いつもこう思う。
昨今、問題となっている体罰。大きく取り上げられて、様々なところで議論
されているが、今でもなかなか無くならない。悪いとわかっていても何故?
わかっていない場合もあるが、体罰、いわゆる暴力で理解を求める行為が、
なぜ、起こってしまうのかを考えれば問題を考えやすい。
上手い指導というのは、言葉で理解させられる。下手な指導は言葉で理解さ
せられない。理解させられる言葉と手段がなくなった時、人は手が出る。
どうしてできないのか?理解できないのか?それを考え、その人にあった手
段を提供できず、諦め、論理を忘れた感情的行動に出る。それが体罰である。
体罰には言葉が付く。なぜできないのか?考えさせる問いかけなら救いがあ
るが、大概、手が出る人はそれを柔軟に思いつく発想が無い事が多い。
『馬鹿野郎』、『阿呆』、『カス』、『死ね』などなど、自分の意の通り、
行かぬ場合に人はこのような極端な暴言を吐く。
自分の意のまま、理解されないから手が出る。自分の意のままに行かないか
ら暴言を吐く。体罰の論理と暴言を吐く論理は同じなのである。
『体罰反対だ~!』といい格好をしたところで、普段、人に向かって暴言を
吐くような奴は、僕からすれば体罰をしている人間と変わらない。
人間は考える力がある。ならば、『バカ』だの『阿呆』だの簡単に言わず、
何とか理解が生まれるまで、論理で向きあってみる。
それが人と人、気遣いってものじゃないかな?『俺は気遣っている。』本当
にそうなら、暴言なんて吐くことはない。僕はそう思う。
だから僕は言わない。ましてや文字のやり取りでしかないSNSの世界では。
真意や表情、感情までは伝わりにくいから。
議論や主張、意見の場に、暴言はふさわしくない。キツく言う趣旨とも違う。
言葉遊びでお互いやっている分には好きにやったらいいが、相手をそれこそ
気遣う心が欲しいね。触れちゃいけないものって、あると思うんだ。
見てる第三者も傷つける事があるから。そうでなくても傷つける事があ
るから。だからこそ。
あ、これはこうしろってものじゃありません。個人的な見解であり、価値観。
僕の決意みたいなものです。
おしまい
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