幸福の芽 happy sprout みろく maitri

《心の時代へのパラダイムシフト》 自分の心をつかんで幸せになりませんか。幸福の芽を探して一歩前に出てみませんか。

現代のコミュニティについて

2010-05-30 01:00:00 | 現代のコミュニティ
このブログの中の「現代のコミュニティ」に
ついて書きたい。

私はこのブログで「現代のコミュニティ」について
書いているが、何もブログに書かなくても
実際、現実的に、いつか、自らこのことについて
やっていきたいと考えているからである。

だからインターネットは私にとって
ひとつの「ツール」であると書いた。

そしてこのブログにはいくつもの封印がある。
それを現実にやっていった場合どういう展開に
なっていくかと考えている。

今世、私はいつかそれがかなうときがくるか
その希望をもってこのブログを書きつづけている。


 *追記*
 一昨日書いたブログの中で「濡れ衣着せられた感触」と
 書きましたが、本当に着せられると困るので
 はっきり記載しておきますが、
 このブログは特定の団体や宗教団体と関わりのあるもの
 ではありません。
 そして仏さまはどこかにおられるのではなく
 この地球を内包し、私の心の中におられます。



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「自由と繁栄 6」 Miroku shows the God 23

2010-05-30 00:33:33 | 政治
「 神の見えざる手  invisible hand of God 」
この言葉自体が自由の中、利益のみを肯定していく
信仰なき姿にもみえるのではないかと書いた。
この先を急いだ人がいただろうか。

「神の見えざる手」の意味はこの地上の人に与えらるものが
神の手により分配されていくというもの、
自由主義経済が発展していくと結果として
全体の利益が達成されるというものだった。

自由主義で自らに能力があり努力した資本家たちが、
自分の得た利益は自分のものとし、栄えている。
(雇用関係の中で不当かどうかということもあると思うが)
しかし、経済成長の中、そう言われていたのに
労働者や貧困者、また競争に負けたものには
一向に「神の見えざる手」によって分配がない。
「神がおられるなら分配があるはずなのに、
おかしい。自分たちも努力しているのに分配がない。
神はいないのではないか。
ならば我々の手で平等に分配したほうがよい。
資本家たちは我々の分も窃取しているから
我々の手で平等にしなくてはならないと考えたのではないか。

資本家たちは「神の見えざる手」という言葉を
使うことで「神の見えざる手」によって分配されるから
得た利益を自分のものとして享受していてよいと考え、
一方で国民は「神の見えざる手」によって分配がないから
自分たちの手で平等に分配すべきだと考えた。
どちらも信仰なき姿に見える。

しかし、国家の経済の話をするとき「神の見えざる手」の
「神」は本当の神が言われたことではなく、人間が
作った言葉であることを忘れているのではないか。
ここにひとつの言葉による呪縛が存在する。


   Miroku shows the God  23
 
   「 人よ
     繁栄の道は発展と調和の中にあるのである

     それはお互いの存在を認め合い
     大切に考えるところから始まる

     私によって分配されるのではなく
     あなたがたがお互いに幸福になる道を
     選ぶところにあるのだ 

         Master of Master         」




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「悪と知って犯す罪」と「わからずに犯す罪」

2010-05-29 01:49:49 | 日記

「罪」というと「悪いことをした」ということだと
思うが最近また、このブログの「幸福の芽」の題名そのものに
関係ある、私自身の幸福の芽について書いたブログと
同じようなことだと思うような感触のあることがおきた。

その人は何か勘違いをしたのだろうか。
人の痛みがわからないのだろうか。
濡れ衣をきせられた感触がある。

生まれてこのかた、私自身が聖人のように生きたかと
言えばそんなことはない。
暗闇の中、迷い、苦しみ、「何が正しいのか」を考えた。
そして一番苦しいときに「幸福の芽」を見つけた。

その後、様々な本を読んだ。
本当に正しいことって何だろうと考えていた。
「因果の理法」と「仏さまがおられる」と実感するまでに
3年くらいかかった。

そんなことを考えながら
本日の沖縄普天間基地の首相の声明について
考えたことがあった。

「悪と知って犯す罪」と「わからずに犯す罪」
どちらのほうが罪は重いか。
知っていておこなう罪は悪いことをしたという
意識があるのでその認識ですでにその人自身が善悪を
分けているという事実がある。
「わからずに犯す罪」は私自身は現在3とおりくらいに
考えられるところだが、
現在の首相についてこのことについて考えてみた。

