃寺となり、建物も除去された。明治40年に天満社の所有となり(中略)維新史跡「暁天楼」を建設し、現在に至っている。古文書によると、この圓楽坊で1587年に細川幽斎が連歌の興行を催し、1598年には石田三成が宿泊した>・・・左側にあるのが「暁天楼」

恐らく秀吉の「朝鮮の役」の際のことでしょうが、この地に石田三成が来ていたとは驚きました。・・・茶室「芳松庵」

この日、茶室「芳松庵」前の紅葉は見事でした。

防府天満宮に来て、これほど結構な紅葉狩りができるとは想定していませんでした。



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所用で山口県の防府市まで行ってきましたので、防府市を紹介しましょう。山口県の市では下関市、山口市、宇部市、周南市、岩国市に次ぐ第6位、114800の人口を持つ市です。

新幹線徳山駅(周南市)と新山口駅(山口市)の中間に位置しているため新幹線の駅はありませんが、車なら新山口駅か徳山駅に20分前後で移動できる位置にあります。そのためJR在来線の列車本数は少なく、特に昼間は極端に少なくなり大変でした

かつては三田尻、中関(なかのせき)などとも呼ばれていますが、周防国の国府が置かれたことから防府と呼ばれるようになったようです。・・・銀座商店街にある「ほうふ昭和館」のみだじり駅プレート

県下最大の下関市と広島市の中間点として、かつては商業都市、交通都市、製塩都市として栄え、都市銀行や企業の支店・営業所も多く設けられていたようですが、近年はかなり都市力が低下しています。・・・ぎんざ通り商店街

現在は旧来からの商店街や門前町が衰退、商業都市としてよりも工業都市としての性格が強いようです。・・・ぎんざ通り商店街にある萩往環の石碑

歴史のある防府市には、観光資源も多くありますが、観光集客にはうまく生かされていないようです。・・・防府天満宮

例えば「扶桑菅廟最初」(日本最初の菅原道真廟という意味)の石碑がある防府天満宮が駅から徒歩圏内にあります。

また、そのすぐ東側には奈良時代全国に設置された国分寺の一つ、周防国分寺が現存、広大な敷地と巨大な木造建築物の金堂(本堂)は重要文化財に指定されています。

さらにその東側に、明治末~大正初期に完成した毛利公爵家の庭園「毛利氏庭園」(重要文化財)が公開されていて、今の季節は紅葉が見事でした。



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