語学は「語楽」--英語を楽しく学びましょう

英語の学習をしていて、「おや?」と思われる点について、みんなで考えてみたいと思います。

このブログはそろそろ終わります。

2014-02-26 22:22:39 | 英語の学習と研究

gooの都合でこのブログはこの回を持って終わります。

思えば、宮城県T高等学校の3年生(23回生)の冬季課外講習向けに始まったブログでしたが、当初難しすぎる英文解釈、難しすぎる和文英訳という批判を強く受けながら、英語は暗記ではないのだ、基本的な文法の仕組みを理解することが重要だという主張をし続けてまいりました。後にF高等学校に赴任するも、同じブログにて英語の「愛」を発信し続けてまいりました。『英頻』・『ネクステ』・『スクランブル』の類を使うことを良しとする安直な教師側の姿勢にも抵抗してきたのですが、多勢に無勢、押し切られるという場面が多く、私の初期の意図は果たせないでいましたが、なんとか新天地においてはネクステの類は切り捨てました。

現在「英語は英語で教える」1年生を教えていますが、学区制撤廃の影響もあり、理屈の部分を再度教える必要性を感じています。文科省がなんと言おうが、不易の部分は守りつつも、流行の部分はやや批判的に眺めながら、いいものをみんなで作り上げていくという学校風土・カルチャーを築きたいと思います。


ABE氏と秘密法案

2013-12-07 22:03:52 | 英語の学習と研究

困ったことに、この方の内閣では信じられないことが起こるのだ。

第一次次安倍内閣の時には教育基本法が改正され、教員の10年毎の免許更新のための研修が義務付けられた。研修自体は問題ないのだが、悉皆ではない(=生年に縛りはあるけど)というところと、昭和30年以降に生まれた教員対象をターゲットというところが引っかかる。まあ、自分自身は免許更新講習が終わったことなのでどうでもいいし(=私は2011年夏休み終了)、研修自体は楽しかったし、生徒の保護者も同じ研修を受けているのを知り頼もしくも思い、さあ、明日も頑張ろうという気持ちで臨んだ1週間だった。30000円プラスアルファ、身銭の世界である。

ところで、昭和30年以前に生まれた先生方と管理職は研修が義務付けられておりませんが、大丈夫なのですかとお聞きしたい。むしろ、性癖として怪しい方が多いのではないかと推察されるのだが大丈夫なのか。日本には位階上位者に悪人はいないとする誤った人間認識が存在するのだが、これはひとえに責任問題であるといって過言ではない。役職・ポストに押してくれた人間には責任が及ばないシステムはどこの世界にもあるが、教員は基本的には一匹狼。ABEが考える教育観に怪しいものを感じるのは私一人だけだろうか。

 


落ち着いて文法訳読を。

2013-11-18 00:01:05 | 英語の学習と研究

今年度になって、私のクラスも一応「英語による英語指導」のまね事をしております。具体的には以下のとおりです:

1 単語テスト事前活動:ペアワーク
  What's the English for [     ]?   How do you spell it?
2 Grab on behind: 「英語しりとり」
これらは帯活動で本質的な活動はまた別になります。

特に読解については、①パッセージの内容が理解できるレベル、②パッセージの内容の「奥」が理解できるレベル、③パッセージの内容をまとめることができるレベル、このくらいですね。

ただ、人気のある活動として「英語しりとり」(Grab on Behind)を上げておきましょう。これは授業のいついかなる時でも使えるので重宝しております。


上位対下位

2013-11-17 23:14:43 | 英語の学習と研究

日の丸・君が代問題をライフワークとして研究していると、今般の高校英語の学習指導要領に何かファシズム的な要素を感じざるを得ない。

1 M県は「英語表現1」の考査問題を教育委員会(高校教育課)に送付させた。(悉皆)
2 M県は悉皆研修者に対してCAN-DO Listを3月下旬までに提出することを義務付けた(高校教育課)。(悉皆)

ところでつい最近◎◎六県大会がM県で行われたがその指導主事の英語は犯罪的なまでに「ダメ」英語であった。その犯罪的なダメ英語を話す「指導主事」が権力を握っているのがM県である。馬鹿な人間に権力を握らせるととんでも無いことになるというのは歴史が示している。可及的速やかに彼を放逐せよと言いたいのだが。


