幸福の芽 happy sprout みろく maitri

《心の時代へのパラダイムシフト》 自分の心をつかんで幸せになりませんか。幸福の芽を探して一歩前に出てみませんか。

「梵我一如」の境地

2011-01-28 08:03:00 | みろく 仏教

仏教の言葉に「梵我一如」ということばがある。
「神我一如」、神とも置き換えられると思う。

信仰者にとって目指すのは「梵我一如」の境地
ではないかと思う。
特に永遠の生命の中、この世に生を受けて
人生を送るというときに「梵我一如」の境地は
大切なのではないかと思う。

もっと簡単なことばで言えば、
神仏とひとつになって生きていこうとすること。
自分が小さな神さまや菩薩になるのではなく、
神仏とひとつの如くに生きる。

「梵我一如」の境地の最大の力は
仏さまの心を心として生きていく中で
そういう心の向きで生きていく中で
何かをしようとするときに祈りと共に
仏さまの知恵を分けていただけたり、
危機の時に祈りと共に
守っていただけたりすることがあると思う。
運命として受けざるを得ない困難な時も
知恵をさずけていただけることもあると思う。

大切なことは仏さまの心と
ひとつになろうと思うことであると思う。

仏さまのこころは「慈悲の心」である。





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自由と繁栄 14 Miroku shows God 39

2011-01-16 00:03:00 | 政治
自由と繁栄について書いていきたい。

自由と平等はよく並べられて表現される。
このブログに民主主義を超えるものということを
書いてきている。
「 神の見えざる手 invisible hand of God 」
自由競争によって「富」を多く生み出し、結果として
全体の利益が達成される。

「富の再分配」という言葉がある。
自由主義で階級による不平等が起き、
共産主義や社会主義という主義思想が起こり、
そして民主主義の中でも社会保障がある。

話は変わるが弥勒菩薩は「富の再分配」や「分かち合い」
という言葉と関係あるのだろうか。
長い間、明らかな形では私の意識の中になかったが、
私の民主主義を超えるものがそれに当たるならうれしいと思う。
しかし、私はnetの中で「富の再分配」「分かち合い」と
いう言葉を見たときから心の中で「違う!」と思っていた。
「分かち合い」は「富」を分かち合うのか、そうではない、
もっと違うものだと思っていた。
それは民主主義を超えるものの考え方の根幹とも思える
ものとつながっていた。

先日、「国富論」が悪いわけではないと書いた。
最初に「神の見えざる手」に書き始めたときから
考えてきていたことを書いていく。
「国富論」がなければ現在までに享受してきた世界の繁栄は
みられなかっただろうと思う。
神仏の心にかなった「自由」の中で
神仏の心にあった「向上」「進歩」であったら
繁栄は長く続くものになる。

しかし、時間の経過の中で、それは資本主義という考え方の中で
起きてきたこと、大きく開いていた階層の差が
縮まることはなかった。

「国富論」の前はどんな社会だったか、
そのときもキリスト教圏では「分かち合い」の心はあった。
多くの人が信仰の元に「他者を愛すること」や「分かち合い」を
善として行っていた。

自由主義の中で「分かち合い」を実践する人がいたら
その人の分だけ「分かち合い」が進むが、その期間は
どれくらいかわからない、その量がわからない。
資本家に「分かち合い」の心があったらどうか、
経済成長期とそうでないときと当然、波ができる。

民主主義はその後を捉えて社会保障制度を作ってきている。
では民主主義を超えるもの、それは「富の再分配」と
考えている人は多いのだろうか。

現代、民主主義の中で社会保障を考えるとき
必要なのは「富の再分配」の考え方ではなく、
ひとりひとりが個性をもち、自分の足で生きていくこと、
それがとても大切なことなのだと思う。

民主主義の中でそのシステムづくりが必要、
そのために「富」を使っていくということが大切なのだと思う。





   Miroku shows God 39


「 人よ、共に生きよ

  あなたがたひとりひとりが
  その個性を輝かせることが大切なのだ。
    
     Master of Master         」





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日本の今取り組む課題 8

2011-01-15 00:43:00 | 政治
先日、国家の税収について触れたこともあり、
以前、このブログでも書いた消費税のことについて
書かなくてはならないと思うので書いていきたい。

