マヨの備忘録・・・マヨのぼやきから

いろいろあったな・・・真実を知りたい!この一心で始めたブログだったが、知れば知るほど世の中の闇は深くなるばかり・・・。

任那日本府

2007-12-26 09:46:04 | インポート

昨日の名古屋高裁の判決、逆転危険運転致死罪はショックだった。

(ニュースGOOより引用)

名古屋高裁判決 1審「業過」6年破棄 愛知県春日井市の4人死亡飲酒事故で、1審・名古屋地裁が危険運転致死傷罪ではなく、予備的訴因の業務上過失致死傷罪を適用、懲役20年の求刑に対し懲役6年の判決を言い渡していた元会社員、桑山健被告(27)の控訴審判決で、名古屋高裁の片山俊雄裁判長は25日、1審判決を破棄、桑山被告に危険運転致死傷罪を適用し、懲役18年を言い渡した。(終わり)

でも、誰と話しても「酔っ払って四人も殺せばしかたがないさ。」と言う。日本人の国民が皆さんそう思うのなら、それはそれでしかたがない。重すぎると思う私は少数派のようだ。

先日、名古屋の御園座に小泉がやってきて、観客は大喜びだったそうだ。未だに人気があるという。

一体、日本人は何考えている!自分たちを苦しめた張本人なのに・・・。

自分たちを苦しめる厳罰化を望み、自分たちを苦しめた張本人を声援する。日本人は正しい判断が出来ないのか。それとも、私が変なのか?たぶん、後者なのだろう。

さて、先日、日本の誕生の事を少し書いた。旧唐書から引用した文章だ。もう一度引用しよう。

「日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。」。

同じようなことを新唐書が書いている、

「咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。」

片方は倭を併合したと言う。片方は倭に併合されたと言う。どっち?

これは、唐以降の中国政府が倭の存在をごまかしたいが故の事で、倭が日本を名乗ったと言う事にしたいから捏造したと私は見る。つまり、中国は倭が併合された事を認めたくないのだ。では、併合した日本という小国は?

言うまでもない加羅諸国の中にある。宋書倭国伝に、

「倭国王済の遣使が奉じて貢献、再び安東将軍、倭国王とする。

 元嘉二十八年(451年)、使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東将軍に旧来のように加叙し、併せて上る所の二十三人を将軍や郡太守に除した。」とある、さらに、南史倭国伝を見ると、

「讃が死に、弟の珍が立つと、遣使を以て貢献し、使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称し、上表して除正を求めた。詔を以て安東将軍、倭国王に除した。」

上の文章からわかることは、倭、百済、新羅、任那、秦韓、慕韓という国が存在し、その当時は倭が勢力が強かったと言っている。

倭国王済や珍を日本の天皇に当てはめたがる向きが多いのだが、その当時の天皇に韓半島を制覇する力はない。言うまでもなく、倭は韓半島にあり、韓半島を支配していたのだ。

ところがその倭が日本に併合されてしまった。その小国とは任那、秦韓、慕韓の三つしか考えられない。しかるに、日本書紀にも任那日本府が出てくる。これが日本そのものだ。

そののちに日本府が九州に進出したか、あるいは韓半島から追い出されたのかは今の私にはわからない。

日本が隠したかったこと、それは任那が日本の本拠地であった事、そして、大和を征服した征服王朝だった事。

韓国が隠したかったこと、今の日本に韓半島を支配されていた事。そして、倭の地が今の韓国にあったことだろう。

中国が隠したかったこと。満州から南はもともと中華には属していなかったこと。せいぜい遼東半島までしか進出していなかった。

三者の思惑で、共通の歴史捏造に参加し、韓半島の真実を葬り去ったものと私は推察する。

ちょっとむずかしかったかな。今の結論にはまだまだ裏付ける事がたくさんあるし、多少の修正は必要になるかもしれない。しかし、大きく異なるとは思えない。

日本の天皇が万世一系という虚構はそろそろ明らかにしなければならない。材料は少しずつ集まっている。

ただし、私は天皇制を否定するものではない。ネパール王国が王政を捨てる決断を下したのは大きな誤りだと思う。王様がいる事は、使いようによっては便利なのだ。捨ててはいけないリサイクル!国家元首はいたほうがいい。統治すれど、君臨せず。これがいいのだ。


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