もう50年以上も前のことになるが、世界最大のレコードクラブと称する「コンサート・ホール・ソサエティ」という主にクラシック系のレコードクラブの広告を「芸術新潮」等の雑誌でよく見かけることがあった。当時30cmLPは一枚2,000円前後(今のCDとほぼ変わらない)だったが、この会社のLPは一枚1,350円だったので貧乏学生にはとても魅力があった。会費はなく、毎月自宅に送られてくる「音楽通信」という小冊子に紹介されている「今月のレコード」が自動的に届くシステムである。届いたら同封されている振り込み用紙で期限までに支払いを済ませるのである。もし記事を見て欲しくない場合は定められた期日までに同封のハガキで返信すればパスできる。小冊子には今月のレコード以外にも何枚かのレコードが紹介されていて、それをオプションで注文することもできるというわけである。もちろん貧乏学生は雑誌の広告記事を見て喜び勇んで入会したのである。そして手にした最初のレコード盤はフリードリッヒ・グルダのピアノとハンス・スワロフスキー指揮するウイーン国立歌劇場管弦楽団の演奏によるベートーヴェンの「皇帝」だった。当時の私はこの二人の名前など聞いたこともなく、それどころかベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73「皇帝」なんて有名曲だってこのレコードが初聞きだったのである。「デムス、パウル=スコダと並ぶウイーン三羽烏の一人のグルダは・・・」という解説は良く覚えているが全くのチンプンカンプンだった。(「三羽烏」という言葉を覚えたのはこの時だったなあ)今思い返すとこの一枚目は実に興味深い盤だった。若かれしグルダの佳演でこれは数あるコンサート・ホール・ソサエティの品揃えのなかでも名盤じゃないだろうか。そして入会のオマケとして17cmLPがついてきた。それはピエール・デルヴォーの指揮コンセール・ド・パリ管弦楽団によるウエーバーの「舞踏への勧誘」とピエール=ミシェル・ル・コントの指揮フランクフルト放送交響楽団によるベルリオーズの「ハンガリー行進曲」だったが、こちらの方はあまり印象がない。その翌月のレコードはブラームスの交響曲第1番ハ短調作品68でヨゼフ・クリップス指揮ウイーン音楽祭管弦楽団というものだったが、この時は丁度小遣いが枯渇していたか何かで泣く泣く断りハガキを投函して見送ったのだった。ところがそれ以降この盤のことが折ある毎に気になり続けていたのだ。二〜三年前にScribendumのクリップス廉価ボックス(14枚組)を購入したのだがそこにはこの演奏は入っていなかった。つい最近このボックスを取り出して聞いた折にも、また「あのブラ1」のことが思い出されたので試しにスマフォで検索をしてみたら、中古市場に比較的良い状態の盤が安価で出品されているのを見つけたのである。そこで喜び発注してついに念願の盤を手にすることが出来たのである。ジャケットは汚れと酸性劣化でくすんでひ弱になっているのだが、間違いなくあの特徴あるジャケット画家Miriam Schottlandによる薔薇と女性をあしらった淡いピンク系の何とも素敵な絵柄である。(この会社には彼女のジャケット画のLPが沢山あってそれも魅力の一つになっている)通針してみたらコンサート・ホールにしては案外バランスの良い音なので驚いた。(この会社の録音は年代に関わらずあまり良くないものが多い)ウイーンの名匠クリップスの音楽は、飛び抜けた特徴こそないが、伸びやかで懐が深く中々味わい深いブラームスでしみじみとした感動を届けてくれて満足した。私としてはボックスセットに入っていた有名なウイーン・フィルとの1956年のデッカ録音よりもむしろ好感が持てたくらいだった。この会社のレコードにはモントー、シューリヒト、ミュンシュ、ブーレーズ、マルケヴィッチ、マゼール、フルニエ、クラウス、ぺルルミュテール、グルダなんていう巨匠・名匠の名盤もあるが、中堅どころの凡演も結構あるので取捨選択がかなり難しい。