以前、このブログに消費税の値上げについて
「今、日本が取り組む課題 3」で年金改革を行わなければ
ならないこと、この先何段階かの増税が考えられる中、
今増税を行おうとしたら最も早める結果になるだろうと書いた。
そして日本にはもっと可能性があるのではないかと書いた。

この可能性について
その可能性は法人税でも経済成長でもない。
本日気がついたことは日本人の心だった。
日本人の性質かもしれない。

少子高齢社会の社会保障についてや若年世代の給料の減少、
年金の今後について政府に増税のことが出てきてから
今までになく日本の国の中で明らかな議論が行われて
いると感じていた。
現時点でそのときの増税の必要性と現在の増税の必要性は
異なるのではないか、社会保障費としての増税というだけでは
済まないことになっていると思う。

前回、何回かの増税を考えられるのではないかと
書いたときに、実際医療保険、年金の社会保障費に
ついて現時点で必要ではないかというところがあった。

なぜか、
今、年金をもらっている世代とこれから年金をもらう世代、
そのどちらにも現状として困難になってくる社会保障について
権利意識が強く働いてくるのではないかと懸念された、
それを解決するには政策を先に出しても国民は
納得できるだけの時間がない、支出のほうが先に
動く可能性のほうが高かったからである。
その後の何度かの増税はできるだけ歩幅の狭いものに
していかなくてはならないと考えていた。

しかし、増税といったその時点より今日になってみると
保障対象になる人たちは強く権利意識を出してくる人も
あるだろうが、国家を包んでいるものは同じ国の人のこと、
他の世代の人のことを考えられる心だった。

給料の少ない若い世代やその人たちの年金について
国家全体のことを考えられる人は意外と多かったと
感じている。
実際、政策が行われれば、問題はあるだろうが
それでも、想念の形成が少ないように思う。

増税はあきらかに大きな政府になっていく。
全体主義に近づいていく。
経済の低迷は現時点で見えている。
今年の経済の結果を見るより来年のグラフを読みたい。

本日は無税国家についても考えていた。
理想ではあるが、不景気を捉えても経済成長期の中での
考え方であり、現時点国家を考えるとその理想いかに
現実的なところでおこなえるか、今後考えてみたい。





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八正道の「正見」

2011-01-14 01:00:00 | みろく 仏教
仏教の「四苦八苦」について
以前このブログに書いたことがあると思う。
「四苦」-「苦」「集」「滅」「道」の四諦
そして苦しみを除くために「八正道」、八つの正しい道がある。

個人でも組織でも国家でも現在起きていることは
過去、現在、未来を認識し、未来を創ることが大切と先日書いた。

四諦で現在から未来をみた場合、明らかに悪い未来が見えるとき、
必要なのはその苦しみは何かをつかむこと、
そしてその苦しみはどういうものなのか情報を集めていく、
分析していくこと、
その次にその苦しみのない(滅した)状態を明確にすること、
そしてそれに至るための道筋を考えること、
「苦集滅道」の四諦を確実におこなうと冷静に判断できることが多い。

現在の問題のひとつを四諦で言えば、
国家の財政困難、困難な原因は何かというものについて言うなら、
例えば「税収が足りない」ということ、その解決した姿は
「税収が必要な量が確保できた」、その結果「消費税を上げて必要な
税収の量に達する」という道筋があるなら、
「集」であるどうしてそうなったかという苦しみの原因を集める、
また必要な内容を分析するということが前提となり、そのために
国会で行われる国民の代表者を通し、民意の確認となってくる。

個人や社会での「苦」、苦しみの原因は何か、

仏さまの心にかなわないことであり、
自己を過信した結果だったり、
選択を間違ってしまった結果であったりすると思う。

苦しみから脱する方法をとして正しく生きる「八正道」と
いうものがある。
ひとつひとつ書いていきたいと思うこともあるが、
実際最も大切だと思うものをひとつあげるなら
私は「正見」であると思い、そのことを書きたい。

