語学は「語楽」--英語を楽しく学びましょう

英語の学習をしていて、「おや?」と思われる点について、みんなで考えてみたいと思います。

かねてからの懸案事項(その7:閑話休題)

2012-03-20 14:22:08 | 英語の学習と研究

 職員室にエアコンが入る。その工事作業のため、数日間学校のPCが使えなかったのでご無沙汰しておりました。
 私が小学生のころには、自宅にないものが学校にはあった。テレビ、幻灯機、テープレコーダ、ステレオの類である。因みに、私の自宅にテレビが入ったのは、小学校2年生のころで、東京オリンピックを見るためであった。1964年である。当時、東京オリンピックを見逃せば一生オリンピックを目にすることはできない、といった雰囲気が日本中に瀰漫していた。なけなしの安月給をはたいて、おそらく月賦で、親父はテレビを買ったと思う。押入れの2段目に座布団を敷き、その上に白黒テレビを乗せて、6畳間で家族だけでなく隣近所の人たちと一緒に正座して見たオリンピックやプロレスや「チロリン村のクルミの木」は忘れられない思い出となっている。
 そんなテレビや幻灯機(今でいえばさしずめプロジェクター)やテープレコーダは子供の目には珍しく、スリリングなガジェットだった。学校は何か魅力的な場所で、当時の小学生たちは家にないものが学校にはあるので、学校に行くのがが楽しくて、楽しくてしょうがなかった。勉強ができようができまいが学校はパラダイスだった。
 現在はと言えば、家にはあるのに学校にはないといったものが掃いて捨てるほどある。エアコンはその一つではなかろうか。職員室がなぜ暑いかと言うと、60名近くの人間がひしめいているといった事情に加え、先生方一人ひとりがノート型パソコンを使っているということも大きな原因だと思う。PCを使えばPCから熱が出る。一台あたりの熱量はたかが知れているけれど、60台のPCがすべてオンの状態なので、その熱量や推して知るべしである。過去2年間で、職員室で仕事中に熱中症で倒れたという先生が複数名いる。次年度から快適な夏がすごせるかと思うと新幹線通勤も苦にならない。
 ところで、我が家にはエアコンがない。仙台市中央部の夏の暑さは相当厳しいのだが、うちにはエアコンがない。別に環境に配慮してとか経済的な理由からではない。リビングの南側(ベランダ)が広瀬川に面し、北の端にある私の勉強部屋が南町通りに面しているので、窓を全開にしていれば自然に風が吹いてくる。ある夏の日に勉強部屋で昼寝をしていたら風邪をひいてしまって39度の高熱に苦しんだことがある。通風性がいいことのもう一つの理由としては、10階に住んでいることも考えられる。
 高層階に住んでいることに関しては功罪相半ばするものがある。眺望は最高だが、災害時には大変な思いをすることを覚悟しなければならない。例の大震災の日に、私は帰宅してもよいという許可を得て、同僚の先生の車に乗せられて仙台まで帰ってきた。あの日の仙台は真っ暗で、信号も機能せず、二番町通りの交差点を渡るときは車にひかれはしまいかとびくびくしながら横断した。夜中の12時。エレベータは動いておらず、非常階段をライターの灯りを頼りになんとか10階までたどり着き部屋のカギを開けた。カミさんがすごい形相をして睨んでいる。
 ガス管が地震で壊れているかもしれないのに、ライターを点けるとは何事かというのである。全くその通りなので、グーの音も出なかったのだが、せっかく無事に帰ってきたのだからその苦労だけでもねぎらってほしかった、とはとてもおくびにも出せる雰囲気ではなかったので、台所の割れた食器を片づける作業を朝が来るまで黙々と手伝った次第である。


かねてからの懸案事項(その6)

2012-03-16 07:29:34 | 英語の学習と研究

 英国は古くはG. チョーサーやW. シェイクスピア、最近ではカズオ・イシグロなどを輩出し、文学に関しては懐が深く、また深遠な内容の作品が多い。一方音楽はと言えば、中世には吟遊詩人のバラッド(ballad)などがあるが、最近まで歌い継がれているものは皆無と言ってよい。最近まで歌い継がれているものも中にはあるが、Greensleevesぐらいだろう。

Alas, my love, you do me wrong,       ああ、愛しの人よ、あなたは間違っている
To cast me off discourteously.        私を失礼にも捨ててしまうとは
For I have loved you so long,         私はあなたをずっと愛してきて
Delighting in your company.           あなたと一緒にいるのが歓びでした