だから初心者には選択が荷が重かったので、結果として今やほぼ聞かないような盤も数多く所蔵することになった。でもその中にはほとんど話題にならないような隠れた名盤もあるので奥が深いのである。私の最初の「カルメン」のレコードもその類だ。タイトル・ロールをコンスエロ・ルビオ、ホセをレオポルド・シモノー、エスカミリオをハインツ・レーフス、ミカエラをピエレット・アラリー、そしてピエール=ミシェル・ル・コント指揮のコンセール・ド・パリ管弦楽団とうものである。ドイツ系も交えた名のある歌手陣で脇を固めていて、ル・コントが職人的に仕切った爽やかで劇場的な演奏だ。そして私の最初の「マタイ受難曲」は極めて劇的なハンス・スワロフスキーの指揮が特徴的なまるでオペラのような演奏である。エヴァンゲリストのクルト・エクイルツのリズム良い説得力ある語りが全体を遅滞なく牽引し、ソプラノのヒーザ・ハーパーやアルトのゲルハルト・ヤーン、バスのヤコブ・シュテンプフリ、マウリス・リンツラー等の歌手陣も心を込めて良く歌っている。伴奏はウイーン国立交響楽団とウイーン・アカデミー合唱団+ウイーン少年合唱団である。多少ロマンティック過ぎるきらいはあるかもしれないが、この劇的な演奏が私のその後の「マタイ」への導入に大きな力があったことは間違えないと思っている。ともあれそろそろ終わりも見えてきた私のクラシック・リスナーとしての音楽人生の基礎を作ってくれた今は亡き「コンサート・ホール・ソサエティ」には大いに感謝しなくてはならないだろう。
2014年1月20日にクラウディオ・アッバードが天上の敬愛するヴェルディの元に旅立った。80才だと言う。指揮者としては若いと言えば若い。しかし2000年に癌を発病し胃を全摘する大手術の後痩せ細って復活し、心配されながらも2003年から自らが中心となって組織するルツェルン音楽祭管弦楽団等の活動を始めてもう10年以上が経っていたので、逆に個人的には随分長く活躍できたなという感じさえある。しかしこの11年は実に意味深い年月の積み重ねだったようだ。東京オリンピックが終わって幾年か経った正に私がクラシック音楽を聴き始めた頃、アバードはメータと共に彗星の如くレコード界に登場した花形指揮者であった。青年の面影を残した若干30代半ばの若者が名門ウイーン・フィルを率い、名門DECCAから大名曲のベートーベンの7番を引っ提げてのレコード・デビューである。当時そんな例はマゼール+ベルリン・フィルくらいしか無く、名門オケは大ベテランの年寄りが振って録音するのが常識だった。当時の私にはこれは極めて眩しい出来事ではあったが、貧乏中学生にはLP新譜など買えるお金は到底なく、「レコード芸術」の広告と新譜評の文面から演奏を想像するだけで、時折雑誌「FMファン」の番組欄でそれを見つけると貪り聴いた。とは言えその後アッバードをきちんと聴いたかというとそんなことはなく、もちろん1981年のミラノ・スカラ座来日公演「シモン・ボッカネグラ」とか、1989年のウイーン国立歌劇場来日公演「ランスへの旅」では大きな感動を与えてもらったが、メディアで楽しむとなると何となく傍らに置いたまま今日まで来てしまった音楽家であった。しかし訃報に接して急に最近のアバードが聴きたくなって、DVDの蓄積から撮りためたBS録画を探し出し2013年のルツェルン音楽祭の「英雄」を初めて観た。結局アバードにとってはこれが最後のシーズンだった。足腰は確りしていて比較的元気そうだが、動きの節約された棒から何と伸びやかで広々していて自由な音楽が溢れ出てくるのだろう。そして演奏家たちは何と光輝いているのだろう。従来から求心的な、精神的な、厳格な方向に音楽を持ってゆく人ではなかったが、明らかに私の知っていた「従来」とも次元の違う境地に誘導された音楽がそこにあった。それは本当にいわく言い難く魅力的なものだ。あえて言うならば、「洗練の極み」とでも言おうか、「浄化された美」がそこにあった。しかしもはや実演でこれに接する機会は永遠に無いのだから、この素晴らしい音楽を発見するためにちょっと晩年の演奏を振り返る作業をしなければならない。