日本における英語教育の争点(=「問題」ではない)の本質はここにある:「古典主義」 対 「浪漫主義」

2013-11-07 22:21:35 | 英語の学習と研究

本日11月7日、◎◎英語教育研究大会で運営委員として◎◎市民会館へ行ってきた。6年に1度回ってくる、少なくとも昭和から平成の現在に至るまで、逃げたかったのに逃げられなかった仕事だ。若い頃は、先輩教師にもっと勉強しろとか「~」という本を読めとか言うありがたい励ましや、授業に直結するちょっとした「小技」などを教えてもらい、日常の授業にすぐに取り入れる事のできる実に具体的なアドバイスをしてくださる「怖い」先生がいたものである。

大会会長は新学習指導要領の本質を知っているのか知らないのかはともかく(個人的にも彼をよく知っているので詳らかにはしないが)、これはとんでもないものであることは以前触れたとおり。その本質を見事に明快に語ってくれたのが本日のゲスト、◎◎なる講演者だった(文科側)。氏は語る:「日本人英語であってもOK。通じればいいのだ。Fluencyが優先する。あまりaccuracyに拘るな。」

ここに新学習指導要領の問題点が浮き彫りにされた。正確さはどうでもよい、何か英語「らしい」ものを話していればよしとするのが新学習指導要領の本質らしい。通じればいいというが、本当に「通じる」英語かどうかを誰が判断するのだ。氏は更に続ける:「教師の英語は日本人の英語で構わない。それを生徒がモデルにすれば良いのだ」。ここまで来て怒りがこみ上げ、何のためのこれまでの英語教育であったのかと茶歩台があればすぐにでもひっくり返したい衝動に駆られたのである。以前にも触れたことがあるが、新学習指導要領を信奉する教員の英語の質の劣化は甚だしい。その英語もどきを使いながら言語活動とやらを生徒にさせるわけであるが、なんとも、草庭におけるおままごとであればまだ純朴性があるが、嫌味・違和感・ヘンといった、いや、はっきり言えば、吐き気がする。

文科のお抱え学者(?)というのはどこか狂っている。以前セルハイの相談役的存在の東京都の▲先生(女性)にいたっては教員時代には校務分掌をすべてはずされていた(校長特命)。少ない授業と沢山の講演に専念できる公立高校教員て何、と突っ込みたくなる。公務員は全体の奉仕者であり、公立高校の教員は目の前の生徒に責任を負っている。この基本原則が最近ないがしろにされているのではないか。

英語教師30有余年で退職まであと一歩の所まで来た。上述のことを冷静に見れば、これは思潮史的には、Accuracy(正確さ=「形式」)重視は古典主義、Fluency(流暢さ・楽しさ=「脱形式・自由」)重視は浪漫主義といった対立構造が浮き彫りにされる。美術史・英文学史の中では視覚的・感覚的に両者を区別することができるのだが、新学習指導要が説く理念とは本質的には過ちを認めても良いとする浪漫主義であり、絶対的性善説、日本人英語でもOKよということで、戦後の「パ◎パ◎」(=進駐軍兵士を相手にする慰安婦)英語と同質の英語のススメにほかならないのである。

ここから見えてくるのは、誇張・言い過ぎはあるかもしれないが、新学習指導要領に決定的に欠落しているのは「つとめ強いる」という意味での「勉強」の概念と、外国語語学習得は長期間に渡る訓練が必要だというごくごく当たり前の「常識」である。「脱ゆとり」に激しくシフトしているのは高1の英語教科書を見ればすぐにわかる(一方で語彙の急激な増大!)が、学ぶべき語彙数を増やすということと何でもありの英語発話を許すことの間には論理的な乖離があるのではないかと思うのだ。つまり、文科はひょっとしたら英語教育の実質的方向性を失ってしまっているのではないかと私は危惧するのである。司令塔を失ってしまったのか、教科書検定の杜撰さに見られるように、確たる「芯」がなくなってしまったのか。ちなみに私は個人的には教科書検定には反対なので、「民間」出版社の(ほとんどが外国資本であるが)小説・エッセイの類を大量に読ませたい。