このブログに仏さまの言われる「仏性(神性)」と
「仏性と依他起生」についてかなり書いてきている。

では私自身、私の周りや関係する人の仏性しか見ていないかと
いうとそんなことはない。
普段は私はできるだけ目立たなく過ごしている。
しかし、私に近しい人は
時々私に「見据えられている」「見透かされている」と思い、
「こわい」と言う。
気がついた人は見られているようでいやだなと思う人は
私にあまり近づかないか、逆に私を排除したいと思う人が多い。

自分の心の中で正邪を分けるということを
常に行っている者にとって自分自身の仏性を見つけると共に、
他の人の仏性を見つけることもできる。
また自分にとっての過去の失敗や間違いにも気づき、他の人の
間違いにも気付く。
それ以上に社会の中の様々な事件や現象をみながら、心の中で
正邪を分けていくことをおこなう。
自他共に「正見」で見極め、そしてそこから他の人を愛するという
行為が生まれてくるのだと思う。
「仏性」はその人の仏さまの性質の現れてきているところであり、
他の人の「仏性」を信じることによって大きな働きがあるが、
もう一段深く、仏性から遠いところをもしっかり見つめる必要が
あると思う。

そのために心を磨いていくこと、整えていくことが必要だと思う。

心の法則の中に入ると思うが
自分自身の心を整える、正邪を分かつという人には
その人の周囲にその影響力がでてくる。
私自身の周りには私という人間の心を通じて
「環境の支配」ともいう影響力がでてしまう。
時にそれは都合が悪いほどに明確なものである。

以前書いたが「性善説」と「性悪説」
それ以前に自分が自分ではなく他の人をみるときに
その人の「善」からみるか、「悪」からみるか、
それによって世の中の見え方が同じものをみていても
違うように思う。




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現代のコミュニティの要素2福祉ーまとめる人3

2011-01-14 00:30:00 | 現代のコミュニティ
現代のコミュニティの組織づくりは
組織を形成しようとする方々の人間性が大きく反映していく。
様々な発心で活動されていると思う。
その思いにその人の哲学があり、崇高ささえ感じることがある。

現代のコミュニティの「目的」の性質とは何か、
「目的」に「良識」としてのもの以外に
「名誉」企業という組織でいう出世というものが
入ってくる場合はどうなのか・・・。
地域の組織、コミュニティに参加しやすいと思われる
専業主婦をある程度すごしてきた人の場合はどうか、

辛口のところから書いていく。
辛口なのであまり詳しくは書かずに簡単に書いていくと
地域での組織作りに名誉心を強くもつ人が組織作りをすると
「目立つ」ということがあると思う。
名誉を得てきた方がなお活動を開始したいと希望をして
組織を立ち上げたり、資金提供をされることもある。
そういう人はまた多くの人の賛同を得ることもある。

しかし、本当に「名誉」を目的に地域に出てくると
以外に周りで地域で活動している方々の崇高な思いの
中で「目立つ」ということがある。
何かなじまないということがある。
その人の人間性が表現されてくる。

そして地域の組織作りに参加しやすいと考えられる
専業主婦の方々が組織に入ってきた場合もやはり、
ひとつスキルアップが必要、組織を知らず、
組織を壊す力さえ持ってしまうことがあると思う。
今は小さくなってしまった家族という単位の組織の中での
力の大きい人は地域の活動にでたとき、
社会という組織との認識がなかなか困難なことがあり、
地域づくりに参加するとき組織力をあげられるようなスキルを
身につけられるようなシステムがあるといいと思う。