この1月・2月は代演続きである。まず東京フィルの1月定期は予定されていた美形指揮者アロンドラ・デ・ラ・パーラが懐妊のためにイタリアの新星アンドレア・バッティストー二に替わるというアナウンスが随分前にあった。続いて共演者だったピアニストのホルヘ・ルイス・プラッツが清水和音に替わるというハガキが昨今舞い込んだ。これで南米はメキシコとキューバの二人組による興味津々の競演機会は泡と消えたが、その代わりに清水和音の「ラプソディ・イン・ブルー」という“際物”が聴けるし、東フィルと相性の良いバッティストーニの溌剌とした音楽も楽しみだ。もう一つは2月の藤原歌劇団の歌劇「オリィ伯爵」の指揮を予定していたお馴染みアントネッロ・アッレマンディがロシアの若手デニス・ヴラセンコに替わる。指揮が大切なロッシーニで無名新人は不安ではあるが、まあペーザロでの経験もあるようだし、何よりゼッダ翁の推薦と言う事だから期待することにしよう。そんなわけでこの2つに限れば損得勘定はイーブンといったところであろうか。長いコンサート・ゴアー生活で代演騒ぎには幾度も遭遇しているが、その中で幾つか印象に残っているものを書き出してみようと思う。まず1981年の東京二期会公演「ニュルンベルクの名歌手」である。日本でハンス・ザックス歌わせるならこの人しか居ないと言われた木村俊光が直前になって無名新人の松本進に代わり心配させた。なにせこのオペラの要役なのでどうなることかと思ったが、無事堂々と見事に歌い切り喝采を浴びた。同じく日本のオペラ界では1989年の藤原歌劇団公演「アイーダ」で、ラダメス役のフィリッペ・ジャコミー二が一幕で声を失い、二幕から伝令役だった田代誠が引き継ぎ輝かしい歌唱で成功をおさめた。この時は敵役を演じるアムネリスのフィオレンツア・コソットもそんな穴を繕おうと壮絶な歌唱でアイーダを圧倒し、震いが出るような感動的な舞台となった。これには後日談があり、ジャコミニは3年後に藤原の舞台に舞い戻ってメトの歌姫アプリッレ・ミッロと共に実に見事なロブストな歌唱でリベンジを果たしたのだった。1991年のBunkamuraモーストリー・モーツアルト・フェスティバルでは、エリカ・フォン・シュターデの代役として当時日本ではほとんど無名だったチェチーリア・バルトリが突如登場した。当時は今ほど重くない声で、コロラトゥーラの技法を駆使して実に軽やかなモーツアルトやロッシーニを自在に唄って聴かせ、満場は割れんばかりの拍手と歓声で興奮のルツボとなった。この時は正に新星登場という感じだった!これが話題になって1992年のフェスティバルへの再来日に繫がってゆくのである。そんな色々の中で私が体験した最大の交代劇は、1990年9月のニューヨーク・メトロポリタン歌劇場での経験である。その年のシーズンは9月24日に「ラ・ボエーム」で幕を開けたが、当時中期出張中でこの町に居た私はそれに続いて27日から始まる7日間の「ばらの騎士」のうちの1日を押さえていた。Rott、Bonny、Von Otter、Haugland、Pavarotti(2日間のみ)と、女性陣はウイーンのクライバーの舞台と同一で指揮は音楽監督のジェームス・レヴァインとクレジットされていたのだからまあ最上のキャストである。7月下旬にニューヨークに着くなり残っているかなと思って劇場のボックス・オフィスを訪ねたが、楽々買えたことが少々意外でさえあった。さて9月半ばのある日曜の朝にゆっくりと分厚い新聞日曜版に目を通していると、端に小さなメトの広告を発見。「あッ、これあのバラだよね。売れてないのか?」