沖縄普天間基地のことで「迷走」と言われた
首相自身は悪いことを考え、行うようにはみえない。
そういうと多くの人はうなずくのではないだろうか。

しかし沖縄の迷走については結果をみて
国民は「悪い」と捕らえるのではないか。
これもその人自身からみたら「わからずに犯す罪」の
ひとつであると考えていた。
迷走の罪はやはり、人々の痛みとして残ってしまった
ことがあるだろう。
また「罪」は及ぼした影響の大きさでもあると思う。


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「 自由と繁栄 5 」

2010-05-27 23:50:00 | 政治
最近はあまり聞かなくなってきたが
「小さな政府」ということについて書いていきたい。

当たり前だが、日本は民主主義国家である。
しかし今、社会主義に非常に強く傾倒してきている、
社会主義を名乗らずに社会主義政策が進んでいる。
以前こう書いたことがあった。
私は経済に詳しいわけではないので詳細は
専門家の方におまかせします。

現政権はもともと「地域主権」と言っても
実際、政策では「大きな政府」になろうとしている。
やがてそれは社会主義になっていくと思う。

少し前に自民党は「小さな政府」ということばは
使わないと言っていたと思う。
このことばは国民には理解しがたいことばでも
あると思うが、自民党は「小さな政府」の負の部分を
理解してたのかどうなのか。

現在の日本は民主主義の中、「大きな政府」「小さな政府」
どちらを選ぶかということではないと思う。
まず、国家財政がどうあるか、
「大きな政府」は経済成長期のものであるのではないか。
逆のときに「小さな政府」というものが
でてきたのではないか。
現政権のように国家財政が見込めないときに
「大きな政府」を実行し、国家財政で福祉の充実を
図ろうとすると負担は企業のみではなく、
国民に向かっていく。
これを所得の再分配というのかどうか。

また、前政権で「小さな政府」を実行し、
現実的に問題が見えてきていた。
現政権はそのいくつかの問題を確実に
つかんでいたことがあると思う。

「小さな政府」の中、
いかに「大きな政府」の良さを取り入れることが
できるかということが求められていると思う。
これを「中くらいの政府」というのかどうか。
これが現政権の「地域主権」と結びつくかといわれたら、
結果は違うものになると思う。

この新たなシステムは普遍的に継続できるもので
なくてはならない。

このブログの「現代のコミュニティ」は
ここにも関係のあるものである。

民主主義の「大きな政府」を超えて
平等のもとに雇用、福祉政策、企業の公営化が
進んでいくと社会主義になっていく。

しかし、現在の日本は軍事力がないためにまず、
日本を守れなくなる可能性が大きいと
いうことを忘れてはならないと思う。



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「自由と繁栄 4」

2010-05-25 22:00:00 | 政治
「 神の見えざる手  invisible hand of God 」
について先日このブログに書いた。
このことについてはまだ書きたいことがいくつかある。

自由主義、競争原理で経済成長が進んだとき
この後、100年くらいで世界恐慌があった。

「神の見えざる手」とは自由主義経済が
発展していくと結果として全体の利益が
達成されるというもの、
「神の見えざる手」の意味はこの地上の人に
与えらるものが神の手により分配されていくと
いうものだとも言える。

しかし、この言葉自体が
自由主義経済を肯定していく、
信仰なき姿にもみえるのではないか。



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この手ににぎった悲しみ

2010-05-23 21:33:33 | 日記
*日記です*
今日は私自身の悲しみの日
この手ににぎった悲しみをさらに硬く握りしめて
またあの弥勒菩薩像、泣き弥勒を思い出していた。

「心」を大切にする。
目に見えない「思いの世界」を大切にする。

今日、日本から離れたミャンマー(ビルマ)から
「心」が届いた。
「大切なもの・・・」


追記
この手ににぎった悲しみについて思い当たったことがあった。
以前、日月神示の本を買ったときのインスピレーション、
このブログの中のみろく神示 Miroku shows the God の
きっかけとなったもの
「 日と月はひとつになれなかった 」
日月神示の本も未だ開いてはいない。