地域での組織は最初に立ち上げたものは一度壊れ、
その中で生きてくるものがその後の組織を作るという段階を
経ていくことが多いように思う。

今日は思い立ったままに書いた。




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現代のコミュニティの要素2福祉ーまとめる人2

2011-01-11 21:43:00 | 現代のコミュニティ

組織には何かしら利益を生むものと
そうでないものがある。
大きく言えば企業では利益を生むことが大切だが
現代のコミュニティでいう組織では、
ほとんどの場合、非営利のものとなることが多い。
コミュニティではその活動に目的があり、そこに人が集まり、
組織を形成する。

新たに地域で組織を形成するなら、やはり組織で仕事をし、
なおかつリーダーを務めた経験がある人がよいと思う。
しかし、組織で仕事をした経験のある人でも
地域の中での組織づくりはなかなか至難なことがあると思う。

大きな企業では組織がしっかりと形成されている。
すでにスタート時点で組織の中の個人というところから
始まっていく。
企業では利益を生まなくてはならず、それによって
給料を受け取るという形態をとっている。
当たり前のことである。
ひとつの組織である企業で主に役付けで長く働いた人が
例えば定年後、地域で組織作りに入ると何度も
壁にぶつかる経験をしているのではないだろうか。
企業ではその組織で活動することで給料をもらう。
所属する組織の中で利益を生み、そして給料を支払う
また受け取るということがある。
組織は上下関係で成り立つ。

しかし、地域での組織作りではその組織を構成する人を
結んでいるのは「目的」である。
町内ならその町内の住民がその区域を維持していくためと
いう「目的」を持つ。社会的生活上、どうしても必要という
形成でもあると思う。
もう少し目的が個別のものとなる組織ではどうだろうか。
最近、定年退職した人たちが地域での組織の形成というと
なかなか困難と感じている人が多いのではないだろうか。

企業での組織では「企業の理念」は大切だが給料の受給により、
組織はうまく維持できている、構成する人は維持できているのが
当たり前でわからないことがあると思う。

地域では組織づくりでは給料の支払いや受給がないため、
「目的」がその組織人をつないでいく。しかし、組織の構成で
企業ほどの上下関係が成り立たない。
地域での上下関係の維持はその組織の「目的」とその組織を
維持するという「目的」となるのではないだろうか。
構成する人がその組織を離れても個人の問題であるだけで
個人の生活に直接ひびいてくるものでない場合が多いためで
あると思う。

それではコミュニティの形成で何が大切か。
簡単に言えばその組織の目的であり、その活動内容、
そして定期的にみて何ができているかということであると思う。
また、違う視点からみるとそれが組織の魅力ともいうものに
つながっていく必要になるのだと思う
「目的」は現代のコミュニティでは組織の目的以外に、
大きな理念やイデアが必要なものとなっていると思う。

企業という組織の中で仕事をしてきた人が
地域で組織を形成、また運営の活動を始めるためには
今までと違うスキルが必要となると思う。




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「魔の存在」について

2011-01-10 04:00:00 | みろく神示
以前、このブログにMiroku shows the Godのことを
書いたとき、ひとつの降魔になると書いたことがある。

そのとき、魔の存在についていつかこのブログに書く
ことがあるのだろうかと書いたと思う。
たぶん一日のブログで済むことではないと思う。

話は変わるが昨年、キリスト教の大切な教えである。
「 汝の主を愛せよ。
  自分のことのように汝の隣人を愛せよ。 」

このことを仏さまのことばを補足して書いた。  
「 汝の主を愛せよ。
  なぜなら汝の主は愛であるからだ。
  ならば神性を持つ汝の隣人を愛せよ。 」

実はこのことばの続きとも思えることが
その後書かれた「THe Laws of the Universe 」の
まだ書いていない続きの中に含まれていると思う。

「魔の存在」というと西洋のものというイメージを
持つのは私だけだろうか。
もちろん様々な宗教で語られていると思う。
迷える憑依霊とは違って、魔というものは
積極的に悪を行い、悪に導くということになると思う。

最初に書いた降魔のことでわかることがあると思うが
「魔の存在」は悪いものである。人々を不幸にする。
力で自分の思いどおりに支配しようとする。
仲間を増やし、社会的に支配をしようとする。