と思ってよくよく見ると“指揮はカルロス・クライバー ”とあるではないか。これには全く目を疑って即座にボックスオフィスに電話してミス・プリじゃないかと確かめた程だ。そしてその答えを聴いた瞬間に私のチケットはプレミアム・チケットになったのである。あとから8月24日付けのニューヨーク・タイムズで知ったのだが、実はクライバーは1989/90のシーズンにメトで「椿姫」と「オテロ」を振っていて、その3月から次シーズンの出演交渉が始められていたそうである。それがついに結実して前日のプレス・リリースになったという次第なのだそうだ。演奏はもちろん悪いわけはない。クライバーの躍動感と繊細さのバランスは唯一無二のものでメトの豪華な舞台はそれに華をそえ、全くすべてが夢のようだった。指揮者の譜面台にスコアの代わりに何と真紅のバラ一本が置かれていたことを今でも鮮明に想い出す。何とも得難い幸運に恵まれたものだ。
一般的にミュージカルの「オペラ座の怪人」と言えば、有名なアンドリュー・ロイド=ウエーバーによる1986年初演の作品があるがこれは全く別の作品である。劇作家にして演出家のケン・ヒルにる1976年に初演された作品であるが、1984年に基本構想を含めた大改訂を経て現在のものになっている。驚くべきことに、現代作品であるにもかかわらずギルバート&サリバンのサヴォイ・オペラ的な様式を踏襲していて、更に要所のアリアではモーツアルト、ドニゼッティ、ウェーバー、ビゼー、ドヴォルザーク、オッフェンバック、ヴェルディ、ボイート、そしてグノーの有名アリアの旋律が元のテクスト内容とはほぼ無関係に利用されている。まあ言うならばいかにもオペラ好きのイギリス人に愛されそうなパロディ作品に仕上がっているのである。ゆえに有名なロイド=ウエーバー版のような劇的なドラマを味わうというよりも、オペラの旋律とコミカルなタッチに心をくすぐられる快感を味わうことが主眼の作品なのである。だから前者を期待した観衆にはいささかの失望もあったろう。ただ作品自体はこの種の物としては中々よく出来ていると思う。ピットも含めて外来ミュージシャンによるもので、もちろん台詞も歌詞も英語で、そのベタベタのキングズ・イングリッシュのリズムが何とも心地よかった。ただし字幕が小さすぎて見づらかったのは残念。暮れも押し詰まった29日に予想もしなかったイギリス流のお楽しみをもらって、ちょっと嬉しくなった。
1969年の日本初演以来、8月19日で1200回になろうとするその舞台はこの間すべて松本幸四郎によって演じられてきた。このことはミュージカル史上極めて希有な例であり、この歌舞伎の世界とミュージカルの世界の両方を制覇した松本幸四郎という偉大な役者の大いなる実力なくしては決して成し遂げられなかったであろう。それゆえに他の人間がこのプロダクションを演じることはおそらくできない。それほどにカスタム・メード化された舞台であった。デール・ワッサーマンの脚本は、原作者セルバンテスと登場人物アロンソ・キハ-ナと、彼の想像上の化身であるドン・キホ-テの三重構造を縦横に駆け巡り、夢を持ち続けて生きる男のロマンを歌いあげたものであるが、それは三次元であるだけにかなり複雑である。幸四郎の存在感はこれはもう天下一品であるのだが、その描写は幾分平面的で、その3人の描き分けに明解さを欠いている部分が少なからずあり解釈をいくぶん複雑にしたことは否めないと思う。また歌舞伎を折衷したような所作や振付は、やはり全体の様式の中では大きな異和感があり、同時に今の時代に照らした時には古風さを払拭できなかった。いかに安定的なものであってもやはり43年の歳月のうちには風化してしまうものがあるのではないか。それに抗し得る程の立派な音楽が根幹にあれば話は別かも知れないが、2曲の名曲があるとは言え他の部分がいかにも弱い。歌舞伎界の御曹司がミュージカルも演じ更には本場ブロードウェーの舞台にも立ったという神話は神話とした上で、やはり本当の意味で「作品」が生き残ってゆくためには、「変化」というものも必要な気がした。