Greensleeves was all my joy           緑の小袖のあなたは私の全ての楽しみ
Greensleeves was my delight,          緑の小袖のあなたは私の歓喜
Greensleeves was my heart of gold,    緑の小袖のあなたは私の黄金の心
And who but my lady greensleeves.     そして緑の小袖のあなた以外に私の貴婦人はいないのです

 時代が下り、宗教音楽など小品は教会で歌われてきたが、バッハのような作曲家はしばらく出てこない。ビートルズを輩出している国なのに、不思議に思われるかもしれないが、世界に通用できる大作曲家は19世紀まで出てこない。英国近代音楽の祖は誰かという問いかけに対する私の解答はおそらくエルガー(Sir Edward William Elgar: 1857-1934)となるだろう。
 先日触れたSalut d'Amourは小品であるが、エルガーをして有名たらしめた作品は何と言っても『威風堂々』(Pomp and Circumstance)だろう。第二の英国国歌と言ってもよく、BBCが主催するプロムス(=毎年夏に開催されるクラシック音楽の演奏会のシリーズ)の最終日を飾る名曲だ。
 例の、ドドシドレラソファファミファソレで始まるサビの部分は、オケと聴衆が一体となって繰り返し歌われる英国の夏の風物詩の一つであろう。

Land of Hope and Glory,
Mother of the Free,
How shall we extol thee,
Who are born of thee?
Wider still and wider
Shall thy bounds be set;
God, who made thee mighty,
Make thee mightier yet
God, who made thee mighty,
Make thee mightier yet.

希望と栄光の国
其は自由の母よ
汝をいかに称えようか?
汝より生まれたのは誰であろう?
広大に、いっそう広大に
汝の土地はなるべし
神、汝を偉大たらしめし者が
いっそう汝を偉大にしますように
神、汝を偉大たらしめし者が
いっそう汝を偉大にしますように


かねてからの懸案事項(その5)

2012-03-15 12:23:28 | 英語の学習と研究

 ニューヨーク市は国連本部。1971年10月24日、94歳という高齢のパブロ・カザルスは語り始めた。

 「これから短いカタルーニャの民謡『鳥の歌』を弾きます。私の故郷のカタルーニャでは、鳥たちは、Peace, peace, peace!と鳴きながら飛んでいるのです。」

 彼は右手を高く挙げて、鳥が飛ぶように動かしながら、Peace, Peace!と繰り返した。
 静まり返った会場に流れた『鳥の歌』。その感動をことばで表現するのは難しい。しいて言えば、巨匠の人生と思想がこの短い曲に凝縮されて、聴く者の心を揺すぶったということだろうか。(井上頼豊:『回想のカザルス』(新日本新書)より)

 ご存じ、チェロの巨匠パブロ・カザルスである。この曲はチェロ一台だけで演奏されるが、何とも哀しく、聴く者の心に静かな感動を呼び起こす。平和を祈るカザルスの強い思い入れが曲全体にみなぎっている。聴くたびごとに新たな解釈を許容する名演だ。フランコ政権の独裁に対する抗議、泥沼化するベトナム戦争に対する哀しみ、人権と平和を強く希った老演奏家の毅然とした生き方がこの演奏の背景にはある。
 彼はA. シュワイツァー たちと一緒になって平和運動に積極的に取り組んだ人物としても有名であるが、「名品」の発掘にかけても類稀なる才能があった。
 先日触れたバッハの『無伴奏』、正確には、『無伴奏チェロ組曲第1番ト長調』BWV1007は、20世紀前半までは殆ど忘れられていた。せいぜい、練習曲として扱われる程度だったらしい。
 齢わずか13歳のパブロ少年は、マドリッドの譜面屋で古びた譜面を見つけた。その譜面にただならぬものを感じた少年は約10年にわたり研鑽を積み、満を持して開かれた演奏会で『無伴奏』を披露した。この演奏会は世界に衝撃を与え、爾来『無伴奏』が日の目を見ることになった。
 『無伴奏』も基本的にはチェロ一台で演奏される。音を重ねて弾く重音奏などにより多彩な表情を見せる重厚な作品である。
 部屋を真っ暗にして、ステレオの音量を若干高めにして、無心に聴き入ってご覧。何かが変わるから。

 この稿さらに続く。

 