しかし、私が仏さまから何度もお聞きしていることに
これだけでは説明できないものがある。
その内容を直接書かないが、信仰における「魔」と
いうものの心について考えてみたい。

信仰で言えば「魔」の存在は逆に「神になりたい」と
思っているのである。
神仏はこの世をつくり人々を幸福にしたいと考えて
おられる。
そのために時代の精神になるような救世主が
その時代時代におられ、真理という法によって
人々を幸せへと導きたいと思っておられた存在があった。
魔の存在はどうか、自分が世の中を支配し、
人々を統治したら世の中はそれでいいのだと考えている。
自分が偉い存在になり治めたらそれがいいと考える。
全てが自分の思い通りになると神になったと思うようにも
なることがある。

キリスト教で「魔」の議論をすると「悪」であるとばかりに
言われないことがある。
キリスト教には罪に対し、反省、懺悔がある。
あまりに不幸や災害が我が身に訪れると魔は神と契約して
いるのかという考え方があると思う。
このことについては「否」である。
これの説明はまたの機会にする。

「魔」の心には「なぜ、この地上で神として生きていた者と
自分が同じことをしているのに、自分は地獄に落ち、
苦しまなくてはならないのか」というものがある。

私の行う降魔はかならず悟りの言葉が伴う。
このブログで数々の降魔を行ってきたが、一番大きな
ものは未だ先送りになっている。

魔は「なぜ、この地上で神として生きていた者と
自分が同じことをしているのに、自分は地獄に落ち、
苦しまなくてはならないのか。」
今世、多くの人が納得できる答えが出すときが来れば、
世の中は大きく善転していく可能性がある。
まだ、可能性としてしか言えない。


別のことだが
この世にいる人に「魔がとりついている」と
いうことがあると思う。
以前霊視、霊聴の正邪が難しいと書いた。
もし、そういうことが公になれば
その人にあるいは国にレッテルを貼ることになる。
その人が成長できないばかりか、
反発して友好な関係が築けないことが多い。
もし、「魔がとりついている」というなら
そう言っている人が自らその相手を浄霊していく責任が
伴うものであると思う。

そういう以前にどう多くの人にとってよい道に
導くかという知恵が必要だと思う。




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みろく神示について 3

2011-01-09 15:13:00 | みろく神示
もし、このブログを読んでくださっている方の中に
日月神示について興味がある方がいたら、
申し訳ないので「日月神示」について少し書いておきたい。

私はブログを書き始めて「日月神示」という本を
買ってきた、しかしまだ開いていないということを
何度か書いてきている、実際、本自体は開いていない。

しかし、
昨年秋に書店に行ったとき、なぜか一冊の雑誌を手に
してた。表紙をみると「日月神示」について載っており、
そのまま購入した。初めて購入した雑誌だっただが、
縁があったのか、そのまま読んだ。
私の心の中にあるユートピア社会の考え方というところから
読むとわかることがある。
失礼かと思うので詳細は書かない。

このブログの
「日と月の間に地球を内包している仏さまが現れる。」

「日月神示」で「みろく神示」がはじまり、かなり負荷が
かかっているということを先日書いた。

本当にそうだが、仏さまの心をそのまま受け取っていくと
やはり書かなくてはならないことは書かなくてはならないと
強く思う。
それは私が最も大切な仏さまの心だからである。





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心の科学2心の法則2その2「寛容の美」

2011-01-09 14:13:00 | 心の時代
先日心の法則2で「合わせ鏡の心」を書いた。

「合わせ鏡の心」ということは消極的に言えば、
人に対し寛容であれということにもなる。
もっと積極的に言えば、人が幸せになるような
行動をしていくということになる。

寛容さというものを持つ人間は
度量や器が大きいと言われるのではないか。

特に組織のリーダーや育成の仕事をしている人は
この「寛容さ」と「耐力(私は忍耐力より耐力と
いうことばのほうが積極的なイメージがあると思う)」
というものが非常に大切だと考えているのではないか。