小澤征爾と村上春樹の標記のような対談集が出版された。店頭でちょっとページをめくって見たらなかなか面白かったので早速読んでみた。対談集とは言いながら実は村上の小澤へのインタビューを活字に起こしたもので、それは独特のリズムで書かれているので引きこまれたと思ったらあっと言う間に読み終えた。クラシック音楽ファンとして知られる村上だが、読んでみてその造詣の深さが並大抵ではないことが改めて判った。クラシック音楽を好きな物書きは少なくないと思うが、村上の博学というか知識は、単に「深い」と言った言葉では到底表わし切れないほどマニアックな領域にまで深く達している。だからここで披歴される音楽の、演奏の、録音の、音盤の知識は並大抵ではなくそんじょそこらのクラシック音楽オタクの及ぶところでは到底ない。それはきっと音盤に刻まれたマトリックス番号による音の違いにまで言及できるレベルであるに違いない。そしてそれは当たり前のことだが、音楽家の小澤が到底及ぶものではない。更にその本人がノーベル賞候補と目される世界的文学者なのだから、その知識と感性の出会いから生まれる言葉の一つ一つは珠玉のようなものである。一方その対談相手の小澤は、目の前にある記号の如き複雑なスコアから音楽的イメージを起こしてそれをオーケストラという道具を使って最適に音化する巨匠で、音盤に記録された過去の演奏とか、過去の録音とかには一切興味がないばかりか、自分の残したレコードさえあまり覚えていないような極めて”純粋な”音楽家なのである。(誤解を恐れずに言えば、「音楽馬鹿」ということ)だからこそ、この二人の音楽感に関する同一性あるいは非同一性の対照はとても興味深く、村上の冴えた切り込みが小澤の音楽家としての特質をみごと解き明かしてゆく対談前半はとりわけ圧巻である。しかしそれはそれとして、対談中に村上が小澤の1960年代の録音を参照するところがあるのだが、そうした小澤デビュー時代の録音の印象を読むにつけ、私が青春時代に横に置いて通り過ごして来た数々の演奏記録を新ためて探し求めて聴いてみないでは居られない欲求が心の中に頭をもたげてきた。というのも、当時貧乏学生の私はにとってはレコード収集と言えば廉価盤の中古専門で、新進気鋭の小澤のピカピカ新譜なんて夢のまた夢だった。だから毎月目を凝らして読んだ「レコ芸」のレコード評の記憶以外、実際「音」についての記憶はほぼ皆無であったのだ。程なく集めて聴いてみたCDに入った演奏の数々は新鮮さで輝いていた。トロント響による廉価盤の「幻想」の録音(マスタリング)の悪さは例外としても、同じくトロント響によるメシアンの「トゥランガリラ」の目も眩むような鮮やかさは何たることだろう。シカゴ響の「運命」の蒸留水のような純粋さと流れの良さからは青春の無垢な清らかさが感じられる。同じくチャィコの5番の瑞々しい感性と清潔な佇まいはこれも若さの特権であろう。そこに共通するのは恐れを知らない純粋さ、キラキラするような眩さ、そして颯爽とした推進力。それらはこの時代の宝であり、思想性を排除した「純音楽性」のなかに時折「説き」の姿勢が感じられる昨今の小澤の演奏からは決して感じることができなくなった、かけがえのない魅力なのである。
