私が普通には生きられない存在だと気がついたのは
目に見えない力に動かされている自分に
気がついた時かもしれません。
昨日、今日とゆとり教育について考えていました。
ゆとり教育全体のことではありません。
今、社会的に言われていることは始まった頃から今に至るまで
そう思っています。
ゆとり教育の人たちを社会に出てから育てる必要があるという話を
昨日聞いていたのですがそのことについて考えていたこと以外に
昨日、今日とゆとり教育といじめについて考えていました。
ゆとり教育はひとつの平等論であったと思います。
私が普通に生きられない存在だと気がついたもうひとつのことは
何かすると人より目立ってしまう、出る杭になってしまうと
いうことが時々みられたためかもしれません。
こんな時、私は自他をいかに生かすかを考えますが、
ゆとり教育の平等論は人より目立たない、出ないことを
その環境で求められます。
ゆとり教育は教育としての「ゆとり」を考えましたが、
学力として世界からみて逆行していたと
今言われています。人より出ないことを求められる。
22:03のK.様(名前ですが)も最近の学生について不安が
大きいと書かれていたことがあったと思います。
実際、学生である方に私もそう聞いています。
ゆとり教育の「ゆとり」としての平等論は人より出ると
仲間はずれにされるそういう不安、恐怖をかかえる学生の
社会を形成してしまっていると考えられるのではないでしょうか。
いじめについての対策も必要でしょうが
学力と人としての向上(協働・リーダー)と共に認める価値観が
学生社会でいじめを減らすものになるように思います。