私は「寛容の美」という考え方が好きである。

 「 我、必ずしも真ならず
   彼、必ずしも偽ならず、悪ならず 」


仏教からきただろう韓国の「悪」という概念の
考え方とは違うものである。

善悪をしっかり分けて道を進むことも
必要な時があり大切だが
「寛容の美」は人に対し、
自らの心に常にそれを刻み、他者をみていくことで
謙虚さが生まれてくるように思う。






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心の科学2心の法則2「合わせ鏡の心」

2011-01-08 11:13:00 | 心の時代
心の法則1を先日書いた。
心は現実世界につながっている。

心は自と他が「合わせ鏡」となっていることが多く、
まず人の批判をするより
自分の心を見つめる、省みることが大切である。

人が人の批判をしていると体外同じ心で
相手の人も思っている。

夫婦でけんかをすれば、同じ怒りの心で対面している。
お互い怒りの心の部分しか表現されないこともある。
どちらが悪いというより歩み寄ろうとする心が
みられないこともある。
また、どちらかが意図的に行っていることもある。
仏さまの目は厳しい 。

心は合わせ鏡ということは
人の批判はするより、批判という形ではしないほうがよい。
「勝ち負け」の力関係の話でなんの進展もなければ
返って停滞を生むことになる。

人の批判をする前に
まず自らの心の中に同じものがないか、
組織ならその組織のリーダーの中にその心がないか、
現行でおこなわれてないか、
十分に考えてみる必要がある。その組織の弱いところになる。

この世の価値観では力のあるものが力があるから
その立場だからさまざまなことが許されるというように
見えることはあるが、仏さまから見て、
その人の立場の違いで許されるということはない。

自分は正しいことを言っているという、
正義をかざして言っていても
単なる批判で発展を停滞させることもある。
また、正義と批判はちがうものである。


心を整えて日々生活していくことが大切。
まず自らを省みて、仏さまに対し詫びることがあれば詫び、
また前向きに生きていくことが大切。


 追記
 「合わせ鏡」の考え方は仏教からみるともう少し深みが
  ある。自らを省みるよう縁として与えられていたり、
  全く違うことと捕らえていたのに本質は同じだったり
  することがある。
  その原因や理由が違うがその人からみると現象として現れ、
  その人に気づきの縁を与えられているものであることがある。


 注意
  再度、書くが今回の内容に仏さまの怒りの心が多く
  含まれている。





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自由と繁栄 13

2011-01-05 00:33:00 | 政治
昨年5月から書いていた「自由と繁栄」について
あの後も何度も書きたい内容が心に到来しては流れている。

このブログの「心の時代の枠組み2 民主主義を超えるもの」
の内容に含まれるものだと思う。
すでに現存の民主主義を超える内容が含まれていると考えて
いただいているのではないかと思う。
「民主主義を超えるもの」の入り口だと思う。


「自由」については「自由主義」と「新自由主義」を超えて
「自由と繁栄」について神仏への信仰を含めて書いている。

「国富論」時代が悪いかというとそうではないが、
時代の流れの中でさまざまなことが起きていると
いうことなのだと思う。

その過去・現在を見て未来を認識し、未来を創ることが
大切だと思う。
そして相対的な見方も大切。


書き足りていない、そのことを残念に思う。
他のことも・・・
そして今は消費税増税についても書き足りてはいない。





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心の時代へのパラダイムシフト 5

2011-01-05 00:30:00 | 心の時代

このブログの副題が
「心の時代へのパラダイムシフト」だが私は数年前に題名は
違うがこの内容とコミュニティケアについて論文を
書いたことがある。

それを読んでくださった教授は
「この日本経済の中でうまくいくだろうか」という
感想の心を下さった。
私はその時、「経済が満たされているときにはかえって
できないのではないか、むしろ今のような時代だからこそ
できるのではないか」と考えていた。