クリスマスデコレーションに飾られた新国のロビーを着飾った少女達がお母さんに手を引かれて上機嫌で歩き回る。ここのところ隔年で初台に繰り広げられる華やいだ風景である。劇場も「スタンプラリー」や「バレエ床体験コーナー」などを設け、フロアーの案内嬢は俄かサンタとなって子供たちを迎える。恒例となったこの劇場の「くるみ割り人形」は、数多ある第九公演とともに年末の風物詩となりつつある。今年も2009年以来のレフ・イワーノフ振付、牧阿佐美演出・改定振付版による上演であるが、この版は序曲からいきなり新宿副都心の聖夜の雑踏が現れ、ぐっと物語を近しいものにする。通行人達は何故か皆喧嘩別れしてゆくが、一人寂しいクララはドロッセルマイヤーによって美しい夢の世界に誘われてゆくという趣向。また大詰めでは、ドロッセルマイヤーが実はサンタクロースであり、すべてはサンタが運んだ一夜の夢という設定である。終幕、夢から覚めてサンタからのプレゼントの胡桃割人形を抱きしめたクララの後ろを、そりに乗って帰ってゆくサンタの遠景は、とてもロマンティックでありながら一抹の寂しさがつきまとう一夜の夢の幕切れである。バレエ素人の私にあまり語る資格はないのだが、雪の女王寺田亜紗子の可憐な存在感、王子厚地康雄の大きく豊かな踊り、そして湯川麻美子の指の先まで行き届いた動きが特に印象に残った。とにかく音楽が素晴らしいので、バレエを知らなくてもそれだけで十分楽しめるところはさすが天才チャイコフスキーであるが、今回は東京フィルの弦がいつになくくすんでいて、あの「花のワルツ」でさえ華やかさが溢れ出でこないのが気になった。指揮は「くるみ」再登場の大井剛史であるが、慎重さに加え音楽に更なる躍動感と流動感が加わればもっとゴージャスな時間になったのではないかと残念に思った。
"もう一人、ここで是非とも触れておきたい指揮者は日本人の若杉弘である。若杉のシュタ-ツ・カペレへのデビューは、1981年5月、ドレスデン音楽祭の期間中に行われたコンサートだった。ドビュッシー、シューマン、ベルリオーズの作品を指揮し成功をおさめ、すぐに次回の予定が立てられ、継続的な協力関係が始まった。数か月後には、ドレスデン国立歌劇場の日本公演で「魔弾の射手」の指揮をとった。1982年にはエディンバラ音楽祭に招かれた国立歌劇場とシュターツカペレを率い、モーツアルトの「後宮からの逃走」とモーツアルト・プログラムを担当した。それ以後定期的にドレスデンへ客演に訪れ、コンサートの指揮台に立った。「ドレスデン国立歌劇場ならびにシュターツカペレ・ドレスデンの常任指揮者」に任命されたが、この肩書きは楽団の歴史では初めてのことで、若杉のために設けられたポストだった。こうしてドレスデンのオペラ・カペレ両方との若杉の密接な結びつきに、しかるべき形が整うことになった。繊細な感受性と劇的な音楽作りを特徴とし、シュターツカペレのもつ変化に富んだ響きのパレットで多彩な音の「絵を書く」指揮者だった。オペラやコンサートでのプログラム構成に独自の変化をつけた。シュターツカペレとの演奏で若杉がドレスデンの聴衆に提供したレパートリーは、ヴィヴァルディや元宮廷楽長のナウマンから、ハイドン、モーツアルト、ベートーベンといった古典派、さらにはシューベルト、シューマン、ワーグナー、ブラームス、チャイコフスキー、マーラー、R.シュトラウス、ツェムリンスキーまで含み、ウェーベルンやベルク、ヴァイル、バルトーク、マルタン、ショスタコヴィッチ、ヒンデミット、ヘンツェ、ドビュッシー、ラベル、ミヨーらの作品も指揮した。愛情を注ぎ、入念な準備で臨んだのが「室内管弦楽演奏会」のプログラムで、シュターツカペレ室内委員会の信任厚い指揮者だった。若杉がことのほか名誉を感じていたのは、伝統的な枝の主日のコンサートでの第九と2月13日の追悼コンサート―モーツアルトの「レクイエム」とベルリオーズの「死者のための大ミサ」―の指揮を委ねられたことであった。オペラはすでに挙げた作品の他に、「コシ・ファン・トゥッテ」、「ローエングリン」、「ラ・ボエーム」、「ばらの騎士」、「ヴォツェック」の指揮台に立った。共同プロジェクトのハイライトになったのは、1989年4月の故郷日本公演ではないだろうか。12回の演奏会のうち4回を東京、残りを大阪・京都などで行った。"
『シュターツカペレ・ドレスデン:奏でられる楽団史』 Eberhard Steindorf著、識名章喜訳 慶應義塾大学出版会 2009 192p.-194p.