かねてからの懸案事項(その4)

2012-03-15 07:21:19 | 英語の学習と研究

 高校時代は堀辰夫の小説にひかれた時期があった。作品中のバレリーの詩の一節である「風立ちぬ、いざ生きめやも」などと口ずさみながら、自分が死ぬときは肺結核で、長野県のような空気が清澄なところにあるサナトリウムで「綺麗に」死にたいと友人たちに語っていた時期がある。もちろん、同じ結核でも、正岡子規のような壮絶な死に方はいやだった。死にかたを夢想する高校生など、担任としては絶対もちたくない、ご免こうむりたい生徒であるが、そんな高校生だった。
 後年、アメリカ映画の『ゴッド・ファーザー』(パート3)の終りのほうの場面で、アル・パチーノ演じるマイケル・コルレオーネが、南欧(おそらくイタリア)の古ぼけた家の庭で、太陽の光をいっぱいに浴びながら、一人椅子から転げ落ちるようにして死んでいく様子を見て、「これだ!これしかない!」と思った。映画評論家によると、マイケルの死に方については様々な分析・評論があるらしいが、私はこの場面を見てこんな風に死にたいと思った。当時、そう思った理由の一つには、イタリアの気候を知っていたこととBGMが魅力的だったことが挙げられるだろう。
 イタリアには仕事も含めて夏に1回、冬に2回の合計3回行っているが、いつ行っても陽光がまぶしく、また空気が乾燥していた。日本のような湿潤な気候とは全然異なり、明るくからりとしているのだ。当然イタリアにいれば「結核で、綺麗に死にたい」などとは決して考えることはなかっただろう。堀辰夫の文学は日本だからこそ成立するわけで、イタリアでは通用しない。文学の成立要素に「風土」は欠かせない。その意味で風土を無視するニュー・クリティシズムの考え方は間違っていると自信を持って断言できる。
 BGMとして流れていた音楽は『カヴァレリア・ルスチカーナ』(Cavalleria Rusticana)というイタリアの小説家ジョヴァンニ・ヴェルガの同名の戯曲に、ピエトロ・マスカーニが作曲したオペラ曲のうちの間奏曲である。ゆったりとしたリズムでバイオリンが切なくも哀しく歌い上げるサビの中でマイケルは枯れ木が朽ち果てるように死んで行くのである。私はこの映画をロンドンのマーブルアーチにあるオデオンだったかギデオンだったか名前は不確かであるがそんな名前の映画館で見た。なぜか、スクリーン画面の光景と音楽があまりにもマッチしすぎるので、滂沱の涙を流しながら見ていた。

 この稿さらに続く。


かねてからの懸案事項(その3)

2012-03-14 12:18:17 | 英語の学習と研究

 エルガーの愛は美しい曲へと昇華して我々の耳を楽しませてくれるが、恋人に静かに、優しく囁きかけるような愛の曲もある。
 グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)は指揮者として成功を収め脂が乗り切っていた41歳の頃に、19歳年下のアルマ・シンドラーに出会い、二人は一緒になる。その愛を昇華させて美しい交響曲が生まれた。『交響曲第5番嬰ハ単調第4楽章アダージェット』は別名「アルマへの調べ」として世界中で演奏され、愛されている。
 彼はアルマに出会い一目惚れしてしまう。何と便箋20枚(!)にも及ぶ熱烈なラブレターを送り、1ヶ月後に婚約、それから3カ月後に結婚してしまった。「老いらくの恋」とは言うまい、他人事ではないからだ。便箋20枚のラブレターは書いたかどうかその辺の記憶は覚束ないが、私のカミさんも私より14歳年下でしかも2年間英語を教えた元教え子である。私に興味があるのは結婚後の二人の関係はどうであったかという一点に尽きる。
 というのも、私の場合であるが、結婚後数ヶ月間は、「先生、先生」と呼ばれ、教師対元生徒の関係が続いていたが、半年ぐらいから形勢が逆転してしまった。私に非がないというわけではないが、やはり教壇に立っている姿と自宅でだらしなく(=リラックスしているだけなのだが)新聞を読んだり、酔っぱらった姿を見れば、そのギャップの大きさに相当幻滅したに違いないからだ。現在では、カミさん>6歳のメスネコ(ファー)>4歳のオスネコ(ノア)>私の序列である。つまり自宅では私の序列が一番低いのである。
 マーラーの話がとんでもない方向へ進みそうなのでこの辺でひとまず筆を置くことにしよう。
 この稿さらに続く。