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悲しみの心 2010.5.22

2010-05-22 18:37:07 | 心の時代
九州から悲しみの心が届いてくる。

まず、現実的に解決に向けて全力に進んでいくことが
大切、一人の力ではできない。

先日、因果の理法について書いた。
今日は、「心」について書いていく。

日本の九州で起きていることについて
現時点で言えることは、
一番は国家としてのリスクマネジメントだと思う。
危機管理より、危機察知の「心」と考えていいと思う。
日本を守るということ、
どうすることが一番よかったのか精査してほしい。

それから後々に考えてほしいと思うのは
国家財政の使い方である。
先日、「神のみえざる手」はあるのかということを
このブログに書いたが、
国税の使い方について現政権の問題提起が含まれている。
国家としてのお金の流れについて考えてほしい。
(特に子ども手当であると思われる)

そして国民全体にある国や他者への無関心についての
警告がある。沖縄の普天間移設についての無関心、
今回の九州のことについての無関心、
国民ひとりひとりが国を大切に考えるという
「心」が大切。

そして最後に沖縄の人々その関係する人々から
今回の九州のことがどうみえているか。

簡単なことではないその「心」に日本を大切に
考えていくという未来を見たい。



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「自由と繁栄 3 つづき」

2010-05-21 23:53:33 | 政治

過去、現在をみていくと「経済成長」を安定して
おこなっていくには「自由」が与えられている中で
「発展」と「調和」を目指すことにあると思う。

米国の「自由主義」の考え方について書いていく。

逆に捕らえると「発展繁栄」していくのも自由だが
何もしないのも自由だ。
「自由」の実現のためには他からの「不干渉」と
個人の「自己決定」が必要になる。

「自己決定」には個人の「責任」が伴う。
他からの「不干渉」が「自由」であるなら、
米国の社会保障制度の受け入れは経済の再分配を
受け取るというということは「干渉」を受け入れ、
「不自由」になる。

ここで国家が社会保障をおこなうときに
最も必要なものは何か。
国家の財政のみではない。
最も必要なのは「雇用政策」なのだと思う。
本来、人間は共同生活の空間で
仕事をしたいと思っている。
社会保障によって生きていくことより
自らが生産性を生み出したいと考えている。
またそうあるべきだと考えている。

社会保障によって生活した場合
「干渉」を受けるが
それと同時に「就労したい」と考えるのだと思う。
「仕事をしたいが仕事がない」

「雇用政策」は違うことばで言えば「経済の発展」
結果としての経済成長がある。
国家が政策としてしなくてはならないことである。



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「自由と繁栄 3」

2010-05-20 00:12:34 | 政治

過去、現在をみていくと「経済成長」を安定して
おこなっていくには「自由」が与えられている中で
「発展」と「調和」を目指すことにあると思う。
先日、もう少し「自由」について書きたいと書いた。

この「自由と繁栄」の締めくくりは
ひとつの意味で「民主主義を超えるもの」となる。
それが明らかにブログに書くことになるのは
未だ先で「時」が必要としたときだと思う。

米国の「自由主義」の考え方について書いていく。

逆に捕らえると「発展繁栄」していくのも自由だが
何もしないのも自由だ。
「自由」の実現のためには他からの「不干渉」と
個人の「自己決定」が必要になる。

「自己決定」には個人の「責任」が伴う。
他からの「不干渉」が「自由」であるなら、
米国の社会保障制度の受け入れは経済の再分配を
受け取るという社会主義ととらえられる、
そしてその分、再分配を受ける方は「干渉」を受け、
「不自由」となるということを受け入れると
いうことになる

まだ、この続きを書いていきたい。




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悲しみの心

2010-05-19 08:17:00 | みろく 仏教
「自由主義」についてもっとブログを書いていきたいと
思いながらなかなか進んでいない。

九州から悲しみの心が届いてくる。

まず、現実的に解決に向けて全力に進んでいくことが
大切、一人の力ではできない。

このブログで「因果の理法」について書くことがあるが、
個人の因果の理法の本当の意味を知っているのは
仏さまと個人と相対自したときにわかるもの、
その本人を元に紐解かないと 他人ではなかなか
本当の理解をすることは難しいと思う。
因果の理法は悟りのためにあり、他者が個人を傷つけたり、
その人の苦しみをより一層深くするためにあるものではない。