日本芸術院会員であり新国立劇場オペラ部門芸術監督の若杉弘さんが亡くなった。74歳!まだ若かった。昨年春は自身でレールを敷いた新国近現代路線である「黒船」・「軍人たち」を自ら指揮し、昨年夏に闘病生活に入ってからは、「ムチェンスクのマクベス夫人」、「修善寺物語」を無念にも代役の指揮者に任せながらも、新国立オペラ劇場の体裁を、「本物」に少しづつ近づける仕事に身を擦り減らされていたように見受ける。そうした意味で任期を残して志を全うし得なかったことは、御本人もさぞや無念であったろうし、我々にとっても誠に残念なことである。我が記憶を遡れは、二期会での「パルシファル」や「ラインの黄金」の初演、読響での「グレの歌」の初演等、とにかく日本の音楽会をリードするところには必ず「若杉」の名前があった。クラシック音楽の世界に入ったばかりの当時の私には、それらは等しく難し過ぎて簡単に近寄れるものではなかったが、常に輝く存在であったことは確かである。一方で、「ジロー」のサロンオペラから始まり、東京室内歌劇場の中心メンバーとなって、地道に様々なオペラの実験的上演もリードした。そうしたオペラの若杉は、結局ケルンやチューリッヒのオケを始め、ラインやドレスデンというドイツの一流歌劇場の責任ある地位を歴任しながらも、最終的にはびわ湖ホールや新国立劇場でのオペラの仕事に戻って来て立派な業績を残した。なかでも、「ドン・カルロ」を切っ掛けとしてシラー続きで始まった全8作のびわ湖の初期ヴェルディ・オペラシリーズは、ヨーロッパでもなかなか成し得ない画期的な大仕事であったし、それを全日本人ダブルキャストで見事に実現させた慧眼も、根っからの劇場人若杉こそのことであった。東京二期会の「エジプトのヘレナ」の説明会の折、ギリシャ神話をあたかも我が物の如くに語られる氏に驚嘆の念を禁じ得なかった思い出がある。「文庫に入っているので、是非皆さんにもお読みになることをお勧めします。」というようなことだったが、外交官を親に持つということは、誠にこのような西洋的な教養を自然に身に付けるものなのだと驚くと同時に、そうした「西洋的教養」の中でこそオペラは語られるべきだと心から思った。演奏会のプログラミングの妙も常に若杉を聴く楽しみの一つで、幅広い教養から引き出された隠されたストーリーは、常に通を唸らせたものであった。(それに引き代え、演奏はいつも安全運転で面白味には欠けたが、今考えてみればそれこそがたくさんの事故の可能性に囲まれた劇場で叩き上げたカぺルマイスターのスタンスだったのかも知れない)氏の遺志は来シーズンの新国プログラミングに確りと残されはするが、得難い音楽家=教養人を亡くしたことは誠に口惜しい限りである。御世話になりました。ご冥福を心よりお祈りします。
チャイコフスキーがどうしても聴きたくなって珍しくバレエに行った。オデット+オディールは当役デビューの厚木三杏、ジークフリートは夫君の逸見智彦で他は若手を集めた公演。厚木はデビューゆえか前半は多少緊張気味であったが、後半は丁寧で繊細が踊りが光った。逸見は安定的な好サポートだった。バレエ音楽は大体において華やかで流れは良いが、純音楽的には物足りないものが多い。しかしチャイコフスキーは別格で所謂三大バレエは音楽だけをとっても超一級である。それゆえバレエの現場での踊り優先の流れを重視した当たり障りない演奏でも、チャイコなら十分楽しめる。ところが当夜のアレクセイ・バクランの指揮はそうした伴奏の域を明らかに超えていた。序奏から一癖も二癖もある表情付けが頻出し本編に入ってもそれは変わらない。テンポや強弱が独特で、聴く分にはこの曲の色々な魅力を再発見させてくれてとても興味深いのだが、舞台上の踊り難さはあったのではないか。それゆえか前半の群舞では不揃いが目立った。しかし後半は音楽も大人しくなりこの劇場のお家芸のコールドバレエも十分堪能でき、客席はいささか寂しかったが華やかなデビュー公演となった。