注:このブログが昼間に書かれているときは、勤務時間外に書かれているので、「地方公務員法」第35条(職務専念の義務)違反には当たりませんので、ご安心ください。


かねてからの懸案事項(その2)

2012-03-14 07:38:40 | 英語の学習と研究

 昨日、ピアソラの『リベルタンゴ』に言及したが、この曲ではチェロが重要なカギを握っている。チェロと言えばバッハの『無伴奏』だっていいわけだが、『無伴奏』だと僧院的で禁欲的で精神的である。つまり色気がない。一方、『リベルタンゴ』では、チェロを追奏するかのようにバンドネオンがリズムを刻み、セクシーですらある。小説ではテーマを暗示するタイトルが必要なので、『無伴奏』ではなく『リベルタンゴ』にした。
 チェロはいい。部屋を真っ暗にして、ステレオの音量を幾分高めに設定し、無心に聞き入る。これ以上の幸せはない。チェロは演奏したことがないので技術的なことは何とも言えないのだが、『リベルタンゴ』に関して言えば、ヨーヨーマさんの演奏が心に染みいる。
 私が演奏できる楽器はピアノとギターであるが、ここ数年間演奏していないので腕は相当鈍っているだろう。ショパンの『ピアノ協奏曲第1番』第1楽章のオーケストラの合間に入るピアノの「ミドーレミーラシドシラミファソファミミーレ」は若い頃はそうでもなかったのだが、今は涙が出るくらい切なく響いてくる。年齢によって感じ方が違うようだ。エルガーの『Salut d'amour』(愛の挨拶)もいい。これは、CMなどでも利用され、また比較的簡単に演奏できるが、のちにエルガーの妻になるキャロライン・アリス・ロバーツに対する愛をびんびん感じる。疲れた心を癒してくれるのはクラシックが一番。

 この稿明日も続く。



 

 


かねてからの懸案事項

2012-03-13 10:06:29 | 英語の学習と研究

伊藤整が『小説の方法』で次のように述べている:

私はある座談会で次のような問を出されたのである。「なぜ日本の小説家は志賀直哉のような心境小説ばかり書きたがってトルストイの『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』のような本格小説を書かないのでしょう」そう問われると、実に困るのである。そういう疑問が提出されているときには前提として、明白なことだが次のようなことが設定されている。本格小説には、作者その人などを思わせない、作者から独立した主人公がなければならない。また作者の妻や恋人を思わせない女主人公がなければならない。また作者自身の体験でない特別な事件がなければならない。そして更にそれ等の主人公や女主人公の外にいかにもその作品にふさわしい女中とか友人とか裁判官とか悪人とか善人とかが賑やかに登場して動かなければならない。要するに、作者の身の上話でない嘘の世界をいかにも真らしく作り出して見せてもらいたいものだ。身の上話でない話を本当らしく書いてこそ初めて小説家である。

標題の「かねてからの懸案事項」とは、5年前に生徒の前で見えを切って約束したはいいが、まだ果たせないでいる事項のことである。その約束とは、小説家になるということだ。一応取材らしきこともして、ある程度材料だけは収集してきたのだが、日々の瑣事に追われて、(その間に転勤などもあり)構成イメージだけは固めていたのだが、実際に原稿用紙にすら向き合っておらず今日にいたっている。

受験指導も一応終わったので、本腰入れて原稿用紙に向かおうと思っている。
虚構をいかにも真らしく作り出したい、身の上話でない話を本当らしく書きたい、という思いはここ5年間ずっと持ち続けていたのだが、最初の一筆が入らずにいた。記憶と現実の間のぼんやりとした境界を描きたい、記憶と現実の交錯した世界を描きたい、視覚と聴覚を刺激する作品を描きたいと思ってきた。標題は Astor Piazzola 作曲の 『Libertango』と同名。トルストイは坂の上の雲みたいな存在なので、そんな大それた作品を目論んでいるわけではない。生徒との約束をまず果たそうという発想が原点である。

本ブログは基本的には「英語の学習と研究」というカテゴリーに入るのだが、随時、現在進行形の形で作品の「一部」をアップしていきたいと思っている。ブログ小説というジャンルはあるのかないのかわからない。しかし、成功すれば素人が小説家として参入できる先鞭をつけるきっかけにはなるだろう。