「因果の理法」と共に言われるのが「業― カルマ」だが
カルマは個人としてとらえるものと
その時代、時代、その国、環境により大きな意味での
カルマというものがある。




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「性善説と性悪説 2」

2010-05-14 00:01:23 | 政治
先日、民主主義で大切なものは「教育」「知識」「良識」
そして「正しい情報」と書いた。
今の日本に最も足りないものは「良識」の共有だと思う。

子育てが家庭の中で行われる時間がかなり減少してきている。
親の背中をみて育つということがなくなってきている。
子どものときに世の中の「常識」「良識」の教育がなくなった。

共産主義では共産主義の思想の教育が行われる。
宗教的には時代によって善悪が強く出ている
宗教があったり、ある時代には「愛が大切」と
いう宗教があり歴史の中でいろいろな考え方が教育されている。
仏教があり正しさと心の修養、また人の道として
孔子の考え方があった。そして今まで継承されてきている。
その時代に生きる人の仏さまの性質「仏性」を
引き出してくるために時代時代の精神がある。

では、日本はどうか。
今、現在生きていくうえで何が正しいか考えることを
教育として考えているか。
道徳的な教育を捨てて何年になるか。
それが今、国家衰退を招くほどの事態を招いたと
考えられるのではないか。
何が正しいか、どう考えるのが正しいかということを
考えなくなってきているのではないか。

自由を享受するために、また現在の民主主義の
国家を継続するためには世の中の「常識」「良識」の
教育は必要である。

世の中の犯罪の低年齢化や
いじめの問題にしても
言葉はいかにしても「徳知的な教育」は必要であるとそう思う。



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混沌としたときに光を求めて 3

2010-05-13 00:01:23 | 日記
今月3日の夕方、少し山に登って
夕日の写メを撮った。







その時のインスピレーションは
「さまざまな悲しみを握りしめたまま、
今世生きていくがよい。
それが人を救うことになるから」
そして遙かな意識から「使命である」と。

私の悲しみを握りしめたこの手を
今世開くことはないだろう。
そしてこの悲しみの手の何もかも全てを
包み込んでいる仏さまがおられる。
はるかな意識に永遠の真理がある。


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心の時代を生きる 1

2010-05-11 11:11:11 | 心の時代
仏道を求めるなら、仏さまを求めながら
今の時代を生きていくことが大切だと思う。
仏教のことばに「三諦円融」というものがある。
そのことについて書いてみたい。


三諦は三つの真理、
「空諦」― この世の価値観から離れ、仏さまの世界が
あるという真理
「仮諦」― 仏さまの世界があるが一たん否定した今生きている
この世があるも真理
「中諦」― 二つの真理はあるがそれぞれの中でだけ真理が
あるのではない、だからその二つの中に真理がある。

今の時代を生きていくには「空諦」、「仮諦」そして
「中諦」の三つの真理を円融して生きていくことが大切であり、
その中で仏さまの意図を感じ取っていかなくてはならない。

仏さまは愛であり、このときの愛はそれぞれの人がそれぞれの
人の悟りを得て、心の向上を目指すことにある。
そしてこの個人の心の向上が社会に反映していくことが大切。

仏さまの意図を感じ取って、
または仏さまの意図にできるだけ添って今の時代を
生きていくことが大切であるとそう思う。


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心の時代へのパラダイムシフト 5

2010-05-09 17:17:17 | 心の時代
昨日のブログの最後に「次元上昇」について書いたときに、
仏道修行についても書きたかったので今日、書いておきたい。

仏道に入る人はどういう人であるか。
インドでお釈迦さまは「四苦」から悟りを求められた。
苦しみの原因は何か。
仏道に入る人は仏道に入るときにどうしてそうしようと
したかという「発心」が大事なのだと思う。

神仏に至る道は今私が認識しているのは二通りある。
ひとつは「仏さまとはどういうものなのか、悟りを得たい。」
もうひとつは「人を救っていきたい、愛を実践して神に
近づいていきたい。」あるいは「公のために正しさを求めたい。」

どちらも「無我」― 我を無くしていき、神仏と一体と
なる道で求めていく道が違う。
そして「発心」がやがて修行の中でこの世の中に
通じていくものになるのだと思う。
「無我」の境地は何もないのではない。
あらゆる私心をなくしていくと仏さまの心が満ちる。
そういうものだと思う。