所詮『~指導要領』ごときに法的拘束性を「認める」(=強制的にいつの日にか決まってしまった)こと自体、おかしな事なのだ。憲法という最上位法規の下位にあるものがいつの間にか「法的拘束力」を得た事自体がこの国の矛盾を映し出している。あるいはこれは幻想である、と誰かが言っても広島県立世羅高等学校の校長先生が亡くなったことは事実であるし、現在日本のほとんど(あるいは「すべての高校」において)儀式の際に君が代・日の丸は斉唱・掲揚されている。この国を愛すればこそ矛盾に悩むのである。つまり、かつての右翼・左翼の問題としてでなく、当たり前の問題として。


English shall be taught in English.

2013-10-28 22:25:37 | 英語の学習と研究

井上某かの歌に、「がんばれ、・・・西から東へなんたら」というのがあった。

某高校で3年生の個人面談時において担任クラスの女子生徒に「頑張れ」と言ったら、突然泣きだし、どうしたと言ったら「頑張ってんのに結果が出てません。親にも、友達にも、頑張れと言われ、どうしようもない気持ちでいるのに、なんでがんばれ言うんです。」

答は「頑張らへんでいいんです」。自分のスタイルで行けばいいんじゃんか。

最近思うことは、凡事を徹底すればなんとかなるのかな。


なんと形容してよいやら・・・強いて言えば、「大政翼賛的」?

2013-10-01 22:05:57 | 英語の学習と研究

今朝聞いた話であるが、とうとう来たかと思った。

文科の話だ。仄聞であり、また詳細について確認が取れていないので伏せ字にするが、某社が、某月の模擬試験の件で文科の訪問を受け、その際、問題案の一部について書き直しを迫られたというのである。実際に全面的に書き直しをして印刷して実施したらしいのだが、現在手元にある現物の問題を見る限りでは昨年度とほぼ変わりはない。下線部和訳もしっかり出題している良問である。

文科に一企業にまで口出しをする権限がどこにあるのだ。そもそも学校法人でもない企業に対して、圧力をかけることが気に食わないし、表現の自由の制限にも繋がるのではないかと憤りを隠せないでいる。日の丸・君が代問題あたりから文部省→文科省の姿勢が随分と居丈高になったと感じるのはのは気のせいであろうか。

訳読がいけないという。では、英文をどうやって理解するのか。文法は単独で扱うのではなくアクティビティの中で教えなければいけないという。そもそも、文法項目を知りもしないでどうやってアクティビティを行えるのだろうか。CAN-DO-LISTを作れという。なんでEUの真似をする必要があるのか?文科のやることはこれまですべて失敗だった。唯一の例外は「ゆとり」教育である。国民の多くを見事に愚民化し、その結果今の安泰自公政権が生まれた。

学習指導要領の「法的拘束力」というものはいつのまにかひとり歩きしてしまったが、憲法は最高法規である。ここは確認して置かなければならないポイントだ。最高法規の「下位」にある『要領』になぜこれほどの権威を与えなければいけないのか。

現今の学習指導要領は必ずや失敗し破綻する。多くの英語教師がそれを知っているあるいは感じているくせに公言できないのは、いわゆる「法的拘束力」という、言霊に取り憑かれているからであろう。