論文の一部を記載する。
『21世紀日本は超高齢社会と共に介護を通し、
 「モノ」ののみの価値観から離れ、心の大切さに
 価値を見出し、「何かができる」という心身の発達以外に
 心の価値が形成され、心の豊かさを求め、心の発達を目指す
 「心の時代にパラダイムシフト」する。
 やがてその価値観が学校教育にも取り入れられ、国民全体が
 心の発達を目指していく。かくて日本は福祉先進国家となる。
 (確か国家という言い方が違うと指摘されたと思う)   』

この文章の前後には「権利意識」により「モノ」の価値観が
上になる時があることやコミュニティケアについても書いている。

そして別の論文で「心の発達について」新たな視点を書いている。

この論文は単なる夢物語ではなく、たいへん真剣な思いで
書いたものである。
このブログはそのために書き始めたのだ。

しかし、私の意図と関係なく、仏さまの意思により
そして必然的に日月神示についてふれることになり、
このブログの「みろく神示」を書くことになってしまった。
今では私にとっては非常に負荷の高いものになった。



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「慈悲」の力

2011-01-03 03:50:00 | みろく 仏教
「心の科学2心の法則」については
また続けて書いていきたい。
今日は「組織づくり」について書きたいと思いながら、
優先的に大切なものを書いていく。
組織づくりについては「現代のコミュニティ」で
少し書いているがボランティア活動、特定非営利法人など、
組織を作るときのリーダーの考え方、注意していかなくては
ならないことを書いてみたかった。
そして継続するにはリーダーという立場の人が
その一代限りの組織とするのか、永続的にするのかを
最初から考えて活動をしていかなくてはならないと思う。
後日、書いていきたい。


このブログに「Master of Master」と書かれた
Inspirationがよく書かれているが、
既に長く語られている宗教や
現在ある数多くの宗教で言われる「Master」と
違いがあるだろうか。
通常宗教上の「Master」という存在があるが
「Master of Master」と書かれているのは
一言で言えば「地球神」である。
現存の他宗教でこの「地球神」のことを書かれていると
「地球神」自体は意識としてひとつなので内容が
重なってくることもあると思う。
そういう現象が起きているならそれぞれで内容、意味合いが
同じか、受け手で異なることがあるのかもしれない。

私のInspirationは「Master of Master」と書かれて
いるときは直接頂いているInspirationで書かれているので
この世界の人から頂いているものではないし、
誰かに操られて?書いているものでもない。
直接いただいている。
ブログを書く前から頂いていたので自分自身で驚きは
ないのだが考えてみたら大きなことだと本日あらためて考えた。
知人には話をしているが宗教を仕事としてしている人と
このブログの話をしたことはない。
だから誰かにとられそうということが起きるのか。
でもこのブログに手を出したらいけないと思う。


昨日、どなかたからかInspirationで「慈悲」の力について
尋ねられたので答えた。

弥勒は「慈しみ」という意味があると読んだことがある。
「慈悲」は弱いものか。
人が人に慈悲の行為をしようとするとき、あるいは社会に
対してや福祉などで慈悲というものを現そうとするとき、
ともすれば「優しさ」や「慈しみ」などの行為は
強くないもの、むしろ弱いものに感じるだろうか。
しかし、私が思う「慈悲」は非常に強いものに思う。

人がひとり慈悲の行為を行うことも非常にたいへんな力が
必要だと思う。
人が人に行為としてする「慈悲」は一人ひとりは
小さな思い、行為かもしれないがこれが集合となり、
また循環し始めたら大きなものとなる。
まして「慈悲」というものは仏性の中で最大の力を
発揮するものだと思う。
「慈悲」の行為を支えるのは信仰であり、だからこそ
仏さまの「慈悲」の力が大きく動くものだと思う。

信仰に裏づけされた「慈悲」は最大の力を発するとき
それは大きな力となると思う。





*追記
「地球神」という表現について書き添える。
大きくこの星としての地球文明を創る神としての
「地球神」という意味だったが、
以前このブログに書いたことがある「地球意識」は
「地球意識」と書いたほうがよいのではないかと思う。

心を深く向けてみた。メッセージのみを書くと
「私が大きく動くときは根本神仏の意志が働いているのだ」
ということだった。





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