「発心」がないのであれば求めて得られるものもないのでは
ないか、「発心」として自分のために、この世の価値観で
求めたものではその道の途中に気がつかなくてはならないものが
あると思う。
 
この発心そして求道し、心が調和することが大切
満月のように欠けることなく、
自分の過去、現在において人間関係が調和している状態
(寺に修行されている方やお釈迦さまの時代の心の調和と
通常の生活をしながらの仏道を求めている人と
調和の求め方が異なると思うが。)

この状態自体が「次元上昇」だが
きのう、最後に書いたもう一段の「次元上昇」の
元になるものになると思う。



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「心の時代へのパラダイムシフト 4」

2010-05-08 23:07:07 | 心の時代


「底から光を放つ」とはどういうことだろうかと考えた人が
いただろうか。仏さまの世界からもう少し書いてみたい。

心の時代へのパラダイムシフト3で「心の価値」に
目覚めるとは、今ある常識や価値観から「心が大切」と
いう価値観に変換、パラダイムシフトがおきてくることに
なると書いた。


次から次へと苦しいことばかりつづく。苦しみがわが身に
押し寄せてくることがある。
「なぜ、自分に、自分のところにこんな不幸がやってくるのだ、
こんなはずはない」と思う。誰を恨んでも呪っても物ごとは
解決しないことに気がつく。そしてどんな努力をしても
壁が立ちはだかり、解決の道を見出せない。
にっちもさっちもいかず、とうとう苦しみのどん底に
きてしまった。あらゆる努力が無駄になってしまった。
苦しみの底に落ち込んでしまった。

こんな苦しみのどん底の底を打ち破ると光が出てくる。
この光はまさに価値観の変換を生むことになる。
集団(組織)でおきてきたらその集団で小さな
パラダイムシフトが起きる。
国家でおきたら時代の精神、時代の奔流となる。


仏教のことばに「諦観の境地」ということばがある。
このブログの最初に仏教についてかなり書いてきた。
そのときもそうだが既成の意味についてはとらわれずに
書いていく。

仏さまに信仰があったり、まだ自分が気がつかないけれど
仏さまとの縁が深い人の場合、苦しみが続き、次から次へと
壁が出てきてどうしても進めない、どうにもならない
そういうときは「諦観の境地」に至っていると思う。
どん底の境地、あきらめの境地である。
この境地になる人は自分では気がついていてもいなくても
「正しく生きたい、努力してなんとかしたい」と思っている。
あるいは長い苦しみの中、何かを恨んだりしていたが
何かのきっかけで強くそう考えるようになった状態である。
自分自身がこの苦しみの境地にいるということを自分に
つきつけられた状態。どうにもならない。
しかし、「諦観の境地」は単なるあきらめの境地ではない。
あきらめてその苦しみの人生を受け止めて生きるのではなく
あきらめて「心の価値」に目覚めるためにあるのだ。

仏さまはこの「諦観の境地」に至った苦しみ、悲しみの
深い人のすぐ近くにおられる。私がすぐ近くにいることに
気がついてほしいと思っておられる。

このときに大きな宗教的な目覚めを求めることが大切、
自分は仏さまの心に合っていなかったのではないか、
この世の価値観だけで成功を求めていたのではないか、
自分さえ良ければよいという考え方が強く、
他の人の気持ちを考えたことがなかったのではないか、
自分のみを生かそうとしていたのではないか、
他の人の存在自体を否定していたのではないか、
因果の理法をひもとける人はひもといてみるといいと思う。

どん底を打ち破ると光がでる。
仏教のことばで「真空妙有」― 真に仏さまの世界を
悟ったら、この世が妙なる世界にみえてくる。
個人の悟り(心)の修行とこの世がつながっていき、
そこに仏さまの意図がみえてくる人もいるだろう。
今までの自分と決別し真理と共に生きて生きたいと
強く思うようになり、そしてそういう生き方を
していくようになる。

今までの自分の、自分たちの価値観が通用しない境地から、 
その中でやがて大きな気づきを得て「心の価値」に目覚める。

これがたぶん、私がブログを書き始めてから知った
「次元上昇」「アセンション」というものになるのだと思う。

そしてこの先にもう一段の「次元上昇」の考え方がある。
いつかこのブログに書くことになると思う。



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