定年まであと数年しかないのだが、抵抗できる体力と気力がある限り、この国が間違った方向へ進むのを何とか食い止めたいという思いでいっぱいである。


英文法の「法」が問題なのか?あるいは・・・

2013-08-22 22:41:47 | 英語の学習と研究

英語学習者にとって、いや数十年前の私も含めてであるが、英文法というとなにやら厳しく、かくあるべきという存在であった。高校時代における英文法(当時は英作文も含めて)の評価は5段階において2であった。
高校時代の私は、英文法が全くのパープリンだったのである。何故かといえば、勉強が嫌いなだけでなく興味関心が天体・天文にしかなく、毎晩画用紙とレンズで作った天体望遠鏡で土星を見ていたからだ。時に学校に合宿する機会が少なからずあるものの、そんな時には当時珍しかったインスタントラーメンの作り方を先輩の「女子」から教わり、ああ、こんな食べ方もあるのだと認識させてもらい、それが後の自炊に繋がったものである。
私は退職間近の英語教師である。なぜそんな人間が英語教師になれたかというとこれもひとえに英文法のおかげである。高校時代には英文法が全くのパープリンだったのであるにもかかわらず。
まず、C.T.Onionsの名前を上げておかねばならない。彼はシェイクスピア学者であるが5文型の基礎を作った人間である。もちろん、英国・米国において5文型なるものはおそらく学問上は存在しないと思う。Onionsの文法ができたのは、確か1904年であるから日露戦争勃発時である。これが日本に入ってきたのは細江逸記氏の「英文法汎論」によるものが大きいであろう。
私は現在でもOnionsの文法を見る機会が多いのであるが(=小型サイズの本なので、というのが本音である)例文の品格は他を凌駕する。私はこの文法書を大学3年生の頃に全ペイジ読破したのであるが(授業では、syntaxの途中まで)、新言語学などでは引用されることのない(殆ど無い)書物ではあるが「読み」「書き」「話す」上ではとても貴重な一冊であると信じて疑わない。
新学習指導要領を信奉する方の中には、文法を否定される方が多いので、おそらくこの本を読む方は少ない(=あるいは、彼らにしてみれば自分の英語では!語学力がなくて読めない!)とと思われる。


新学習指導要領にないもの

2013-08-02 21:27:42 | 英語の学習と研究

パープリンな国民を作ることに躍起になれば、国家は「ゆとり」とは逆のことをやる、と言えば逆説的かもしれないがそうでもない。

君が代・日の丸問題を考えてみよう。この問題は前の前の学習指導要領で義務化された問題である。指導要領ごときは、思想・信条の自由を謳った日本国憲法の下位の範疇であるにもかかわらず、無茶苦茶な形で押し付けられてしまった。憲法違反であるのは誰の目から見ても明らかである。しかし、なし崩し的に押し付けられてしまい、今や生徒はなんの疑問も持たずに歌っている。私は「歌うな!」と言ったことはないが自身が歌うことはない。3月期卒業式・4月期入学式の時はマスクをつけている。

国家を監視できなくなったというか、ムードに流される風潮を認めている日本の雰囲気には危ういものを感じている。自民圧勝は選挙前から予測がついていたが、憲法改正とヒットラーを絡める発言の存在にこの政党の本質的な姿があるのではと密かに感じている。

随分と回りくどい言い方をしたが、英語教育である。文科省の言うとおりに実践すれば日本国民は必ずや愚鈍の極みに到達する。しかも近い将来である。英語教育の問題が君が代・日の丸と絡んでいるという認識は遅まきながら今日わかった。


英文法は暗記ではない!

2013-08-01 22:45:37 | 英語の学習と研究

以前から薄々感じていて、最近は確信を持って生徒に言っている言葉が標記のタイトルである。

実は、超整理本と言われる「~テージ」や「英頻」の類を生徒に持たせた途端に模試の偏差値が下がるのを見て、個人的にはオカルト的に「~テージ」が「英頻」が「グレード」が悪かったのかと反省することしきりであったが、10年以上も同じ現象を目の当たりにし、生徒の質問内容と学習方法を聞き取り調査した結果、超整理本が悪いのではなく、勉強する生徒の問題であることがわかった。

生徒は超整理本を何週すればOKと勝手に決めつけていたのである。つまり、英文法は暗記だと決めつけていたのだ。ここに問題がある。今年の1年生の夏期講習では暗記では絶対得点できない問題だけを集めてテキストにした。不評であった!「~したことがある」=have done、「~している」=be doingでは手も足も出ない問題だけを集めたからだ。英文法は原理原則を理解しなければいけないのだが、そこをすっ飛ばして解答を暗記しようとしているものだから得点できるものも失点してしまう。

夏期講習では扱わなかったが次の問題はどうだろう。

1. Pat asked me to go to the movies (          ).
    (1) with him   (2) together

2. Who do you want to help (          ) with your homework?
    (1) yourself    (2) you